巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

予型論について(『ベイカー福音主義神学事典』他)

目次

 

 

予型論について(『ベイカー福音主義神学事典』)

 

Walter A. Elwell, ed., Evangelical Dictionary of Theology, Second Edition, 1984("Type, Typology"の項を全訳)

 

執筆担当者 グラント・R・オスボーン

 

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 (Grant R. Osborne, 1942-, トリニティー神学校)

 

予型/予型論について(Type, Typology)

 

予型という語は、型や形態を意味するギリシャ語に由来し、聖書時代には、元々の型(model)や原型(prototype)もしくは、結果的に生じた写し(copy)ーーその両方を示していました。

 

新約聖書の中では、後者は対型(antitype)と呼ばれ、特に次に挙げる二方向において用いられていました。

 

(1)洪水とバプテスマ(1ペテロ3:21)のような二つの歴史的状況もしくはアダムとキリストのような二人の人物との間の符合関係。

(2)天的な型と、その地上的写し。例:地上的幕屋の背後にある天的原型。(使7:44;ヘブル8:5;9:24)

 

ここにはいくつかの範疇があります。ーー人物(アダム、メルキゼデク)、出来事(洪水、青銅の蛇)、制度(祝祭)、場所(エルサレム、シオン)、事物(全焼のいけにえを捧げる祭壇、香)、役職(預言者、祭司、王)。

 

それに加え、模範にすべき倫理的実例を示すものとして予型と共にパラレルに用いられている像(image)にも留意する必要があるでしょう。

 

後者は、最初キリストにあって体現され(ヨハネ13:15;1ペテロ2:21)、その後、使徒たちの群れ(ピリピ3:17;2テサ3:9)、指導者たち(1テモテ4:12;テトス;1ペテロ5:3)、そして共同体それ自体(1テモテ1:7)の内に体現化されている、聖定された型(pattern)を模倣するようにとの、新約聖書の強調する大切な要素の一つです。

 

それゆえ、全ての信者たちは、自らのことを、キリストに似た生活の模範(models)ないしは型(patterns)と考えなければなりません。

 

また、予型を、象徴(symbol)及びアレゴリー(寓喩;allegory)から区別することも大切です。象徴というのは、それが持つ通常の意味領域から離れたところにある意味を持っており、抽象的観念を表象するべく、通常の意味領域を超えます。(例:十字架=いのち、火=裁き)

 

アレゴリー(寓喩)は、それぞれのメタファー(例え、隠喩)がメッセージの複合的絵像を形作るべく要素を加えていくという、一連のメタファーのことを言います。例えば、良い羊飼いのアレゴリー(ヨハネ10章)では、各部分が意味を伝えています。

 

それに対し、予型論では、類似した成就の原則を取り扱っています。象徴が、抽象的符合(correspondence)であるのに対し、予型は実際の歴史的出来事もしくは人物です。

 

 アレゴリーが、二つの異なる実体を比較し、物語や予表的(figurative)表現の拡大発展に関わっているのに対し、予型は、二つの歴史的実体の間の特定のパラレル(類似点)です。前者が間接的で暗黙的であるのに対し、後者は直接的で明確です。

 

それゆえに、聖書の予型論は、類比的符合(analogical correspondence)に関連しており、その中で、救済史における、それ以前の出来事・人物・場所が、型となり、それによって後の出来事が解釈されます。

 

解釈的重要性

 

予型論が基本的解釈を表しているということが近年ますます確認されつつあります。実際、旧約記者、新約記者その両方が、自分たち自身および彼らの祖先を理解していた解釈態度であり、大局観であるということが認められつつあります。

 

漸進的発展をつづける救済史の中で生じるそれぞれの新しい共同体が、過去に関し、自身を類似的に見てきました。そしてそれは旧約聖書の中でそうであるばかりでなく、新約聖書の旧約使用についても然りです。二つの主要源泉は、出エジプト記です。

 

創造予型論が、特に、ローマ5章及び、アダムーキリストのパラレル間に見られる一方、出エジプトもしくは契約予型論は、新旧約両方において顕著です。*1積極的には、イザヤ51-52章における贖罪的像(imagery)の背後、および新約の救済的諸概念(例:1コリ10:1-6)にエクソドス(契約予型論)がみられます。消極的には、荒野での放浪が、未来の警告の型になっています(例:詩95:7-8;ヘブル4:3-11)。

 

教会の教父たちは、予型論とアレゴリーを組み合わせ、前者を、ギリシャ哲学的諸概念の観点から表現されている一般的宗教諸真理を結びつけていました。そしてこれは宗教改革の時まで続きました。(但し、4世紀のアンティオケ学派や、12世紀のヴィクトレネス派等、断続的な反発はありました。)

 

宗教改革者たちは、旧約を文字通り、キリスト論的解釈でみる体系(つまり、メシア論的にキリストを指し示す解釈)を支持しました。17世紀以降の危機的時期に、約束ー成就という概念全体が見くびられ、軽視され、旧約聖書は歴史ではなく単なる宗教的経験とみなされるようになりました。

 

しかしここ数十年、適切に理解された予型論は、再び、妥当な手段となりました。そしてそれは、歴史における神の御行為の中での反復的型に関する聖書的大局観に基盤を置いています。ゆえに、予型論は贖罪史の諸段階の間における連続性を確立しているのです。

 

現在の論争

 

今日の議論は、「はたして固有(innate)の予型と、推定上(inferred)の予型を区別することは可能か?」を巡ってのものです。固有予型は、新約の中で明瞭に言及されており、一方の推定予型は、明瞭ではないけれども新約の教えの一般的論調の中で確立されています。例えば、ヘブル人への手紙は、予型論を、その基本的解釈(法)として用いています。

 

多くの人は、空想的読み込み(eisegesis)の危険性を憂慮し、後者を否定しています。実際、空想的読み込みは主観的にテキストを曲解してしまいます。予型も対型も双方に、時間を超越した神話的パラレルではなく、純粋に歴史的パラレル関係に根拠の礎を置くべきです。

 

予型論は、テキストの意味を再定義してはならず、また、純正なる符合関係ではない表層的な種類のものを提案するようなことがあってはなりません。そして旧約聖句も新約聖句も、パラレル関係が引き出される「前に」まず釈義されなければなりません。

 

さらに、私たちは特定の符合関係(correspondences)、それから、予型と対型の間の相違点、その両方を学ぶ必要があるでしょう。ここにおいて予型論は、譬え話の研究に類似しており、それは新旧約双方の聖句の中における釈義的詳細に関する省察を必要としています。例:ヨハネ3:14-15において、青銅の蛇はどのような仕方で、イエスの死の予型なのでしょうか?

 

民数記21:4-9の周辺的詳細は、予型論の一部なのでしょうか?〔予型論には〕常に単一の中心点があり、二次的諸詳細は、それらが類比に適用される前に、注意深く検討されなければなりません。相違点によくよく留意することで、過度に想像力に富み、寓喩的な予型の解釈に制御がかかります。

 

それから予型を教義化することも避けた方が無難です。予型論を基盤に、教理を打ち建てるというのは困難かつ、非常に主観的です。ヘブル書の中においてでさえ、予型論というのは教義的検討事項としてではなくむしろ、事例的効果を出すために用いられています。それゆえ、予型論がダイレクトな教義的目的を持っている時だけに限って、それらを是認するようにするのが賢明です。

 

最後に、文脈がそれらを保証(認可)していない場所で、予型を探そうとしてはなりません。その他すべての釈義的研究と同様、私たちは、一般化された主観的解釈ではなく、作者が意図した意味に辿り着こうとしているのです。

 

上述しましたように、確かに、新約記者たちは、正典の中には記録されていない予型論を間違いなく用いていました。しかし私たちは聖句それ自体を超え、そのアプローチ法を拡大適用するべく必要な天啓的足場を持っていません。現代の多くの説教の中に見られる寓喩的で主観的な諸結末が、その危険性を雄弁に物語っています。

 

(執筆者:グラント・R・オスボーン)

 

〔参考文献〕

E. Achtemeier, IDBSup 926–27;

D. L. Baker, “Typology and the Christian Use of the OT,” SJT 29:137–57;

G. K. Beale, ed., Right Doctrine from the Wrong Texts?;

E. C. Blackman, “Return to Typology,” CongQ 32:53–59;

J. W. Drane, “Typology,” EvQ 50:195–210;

E. E. Ellis, “How the New Testament Uses the Old,” in New Testament Interpretation, I. H. Marshall, ed.;

P. Fairbairn, Typology of Scripture;

F. Foulkes, Acts of God: A Study of the Basis of Typology in the Old Testament;

L. Goppelt, Typos: The Typology Interpretation of the New Testament; TDNT 8:246–59;

S. Gundry, “Typology as a Means of Interpretation,” JETS 12:233–40;

H. Hammel, “Old Testament Basis of Typological Interpretation,” BR 9:38–50;

G. H. Lampe and K. J. Woolcombe, Essays on Typology;

R. B. Laurin, “Typological Interpretation of the OT,” in Baker’s Dictionary of Practical Theology, R. Turnbull, ed.;

G. Maier, Biblical Hermeneutics;

H. Müller, NIDNTT 3:903–7;

N. H. Ridderbos, “Typology,” VoxT 31:149–50;

J. Stek, “Biblical Typology: Yesterday and Today,” CTJ 5:133–62.

 

予型論について(『ティーセルトンのキリスト教神学事典』)

 

Anthony C. Thiselton, The Thiselton Companion to Christian Theology, 2015 ("Typology" の項全訳)

 

予型論(Typology)

 

予型論とは「現在もしくは近接した過去に属する出来事を、聖書中に記録ないしは預言されている類似の状況の成就として解釈することである。」*2

 

上の定義はこれ以上改良しようがないほど優れていると思います。ハンソンは、予型論における「出来事」や「事象や人物」の役目と、アレゴリー(寓喩)における思想のなす役目との違いを際立たせています。アレゴリーでは、対照や比較が、各出来事の間でなされているのではなく、各「思想」の間でなされているのだとハンソンは論じています。そして出来事は歴史的事件に関与しています。

 

この定義に関連し、レオハルド・ゴッぺルトは正当にも次のように述べています。「予型論は、新約聖書に特徴的な聖書解釈の方法論です、、予型論および予型論的方法は、教会の原始期より、キリスト教会の釈義および解釈の一部であり続けました。」*3

 

ギリシャ語のトゥポス "type, τύπος" あるいは副詞トゥピコース " typikōs" を、荒野でのイスラエルの民の放浪の出来事および教会の現経験(1コリ10:6、11)に用いた最初の人はパウロでした。その後、パウロのこの用法は、バルナバ、ヘルマス、殉教者ユスティノスの著述の中で堅固に確立しました。

 

しかしトゥポスという語は、七十人訳聖書(LXX)やフィロンの著述の中では、こういった特定の意味としては用いられていません。(それは、より一般的な意味における型や模範(model)を意味していました。*4)それは主として、動詞トゥプトー(typtō, τύπτω )の由来である「打ち型・刻印を打ち付けた後に凹んだ型」という意味、そして「打つ、強く打つ、なぐる」「叩く」という意味でした。

 

フィロンを含めたユダヤ人作家たちはもちろん寓喩的解釈を用いていたでしょうし、初期使徒時代後(subapostolic)には、クレメンスやオリゲネスを含めたアレクサンドリアの著述家たちは自在にアレゴリーを用いていました。ヘブル7:1-3は、こういった方法で、メルキゼデクのユニークな立場をキリストに適用していると考えられ、この点に関し、ハンソンはそれをそのアレクサンドリア派的文脈に帰しています(83)。

 

バルナバの手紙は、祭儀律法の寓喩化を用いており、アブラハムによって割礼を受けた318人を、十字架の出来事を予測するものとして寓喩化しています(99)。

 

またハンソンは、ディダケー(使徒の遺訓)の中にもアレゴリーの事例があると論じていますが、おそらくディダケー9章2項の聖餐の祈りの中に予型論の跡を辿ることができるのかもしれません。

 

 

殉教者ユスティノスには、豊富な寓喩的解釈の事例がみられ*5、その後に、エイレナイオス(110-13)、クレメンス(113-20)、オリゲネス(133-86)が続いています。

 

アンドリュー・ラウス(Andrew Louth)は論文「アレゴリーへの回帰」*6の中で強健にアレゴリー使用を擁護しています。彼の見解によると、アレゴリーはまずもって「不正直」(97)なものではなく、また「難読の方法」(111)でもなく、むしろ深遠に神学的(122-31)であるとされています。

 

ラウスは正当にもヘンリー・ドゥ・ルバックを同盟者として引照しています。(特に彼の著書「中世の釈義」の中で*7)しかしながら、アレゴリーと予型の間の区別を不鮮明にしているという点において、彼の主張は論争を呼ぶことでしょう。

 

ラウスは、予型論のことを「1840年頃から用いられ始めたかなり最近の新語」だと称しており、「予型」は、「ただ単なる出来事ではなく、出来事のストーリーである」(118)と主張しています。

 

そしてこれは、ハンソンやゴッぺルトの見解に対抗するものです。ハンソン、ゴッぺルト、F・F・ブルース共に、注意深く、両者の区別をしています。また、(主としてドゥ・ルベックやダニエルー(Daniélou)の主張を基に)予型論の歴史的次元をそう易々と棄却し去ってしまうことはできないと思います。

 

ゴッぺルトもおそらく、両者の「より深い意味」については同意するかもしれません。ですが、歴史的次元が「旧約が予測していたと信じられているもの」、もしくは「新約聖書および教会が釈義していたもの」に対し、諸制限を提供していることは確かです。

 

ー終わりー

 

 関連記事:

 

〔比較研究のための資料〕オリゲネスのローマ書解釈ーオリゲネスの寓喩的解釈との関係をめぐって(伊藤明生師、東京基督教大学)

 

オリゲネスのローマ書解釈*8ーーオリゲネスの寓喩的解釈との関係をめぐって

 

伊藤明生 (東京基督教大学教授)

『キリストと世界 : 東京基督教大学紀要22巻』2012年、出典  

 

 

本論は,オリゲネスのローマ人への手紙の注解書をオリゲネスの聖書解釈学全体 に位置付ける試みである。オリゲネスのローマ人への手紙の注解は,現存するローマ人への手紙の注解書のうちで一番古いものである。

 

オリゲネスは,アレクサンドリア学派に属する寓喩的聖書解釈者のひとりとして有名であるが,ローマ書解釈の 歴史を一冊にまとめたマーク・リーズナーは,オリゲネスのローマ書注解書に展開される解釈は,むしろ昨今の「新しい視点」*9のローマ書解釈に類似すると分析する*10

 

本稿では,オリゲネスを先ず歴史的に位置付けて,初期の著作『諸原理について』でオリゲネスが寓喩的聖書解釈を積極的に論じる議論を概観して,その実例も垣間見る。その上で,オリゲネスがローマ書注解書で展開するローマ書解釈を概観する。

 

オリゲネスは個々の表現を解釈する際には,寓喩的アプローチを取ることもあるが, ローマ書全体に対するアプローチは(雅歌などとは異なり)歴史的文法的であることを確認する。その上で,オリゲネスがローマ書全体を寓喩的に解釈しなかった理由についても可能な範囲内で示唆してみたい。

 

オリゲネスとアレクサンドリア学派  

 

アレクサンドリアのオリゲネス*11は、紀元 185 年頃にアレクサンドリアでキリスト者の家庭に生まれ,およそ 232 年 47 歳の頃にパレスチナのカイザリヤに拠点を 移すまでアレクサンドリアを中心にして活躍した*12。254 年頃に勃発したキリスト教弾圧でオリゲネス自身投獄され,投獄中に受けた拷問が原因で釈放後に亡くなっている。  

 

ローマ皇帝セプティミウス・セウェルス(在位 193 − 211 年)の治世に,キリスト教に改宗することを禁じる勅令が発布されたことが契機となり,キリスト教弾 圧が起こり,オリゲネスの父レオニダスは投獄されて 202 年には処刑された*13

 

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セプティミウス・セウェルス胸像カピトリーノ美術館所蔵)

 

父親が処刑されたために財産は没収されてしまい,7 人兄弟の長男であったオリゲネ スは家族を養うために父親の後を継いで教師の職に就いてギリシアの学問を教授した。

 

211 年(26 歳)頃に「霊的回心」を体験した結果,手許にあった世俗の書籍*14を売り払って生計の足しとして教義問答学校の教師となる。オリゲネスの周りには キリスト教信仰に興味を抱く人たちが自然と群れをなしたと言う。

 

エウセビオスはオリゲネスの真摯な信仰が垣間見られる逸話を書き記しているが,二三紹介する。父親が投獄された際に,父親と共に自分も殉教したいと強く願ったが,母親の機転でかろうじて回避された*15

 

また若い時分からオリゲネスは若い異性も生徒として教えたので,その誘惑の危険や誤解から免れるために,イエスの教え(マタイ19:12)に従って自らを去勢した*16。どちらもオリゲネスの信奉者であるエウセビオスが書き記していることなので,どの程度信憑性のある記事か定かではない。  

 

その後,著作活動を始める*17が,229 年から 230 年(44 − 45 歳)に執筆した『諸原理について』で本格的な執筆活動を始め,248 年から 249 年(63 − 64 歳)に記した『ケルソス駁論』で終えている。その間,膨大な量の聖書注解と聖書講解を著述したが,死後 300 年を経た 6 世紀になって異端宣告された*18こともあり,著作のほとんどは失われた。かろうじて残ったギリシア語断片とルフィヌス*19がラテン語に翻訳したものからオリゲネスの著作を知ることができる。

 

生前からオリゲネスの評価には賛否両論があり,オリゲネスがアレクサンドリアからカイザリヤに移り住んだ背景には,監督以下,アレクサンドリア教区の教会との関係が悪化したこ とが一因であったと思われる。  

 

古代キリスト教会はアンテオケ学派アレクサンドリア学派に大別でき,アンテオケ学派が歴史的な字義的意味を大切にした一方で,アレクサンドリア学派が寓喩的解釈を強調した,と言われる*20。そして,オリゲネスがアレクサンドリアに生まれ育ち,アレクサンドリア学派の伝統を重んじたことも間違いない。  

 

寓喩的解釈の起源は、アレクサンドリアのホメロス学者たちがギリシア神話に則 ったホメロスの叙事詩を非神話化する際に活用した手法にある。ホメロスの叙事詩などで様々な事象はギリシア神話の神々の仕業として表現されるが,文字通りに神々の仕業と理解するのではなく,寓喩的に解釈して合理的に理解・説明することが試みられた。  

 

紀元前後にかけてアレクサンドリアで活躍したユダヤ人フィロン(紀元前 20 年 頃から紀元 50 年)*21は、旧約聖書を広くギリシア・ローマ世界に紹介するために 旧約聖書を寓喩的に解釈した著作を数多く残した。

 

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アレクサンドリアのフィロン(Philo of Alexandria、ギ : Φίλων, Philōn、ラテン語:Philon Alexandrinus、ヘブライ語:יוסף בןפילון האלכסנדרוני、紀元前20・30年ー紀元後40・45年)

 

フィロン自身はユダヤ教徒であって,旧約聖書の字義的で歴史的な意味を否定する意図はなかったが,ユダヤ教徒でない異教徒たちにユダヤ教と旧約聖書(特にモーセの律法)の良さを説得する目 的で聖書を寓喩的に解釈した。  

 

フィロンの著作は,ギリシア語で執筆され,しかも主要な読者として異邦人を想定していたこともあり、余りユダヤ人の間では読まれることはなかった。ヨセフス の著作と同じように,キリスト教会の手で後代に伝えられた。アレクサンドリアの フィロンが教会教父たちに与えた影響は,寓喩的聖書解釈に留まらないで,多岐にわたった。

 

フィロンはギリシアの様々な哲学を折衷的に活用して異邦人世界向けに旧約聖書を説き明かしている。古代,中世のキリスト教神学には,フィロンが旧約聖書を説き明かす際に展開した哲学的思索も様々な形で反映している。オリゲネス は,このような寓喩的解釈の伝統をアレクサンドリア学派の一員として継承したも のと思われる。

 

オリゲネスの寓喩的解釈(1)『諸原理について』聖書の「体」と「魂」と「霊」

 

『諸原理について』は,オリゲネスが 44 歳から 45 歳頃(229 年から 230 年)執筆した初期の著作である。その第四巻二章で,専ら聖書解釈に関して論じているが, その論旨は,寓喩的聖書解釈の主張と弁護である。聖書は聖霊の霊感によって書き記されたので,霊的に理解するのが妥当であって,文字通りに読み理解することは 間違いのもとである,と議論が展開される。以下、『諸原理について』でオリゲネスの議論を辿る。

 

以上述べた人々の、これらすべての誤った見解の原因は,彼らが聖書を霊的な意味で理解せず,文字の表わすままの意味で理解している点にほかならない。このために、私のわずかな能力の許す限り,聖書はただ人間の言 葉を並べて作成されたものではなく,聖霊からの霊感によって記述され, 父なる神の意思によって,そのひとり子イエス・キリストを通して我々に 伝えられ,ゆだねられたと信じている人々のために、[聖書の]正しい理解 とはどういうことか,私の思っていることを説明することにしよう。この 説明にあたって,私は,イエス・キリストが使徒たちに伝え,使徒たちが 天的教会の教師たちに,継承の形で伝えた基準(regula)を遵守するつもりである。*22 

 

人間が体と魂と霊の三つの部分から成り立っているように,聖書にも「体」と「魂」 と「霊」に相当する三つの意味がある,とオリゲネスは論じる。聖書の「体」とは 歴史的な字義通りの意味のことであるが,それ以上に,聖書の「魂」と「霊」にあ たる霊的な意味の方が重要であると主張する。

 

ソロモンの格言の書の中には,聖書の[理解にあたって]遵守すべき原則 のようなものが明言されている。「あなたは,思慮深さと学識をもって,これらのことを三回,あなたのために書き記しなさい。

それは,あなたに問いただす人々に真理の言葉をもって答えるためである」と。したがって, 各自がその魂のうちに聖書の理解を三回記すべきなのである。

それは,まず単純な人々が,いわば聖書のからだそのもの——聖書の普通の歴史的な 意味を,ここで聖書のからだと呼んでいる——によって教化されるためで あり,次にある程度進歩し始め,より一層深く洞察しうる人々が聖書の魂 そのものによって教化されるためであり,ついに完全な人々,使徒[パウロ] が「しかし我々は完全な人々の間では知恵を語る。

この知恵は,この世のものではなく,この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ我々が語るのは,隠された秘義としての神の知恵である。

それは神が,我々の受ける栄光のために,世の始まらぬ先から,あらかじめ定めておかれたも のである」と言っているような人々が,「来るべき良いことの陰影をやどす」 霊的律法によって,いわば霊によって教化されるためである。

したがって,人間が身体と魂と霊によって構成されていると言われるように,人間の救いのために神の賜物として与えられた聖書も[同様に構成されているので ある]*23

 

ところが,聖書のすべての箇所に必ず三つの意味があるとはオリゲネスは考えなかった。

 

しかしながら,聖書のある箇所においては,「からだ」と言った[意味]、即ち適切な歴史的な意味が存在しない場合があるのを知っておかねばならない。その点に関しては以下証明するつもりである。そのような箇所には, 先に聖書の「魂」及び「霊」と呼んだ意味のみが求められるべきである*24。 

 

文字通りの歴史的な意味がない箇所があるとは不思議であるが、直後の文脈でヨハ ネ福音書 2 章のカナの婚宴での水瓶が言及される。すべての歴史的、字義通りの意味が有意義であるとは限らなかったり,歴史性が怪しかったりすることをオリゲネスは指して歴史的意味がない,と言う。

 

その目的は,知恵が巧みに織りなした,文字の衣と言った,この[聖書の「からだ」]そのものを通じても,他にすべのない多くの人々が教化され,進歩しうるということであった。

しかしながら,このような衣,即ち歴史的記述と律法の話の隅々にまで 統一性が守られ,秩序が固持されていたとすれば,我々は淀みのない[描写の]流れに目を奪われ,表面上述べられていること以外の何かが,聖書 の内部に含まれているのに気がつかなかったであろう。

このためにこそ, 神の知恵は,不可能なことや辻褄の合わないことに関する話を途中に挿入 して,文字通りの理解(intellegentia historialis)の上で,妨げあるいは 中断ともなるものを[聖書に]挿入した。

それは,叙述の中断が,障害物のように,読者の行く手をさえぎるためである。

この障害物は,通俗的な 理解の道を進むのをはばみ,[この道を進むのを]拒絶され引き返すのを 余儀なくされた我々を,別の道の入口に呼びもどし,こうして狭い小径の 入口を潜り抜け,一層高度な卓抜した道を通って神的知識の測り難い広がりへと導くためである。

しかして,次のことをも知っておかねばならない。 即ち,第一義的に聖霊の意図されるのは,未来のことと過去のことに関して霊的意味の連繋を守るということである。したがって,聖霊は,歴史上起こったある出来事が霊的意味を伝えるのに適しているのを見た時に,常により深い秘められた意味を隠しつつ,両者[つまり歴史的意味と霊的意味] を一つの叙述の中に含ませた。

しかし歴史上の出来事の記述が霊的[意味] の一貫性に適合し得ない場合には,時として聖霊は,実際には起こらなかったこと,つまりあるいは全く起こり得ない出来事,あるいは起こりうるが実際に起こらなかった出来事の話をも聖書に挿入した。

時としては,文字通りの意味では真理として認められ得ないと思われる若干の表現を挿入し,またある時には,そのような表現を数多く挿入した。

後者は特に律法 に関する箇所に,しばしば見いだされる。そのうちに,文字通り解釈しても有益な意味を有している掟があまたあるが,いくつかのものには,その有益性が全く現われず,時としては遵守不能なことさえ命じられる。

既に述べたように,聖霊がこれらすべてのことを挿入したのは,我々が,一見真実でも有益でもあり得ないと思われることから,繰り返し,入念に,徹底的に,より深い真理を見きわめるべく導かれ,神からの霊感によって書かれたものと信じている聖書のうちに,神にふさわしい意味を探求するよう刺激されるためである*25

 

……大部分の場合,歴史的な意味を真実として認めうるし,認めねばなら ないというのが,私の意見であるとはっきり言っておこう。……エルサレムがユダヤの首都であり,そこにソロモンによって神殿が建立されたこと, その他無数の事柄に疑いをさしはさむ人が誰かあろうか。実に,単に霊的な意味のみを有している[記述]よりも,歴史的な意味をも固持している[記述]の方が,遙かに多いのである*26。 

 

オリゲネスは,寓喩的聖書解釈を支持する具体的な例としてパウロ書簡から二箇所 に言及する。パウロは第一コリント 9 章 9 節で「穀物をこなしている牛に,くつこ をかけてはならない」(申命記 25 章 4 節)と引用するが,牛ではなく福音宣教に従事する者のことが話題になっていると断言する*27

 

ガラテヤ人への手紙4章の終 わりで,パウロは自由の女サラと女奴隷ハガルがそれぞれアブラハムに産んだイサクとイシュマエル二人の息子に言及するが,ここには比喩があると主張する*28

 

明 らかにパウロは,どちらの箇所でも文字通りの歴史的な意味から離れた意味を重視していることは間違いないが,このような聖書解釈法をどこまで一般化することが 適切かは意見の相違が生じる点である。

 

オリゲネスが言う聖書の「魂」と「霊」の 区別に関しては学者の間で議論がある*29が、聖書の「からだ」という歴史的な文字通りの意味よりも,寓喩的に解釈して得られる霊的な意味をオリゲネスが重視したことは確かである。

 

オリゲネスの寓喩的解釈(2)聖書の「魂」と「霊」の具体例  

 

寓喩的聖書解釈でも,雅歌の解釈ほど典型的で有名なものも珍しい。雅歌では, 婚約者であり,花嫁である女性と王が愛を歌い交わしているが,文字通りに人間の男女の愛が歌われているのではなく,花嫁なる教会の愛が雅歌で歌われているとい う解釈の伝統が聖書解釈の歴史で根強い*30

 

この寓喩的な解釈の伝統は,文献的にはオリゲネスの『雅歌注解・講話』にまで遡ることができる。オリゲネスは雅歌注解の序文冒頭で述べている。

 

……ソロモンは,神のロゴスである花婿に寄せる天の愛に燃え,花婿のもとにこし入れする花嫁になぞらえて,[この歌を]歌いあげます。この花嫁は,神のロゴスにかたどって造られた魂とも,教会ともとれますが,心から花婿に恋い焦がれています。

同時に,この書は,この完璧無比の花婿が ご自分に結ばれた魂あるいは教会にどのような言葉を向けておられるかを も,わたしたちに教えてくれます。*31

 

雅歌を解釈する場合のように,オリゲネスはローマ書全体を寓喩的に解釈することはないが,個々の表現を寓喩的に解釈する例は見出せる。パウロはローマ 3 章 25 節で御子イエス・キリストに関して ἱλαστήριον というギリシア語の単語を用いている。

 

新改訳聖書では「なだめの供え物」*32と訳される語であるが,旧約聖書の標準的なギリシア語訳である七十人訳聖書やヘブル書 9 章 5 節では契約の箱の蓋を指すのに用いられている*33

 

オリゲネスは,ローマ 3 章 25 節の ἱλαστήριον が契約の箱の蓋を指すと理解して*34、キリストが「贖いの蓋」であることを寓喩的に説き明かしている*35

 

いったいどうして,出エジプト記に描写されている,この純金で造られた贖いの座が,この真の贖いの座をかたどるもの並びに表象となるのか吟味するのも骨折りがいのあることです。

そのためには,まず第一に次の点を考察せねばなりません。作業の材料として黄金が用いられる場合,[聖書の]幾つかの箇所では「純金」と指定されていますが,幾つかの箇所では,いかなる形容詞も付さずに単に「金」とのみ言われています。

私は多くの箇 所を検討してみましたが,これは次のように解釈することができると私には思われます。

即ち,形容詞を付して「純金」と言われる場合には,イエ スの聖にして純粋な魂を指して言われているのです。

[イエスの魂は]「罪を犯したことがなく,その口には偽りがなかった」(Ⅰペト 2:22)のです。 また,贖いの座の縦横の寸法も[イエスの魂]に当て嵌めて解釈できるで しょう。

とはいえ,贖いの座に関して述べられている個々の事柄を[イエス]の聖なる魂に当て嵌めて説明するのは大変厄介なことになるでしょう。

ですから,まず贖いの座の縦の寸法について言われていることを考察しまし ょう。

それは単に2キュビトではありません。2という数は,普通,肉体の結合と生殖に当て嵌められます。また,それは完全に3[キュビト]でもありません。

3という数は,通常,被造物に当て嵌めて用いられることはなく,非物体的な本性[を持つ者]を指す聖なる数とされています。

ですから,贖いの座の寸法は,縦が2キュビト半,横が1キュビト半と言わ れるのです。

これに関して,あえて次のように言うことが許されるとすれば,同じ使徒[パウロ]がキリストについて,「神と人との仲介者」(1テ モ 2:5)と言っているのですから,この[イエスの]魂は神と人との中間にあるものであると,私には思われます。

[このイエスの魂は]何かしら小なるところがあり,三位の本性より劣っていることは確かですが,下位にあ るからといって,卓越し際立って優れた徳を欠いて[肉体の]内にあるかのように,肉体のうちにある者らに帰される2という数を[この魂に帰す ことは]できないのです。

実に,このことを明らかにして,その寸法は3 [キュビト]には及ばぬものの,2キュビトを幾らか超えていると表示されているのです。

さて,横の寸法は1キュビト半と言及されています。これは, その単一で固有な在り方のゆえにそのように表示されているのです。

時として汚れたものらを指して用いられる2という数にまでは達しませんでした。実際,私どもの本性である肉体を自分のものとして取り入れられたとはいえ,聖霊の浄い働きによって,汚れない処女から受けたものとして, その[肉体]は形造られたのです。

ですから,このためにこそ,仲介者について論述した使徒[パウロ]は,この明白な相違を強調して,「神と人との間の仲介者,人であるキリスト・イエス」(1テモ 2:5)と言っているのです。

つまり,それによって[パウロは]、仲介者とはキリストの神性に帰されるのではなく,[キリストの]人間性,即ち[キリスト]の魂に帰され るべきものであることを教示しているのです。

ですから,その縦と横の寸法が表示されているのです。縦の寸法は、[イエスの魂が]神に向かい,三位と結ばれていることを意味しており,横の寸法は,広々とした道(マタ 7:13 参照)を進むのが常である人々の間で共に暮らすことを意味している のです。

ですからこそ,まさしく仲介者という名前をもって呼ばれるのです。それは,上述のように、[イエスの]この聖なる魂が、三位の神性と人間の脆さとの中間にあるものだったからです。

ですから,以上で説明したことに即して,一対のケルビムが,一つは一方の端の,もう一つは他の端 の上に据えられたと言われる贖いの座を以上のように解釈することができ ます。

この一対のケルビムがだれをかたどっているのか検討する必要があるでしょうか。実に,ケルビムとは,私たちの言葉では「満ち満ちた知識」 の意味に解されます。

では,「知恵と知識の宝はすべて,この方の内に隠さ れています」(コロ 2:3)と使徒[パウロ]が言っている方のほかに,どこにいったい「満ち満ちた知識」があると言えましょう。

勿論,使徒[パウ ロ]が言っているのは,神の言理(ロゴス)のことです。

しかし,彼は聖霊についても同様のことを書き記しています。こう言うのです,「私たちには,神が御自分の霊によって明らかに示してくださいました。霊は一切のことを,神の深みさえも究めます」(1コリ 2:10)。

ですから,私の考えで は,この贖いの座の内には,即ち,イエスの魂の内には,神の言理(ロゴス), 即ち,独り子である御子と,[神]の聖霊とが常に住んでおられることが意味されているのです。

つまり,贖いの座の上に据えられた一対のケルビム はこのことを示しているのです。……*36 

 

キリストが「贖いの蓋」であるということ自体,比喩であるが,贖いの蓋の個々の 情報ひとつひとつから意味を「読み取る」オリゲネスの寓喩的な解釈を十分に垣間 見ることができた。

 

オリゲネスのローマ書解釈(1)はじめに  

 

オリゲネスは,246 年頃カイザリヤでローマ人への手紙の注解をしたためた *37

 

この年は,ローマ建国千年を記念して帝国全土で一大イベントが繰り広げられた年であるので,帝都ローマにいたキリスト者の小さな群れにパウロが書き送った手紙をオリゲネスは注解したのかもしれない。そして,406/407 年にルフィヌスがラテン語に翻訳した。ルフィヌスはオリゲネスのローマ書注解のギリシア語本文をその ままラテン語に翻訳したのではなく,長さを半分ほどに縮めている*38

 

ルフィヌス の翻訳の信頼性について議論があるが,ギリシア語本文の断片はわずかしか発見されていないので,翻訳のみならず要約の妥当性まで確認することは至難の業である。 とはいえ,ルフィヌスの翻訳と要約を疑ってかかる積極的な理由は特に見当たらな い。

 

ヨハネ福音書の注解書*39に見られるように,オリゲネスの初期の聖書注解は, 古代アレクサンドリアの文献学者たちが開発した質疑応答形式の注解であるが,ローマ書の注解書は,私たちが注解書と思い描く形式により近い。

 

パウロがローマの教会宛てに書き送った手紙の一部が,各章の冒頭に引用されて(*40、その箇所に関する注が付されている。ただルフィヌスのラテン語訳では,各章冒頭に引用されるローマ書本文は古ラテン語訳*41で、注解本文ではオリゲネスがギリシア語で引用した本文がラテン語に訳されているので,食い違いが時折見出される。

 

注解書の第一巻 1 章はローマ書 1 章 1 節から始められ,第十巻 43 章は 16 章 27 節で終わり,ローマ書全体が網羅されている*42。注解の冒頭には翻訳者ルフィヌスの序文とオリゲネス自身の序章があり,注解書の巻末にはルフィヌスの結語が加えられている。  

 

確かにオリゲネスは寓喩的聖書解釈を主張し,重視してきた聖書解釈者であり, パウロがローマ教会宛てに書き送った手紙に見出される個々の表現に関して寓喩的に解釈することもあるが,概してローマ書本文を堅実に釈義して注解している。

 

オリゲネスはパウロとローマにあった小さなキリスト者の群れの歴史的状況には無知であり,無関心であった,と断定する学者もいる *43一方で,パウロが実在する宛先の教会に書き送った真の手紙であることを意識してオリゲネスは注解したと理解する学者もいる*44

 

パウロがローマ教会宛てに書き送った手紙を,堅実に読み解こうとするオリゲネスの基本的姿勢は,注解書本文から十分に読み取ることができる が,序章で明確に述べている。

 

確かに,理解を少なからず困難にしているのは,この一つの同じ手紙の中 で,モーセの律法,異邦人の召命,肉に即したイスラエル,肉に即するのではないイスラエル,肉体の割礼と心の割礼,霊的な律法と文字による律法, 肉の律法と五体の律法,心の律法と罪の律法,内なる人と外なる人といった, 多くの [ 問題 ] が組み込まれていることです。

ここではこれらの諸問題を予 め列挙しただけで十分でしょう。ともかく,これらの諸問題によって,この手紙の内容は構成されていると考えられます。

では,主が御旨のままに私どもに開いてくださった道に沿って,でき得るかぎり迅速に,この手紙 の説明に取り掛かることにしましょう*45

 

歴史的というよりは神学的であることは,上記の引用からも想像がつくと思うが, オリゲネスが真摯にローマ書の本文と取り組んでいることが率直に表現されてい る。

 

オリゲネスのローマ書解釈(2)ユダヤ人と異邦人を仲裁するパウロ  

以下に列挙するのは,オリゲネスがローマ書全体の主題を典型的に書き表した箇所である。オリゲネスは,パウロがユダヤ人と異邦人の間を仲裁する姿をローマ書 全体に渡って見出している。

 

この手紙の中で,パウロは審判者のようにユダヤ人とギリシア人つまり異邦人出身で[キリストを]信じている者らとを裁き,ユダヤ人の儀式を徹底的に打破してユダヤ人を傷付けることなしに,また律法と文字の遵守を 断固主張して異邦人を絶望に追い込むことなしに,双方をキリストへの信 仰に招き,呼び掛けているのです*46。 

 

毎度のことですが,改めてここでも,パウロの文書に細心の注意を払いたいと欲している人々に,上述の区別をしっかりと心に留めて置くよう、彼らの注意を喚起したいと思います。

つまり、時として割礼を受けた者を擁護したかと思えば,次には割礼を受けていない者を擁護するというように、即ちユダヤ人あるいは異邦人を擁護しつつ,双方の側から論述を進めていることです。

全くささいな点であっても,読者は注意を怠れば、たちまち、この理解の狭く細々とした道を踏み外してしまうことになるでしょう。*47

 

どのようにして,キリストは,先祖たちに対する約束を確証されるために, 割礼ある者たちに仕える者となられたかは,二通りに解釈することができ ます。

[一つの解釈はこうです]。その子孫によってすべての異邦人(諸国民)は祝福されると神が約束された(創 22:1 参照)アブラハムの種子(子孫) に由来する者として[この世に]来られたことを,明白極まりないものとして知らせるために,自らご自分の肉体に割礼を受けられたことで,先祖 たちに対する約束をご自身において成就されたのです。

そして,傲慢にも, 互いに反目し合っている割礼を受けた民出身のキリスト信者と異邦人出身のキリスト信者をそれぞれ諫めている,この手紙全体の文脈の意図するところによると,この言葉によって,[パウロは],キリストがその肉体に割礼を受けて割礼ある者たちに仕える者でもあられるのですから,律法の遵守に固執している者たちを決して裁いてはならないと教えているのです。

別の[解釈によればこうなります]。キリストが割礼ある者たちに仕える者であられたと言われますが,この[割礼ある者]について同じ使徒[パウロ] は次のように言っているのです。

「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく, また,肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人 である者こそユダヤ人であり,文字ではなく霊によって心に施された割礼 こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく,神から来るのです」(ロマ 2:28-29)。

これに即して,同じ使徒[パウロ]は他の所でも次のように言っているのです。「あなたがたは,手によらない割礼,つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け,洗礼によって,キリストと共に葬られたのです」 ( コロ 2:11-12)。

ですから,このような割礼によって先祖たちに対する約束が成就されたことは確かです*48。 

 

この手紙の殆ど全文にわたって,使徒パウロによって取られた論述の展開 は大変飛躍していると思われるかもしれません。即ち,彼(パウロ)の話は, ある時には異邦人に反対する立場で語られているかと思えば,次には異邦人を弁護して口調を和らげ,逆にユダヤ人に反対する立場から語られ,更にユダヤ人の立場から,あるいはユダヤ人を弁護して語られているのです。

そして,彼らの或る人々を称賛に値すると言い,或る人々を叱責している のです。*49

 

 「新しい視点」以降に顕著なローマ書理解の潮流と合致する観点である。帝都ロー マは,執筆当時既に大都市であり,キリスト者たちの群れはローマ市の大きさに比べると矮小であったが,アクラとプリスキラ夫婦の家の教会に留まることなく,市内に家の教会が点在していたと思われる。

 

そして,クラオデオ帝のユダヤ人追放令の影響で,キリスト教会の指導的なユダヤ人キリスト者たちも不在であった一時期に異邦人キリスト者たちが教会で指導的な役割を果たすようになり,追放令が破棄されてユダヤ人たちが戻って来たときにキリスト教会内で異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の関係がギクシャクしたことは想像に難くない。

 

そのような状況を踏まえて,パウロは 14 章と15 章前半で「弱い者たち」と「強い者たち」に融和 を呼び掛けた,と想定できる。必ずしもオリゲネスは,現代の新約学者がするような歴史批判を実践した訳ではないが,オリゲネスが読み解くパウロの姿は不思議と「新しい視点」と符合する*50

 

オリゲネスのローマ書解釈(3)異端を意識して  

 

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使徒ヨハネ(左)とシノペのマルキオン(右)モルガン図書館像、MS 748、11世紀(出典

 

オリゲネスのローマ書注解が,昨今の注解書と異なることは言うまでもない。オ リゲネスがヨハネ福音書注解書を執筆した主目的が,グノーシス主義を論駁するこ とであったように*51、ローマ書注解執筆に際しても,マルキオンとグノーシス主義 などの異端を意識的に反駁している

 

また、近代以降の聖書学では,同じパウロ書簡でも個々の手紙の個別性が強調されるが,オリゲネスは往々にして,個々のパウロ書簡どころか,旧新両約聖書を全体として解釈する傾向が強かった*52

 

異端を論駁することと関連して、オリゲネスは,マルキオンに対して旧約聖書との連続性を強調し、グノーシス主義に対抗して人間の本性が不変であることに異を唱えた。オ リゲネスがローマ書注解で名指しでやり玉に挙げている異端は、マルキオンとウァレンティノス派とバシリデス派である。換言すると、オリゲネスのローマ書注解は, 現代的な意味での釈義的注解ではなく、神学(論争)的注解書と特徴付けることができる。  

 

オリゲネスは序章で明言する。

このローマの信徒に宛てられた手紙は使徒パウロの他の幾つもの手紙よりも難解であると考えられるのは,二つの理由に起因するものと私には思わ れます。一つには,時として混迷して,余り明瞭ではない文体が取られていることです。

もう一つの原因は,そこで取り扱われる問題は多岐にわたっており,かつまた,時に,各人の行為の原因は[各人の]意図にではなく本性の相違に帰されるべきであると常々主張する異端者らが自説の拠り所としている諸問題が取り扱われていることです。

この手紙の僅かな表現から,神から人間に決断の自由が付与されていることを教える聖書全体の意味を,彼ら(異端者)は覆そうとしているのです*53。 

 

注解そのものが始まると,オリゲネスが異端を意識して注解していることは,さらに明瞭である。

 

パウロの場合は,単に一般的な使徒職への召命が表示されるだけでなく, 更にそれに続けて「神の福音のために選び出された」と言われるための, 神の予知に基づく選出[が表示されています]。

[パウロ]自身が他の所で 自らについて次のように述べている通りです。「私を母の胎内にあるときか ら選び出された神は,御心のままに,御子を私に啓示されたのです」(ガ ラ 1:15-16)。

ところが,異端者たちはこれを曲解して,[パウロ]が母の胎 内にあるときから選び出されたのは善い本性が彼の内にあったからであり,詩篇の中で悪い本性を持つ者らについて「彼らは母の胎内にあるときから罪人として選び出された」(詩 57[58]:4)と述べられているのと逆の例であると主張しているのです*54

 

注解の冒頭では異端者を名指ししていないが,その後,マルキオンなど具体的に言及している。 「私たちが敵であったときでさえ,神と和解させていただいた」と[パウロが言っているの]は,マルキオンとかウァレンティノスの定義のように本性的に神に敵対する,ある種の実体[substantia]が存在するのではないことを,明快に提示しているのです。

つまり,意思によってではなく本性的に[神に]敵対するものであるとすれば,当然,和解を得ることはできないのです。

ところが,敵から友にされるということは,神が愛さない業をなしている限り,その人は神の敵であり,各人が敵対する者らにふさわし い業を数多くなせばなすほど,激しく,かつ憎むべき敵になるのです。

ですから,神の敵である者らの内には,罪の大きさと質によって区別された, いわば度合いと段階があるのです。……*55 

 

ところで,マルキオンと,様々な虚構によって魂には諸種の本性があるとする説を唱導する人々は,この箇所の言葉で徹底的に論破されるでしょう。

神はイエス・キリストを通して、人々の隠れた事柄を裁かれると,パウロ によって主張されており、本性の特権によってではなく,各々の思いによ って,各人は責められ,あるいは弁護され,自分の良心の証言によって裁かれることが明らかにされているからです。*56

 

私にはどうしてか分かりませんが,ウァレンティノス派とバシリデス派に属する人々は,ここでパウロによって語られているこの言葉に耳を貸さず、 どんなことがあっても絶対に救われ,決して滅びることのない本性の魂と、 どんなことがあっても絶対に滅び,決して救われることのない本性の魂と があると考えているのです。

ところが、その不信仰のゆえに枝は善いオリーブの木の根から折り取られ,神の厳しさから来る罰を避け得なかった、とはっきりとパウロは言っているのです。

他方、彼ら(ウァレンティノス 派とバシリデス派)のもとでは滅びることになっている本性であると見なされている,野生のオリーブの枝がオリーブの根に接ぎ木され,その養分 を[受ける]ようになったとも[パウロは言っているのです]。

実に,この [パウロの言葉]によって,容易に彼らに反論することができます*57。 

 

……実に,悪く目端が利くよりも,目端が利かない方がずっとましです。 私は次のように言いたいのです。創造主である神に逆らって冒瀆の書を書き上げたマルキオンとか,バシリデスとかウァレンティノスとか,他の邪 悪な教説の唱導者たちは,悪く目端の利いた心の目を持っていなかった方が幸せだったとは思われませんか。……*58

 

……また,使徒[パウロ]は,すべての罪は肉の業であると言明しており, それは姦淫,わいせつ,好色,悪い情欲,淫乱,偶像礼拝,悪意,敵意,争い, そねみ,怒り,利己心,不和,異端*59、ねたみ,泥酔,酒宴,その他この類いのものであると言っています(ガラ 5:19-21 参照)。

では,異端がどうして肉の業の一つに数えられているのか吟味してみれば,それが肉の思い(肉的な理解)から発するものであることが分かるでしょう。……*60

 

 ……もし,ある人々が考えているように,本性が[改善を]不可能にするとか, 星の運行が妨害するとすれば,当然[改善]は起こり得ないからです。*61 

 

上記の「星の運行が妨害する」とは,異教に影響された占星術的発想に言及していると思われる。

 

オリゲネスのローマ書解釈(4)オリゲネスの信仰義認論  

 

オリゲネスは体系的に思考したり,議論したりする組織神学者ではなかった。場合によっては議論の流れに影響されて言い過ぎたり,一見矛盾した発言をしたりす ることが多々見受けられる*62が、ローマ書注解でオリゲネスが「信仰義認論」に 関連して展開する議論に典型的に見出される。

 

一見,信仰義認論を真っ向から否定 していると思われる箇所もある一方で,信仰義認論を主張していると思われる箇所もある。先ず、信仰義認の教理を否定していると思われる箇所を紹介する。

 

まず第一に,魂のうちには善い本性と悪い本性とがあると主張している異端者らは[この言葉によって]排斥されます。彼らは,本性に応じてではなく,各人の行為に応じて神は各人に報われることを学べばよいのです。

この箇所によって,[キリストを]信じる者たちは育成されるのです。彼らは,信じることだけで,自分には十分であり得るとは考えません。むしろ, 彼らは,自分の行為に応じて,義しい神の裁きが各人に下されることを学 ばねばなりません*63

 

……つまり,心に割礼を受けていない者とは信仰を持っていない人のことであり,肉体に割礼を受けていない者とは業を伴わない人のことではないでしょうか。

まさしく,一方は他方なしでは非難されます。業の伴わない信仰は死んだものであると言われ(ヤコ 2:17 参照)、信仰の伴わない業によっては誰も義とされない(ガラ 2:16 参照)からです。

ですからこのようにして,私の考えますには,全く妥当なものとして,預言の言葉は信ずる者らから成る民に当て嵌められ,彼らに対して言われるのです,「あなたたちイスラエルの家の中にいる,心に割礼を受けておらず,肉体にも割礼を 受けていないすべての外国人の子らは,私の聖所に入ってはならない」と。

これはまた,福音書の中で主が言っておられることでもあります。主は言われます,「私を信ずる人は,私の掟を守る」(ヨハ 14:23 参照),「私のこれらの言葉を聞いて,行う人」(マタ 7:24),更に「私を『主よ,主よ』と 呼びながら,なぜ私の言うことを行わないのか」(ルカ 6:46)。

ですから, どこでも,信仰は業に結ばれ,業は信仰と結び合わされているのが分かる でしょう。*64

 

即ち,真に,偽りなしに,口でイエスは主であると公に言い表し,心で信じる人は,それと同時に,自分は知恵と義と真理の支配,並びにキリストがそれであるところのすべて[の相(エピノイア)]に服していると公に言い表すのです。

つまり,もはやマンモンが自分に君臨していない(マタ 6:24 参照),即ち,もはや貪欲も,不義も,不品行も,虚偽も自分を支配し ていない[と公に言い表すのです]。実に,一度,イエス・キリストは主であると公に言い表した人は,これらのいずれにも自分は隷属するものでは ないと宣言するのです。

更にまた,心で神は[イエス]を死者の中から復活させられたと信じる人は,言うまでもなく,[イエスが]復活させられたのは,自分を義としてくださるためであると信じているのです。

要するに, 私が自分自身の内に復活された[イエス]を有していないなら,神はイエスを死者の中から復活させられたと私が知り,信ずることに何の益がある でしょう。[ありはしません。]

ですから,私が新しい生命に歩まず(ロマ 6:4 参照),古い罪の慣習を退けていないなら,私にとって,まだキリストは死者の中から復活していないのです*65

さて、「義しい者はいない。一人もいない」,あるいは「生ける者は皆,御前で義とされない」という言葉は,別様にも説明することができます。

即ち,人は肉体の内にあって生きている間は,義とされ得ず,義しい者と宣 言され得ず,肉体から抜け出て,この世の生における戦いを後にする時[はじめて義とされ,義しい者と宣言され得るものなのです]。

「どんな人に対 しても死を迎えるまでは,その人のことを幸せだと言うな。その人の最期 をお前は知らないのだから」(シラ 11:28)と,聖書も言っている通りです。

また,伝道者も言っています。「既に死んだ人を,幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは[幸いだ]。いや,両者より幸福なのは, まだ生まれない者だ」(コヘ 4:2-3)と。

更に,聖書の別の言葉もあります。 その言葉は,女から生まれた者のうち,[洗礼者]ヨハネより偉大な者は現れなかったにしても,天の国で最も小さい者でも,肉体の内にある者より 偉大である,と述べているのです(マタ 11:11 参照)*66

 

では,本題に戻りましょう。上記のように,律法と預言者は神の義を立証するものなのです。この義は,イエス・キリストへの信仰によって,信じるすべての者の内に示されます。出自がユダヤ人であれ異邦人であれ,信 じる者らの間には何の差別もありません。

しかし,次の点に注目しましょう。 [パウロは]神の義が示されるための原因として信仰だけをあげているので はなく,律法と預言者を[信仰に]結び付けているのです。

つまり,律法と預言者に関係なく,ただ信仰が神の義を示すのではなく,逆に,信仰とは関係なく,律法と預言者とが[神の義を示す]のでもないのです。即ち, 両者[キリストへの信仰と,律法と預言者]が互いに依存し合っており, 双方によってこそ完全なものとなるのです*67

 

以上の箇所を総合すると,オリゲネスにとってパウロもヤコブと大差ないように思わ れ,完全に信仰義認論を否定しているように見えるが,信仰によってのみ義と認め られるという表現も実はオリゲネスのローマ書注解に見出される。

 

こうして,義とされるには信仰のみで十分であり,その結果,義とされる者は,ひとえに信じる者であること,いかなる業もその人によってなされ ていなくとも,[信じる者が義とされると,パウロは]言うのです*68

 

この文は,「彼らは、信じることだけで,自分には十分であり得るとは考えません。 むしろ,彼らは,自分の行為に応じて,義しい神の裁きが各人に下される事を学ばねばなりません*69」と相容れないように思われるが,オリゲネスの議論を注意深く辿るとき,支離滅裂ではなく、理路整然としたオリゲネスの考えが見えてくる。  

 

信仰のみによって義と認められた例が聖書から挙げられている。

ですから,使徒[パウロ]の文書は完全なものであり,全体が独自の秩序をもって構成されていると主張するよう努めている私どもにとって,目下の課題は,行いによらず,信仰のみによって義とされるのは誰か,考察することでしょう。

さて,例証を上げるとすれば,キリストと共に十字架に かけられた犯罪者を上げれば十分であると思われます。

彼は十字架の上か ら[キリスト]に叫んで言っています,「主イエスよ,あなたの御国においでになるときには,私を思い出してください」(ルカ 23:42)。

この[犯罪人]の善行は他に何一つとして福音書に明記されていません。しかし,この信仰のみに応えてイエスは彼に言われます,「はっきり言っておくが,あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ 23:43)。

では,この犯罪者の事例を使徒パウロの言葉に当て嵌めて――それがふさわしいものなら――,ユダヤ人に対して言いましょう,「では,あなたの誇りはどこにあるのか」。[彼らの誇りが]取り除かれたのは確かです。

しかも,それが取り除かれたのは行いの律法によってではなく,信仰の律法によってです。実に,この犯罪者は,律法の行いなしに,信仰によって義とされたのです。

それに加えて, 以前に何を行ったか主は問いただしませんでしたし,信じた後にいかなる 業をなすか様子を見ることもされませんでした。

[ご自分が]楽園に入られ るにあたって,信仰告白のみによって義とされた[この犯罪者]をご自分の同伴者の一人として受け入れられたのです*70。 

 

オリゲネスは,ルカ福音書 7 章の「罪深い女」も信仰のみによって神の御前に義とされた聖書の登場人物として挙げている。

 

……そして,[イエスは]律法のいかなる業のゆえでもなく,信仰のみに応えて,彼女に言われます。「あなたの罪は赦された」(ルカ7:48)と。そして,「あ なたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(ルカ 7:50)とも言われています。

ここだけでなく,福音書の多くの箇所で,救い主がこの言葉を口にしておられるのに,私どもは出会います。それによって,信じる人の信仰が,その人の救いの原因であると[イエスは]言っておられるのです。

以上のことからすべての人に明らかなことは,まさしく使徒[パウロ]が 考えているように,人が義とされるのは律法の行いによるのではなく,信仰によるということです*71

 

実に,ユダヤ人の神と異邦人の神とは別々の神であるとしたい人,即ち, 律法の神と福音書の神とは別々の神であるとしたい人にとって,この短く簡潔な反駁で十分でしょう。

使徒パウロは全く適切に自分の見解を表明し, ユダヤ人と異邦人との唯一の神が存在すると主張しているだけでなく,割礼のある者を信仰から義とするのも,割礼のない者を信仰によって義とするのも,この同じ[唯一の]神であると言い添えているのです。

また,割礼を比喩的な意味で取って,聖なる者たち,霊的な者たちを割礼のある者 と[パウロ]は呼んでいると[解釈]したい人々がいるとしても,その人々 も,たちまち次の箇所で障害にでくわすことになるでしょう。

……私どもは, ユダヤ人出身の[キリストを]信じている者たちが割礼のある者と呼ばれ, 割礼のない者と呼ばれるのは異邦人出身で[キリストへの]信仰に至った者たちにほかならないと主張しているのですから,この箇所は明解そのものであり,いとも容易に説明されるでしょう。

実に,同じ[唯一の]神が, 双方の民出身の信じる者たちを,割礼のある者の,あるいは割礼のない者の特権によってではなく,ただ信仰のみを鑑みて,義とされるのです*72。 

 

以上を総括すると,オリゲネスは信仰によって義とされるという信仰義認を厳密に信仰生活の開始時点に限定して,信仰のみによって義とされると論じる。そして, 信じたときに赦される罪は,信じる前に犯した罪に限っている。信じた後に放縦に 走ることなく,その信仰にふさわしく行動することが救いに不可欠であると理解して真の信仰には相応しい行いが伴うことを強調する。

 

また,律法の行いによっては義とされることなく,むしろ奢り高ぶりが生まれると言う場合に,専らオリゲネス の念頭にあるのは祭儀律法であって,道徳律法を排除したり,否定したりする意図はなさそうである。  

 

さらに,興味深いことに,一口に信仰と言っても質と量ともに千差万別である, とオリゲネスは考えていた。アブラハムのように信じた信仰によって義とされるには,完璧な信仰が不可欠であって,そのような信仰には必ず義なる行いが伴う,とオリゲネスは理解した。

 

即ち,不法な働きを行った者の場合には,罪の当然支払うべきものに即して報酬が求められますが,不信心な者を義とされる方を信じる人の場合には,その信仰が義と認められるのです。

上述のことをよく記憶していれば, 私どもがそこで明らかにしたのは,その信仰が義と認められ得るのは,部分的に信じている人ではなく,全面的に信じている人,完全に信じている人であるということでした。そのような信仰は不信心であった者をも義とするほどの信仰なのです*73

 

それゆえ,不法が赦されることと罪が覆い隠されること,そして主から罪があると見なされないことに関連して,使徒[パウロ]は,まだ義の行いを欠いてはいるが,不信心な者を義とされる方を信じたことだけで,人は義と認められることを語っているのです。

実に,神から義とされる端緒は, 義とされる方を信じる信仰なのです。そして,この信仰は,義とされた時に,雨の後の根のように,魂の深みにしっかりと根を下ろします。

その結果, 神の律法によって耕され(教化され)始めると,行いという成果をもたらす根が[魂]の内に成長するのです。

ですから,行いから義の根がはえるのではなく,義の根から行いという成果が生ずるのです。つまり,この義の根のゆえに,神は,行い(働き)のない義を是認されるのです*74。 

 

既に見た通りに,オリゲネスはイエスと共に十字架につけられ,十字架上で悔い改めた犯罪人を信仰義認の具体例として言及する*75が、彼にも信仰に伴った行いが あったとオリゲネスは指摘する。

 

他方,私は喜んで,これはイエスと共に十字架につけられた例の犯罪人について言われたこととも取ることができると思っています。

彼は,「主よ, あなたの御国においでになるときには,私を思い出してください」(ルカ 23:42)と言い,[イエスを]ののしったもう一人の[犯罪人]をたしなめた告白によって,彼は共に植えられ[イエス]の死の姿にあやかったと見なされます。

更に,「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ 23:43) と彼に言われることによって,彼は共に植えられて[イエス]の復活[姿にもあやかった]のです。実に,生命の木に結ばれたのは,楽園にふさわしい若枝であったからです*76。 

 

この犯罪人は信仰のみによって過去に犯した罪は赦された*77が、十字架上でイエ スを信じた後に、十字架につけられたもう一人の犯罪人をたしなめる行為によって、自らの信仰が真実な信仰であることを証明している、とオリゲネスは論じている。

 

同じ犯罪人を信仰義認の例と挙げ,同時に信仰にふさわしい行いが伴った例としても挙げている。このあたりがオリゲネスの神学が複雑で捉えどころがない、と言わ れる所以であろう。

 

後に,アウグスティヌスは,オリゲネスの信仰義認論がペラギウス的であると断罪したが、アウグスティヌスとオリゲネスの間には義認という神学用語の用い方に相違があったことが認められる。即ち、オリゲネスが聖化の領域 も含めて義認という用語を用いていたので、アウグスティヌスは誤解したのかもしれない。*78

 

結論:寓喩的解釈の意義  

 

オリゲネスのローマ書解釈をオリゲネスの聖書解釈学に位置づけようとした。寓喩的聖書解釈で有名なオリゲネスでありながら、ローマ書本文と真摯に取り組んでマルキオン、グノーシス主義などの異端と神学論争を繰り広げている様子を垣間見 た。  

 

寓喩的解釈の起源がアレクサンドリアのホメロス学者にあり,ユダヤ人のフィロンが異邦人読者のために旧約聖書の良さを説き明かす際に多用したことは先に触れた通りである。寓喩的に解釈することで,歴史的な字義通りの意味に関連性を見出すことができない読者が関連性を実感することができることが寓喩的解釈の特徴であり、利点である。

 

ギリシア神話の神々を信じない者にホメロスの叙事詩が寓喩的に説き明かされて理解し易くなったように,旧約聖書,特に律法に直接の意義を見出せない異邦人読者のためにフィロンは旧約聖書を寓喩的に説き明かした。同じように、オリゲネスら異邦人である教会教父たちは旧約聖書を寓喩的に解釈して、自分たちに関連する意味を見出した。

 

対照的に、パウロがローマのキリスト者の群れに書き送った手紙は大部分神学的な内容であったので,オリゲネスたちが繰り広げていた神学論争に直接関連する内容であった。

 

そういう意味では,ἱλαστήριον など個々の表現を寓喩的に解釈することはあっても,敢えてローマ書全体を寓喩的に解釈する必要がなかった。寓喩的聖書解釈の旗手であったオリゲネスであっても、どのような文学類型の文書に寓喩的解釈がふさわしく,どのような文学類型の文書には不適切であったり、不要であったりするかを心得ていたのであろう。

 

オリゲネスは寓喩的聖書解釈者である、とレッテルを貼り付けただけでは,複雑怪奇なオリゲネスを理解したことにはならないことを改めて肝に銘じたい。

 

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小高毅著『オリゲネス』(人と思想 113)清水書院,1992 年

土井健司『愛と意志と生成の神:オリゲネスにおける 「生成の論理」 と「存在の論理」』教文館,2005年

エウセビオス著,秦剛平訳『教会史』第二巻,山本書店,1987年

*1:〔ブログ管理人注〕

*2:R. P. C. Hanson, Allegory and Event [London: SCM, 1959], 7.

*3:Typos [Grand Rapids: Eerdmans, 1982], 4.

*4:BDAG 1019-20, second meaning

*5:Hanson, Allegory, 105-10

*6:“Return to Allegory,” in Discerning the Mystery (Oxford: Clarendon, 1983), 96-131.

*7:Henri de Lubac, Medieval Exegesis (Edinburgh: T. & T. Clark; Grand Rapids: Eerdmans, 2000

*8:本稿は 2010 年度共立基督教研究所研究助成によって可能となった研究成果をまとめたもので ある。ここに関係各位に心から感謝の意を表したい。

*9:「新しい視点(New Perspective)」は James D.G. Dunn の命名である。E.P. Sanders が Paul and Palestinian Judaism (Fortress Press, 1977) で提唱したユダヤ教理解(サン ダースは covenantal nomism[契約規範主義]という造語を使用。サンダース著,土岐健治,太田修司訳『パウロ』[教文館,2002 年]参照のこと)に基づいたパウロ研究の総称である(“The New Perspective on Paul” Bulletin of the John Rylands Library, Vol. 65, 1983, pp. 95-122. Included James D.G., Jesus, Paul and the Law: Studies in Mark and Galatians (London: SPCK), 1990, pp. 183-214)。他に「新しい視点」の著名な学者としては N.T. Wright(Tom Wright)がいる。

*10:Mark Reasoner, Romans in Full Circle: A History of Interpretation (Louisville: Westminster John Knox Press, 2005), pp. xxv, xxvii, passim.

*11:カイザリヤのエウセビオス著『教会史』第六巻は,オリゲネスの生涯に関する大切な情報を私 たちに提供してくれる重要な資料である。ただしエウセビオスの記述には時代錯誤があることなど批判も指摘されているので,無批判に読むことは差し控えた方が良さそうである

*12:これ以前にもオリゲネスは帝都ローマを含めてほうぼう旅をした。また,アレクサンドリア市 がカラカラ帝の逆鱗に触れた際にも,オリゲネスはカイザリヤに難を逃れたようだ(エウセビ オス『教会史』第六巻 19 章 16 節)。

*13:ローマ市民がキリスト教に改宗すること,および改宗させることを禁止する勅令であったよう で,ローマ市民であったオリゲネスの父親は改宗活動をした罪状で処刑されたらしい。母親は ローマ市民ではなかったようなので,オリゲネス自身は,禁止令に抵触することはなかった。〔ブログ管理人注〕関連記事:

*14:自ら書き写した写本であって,1 日わずか4ボロスで質素な生活に甘んじたとエウセビオスは書 き記している(『教会史』第六巻 3 章 9 節)。

*15:エウセビオス『教会史』第六巻 2 章 2 節。

*16:エウセビオス『教会史』第六巻 8 章 1 節。

*17:当時,著作・出版するには,口述筆記するのが普通であったので,交替で作業にあたる速記者 複数を雇って,さらに出版するために複数の写本を作成する書写生(または転写生)を雇うことが必要であった。その他,パピルス紙または羊皮紙,製本代,インク代などの費用もかかった。そこで,資産のない人間が著作活動をするにはスポンサーが必要であったが,オリゲネスのスポンサーとなった資産家としてエウセビオスは 2 人ほど挙げている。そのうち 1 人は女性で,エウセビオスは名前を記録していない。オリゲネスがウァレンティノスの異端の教えから正統的な信仰に導いたアンブロシオス(『教会史』第六巻 18 章 1 節)はオリゲネスにヨハネの福音書の注解書を執筆することを依頼したが,その際,依頼だけではなく,必要経費も負担したことをエウセビオスは書き残している(『教会史』第六巻 23 章 1 節 2 節)。

*18:東ローマ皇帝ユスティヌス 1 世(527 − 565 年在位)が 543 年にオリゲネスを名指して非難する勅令を発布し,553 年の教会会議で正式にオリゲネスの教えが異端として断罪された。

*19:ティランニウス・ルフィヌス(344 年か 345 年− 410 年)は修道僧で,歴史家且つ神学者であるが,ギリシア語教父文書,特にオリゲネスの著作をラテン語に訳したことで有名である。

*20:Anthony C. Thiselton, Hermeneutics: An Introduction (Grand Rapids/Cambridge: Eerdmans, 2009), pp. 103-110 など参照。

*21:Ibid., pp. 68-70 など参照。

*22:オリゲネス著,小高毅訳『諸原理について』第四巻二章二節,286-87 頁。

*23:オリゲネス著,小高毅訳『諸原理について』第四巻二章四節,289 頁。

*24:オリゲネス著,小高毅訳『諸原理について』第四巻二章五節,290 頁。

*25:オリゲネス著,小高毅訳『諸原理について』第四巻二章八節九節,294-95 頁。

*26:オリゲネス著,小高毅訳『諸原理について』第四巻三章四節,300 頁。

*27:オリゲネス著,小高毅訳『諸原理について』第四巻二章六節,290-91 頁。

*28:オリゲネス著,小高毅訳『諸原理について』第四巻二章六節,291-92 頁。

*29:Elizabeth Ann Dively Laura は,オリゲネスが明確に魂と霊とを区別し、霊の方が魂に優ると考えたと論じる (The Soul and Spirit of Scripture within Origen’s Exegesis)。

*30:昨今は必ずしもそうではないようである。Gordon D. Fee and Douglas Stuart, How to Read the Bible for All Its Worth (3rd ed.; Grand Rapids: Zondervan, 2003), pp. 245-48 を参照のこと。

*31:オリゲネス著,小高毅訳『雅歌注解・講話』序文,27 頁。断片しか残っていないが,哀歌の解釈も類似しているようだ。

*32:口語訳では「あがないの供え物」,新共同訳では「償う供え物」と訳されている。

*33:ヘブル書 9:5 で,この語は新改訳では「贖罪蓋」,新共同訳では「償いの座」,口語訳では「贖罪所」と訳されている。どのような訳語が適切であるかはさておき,指示対象が契約の箱の蓋であることは間違いない。七十人訳では契約の箱の蓋を指すヘブル語 trpk の訳語として用いられている。

*34:昨今は決して希有な解釈ではない。例えば Arland J. Hultgren, Paul’s Letter to the Romans: A Commentary , Grand Rapids/Cambridge: Eerdmans, 2011, pp. 150, 153, 157が,寓喩的に解釈している訳ではない。

*35:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第三巻八章,192-200 頁で,契約の箱の蓋「贖いの座」と結び付けた解釈が説き明かされている。

*36:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第三巻 8 章,194-196 頁。

*37:訳者小高毅は,オリゲネス著『ローマの信徒への手紙注解』の解説で 234-245 年と特定する(9 頁)が,正確な執筆年代は不確かである。246 年前後が妥当な執筆年代である,と思われる 。Thomas P. Scheck, Origen: Commentary on the Epistle to the Romans, Books 1-5, pp. 8-9。

*38:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』ルフィヌスの序文,23 頁。

*39:ただしヨハネ福音書の注解書の場合には,執筆期間が長期に渡った。少なくとも執筆し始めたのはオリゲネスの著作活動の一番初めの時期に属したが,カイザリヤでもヨハネ福音書の注 解執筆は続けられた。しかもヨハネ福音書を最初から最後まで網羅する意図は,執筆当初からなかったかもしれない。

*40:これをラテン語でレンマ,複数形はレンマタと称する。

*41:ヒエロニムスが訳した有名なウルガタ訳よりも前に(紀元 2 世紀から 3 世紀にかけて)訳され たラテン語訳聖書のこと。

*42:ローマ書本文の終わり方については写本間に相違があり,議論があるが、詳細は、Harry Gamble, The Textual History of the Letter to the Romans: A Study in Textual and Literary Criticism (Studies and Documents 42; Grand Rapids: Eerdmans, 1977) を参照のこと。

*43:例 え ば、Peter Gorday says,“In the first place Origen did not, so far as one cantell, show any sign of an historical perspective on the life of the primitive church. Specifically this means that in his exegesis of Paul he did not try to set the Apostle within a context of debate, particularly of inter-churchly debate, arising from the problems of the apostolic age.”(Principles of Patristic Exegesis: Romans 9-11 in Origen, John Chrysostom, and Augustine, p. 48) 参照。

*44:C.P. Bammel, Review of Translatio Religionis. Die Paulusdeutung des Origenes by Theresia Heither, Journal of Theological Studies 44 (1993), pp. 348-52; Scheck, Origen, Books 1-5, p. 24 など。

*45:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部序章,31 頁。

*46:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第二巻 14 章,141-142 頁(3:1-4 に関する注解部分)。

*47:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第三巻 9 章,201 頁(3:27-28 に 関する注解部分)。

*48:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第二部第十巻 8 章,664 頁(15:8-12 に 関する注解部分)。他にもオリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第二部第八 巻 1 章,507 頁(10:1-3 に関する注解部分),第二部第八巻 10 章,550 頁(11:13-15 に関する 注解部分),第二部第十巻 11 章,669 頁(15:15-16 に関する注解部分),第一部第三巻 2 章, 164 頁(3:9-18 に関する注解部分)。

*49:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第三巻 1 章,154-55 頁(3:5-8 に関する注解部分)など。

*50:Reasoner, Romans in Full Circle, p. xxv; Hultgren, Paul’s Letter to the Romans, pp. 5-20 など参照。

*51:例えば,Ronald E. Heine, Origen: Scholarship in the Service of the Church, pp. 89-96 参照。

*52:Thiselton, Hermeneutics, pp. 106-107 参照。

*53:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部序章,27 頁。

*54:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第一巻 3 章,38-39 頁(1:1 に関する注解)。

*55:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第四巻 12 章,280 頁(5:10-11 に関する注解)。

*56:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第二巻 10 章,111 頁(2:15b-16 に関する注解)。

*57:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第二部第八巻 11 章,555-56 頁(11:16-24 に関する注解)。

*58:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第二部第八巻 8 章,541 頁(11:7-10 に 関する注解から)

*59:新改訳,口語訳で「分派」,新共同訳で「仲間争い」と訳出されるギリシア語の単語 αἵρεσις は, 異端の語源となった語で,オリゲネスはその意味に理解したようである。

*60:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第六巻 1 章,361 頁(6:12-14 に 関する注解から)。

*61:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第六巻 4 章,373 頁(6:19 に関 する注解から)。

*62:死後3世紀も経ってから,異端判決が下った一因である。

*63:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第二巻 4 章,88 頁(2:5-6 に関 する注解から)。

*64:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第二巻 13 章,133-134 頁(2:26-27 に関する注解から)

*65:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第二部第八巻 2 章,516 頁(10:4-11 に 関する注解から)。

*66:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第三巻 2 章,170 頁(3:9-18 に 関する注解から)。

*67:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第三巻 7 章,190 頁(3:21-24 に 関する注解から)。

*68:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第三巻 9 章,202 頁(3:27-28 に 関する注解から)。

*69:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第二巻 4 章,88 頁(2:5-6 に関 する注解から)。

*70:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第三巻 9 章,202-203 頁(3:27-28 に関する注解から)。

*71:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第三巻 9 章,203 頁(3:27-28 に 関する注解から)。

*72:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第三巻 10 章,206-207 頁(3:29-30 に関する注解から)。

*73:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第四巻 1 章,221 頁(4:1-8 に関 する注解から)。

*74:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第四巻 1 章,222 頁(4:1-8 に関 する注解から)。

*75:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第三巻 9 章,202 頁(3:27-28 に 関する注解から)

*76:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第五巻 9 章,344 頁(6:5-7 に関 する注解から)。

*77:オリゲネス著,小高毅訳『ローマの信徒への手紙注解』第一部第三巻 9 章,202 頁(3:27-28 に 関する注解から)

*78:〔ブログ管理人注〕「アウグスティヌスとオリゲネスの間には義認という神学用語の用い方に相違があったことが認められる」という点に関して、参考になる考察記事を以下に挙げます。