春陽のかがやき。さあ、神の創造された〈ことば〉の草原を元気いっぱい駈け巡ろう!
目次
Vern Poythress, Reading the Word of God in the Presence of God: A Handbook for Biblical Interpretation (Phillipsburg, NJ: P&R, 2011), 176–179.(拙訳)
神からの贈り物としての、言語の持つあらゆる能力
言語の持つあらゆる能力は、神からの贈り物として私たちの元に来ています。そういった能力には、例えば、時間の中における出来事の簡素な描写も、それから比喩的(figurative)表現も含まれます。
神が聖書の中で語られる時、神は言語の有するあらゆる諸能力を、卓越した形でお用いになっています。私たちは、比喩的言語があたかも簡素な描写に「劣るもの」であるかのように、これを侮蔑してはならないと思います。
聖書の中で神ご自身が、しばしば詩的言語を用いており、それ自体が、私たちに、比喩的言語が劣等なものではなく価値あるものであることを私たちに示していると思います。
しかし現代の風潮は私たちに別のことを囁いてきます。現代の文脈において、多くの人々は、科学の特権やそこからの業績にかなりの影響を受けています。
そして人々は考え始めました。「きっと、的確にして字義的そして科学的描写だけが価値あるものなのだろう。」こうして次第に比喩表現は、単なるお飾り、もしくは「リアリティーの本質に対する虚偽」とさえ捉えられるようになっていきました。私たちはこういった現代風潮に抵抗する必要があります。
実際、神は、アナロジー(類比)やメタファーの可能性が溢れるようにと、世界を構築しておられます。科学的分析は数多くある内の、ただ一つの視点しか提供していません。
いくつかの最も根本的アナロジーは、人間に対する神の関係を活写しています(例:神は王であり、もしくは父である)。王や父といったアナロジーはとても分かりやすく、私たちにとって消化しやすい表現です。
その他、例えば、神は「わが岩」(詩18:2)というような言明はどうでしょうか?これはちょっと驚きですよね。それでも私たちはそれが何を意味しているのか理解することができます。
この世に存在するあらゆるアナロジーはその究極を神的言語の内に持っています。「初めに、ことばがあった」(ヨハネ1:1)。三位一体神の第二位格としての「ことば」は、神のご性質の究極的表現です。主は「神の本質の完全な現われ」(ヘブル1:3)であり、それゆえに、父なる神に関連する究極的「アナロジー」です。
神ご自身はそれゆえ、言語内のあらゆる種類のアナロジーを考える上での究極的出発点です。神は、私たち自身の人間コミュニケーションの中にあって、ーー字義的言語、比喩的言語その両方--に権威を与えておられます。
比喩的表現を識別する
それではどんな種類の比喩的言語があるのでしょうか?まず初めに留意しなければならないのは、「私たちはたしかに大雑把に、字義的言語と比喩的言語を区別することはできる。しかしその境界線はくっきりはっきりしているわけではない」ということです。
たとえば、時の経過と共に、生きたメタファーが、死んだメタファーと化していくということもあり得ます。誰かが最初に、「He departed from this life」と言った時、この表現が示しているのは、物理的運動としての「"departure" 出発」という観念の隠喩的(metaphorical)拡張でした。
しかしこの表現が何度も何度も繰り返し使われていく内に、英語話者たちは、「ああ、なるほど、"depart"という語には、その意味の一つに "die”(死ぬ)っていう意味があるんだ」ということを認識していくようになります。こうして死を描写するためのその語使用は、もはや生き生きしたメタファーであることを止めていき、その内、departという単語の持つ一つの意味に過ぎなくなっていきます。
「字義的/文字通り "literal"」と「比喩的 "figurative"」の間の境界線が流動的であることを示すために、ここでご一緒に、神に関する描写表現をみていくことにしましょう。
さて、神が王であると言う時、私たちは果して「隠喩的」に語っているのでしょうか?神は人間の王と同じ次元における王ではありませんから、「神は王である」というこの表現は、ある意味、「字義的/文字通り」人間の王に対する隠喩的比較です。
それにしてもなぜそもそも人間の王たちは存在しているのでしょうか?神は人をご自身のかたちに似せてお造りになられました。そして神の似姿(imaging)という性質の一側面が、「人間は権威を受けることができ、また他の人間に対し権力を行使することができる」というものでありーーそのため、彼らは王になることができるのです。
究極的な王は神です。そして従属的、派生的な王が人間たちです。そうなりますと、人間のkingship(王であること)は、神の元来の、「文字通り/字義的」kingshipーーこれを表象する一種の「メタファー」なのでしょうか?ある意味、それは、私たちが何をもって基礎づけ(foundational)と見なすかにかかっているでしょう。
神は、常にいまし、元々の王であられます。そしてこの観点から見る時、人間は、その元々のkingshipからの隠喩的派生によってのみ、王であるということが言えるでしょう。
他方、私たちは一般的にして地上中心の思考という観点、あるいは、直接的可視性という見地から考察をスタートさせようとするかもしれません。その場合ーーつまり、人間の王からスタートさせた場合ーー、思考の中にあって私たちはこの王を「字義的/文字通り」なものと捉えています。なぜなら、そこが、意識的思考の領域内において私たちがスタートした地点だからです。
そして両思考法とも、互いに調和し合っています。それらは、同じリアリティーに対する二つの視点(perspectives)です。
私たちはまた、言語が、世界内に存在するアナロジー関係の上に築かれる上で、そこに生じるさまざまに異なる方法を見い出します。例えば、文芸に携わっている人々は、異なる種類の比喩的言語を識別しています。例:メタファー(隠喩)、直喩、代喩、メトニミー(換喩)、擬人法、誇張法、皮肉など。。
【直喩(simile)】例:ウサギのようにすばしこい。
また、広域におよぶ類比的関係に依拠している「アレゴリー(寓喩)」のような、より広大な文芸形態もあります*1。異なる種類の比喩的言語に関する諸分類は、ある程度、有益です。なぜなら、それらの諸分類を知ることにより、私たちはさまざまな可能性になじみ、また読書する中でそういった表現に遭遇した際、「あっこれだ」とうまく適応できる助けになると思うからです。
しかしそういった分類法の中に、果たして完璧なものがあるか、もしくは異なる表現形式の間の境界線が完全に的確に引かれ得るかと言いますと、それは疑わしいと申し上げなければならないでしょう。
旧約聖書の中の出来事や諸制度は往々にして、象徴的な次元を持っており、それらは、神がキリストを通して成就してくださった最終的・究極的贖罪を指し示す役割を果たしています。
そういった場合、シンボルの深みは旧約聖書の中の物理的事物や可視的出来事という明らかな地平に付加するものとして存在しています。つまり、シンボルの深みは、物理性と競合しているのではなく、あくまでその上に建てられているのです。
「文字通り/字義的」と「比喩的」を共に受け入れる
ここで中心となっている原則は明瞭です。すなわち、言語を私たちに賜わってくださった私たちの神こそ、それを扱うマイスター(熟練工)であるということです。
ですから、主が私たちに言及する上でお選びになっているかもしれないさまざまな方法およびそのフルな領域に対し、私たちはオープンである必要があります。
私たちは御言葉に向かう際、最初から「私は物理的な言及を優先」「いや、自分は比喩的言語を優先」などという特定の偏りや先入観をもって臨んではなりません。また私たちは、聖書の各書を機能させるべく神がご意図されている様式に従い、それぞれの書を取り扱う覚悟ができていなければならないと思います。
私たちは神がそれを比喩的なものとして機能させているものを、比喩的なものとして取り扱い、またーー聖句がそのような諸現実として言及しているところのーー物理的諸現実に対する言及を、そのようなものとして受け入れます。
象徴的出来事や諸制度に加え、私たちは、物理的事物および象徴的重要性ーーその両方を識別する用意ができていなければならないでしょう(例えば、動物の犠牲等)。その二つは、《一つの複合的全体》の各アスペクトとして存在しています。
言語のある特定部位が果たして比喩的なのか、そしてどのような仕方でそれが比喩的なのかについては、多くの場合、各文脈の中に明瞭なる表示があります。
しかしその見分けはいつも容易であるとは限りません。時には識別がより難しい事例にも遭遇するかもしれません。そんな時、私たちに必要なのは忍耐です。また時には「ここの箇所については、はっきりした事は分からない」と告白しなければならない場合もあるかもしれません。
聖書の中にそういった難解な箇所が存在するのもまた、神の御聖意によるものです。そしてそれらを通し、私たちはへりくだる事においても成長していくことができます。
ー終わりー
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