1920年7月、第2回コミンテルン大会(ペトログラードにて)
目次
- マルクス主義とフェミニズム
- 贖罪プログラムに関し、彼らが提示しているもの
- 偽造化(Counterfeiting)
- マルクス主義者およびフェミニストの聖書批評
- 非人格主義的世界観(Impersonalistic Worldview)
- 〔補足資料1〕「グローバル〈性革命〉ー自由という名における自由の破壊」ガブリエラ・クビー女史へのインタビュー
- 〔補足資料2〕ジョグジャカルタ原則
Vern Poythress, Inerrancy and Worldview, Part five: Challenges from Sociology and Anthropology, Sec.18. Marxism and Feminism, p.122-126(拙訳)
マルクス主義とフェミニズム
私たちは現在この章で、社会学および人類学からの挑戦というテーマを取り扱っています。このセクションでは、マルクス主義およびフェミニスト聖書解釈アプローチについても少し触れたいと思います。
紙面上、網羅的詳細分析はできませんが、これらのアプローチが、いかに「非人格主義的(impersonalist)」世界観の支配に関する全体像に適合しているのかを示すことができたらと思います。
贖罪プログラムに関し、彼らが提示しているもの
マルクス主義およびフェミニズムには多くのバリエーションがあります。また「宗教的」、そして中には「キリスト教的」マルクス主義やフェミニズムを主張するバリエーションさえ存在します。
またフェミニズムという語は、ジェンダーの平等に同情的なありとあらゆる考え方をひっくるめた非常に広義の意味で使われることもあるでしょう。しかし平易化のため、ここではよりポピュラー且つ、戦闘的、セキュラーな形のフェミニズムに焦点を置きたいと思います。
マルクス主義もフェミニズムも、その典型的表現の内に、それぞれ贖罪的プログラムを包有しています。彼らは、「何が人類の抱える問題であり、いかにそれを是正・治療・救済すべきか」に関する思想を持っています。
平易に申し上げますと、彼らは、「人間の根本的不安要因は、奇形化した社会的・経済的・政治的システムにある」と主張していると言っていいかと思います。
そして彼らの救済策はシステムの再構築にあります。ーー但し、いかにして実際に再構築していくかについてはいろいろ意見が分かれるでしょう。カール・マルクスの元来のビジョンによれば、いくつもの段階を経た後、地球上にある社会はついに、物質的十全および社会的平和に満ちる共産主義ユートピアに達することができるとされていました。そのユートピアでは、人は各自の能力に応じて社会に貢献し、また各自の必要性に応じ報酬を受け取ることができるのです。
詳細が何であれ、社会を再構築しようというこういった提案は、贖罪的提案です。根本的「罪」は、奇形化した社会システムであり、根本的「贖罪」は、その再構築にあります。そして再構築が完了するなら、その時、人間本性自体が新構築によって変容され、こうして私たちは平和を得ることになります。ここでは、「罪」と「贖罪」その双方が、神とは無関係な人間の諸問題として、完全に「水平に(“horizontally”)」捉えられています。
偽造化(Counterfeiting)
マルクス主義とフェミニズムは、聖書に示されているキリスト教贖罪に似せた〈見せ掛け〉の像を提示しています。〈見せ掛け〉というのはそれがどんなものであれ、それが真理を模倣し、真理のいくつかの諸要素を含んでいない限り、人々を惹きつける魅力は持てません。
人間というのは実際、本当に贖いを必要としています。そして罪がその根本問題であり、罪は個々人の内に在ります。しかしその一方、罪には、社会的・政治的・経済的網状拡大(ramification)という側面もあります。*1
ですから、罪は個々人に対してだけでなく、社会システム全体に対しても影響を及ぼしています。お金、快楽、性、権力などは偶像になり得、そういった偶像は、それらの魅力を促進するさまざまな手段を包含する文化的風潮によって滋養されるかもしれません*2。
それゆえ、文化的風潮はイデオロギー的に非難の対象になり得ます。そして病癖のイデオロギー的分析にはまことしやかな響きがあります。なぜならそれは部分的に正しいからです。不正な権力使用を支持するイデオロギーは確かに深刻なる人間の困難です。
人類としての人間が罪に感染する時、その罪は権力行使の領域をも腐敗させるという事実について聖書は現実主義的です。そうなりますと、権力を持つ人々はそれを自己中心的に、あるいは偏見的に用い始めるかもしれません。そして逆に権力を持たない人々は、権力を振りかざす人により抑圧されたり踏みにじられたりするでしょう*3。
また、社会諸制度全体が、権力乱用を持続させるような進展をしていくかもしれません。それに加え、権力を手中にしている人は、自分たちの見解を強要すべく言語、思想、伝達手段を用いるかもしれません。それゆえ、私たちは、いかに伝達が権力の道具となり得るのかということに意識的である必要があります。人が自身の権力のため、いかに言葉を用いているのか、聖書には実例が載っています。
ガラテヤ4:17
彼らはあなたがたを熱心に求めているが、しかし良い〔思い〕をもってではなく、むしろあなたがたが彼らを熱心に求めるようになるために、〔私との交わりから〕あなたがたを閉め出そうと欲しているのである。
1コリント11:20
事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。(2コリ11:20)
2ペテロ2:1-3
1 しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。
2 そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。
3 また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。(2ペテロ2:1-3)
宗教それ自体、人が権力乱用を維持しようとする際の、数多い手段の一つとなり得ます。聖書それ自体でさえ、歪曲され、権力乱用のため悪用される可能性もあります。新約聖書が偽教師として拒絶している人々は、大概の場合、ローマ帝国内の何か全くキリスト教とは異なる新宗教に属する教師たちではありませんでした。
むしろ、彼らのほとんどは、私たちの「内部」の人々でした。つまり、真理を表明していると主張するキリスト教グループ内の人々だったのです。教えの分野における歪曲は、権力乱用の一手段です。しかし手段はそれだけに限りません。知的には一応、「正統派教理」を持っている人々であっても、実際的な次元で、彼の下にいる人々を支配しようとしている可能性もあります。
マタイ20:25-28
25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。(マタイ20:25-28)
1ペテロ5:2-3
2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。
3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。(1ペテロ5:2-3)
マルクス主義者やフェミニストのテキスト分析は多くの場合、権力や操作に関する諸問題に波長を合わせています。そういった分析には真理の諸要素が含まれている可能性があります。なぜなら、権力や操作は実際、罪深い世界内における社会的諸事実だからです。
人格主義的な聖書的世界観に立った上で、ある文脈内に存在する権力や操作を研究することはその意味で、有意義であり得ます。他の遠近法を用いる研究と同様、そういった学びにより、聖書真理に関し、それ以前には気づいていなかった諸次元が明らかになるかもしれません。
マルクス主義者およびフェミニストの聖書批評
しかし多くの場合、権力に関する批判的分析は、①権力やジェンダーに関する現代思想、および、②そういった思想に付随する現代の世界観によって影響を受け、偏向しています。
マルクス主義者やフェミニストの多くは、聖書もまたその他の人間の書物と同様であると考えています。ですから、そのような彼らが「いかにして聖書は権力関係に影響を及ぼしているか」についての理由を見つけ出そうとし、人間の書いたその他の資料を扱う時と同様の猜疑心をもって、聖書を取り扱うというのは、ある意味当然なことです。彼らは、自分たちが同意しない仕方で聖書が権力を合法的なものと認めていると感じると、聖書を批判しようとします。*4
彼らの批判が一見もっともらしく思えるのには少なくとも二つの理由があります。まず第一に、権力の乱用は罪に染まった世界において実際に生じているからです。そういった乱用を正当化すべく聖書が歪曲される可能性もあります。
第二番目に、マルクス主義者やフェミニストは大抵、「何が乱用で、何が合法性なのか」に関する独自の基準を持っています。もしも神が存在しないのなら、実質上、どんな権力の集中も、恣意的で「公正を欠くもの("unfair")」と捉え得るでしょう。*5
しかしマルクス主義者及びフェミニスト分析者はいかにして自分たち自身がもしや対等主義イデオロギーの捕虜になってしまっているのではないのかという可能性を否定できるのでしょうか?今日における対等主義イデオロギーはそれ自体で、権力掌握、そして権力維持のための道具となっています。事実、ソビエト官僚組織は、対等主義イデオロギーを用い、抑圧行為を正当化しました。*6
マルクス主義者やフェミニストは、権力乱用に対し憤怒を覚えています。しかし神から自らを隔絶させ、それ独自の基準を打ち建てたところに存在する倫理的憤怒はそれがどんなものであれ、恣意的かつ腐敗したものになる危険性をはらんでいます。
従って、私自身の応答は、聖書と、聖書の歪曲した読み方との間の区別に関するものです。私が「歪曲した読み方」と言う時、そこには、①これまでのキリスト教史を通し、自己中心的な私益のために異端見解(そして時には正統見解でさえも)用いた人々だけでなく、②(聖書の分析において彼らが罪深い歪曲により影響されている場合)マルクス主義者やフェミニスト自身による読み方も含まれます。私たちは、そういった歪曲から自分たちを解き放っていただくべく、神からの純粋な言葉としての聖書ーーこれを必要としています。*7
非人格主義的世界観(Impersonalistic Worldview)
マルクス主義とフェミニズムは、社会学的分析に対し、社会的抗争アプローチと密接な関係を持っています*8。実際、カール・マルクスは社会的抗争アプローチの発展における草分け的存在でした。
社会学におけるその他の経路と同じく、マルクスの社会及び社会内のシステムに関する分析は、非人格主義的世界観に端を発しています。彼は社会および歴史の中における諸制限を信じていました。
カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx,1818-1883)
実際、彼は、プロレタリアート(無産階級)及び共産主義運動の勝利は歴史的に不可避だと考えていました。彼は、宗教を「権力に就いている人が社会を安定化させ、起り得る反乱を抑制・鎮圧するために使用している社会的現象」として分析する唯物主義者でした。そして、権力者が宗教を利用するのは、そうしないと、体系の中に存在する不正義や「矛盾」に対し人々が反逆しないとも限らないからだと彼は考えました。
マルクス主義及び主流のフェミニズムは両者共に、ーー神が不在もしくは非存在であるかのようにーー社会を取り扱っています。そうなりますと、社会というのは徹頭徹尾、人間の諸体系ということになり、また、社会は、神よりの影響や神の臨在に対し閉じられたものであるということになります。
社会には、不平等や権力乱用関係という形をとった、さまざまな悪が存在します。彼らの見解によると、もしもそういった悪が是正されるなら、私たち人間はそういった諸変化を完遂し勝ち取るに違いないとされています。こういったアプローチには人間中心、もしくは女性中心の贖罪という思想が包含されています。
そしてこれこそが、彼らの思想の抱える根本問題です。彼らの思想は神および罪に関する真理を見失っています。そしてこういった世界観における歪曲は、聖書テキストを含む、個々のテキストの読みに悪影響を及ぼします。
マルクス主義者とフェミニストは、他の人々の聖書の取扱いを観察しており、実際、世界観による「感染症」の事実についてよく知っています。
そして彼らは言います。「あの人たちは、自分自身のイデオロギー偏向になんとか裏付けを与えようと聖書を読んでいる」と。ええ、それは実際に起こり得ますし、起こっています。そして私は、同じ事がマルクス主義者やフェミニストの聖書解釈においても生じているという事を申し上げたいのです。
私たちは自分自身の世界観を改革すべく聖書を必要としています。そして聖霊を通して私たちの心に働く、キリストの贖罪を必要としています。--自分の世界観の中に巣食うさまざまな歪曲、そして、お金、性、権力、その他人生のあらゆる領域における誤った願望を清めていただくべく私たちはキリストの贖罪を必要としています。
神が私たち自身を助けるために聖書を御計画してくださったという事実に、もしも私やあなたが盲目であるのなら、それは残念なことと言わねばならないでしょう。マルクス主義者やフェミニストたちはその聖書読解により、神が提供してくださっている最も大切な手段を活かすのではなく、むしろそれを切り捨ててしまっています。
しかしそれを聞いて、主流のマルクス主義者やフェミニストは、筆者である私自身が、この論考を書いているプロセスにおいてでさえも、汚染や悪影響から自由になれていないと応答することでしょう。私はその事実を否定しません。もちろんそうだと認めます。
しかしその指摘が真であったところで、そういった反論は彼らに何ら益を与えていません。好きなだけ罪の悪影響を述べ、強調するがいいでしょうし、私に対しありとあらゆる糾弾の言葉を投げかけるも良しです。ある種の糾弾は的が外れているかもしれませんが、それでも私はそれらを認めたいと思います。
しかしマルクス主義者やフェミニストであるあなたに申しあげたいのは、そういった非難によっては現実の半分でさえも明らかにしていないということです。あなたが罪の力を強調すればするほど、ますます自分たちの状況の絶望さが浮き彫りにされ、そして真に超越的な贖罪の必要性をあなたは示していることになります。ーーそうです、人からではなく神による真の贖罪の必要性を。私たちは贖い主であるキリストを必要としています。
私は、すでに完全にされた者としてではなく、同じ道程を歩く一介の罪びととしてこれを書いています。私はキリストによる贖いを経験した者として、同じニーズを持つ同胞たちに語っています。キリストを信じる私たちは、絶えず主の助けを必要としています。なぜなら、私たちは未だ完全な者とされておらず、イデオロギーによる障害や悪影響から私たちはまだ完全に解放されてはいないからです。
ー終わりー
関連記事:
The Church as Family: Why Male Leadership in the Family Requires Male Leadership in the Church As Well(家族としての教会:なぜ家庭における男性リーダーシップは、教会における男性リーダーシップをも要求するのか)
今日、単に「アカデミックな推論に過ぎない」とみなされているものが、明日には、諸国の軍隊を動かし、帝国を投げ倒すようになるのである。
ーグレシャム・メイチェン(1881-1937)
〔補足資料1〕「グローバル〈性革命〉ー自由という名における自由の破壊」ガブリエラ・クビー女史へのインタビュー
記者:あなたの精神的行程に最も影響を及ぼしたものは何ですか?
ガブリエラ・クビー:生涯をかけた真理への探究心です。私の父、エリッヒ・クビーは左翼系の作家であり、ジャーナリストでした。こういった父の影響下、私は1968年の学生蜂起に加わり、その後、西ベルリンにて社会学を学ぶに至りました。
しかし私にとって、コミュニズムもフェミニズムも、性革命も、自分を納得させるものではありませんでした。――とくに、人間の現実と、そういったグループの説く理想との間にあるギャップに直面してからは。それで私はすぐにこういったものから離れていきました。
1973年に神様と出会って後、私は神様を求め始めたのですが、残念なことに、主を見つけることのできない道に迷い込んでしまいました。つまり、秘教と心理学にはまってしまったのです。
その後20年余りに渡り、私はこの分野で翻訳者として働きました。私は現代のイデオロギー潮流を進み、それゆえに教会の戸を開け、教会が差し出している宝を発見することが非常に難しい状況にありました。しかし1997年、ついに私は発見したのです。それ以後、私は霊的なこと及び、社会・政治的な問題について著述を続けています。
記者:昨年の9月、あなたは『グローバル〈性革命〉:自由という名における自由の破壊』という本を出版されましたね。どんな反応がきましたか?
クビー:回心後、性規範の規制撤廃こそ、今日の文化戦争の最前線だということに気づきました。それで2006年、私はこのトピックについての最初の著書「Gender Revolution: Relativism in Action」を書きました。実際、この本は隠れたアジェンダに光を当てた最初の本の一つだったといってもいいでしょう。
しかしその後、社会の動向を観察していく中で、問題の全体像を示していく必要性を感じました。それが本書『グローバル性革命』の中で私が試みていることです。主流メディアはこの本を無視しましたが、それにもかかわらず数カ月のうちに三版を重ねました。
ドイツでは「何かを死ぬまで黙殺せよ(totschweigen)」という言い回しがあります。しかし、その目論見は失敗に終わったようです!本書はポーランドとクロアチアで出版され、今秋、ハンガリーとスロヴァキアでも出版される予定です。またその他の諸国の出版社とも現在交渉中です。
2012年9月31日、私は教皇ベネディクトXVIにも本書を手渡す光栄に与りました。その際、教皇は「(この問題について)声を挙げ、執筆してくれたことを神に感謝します。」と言ってくださいました。とても励まされました!
記者:この本の主要メッセージは何ですか?
クビー:性規範の規制撤廃は、文化の破壊をもたらします。なぜかとお尋ねになりますか?なぜなら、世界人権宣言(1948年)の中で述べられているように、家族というのが社会の基本単位だからです。
そしてそれが生かされ続けるためには、いくつかの基本的な倫理条件が必須だからです。
しかし今日、性強調社会(hyper-sexualized society)で育った子どもたちは、娯楽産業、メディア、義務教育を通して、異常な性的方向付けをされています。そしてそういった子どもたちは結婚をする責任能力、および責任ある父親、母親としての義務を行なう、成熟した大人になることができなくなっています。
さらにこういった性強調社会は、避妊や中絶なしに成り立ちえません。そしてそういったもののもたらす結果は何かというと、「死の文化」(ヨハネ・パウロ2世の言葉)に他ならないのです。
記者:あなたの本の副題は「自由という名における自由の破壊」となっています。これはどういう意味なんですか?
クビー:20世紀の独裁政治の萌芽期、そして哲学的な意味における個人の賛美がもたされて数世紀経った今、現代の最高価値は、なんといっても「自由」です。性規範の規制撤廃は、この自由の一部分として人々に「売却」されているのです。しかしもし私たちが性衝動をコントロールせず、それを克己しないのなら一体どんなことになりますか?私たちはその強力な衝動の奴隷になってしまいます。つまり、常に性的満足を求めて徘徊をつづけるセックス中毒者になってしまうのです。
2400年前、プラトンがすでに示しているように、これはやがて圧政(専制政治)へとつながっていきます。もちろん、これらはもっと複雑なプロセスであるといえます。しかし、単純に考えても、この問題は明らかです。もし、人々が、自己犠牲的な愛を見失った文化の中に生きるとしたら、、、そして相手に自分を与える愛ではなく、性的満足のためにお互いを「利用」するのだとしたらどうなるのでしょう。
そうなると、やがて人々は、自分のニーズを満たすためならどんなことでも他の人を利用するようになっていくでしょう。そして唯一の制限としては、各個人がどれだけ(コントロールする)力を宿しているかという点だけにかかってくるでしょう。そのような性規制撤廃によって、次に起こってくるのは社会的混沌状態です。そしてそれは最終的に、かつてなかったようなレベルでの、国家による統制を促すことになります。
記者:しかし、真の自由とは、なんの規制も、規範も、法律もなしに生きていくことができる、、、そうではありませんか?
クビー:実際、自由とは、根本的な人間価値です。そして意志の自由こそ、人間と動物を隔てている本質的な違いです。神様でさえも、私たちの持つ自由を尊重され、私たちが自身を、そして自分たちの世界を破壊することを堪忍してくださっています。しかし、自由とは、それが真理と結びついている限りにおいて実現されうるのです。
真理、つまり、人間にかかわる真理、関係における真理、状況における真理です。イエス様は「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)とおっしゃいました。自由とは、自らの行動が自分にそして他者にもたらす結果に対して責任をとっていく姿勢にかかっているのです。
どの社会においても、自由の成就とその保持は、戦いであり、その戦いは成熟した人間によってのみなされうるのです。つまり、自分自身の中に、内的自由を宿す人間によってのみなされうるのです。何でも自分の好きなようにすることができるっていうのが「自由」なんだという考えは、三歳児には適当なものかもしれませんが、それ以上の年齢の方にとってはふさわしいものではありません。
記者:第15章で「人はエゴイストとして生まれる。しかし彼/彼女は徳を教えられる必要がある。」と書いていらっしゃいますね。ここのところをもっと詳しく説明してくれますか。
クビー:新生児は、何か不満足なことがあるとオギャーと泣きます。そして一年か二年の間、両親は、できる限りにおいて、赤ちゃんにパラダイス体験(迅速にして完全な満足を与えること)をさせてあげる必要があります。しかし、その子は成長していく中で、そのパラダイスを去り、自分と同じようなニーズを持っている人が周りにいるんだということを学んでいかねばなりません。そして(子どもは元々知っているのですが)この世には善と悪があるということを学んでいく必要があります。
そしてこれは、良いことを選ぶにあたって自制が要求されていること、よりすぐれた目的を達成するために小さな満足を否む能力を身につけていくことを意味します。社会学者はこれを「満足の遅延パターン(deferred gratification pattern)」と呼んでいます。しかしこれは子どもたちが学び、また教えられる必要のあるものです。そして何より、子どもたちは両親の模範(それが良いものであれ悪いものであれ)から学んでいきます。両親のすばらしい模範をみてそこから学ぶことのできる子どもは幸いです。
記者:あなたはオルダス・ハクスリーの古典『すばらしい新世界』(1931年)についてかなり言及していらっしゃいますね。どうしてですか?
クビー:今日、ハクスリーの預言的な作品は驚きです!『すばらしい新世界』を読むと、人間は瓶の中で生産されており、彼らはメディアや向精神薬によって「幸せ」であるよう、集合的に条件付けがされているのです。
子どもたちはといえば、他の誰もと同じように、セックスの快楽にふけり、すべては「フォード」という名の主によってコントロールされています。ハクスリーは元来、このユートピア思想を600年後に起こるものと想定していましたが、1949年にしてすでに、それが起こり始めたことを彼は目の当たりにしたのです。
当時は、人工授精、出生前選択、代理母、遺伝子操作、(「父」「母」ではなく)「親1」「親2」、、、といったものは存在していませんでした。しかしその後50年もしないうちに、これらの「進歩」は誰の目にも明らかになったのです!
ハクスリーにとって、新しい全体主義が古い全体主義と似ていなければならない理由はありませんでした。この独裁者は、より多くの性的自由を与えるだろう――そしてその分、政治的、経済的自由がこれまでよりも規制されるようになるだろうことを、ハクスリーは気づいていました。真の革命は、「人の魂と体のうちで」起こることを彼は知っていたのです。
記者:これまでに私たちは多くの新しい権利を獲得してきました。それにもかかわらず、どうして人はこれほどまでに尊厳を失ってしまったのでしょうか。
クビー:私たちは自らを造り出したわけでもなく、また、いのちを造り出すこともできません。私たちのいのちは神様から受けたものであること、神様はご自分のかたちに私たちを造ってくださったこと、そして神様は私たちに不滅の魂を与えてくださったこと、、、これらに対する認識を失うなら、私たちは尊厳を失ってしまいます。
そうして人は、遺伝子操作を通し、また出生、臨終において好き勝手に人間のいのちを止めることにより、人間を「改良する」という誘惑に屈服してしまっているのです。私たちは、かなり厳格な法律でもって、作家の著作権を守っています。ならば、人の創造に関する、神の著作権をも守ろうではありませんか。それを守ることで、私たちは多くの人為的な問題から救われるのです。
記者:では、私たちは今、危機ーー文明の危機、家庭の危機、信仰の危機ーーに立たされているということですか?どこに問題の根があるのでしょうか?
クビー:私は時々、聴衆者のみなさんに、「これから30年後、私たちの子どもの生きる環境は今より良くなっていると思いますか?そう思われる方は手を挙げてください。」と問いかけます。そうすると手を挙げる人はほとんどいません。自分たちが今危機に置かれていることを「感じては」いても、それを引き起こしている悪については盲目であるという奇妙な現象が起こっているのです。
1968年の文化革命により、多くの思想や社会運動が絶頂に達しました。この革命は、ヨーロッパ文化の驚くべき繁栄をもたらしたキリスト教価値観(つまり家庭を支える価値観)を攻撃したのです。こういった価値観は、ナチスや共産主義者でさえも、完全には撲滅することのできなかったものです。
記者:1968年の文化革命の意義についてもう少し詳しくお話くださいませんか?
クビー:1968年の文化革命は、特に何か不満があるわけでもなかったぼんぼん育ちのブルジョワ学生世代によって引き起こされたものですが、この革命は、以下にあげる三つの革命的欲求が統合したものでした。
まず、ベルリンが分断され、ロシア軍のタンクがプラハになだれ込んできたあの当時、若者たちが共産主義の思想に魅了されていたことです。また二番目に、彼らはラディカルなフェミニストであったシモーヌ・ド・ボーヴォワールを始めとする人々の呼びかけに従ったのです。
シモーヌ・ド・ボーヴォワール、1908-1986
その呼びかけとは、「母親業という奴隷の身分から解放されよ!」でした。そして何にもまして、彼らは「性的解放」思想を広め、それに生きたのです。
第三番目として、セオドール・アドルノ、マックス・ホルクハイマー、ヘルベルト・マルクースといった、フランクフルト学派からの哲学的動向がありました。
その際の有害な誘惑はこれでした。「もしあなたのセクシュアリティーを『解放』するなら――つまり、倫理的な規制をことごとく解体するなら――あなたは、抑圧のない社会を構築できるのだ」と。一方、もっと素朴な人たち(そしてヒッピーたち)にとって、それは「戦争じゃなくて、セックス(とドラッグ)をしようぜ。」というスローガンに凝縮できました。
1968年のアカデミックな学生世代は、自分たちが大衆を(ましてや「プロレタリアート」を)動員することなどできないことを悟りました。それで、彼らは「高等機関を行進」することにしました。こうして彼らは政治、メディア、大学、司法界における中枢としての地位を獲得するようになっていったのです。
1968年の目標は今や達成されようとしています。そうです、主流メディアの強力なサポートを背景に、国連やヨーロッパ連合、左翼(ならびに幾つかの「保守」)政府などの機関を通して達成されようとしているのです。
記者:ブリュッセルを拠点として活動しているアナリスト、マルガリータ・ペーテル氏も、この革命のグローバル化について書いておられます。
クビー:マルガリータ・ペーテルの著書『西洋文化革命のグローバル化(The Globalization of the Western Cultural Revolution)』は、私の目を開かせるものでした。私はこの革命の核心部分に注目しました。それにはセクシュアリティーに関するモラル規範の規制撤廃も含まれています。
このグローバル性革命は今やパワーエリートによって遂行されようとしています。具体的にいうなら、それは国連やヨーロッパ連合のような国際機関、傘下機関のウェブ、アマゾン、グーグル、マイクロソフトといったグローバル企業、ロックフェラー、グーゲンハイムといった大きな財団、ビル&メリンダ・ゲイツ、テッド・ターナー、ジョージ・ソロス、ワレン・ブフェットといった個々の億万長者たち、そして国際家族計画連盟や International Lesbian and Gay AssociationといったNGOなどを含みます。こういった役者たちは、巨額の財源でもって、最高レベルの権力を行使しています。*9
そして彼らは皆、同じ利害を共有しているのです。つまり、この地球における人口増加を減らそうというのです。中絶、避妊、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイ・セクシュアル、トランス・ジェンダー)のアジェンダ、家族の崩壊、、、これら全ては、上に述べたただ一つの目的を成就するために仕えているのです。
しかしながら、例えば、なぜアメリカの理論家であるジュディス・ブットラー(彼女は社会を弱体化させるべく、男性と女性のアイデンティティを破壊しようとしており、それを『ジェンダー・メインストリーミング(=ジェンダー主流化)』という政治戦略を通して成し遂げようとしています。)が、そういったエリートたちの間で優れた哲学者だともてはやされているのかについては、上述のことだけでは説明がつかないかもしれません。
しかしそれは、新しい世界秩序に関する隠されたアジェンダを示すものであるかもしれません。
記者:「ジェンダー主流化(gender mainstreaming)」とは何ですか?
クビー:「ジェンダー」という用語は、1994年、カイロで開催された国連の国際会議(国際人口開発会議)および、1995年、中国の北京で開かれた第4回世界女性会議において、公的文書の中に導入されました。
これによって、新しいイデオロギーのための言語的媒体を造り出すためでした。男性と女性という双対の性的秩序を言及するという意味において、「ジェンダー」は「性別」という語に代わって用いられるようになりました。こうして過激なフェミニスト思想と、LGBTアジェンダは団結し、「ジェンダー主流化」という思想を生み出したのです。
「ジェンダー」という用語は、人の性的アイデンティティは、必ずしもその人の生物学的性別と一致するわけではないということを暗示しています。それは人間における「男性―女性」という双対の性的本質を打ち壊すものです。
こういった双対の性的本質の解体行為には、二つの目的がひそんでいます。まず、それは男女間に存在するいわゆる「ジェンダー・ヒエラルキー」を破壊する目的があります。換言しますと、ジェンダー思想によれば、性別はただ二つあるのではなく、数多くあるのだというのです。そこにはレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスセクシャルの男女も含まれます。
二番目に、それは規範としての異性愛を消滅させる目的を持しています。こういったジェンダーを基礎とした男女の捉え方は、社会の主流にのし上がろうとしています。そして実際、これはすでにものすごいスピードで実現しつつあるのです。
記者:あなたの診断するところでは、ポルノグラフィーはどのような役を演じていますか?
クビー:この革命の中で、ポルノグラフィ―はとてつもなく大きな役割を演じています。おそらくこれは、男性を敵にまわしたフェミニスト戦争への、男性側からの一種の復讐行為みたいなものかもしれません。
定期的にポルノの虜になっている人は、愛や家族、そして父親や母親になる能力を失ってしまっています。こういった人はやがてポルノ中毒者となり、その多くは性犯罪に関わるような危険な坂道をころげ落ちていく結果になっています。
憂慮すべき事実として、ポルノが若者にとって「フツーのこと」となっている事が挙げられます。現在、ドイツでは十代の男の子の20%が毎日ポルノを観ています。また、42%が週一の割合で観ています。こういった若者たちは今後どんな大人になっていくのでしょうか?
ヨーロッパ連合(EU)は喫煙による大気汚染に対し、あれほど強硬に戦っていながら、なぜ、ポルノによる汚染に対しては戦おうとしていないのでしょうか?私はそこのところの理解に苦しんでいます。後者は家庭を破壊するものですから、より深刻なのです。たとえそうしたくても、人は自分の脳裏に刻まれたイメージを取り除くことはできないのです。
記者:第5章で、「ジョグジャカルタ原則(Yogyakarta Principles)」について言及しておられますね。これは何ですか?
クビー:ジョグジャカルタ原則〔性的指向およびジェンダー・アイデンティティ(=性自認)に関する国際人権法への願書〕は、ジョグジャカルタというインドネシアの町で開かれた、「人権専門家たち」の会合を通して作成された文書です。
この文書はその後、2007年3月に、ジュネーブの国際連合人権理事会に提出されました。このメディアイベントは、一見、それが公式のUN文書であるかのような印象を世界に与えました。しかしそうではないのです!どうぞインターネットで少し検索してみてください。このイベントの背後で、どれほど多くの政府、政党、組織が立ち働いていたかに驚愕すると思います。
私はこの文書に件に丸々1章を割きました。というのも、これはまぎれもなく、LGBTアジェンダの全体主義的傾向を表しているからです。例えば、第29原則の中には、
性的指向や性自認に関する差別の撤廃を保障するため、法の制定や施行、政治を監視する独立した有効な機関や制度を確立する。
とあります。これは何を意味するかといいますと、LGBT運動の優遇に向け、社会全体を再組織しコントロールするために、国民国家レベルの上をいく上部構造が構築されるべきだというのです。この文書の全体主義的アジェンダの意味を理解するために、ジョクジャカルタ原則を(少なくとも第29原則だけでも)一度ぜひお読みになってください。
記者:寛容や多様性という価値観も、このアジェンダを推進する原動力となっているようです。
クビー:自由、正義、平等、非差別、寛容、尊厳、人権、、といった現代の基本的価値観は、文化革命家たちによって、乱用され、歪められ、操作されています。胎芽が操作されているように、そういった誉れある概念の核が抜き取られ、全く新しい何かで埋められているのです。
本書の中の第1章のタイトルは、「言語による政治的レイプ」ですが、私はこの章で、こういった現象について取り扱っています。言語の機能とは、真理を伝えることにある、それを私たちは覚えなければならないと思います。ですから、政治的大衆操作のために、言語を改悪するのは非常に危険なことです。歴代、人々を操作しようと、全体主義システムは言語を改悪してきました。
ロシアの主要新聞はPravda(=真理)という名前だったことを覚えていらっしゃるでしょうか。悲しいことに、今日のメディア時代にあって、こういった大衆操作を行なう行為は以前よりもずっと洗練されているのです。
記者:徳、美しさ、真理などという概念は、現代世界にあって意味を失ってしまっていると、哲学者アラスダイル・マクリタイル(Alasdair MacIntyre)は述べています。もはやそのようなものが理解されえない世にあって、私たちはいかにしてそれらを語っていくことができるのでしょうか?
クビー:それらの概念が理解されないとは思いません。むしろ問題は、そういった内容を破壊しようとしている文化革命にあり、そのために立ち上がろうとしない私たちの臆病さにあると思います。
LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー)運動がますます全体主義的様相を帯びてきている真の原因は、人間には良心がある。そしてその良心は愛を求め、真理、美しさ、善を探し求めている、、、そこにあるのであり、そのことをLGBT運動が認識しているからなのです。
したがって、人の良心を呼び覚ますようなものは全て抹殺されなければならないのです。そのためには、子どもたちは幼稚園でプログラミングされ、性的に操作されなければならない。そうすれば、子どもたちは何が善で何が悪かを識別する自然能力を失いますし、善の方に向かおうとする自然の内的指向を失うことになるのですから。
記者:ヨハネ・パウロ2世は、人間の性的本質について、また夫婦という結合の美しさについて尻込みすることなく語っておられます。彼のこうしたビジョンについてどうお考えですか?
クビー:ヨハネ・パウロ2世は、「からだの神学」を通し、教会に大きな祝福を与えています。また回勅や手紙により、からだ、魂、霊という人間における統合されたビジョンについて述べておられます。
この大混乱の時期にあって、彼のメッセージは私たちの思考、心、そして夫婦生活に光を照らしています。もし神が愛であり、私たちが神の家族として召されているのなら(エペソ2:19)、この人生を生きる中で、私たちは愛することを学んでいく必要があるということになります。
(そういった人間愛の中で)最も親密かつあますところない表現は、男女の性的結合であり、そこから新しいいのちが生まれ出るのです。現代世界は、この性的結合を肉体的満足だけに減少させ、そうすることで、体と魂を分裂させてしまったのです。
体と魂の永久的な分離を表す言葉はすでに存在しています――そうです、それは「死」です。セックスを体のレベルに、つまり動物のレベルに貶めることで、私たちは「死の文化」を造り出したのです。
セックスというのは、おのれを与える自己犠牲の表現であり、相手に命を与える愛の表現であることを私たちはもう一度学び直す必要があると思います。そうする中で、ひどい病気に侵されている私たちの社会は回復していくのではないかと思います。
記者:第10章で述べていらっしゃる「新しい人類学」とは何ですか?
クビー:教皇ベネディクト16世は、2012年12月21日の降誕節に、とても啓発的なスピーチをされました。彼は、まことの家族構造が攻撃されている事実を指摘した上で、現代の「人類学的革命」について述べられました。
もし人が、神のかたちに従って男と女に造られたこと(創1:27)を否定し、自分の性は「本質の要素として(神より)授与されたものであること」を否定し、他者を愛し、命を与えるために召されていることを否定するなら、その人の人間存在の根幹が破壊されていることになります。「新しい人類学」とは、こういった意味での人間理解を意味しているのです。
記者:あなたは自分自身をどうみていますか?文化評論家、思想史家、もしくは宗教社会学者、、、でしょうか?
クビー:私のことを「預言者」という人がいますが、もちろん私はそのような者ではありません、、、でもたとえ何が起ころうとも、内的に真理を語る責務があると感じている限りにおいて、私は過去に生きた類似の人々と家族のようなつながりを覚えます。
記者:真摯なクリスチャンは、こういったグローバル性革命に対してどのように応答していくべきだと思いますか?
クビー:もちろんそれは、私たち一人一人にとって大きな問題でしょう。好きであろうがなかろうが、私たちはそれぞれ、自らの性的生活をきちんと整え、まことの貞節な、そして自己犠牲的な愛に従って秩序づけていく必要があると思います。もしそうしないのなら、私たちは明瞭な視野をもって物事を見ることができず、現在進行中の戦いに加わる士気もなければ、力もないといった風になるでしょう。
これは人間の尊厳のための戦いであり、家族、子どもたち、そして未来のための戦いです。そして最終的な意味において、これは神の国のための戦いなのです。神様は私たちが生きることを望んでおられます。イエス様はこう言われました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ10:10)。
現在ヨーロッパでは、多くの前向きな動きがみられます。―フランス、リトアニア、ロシア、ハンガリー、ノルウェー、クロアチアといった国々から、グローバル性革命に抵抗する人々が起こされ始めているのです。しかし、性的規範の根絶は人を、家族を、そして文化を破壊するということを認識している人々により強く勇気に満ちた運動が各国で起こされる必要があります。
記者:はたして私たちは成功を勝ち取ることができるのでしょうか?
クビー:成功するしないについて心配するのはやめましょう。私たちは今、良い目的のために働いているのであり、私たちのいのちは(神の目に)価値あるものです。最終的な成功は、神の御手にあります。
(以上インタビュー記事終わり)
〔補足資料2〕ジョグジャカルタ原則
第29原則 責任追及
人権蹂躙を受けた者は全て、上記の諸原則に反する場合も含めて、人権蹂躙の直接的または間接的責任に対してその加害者が公務員であっても、そうでなくても、その行為を人権蹂躙の重大さに相応して責任追及を行うことができる。
性的指向や性自認に関連して人権蹂躙を行った加害者が処罰されないことはあってはならない。
国家は、
(a)性的指向や性自認に関して人権蹂躙を行った加害者の責任の所在を明らかにする為、利用が容易で効果的な刑事訴訟、民事訴訟、行政訴訟制度を確立すると共に諸機関を監視する。
(b)実際の、或いは認知された性的指向や性自認を理由に犯された犯罪が発覚した場合は、全て上記の諸原則に記されたものも含めて速やかに且つ一貫して捜査され、適切な証拠が発見されれば、これらの犯罪は起訴され、裁判に付され、厳正に処罰されるように保障する。
(c)性的指向や性自認に関する差別の撤廃を保障する為、法の制定や施行、政治を監視する独立した有効な機関や制度を確立する。
(d)性的指向や性自認を理由として人権蹂躙を行った者に対する責任追及を妨げるあらゆる妨げを除去する。
(以上、ウィキペディア 「ジョグジャカルタ原則」より)
関連記事:
*1:Vern S. Poythress, Redeeming Sociology: A God-Centered Approach (Wheaton, IL: Crossway, 2011), esp.chap. 13.
*2:Vern S. Poythress, The Returning King: A Guide to the Book of Revelation (Phillipsburg, NJ: P&R, 2000), esp. 22, 139, 161; Timothy Keller, Counterfeit Gods: The Empty Promises of Money, Sex, and Power, and the Only Hope That Matters (New York: Dutton, 2009).
*3:Poythress, Redeeming Sociology, chaps. 25 and 27.
*4:マルクス主義のバリエーションの一つに、解放の神学というものがあります。この神学はマルクス主義を聖書信条のいくつかの要素と結合させようとしています。解放の神学のさまざまなバージョンは、猜疑的に聖書を読むことを奨励しているかもしれませんし、そうでない場合もあるでしょう。しかしたとい彼らが猜疑心を推奨していないとしても、少なくとも彼らは聖書を選択的・選り好み的に読み、さらに、基準として聖書を用い、マルクス主義の諸前提を検証・批判する作業をほぼ何も行なっていないと私は考えています。同様に、フェミニストの中には、自分たちのことを「クリスチャン」と自認している人々もいるかと思いますが、彼らは彼らで聖書を自分の流儀で解釈しようとしています。しかし本書ではこの点に関する詳説は控えます。
*5:Poythress, Redeeming Sociology, chaps. 25 and 27.
*6:〔関連記事〕
*7:chaps. 27–32を参照。
*8:critique in Poythress, Redeeming Sociology, appendix Dを参照。
*9:訳注: