巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

伝統・言い伝え(παράδοσις, tradition)について(『ティーセルトンのキリスト教神学事典』他)

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「教えられた言い伝え("traditions")を守りなさい」(2テサ2:15b)ーー教会の言い伝え・伝統とは何か?

 

目次

 

Traditionについて(『ティーセルトンのキリスト教神学事典』)

 

Anthony C. Thiselton, The Thiselton Companion to Christian Theology, 2015 ("Tradition" の項全訳)

 

「伝統/言い伝え」( παράδοσις, "tradition")は、福音、教理、倫理、教会の秩序や慣習を含めた、キリスト教草創期以来継承されたきた全てのものを含意し得ます。

 

教会教父たちにおいてそれは特徴的に、公に使徒たちから受け継がれたものを意味しています。この語は時として、聖書に代わる別の資料を意味するべく用いられることもありましたが、今日では両陣営共に、そういった用法は、初代教会の用いていた語用ではないということを認めています。つまり、当時それは、ーー時として教会史のある特定の時期に見られるようなーー二つの資料を対立させたり、対照させたり、、といった語用はされていなかったということです。

 

Paradosisという語は、新約聖書に13回登場してきます。その内の9回は、ハラカ(ラビ的口伝律法、慣習法)に言及しています。それから3回はキリスト教伝承について言及しています。例えば、主の晩餐についてパウロが受け(parelabon)、伝えた(paredoka)伝統(1コリ11:23)、それから復活についてです(1コリ15:3)。

 

その他の新約聖書箇所は、paradosisという語を明確に用いることはせずその思想に言及しています(ルカ1:2;ローマ6:17;2ペテロ1:21;ユダ3)。この点に関する現代の4つの標準的取扱いとして挙げられるのは、

 

1)R.P.C. Hanson, Tradition in the Early Church (London: SCM, 1962)

2)C.H. Dodd, The Apostolic Preaching and Its Developments (London, 1936)

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また、カトリック側からの見解としては

3)J.P. Mackey, The Modern Theology of Tradition (New York: Herder, 1962)

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4)Y. Congar, Tradition and Traditions (Fr.Paris, 1960) が挙げられます。

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オスカー・クルマンは、キリスト教伝統と、ユダヤ教のハラカの間に類比関係があると捉えています*1。彼はまた、伝承を開始し取り次いだ使徒たちの役割を強調しています。

 

初期教父の時代までには、エイレナイオス、テルトゥリアヌス、ヒッポリュトス、オリゲネスの著述の中で、使徒伝承(apostolic tradition)もしくは「信仰の規定 "rule of faith," κανων της αληθειας, regula fidei」についての概念がはっきりしてきていました。

 

エイレナイオスは、自著『異端論駁』の中の1.2, 3.4.1,それから4.53.1で、少なくとも3回に渡り、信仰の規定についての説明をしています。その内容としては、創造主としての一神への信仰について、イエス・キリスト及びイエスが私たちのために人となり、十字架上で苦しまれたことに対する信仰、4.53.1では、真理の知識を与えてくださる神の御霊への信仰が挙げられます。3.4.1では、被造物が御子を「通しても」生起するということが述べられています。グノーシス主義の「秘密の」伝統とは対照的に、エイレナイオスにとり、こういった伝承は公のものであり、理性的議論にも開かれているものとして言及されています。

 

テルトゥリアヌスも、少なくとも3回に渡り、類似の伝統、もしくは「信仰の規定」について述べています(『プラクセアス反論』;『異端への処方箋』13.1-6;『処女のベールについて』1.3)。この三冊の内、最初の二つの「信仰規定」は、三位一体の教理に関するものです。ヒッポリュトスは『ノエトゥス論駁』17,18の中で、使徒たちの伝統のことにも触れています。

 

3世紀、「伝統/伝承」("tradition," paradosis)は、以下の3つの事柄を意味していたと、ハンソンは記しています。それは、①使徒たちの教え、②諸教会の継承により受け継がれてきた教え、そして③慣習により伝えられた教会的実践事項です(94)。

 

1970年代以降、新約時代の口伝伝承(oral tradition)の信頼性が、G・N・スタントンの「新約聖書の説教におけるイエス」によって最初に強調されました。そしてこの著は、口伝伝承の流動性・可変性を主張していたブルトマンとは対照をなすものでした。

 

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それからより最近のものとしては、リチャード・ボウカム(Richard Bauckham)が、『イエスとその目撃者たち――目撃者証言としての福音書(Jesus and the Eyewitnesses)』(Grand Rapids:Eerdmans, 2006)および「愛されし弟子の証言(Testimony of the Beloved Disciple)」(2007) の中で、初期口伝伝承の妥当性をかなり強固に打ち建てました。*2

 

 

彼はまた、B・ゲルハードソン(B. Gerhardsson)の「記憶と写本(Memory and Manuscript)」(Uppsala: Almqvist & Wiksell, 1961)の取り扱っている口伝伝承および、口伝(orality)に関するW・H・ケルバー(W.H.Kelber)の作品にも注意を向けています。

 

Traditionについて(『ベイカー福音主義神学事典』)

 

Walter A. Elwell, ed., Evangelical Dictionary of Theology, Second Edition, 1984("Tradition" の項を全訳)

 

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(執筆担当者:ジョン・ヴァン・エンゲン、ノートルダム大、中世史)

 

伝統/伝承とは

 

伝統/伝承(tradition)とは、規範的宗教諸真理が、一つの世代から次の世代へと受け継がれていくプロセス全体を指します。こういった伝承は、その形態が口伝であれ、成文であれ、また、その内容が閉じられた(完了した)正典に包含されているのであれ、生きた有機的組織体に包含されているのであれ、あらゆる宗教的共同体の中に見い出されます。

 

福音主義プロテスタントでさえも、ーー今もまだ彼らはそれを見落とす傾向にあるかもしれませんがーー口伝伝承というのが、書かれた聖書および聖書に対する彼ら自身の理解に先行し且つそれを形成してきたのであり、従って、彼ら自身の共同体生活も、意識的、無意識的のうちに、ある特定の伝承によって形作られてきたということを認める必要があるでしょう。

 

本稿では聖書の中における伝統(言い伝え)の意味を取り扱い、その後、その伝統が、それぞれ初期キリスト教徒、正教徒、ローマ・カトリック教徒、そして各種プロテスタント共同体の中でどのように理解され、働いてきたのかについて考察していきたいと思います。

 

大半の学者たちは、人物、場所、出来事、儀式に関わる旧約の数多くの伝承記録が、ご自身の選民に対する神の取扱いの完全なストーリーにとり極めて重要であると捉えています。そういった伝承の伝授行為は、特別に命じられている場合もあり、ほんの稀にしか言及されていない場合もありますが(申6:20-25;26:5-9;ヨシュア24:2-13)、聖句自体は完全にそれを前提しています。

 

そういった伝統/伝承がいかにして伝わり、成文化された本文がいつ出現し、いかにして最終的に正典が形成されるに至ったのかについては、ある部分、今も推測の事項でありますが、保守的なクリスチャンやユダヤ人は今日も、世代を超え、神の御言葉が忠実にご自身の民に伝達されてきているとみています。

 

聖書の正典形成

 

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クムランの洞窟

 

クムラン文書により、異なるヘブル語文献の伝承の存在が証明されました。尚、発見されたものの中には、ギリシャ語七十人訳(LXX)に使われていたものに、より近いものも含まれています。

 

ユダヤ教正典は比較的遅くまで(紀元90年)終結していなかったため、結果として、二つの異なるバージョンが生み出されることになりました。一つは、パレスティナ地方で生まれ、もう一つはディアスポラのユダヤ人の間で生まれました。こうして最終的に、前者のバージョンはプロテスタントに受容され、後者は(第二正典もしくは外典と共に)カトリックに受容されることになりました。

 

標準的ヘブライ語聖書は、バビロンにいたユダヤ人たちが、10世紀初頭に、マソラ(מסורה)として知られている本文に、母音、アクセント記号、句読点を書き加えたものから来ています。尚、マソラとは、文字通りには「伝統の伝達」のことを示す語です。

 

少なくともBC3世紀までには、ユダヤ人ラビがミシュナーと呼ばれる聖書本文の「伝統的」解釈を作成しており、律法学者やパリサイ人たちがミシュナーの保持者および教師になりました。そしてミシュナーは4世紀、6世紀にタルムードとして法典化され、これは現代に至るまで伝統的(そしてそれ故に拘束力のある)ユダヤ教旧約解釈となっています。

 

新約聖書の中での tradition の取扱い

 

一方、新約聖書では、paradosis(伝承、言い伝え)という語は、主としてキリストによっては否定的な意味合いで、そして使徒たちによっては肯定的な意味合いでそれぞれ用いられています。キリストは、人間の言い伝えを拒絶していますが(マタイ15:3;マルコ7:9、13)ーーそしてそれは間違いなくミシュナーの一部であったでしょうーー、主はそういった言い伝えが神の掟の歪曲であり、場合によっては神の掟に矛盾するものであるとさえ言っています。

 

他方、使徒たちはどうかと言いますと、時にラビ的スタイルで、彼らが主から受けた福音の伝統(言い伝え)を伝達し、詳説しています。しばしば定型句の中で(ローマ1:1-4;6:7;ピリピ2:5-11;1テサ4:14-17;1テモテ3:16)、パウロはこういった言い伝えのことを繰り返しており、自分の群れがそれを受け、保持していくよう指示しています(1コリ11:2;コロ2:6-8;2テサ2:15)。

 

時にこういった伝統・言い伝えは、福音の神髄として表現されており(特に1コリ15:1-9)、また別の箇所では、主の晩餐等の儀式に関わる事項(11:23)や、離婚等の倫理的事項(7:10)に関わるものとして言及されています。幾人かの批評家たちは、こういった言い伝えが後に「ゆだねられた良いもの」(τὴν καλὴν παραθήκην, “good deposit”, 2テモテ1:14.参照:1テモテ1:10;6:20;2テモテ1:12:テトス1:9)と呼ばれるようになったのではないかと考えています。

 

オスカー・クルマンやF・F・ブルースが論じているように、使徒たちの証言の力は、彼らが伝達するよう召されたのが人によるものではなく神より来るものであったことに起因しています(ガラ1:1)。

 

しかし、どのようにして使徒の証言が記述され、霊感されたテキストの正典が形成されるに至ったのかについての問いは、非常に込み入っており、論争の的になっています。

 

様式史研究者たちがテキストを幾つかの相反ないしは信憑性なき資料に分解しようとする傾向を持っているのに対し、編集批評家たち(redaction critics)は、時にテキストを、1世紀以前そして元々の出来事よりも、(彼らが「原始カトリシズム」と呼んでいるところの)1世紀後半の教会を反映しているものであるかのように描く傾向を持っています。

 

しかしより保守的な学者たちは、近年、そこに比較的短い推移しかなかったこと、そして真正なる伝承を保持することに対する新約聖書の懸念(ルカ1:1-4)を浮き彫りにすることにより、かなりの進歩を見せています。

 

しかしこれは、イエスに関する諸伝統ーー特にイエスの言録ーーが早々にキリスト教共同体の中で異なるものとなり、トマスの福音書のようなテキスト(確かにこれは実質的にグノーシス主義のものですが)が幾つかの真正なる言録の残響を含んではいないだろうということを否定するものではありません。

 

初代教会と伝統

 

2世紀においても、旧約聖書が初期キリスト教徒の唯一の権威あるテキストであり続けました。しかし、諸教会のニーズおよびさまざまな異端の攻撃により、2世紀後半までには比較的早いペースで正典が形成され、4世紀半ばまでにそれは固定化しました。

 

ここで不可欠とされた判断基準は、それらの著述が真正なる使徒伝承を含有しているか否かということでした。新約正典が固定化する以前においてでさえ、初期教父たちは、個々の文書や、キリストの言録(現存していない、パピアスによるそれらの釈義書)に訴えています。

 

しかし彼らはまた、元々の使徒伝統が、他の方法によっても保持されている事をみていました。しばし彼らは正統的「信仰の規定 "rule of faith"」に訴えていましたが、これは、おそらく洗礼に関する初期信条や、後に本格的に信条文書をして出された文献に関わる福音の要約の一種です。尚、この信仰規定は元々、聖書に相反したり、聖書外のなにかに固定されてはいませんでした。

 

彼らはまた「使徒継承(“apostolic succession”)」にも訴えていました。使徒継承というのは、彼らの使徒的創始者たちの直系*に位置している監督たちの牧会する諸教会でなされていた(グノーシス主義の秘密の知恵から区別したところの)公的教えです。(*特にペテロやパウロによって「創立された」とされるローマの司教座。)

 

そして彼らは、1世紀から4世紀の間に、作者不明の一連の手引書であるディダケーを編みました*3。ディダケーには、特に儀式および倫理的事項に関する使徒たちの教えが含まれているとされています。こういった手引書は、聖書と対照するために作成されたのではなく、むしろ生ける教会がその証言を進めていくことができるよう補助する手段としての役割を果たしていました。

 

新約正典が固定化し、聖書全巻が完全な形となった後、4-5世紀の教父たちは、伝統と聖書との間に、より明確な区別をつけましたが、アンチテーゼ的・対照的に区別したわけではありませんでした。

 

伝統というのは、聖書の中に包含されている元々の信仰の種(deposit)に関する教会の豊かなる、そして解釈的省察であると受け止められていました。そしてここには卓越した形で、旧約のキリスト論的解釈が付随していました。

 

しかしそこにはまた、より初期の「教父たち」による著述も含まれており、それらは御霊の導きの下に書かれたものであり、まことの信仰ーー御霊の守りの下に公会議に集まった監督たちの下した諸決定、そして信仰の実践の中心となっていたさまざまな典礼ーーを強化するべく用いられるものであると捉えられていました。

 

幾人かの教父たち(特にバジレイオス)は、ある種の事柄は聖書の中に明確に(もしくはほとんど何も)規定されておらず、そういった事柄を別枠で、使徒伝承に帰していました。例)東の方角に向かって祈ること、幼児に洗礼を授けること、洗礼式の時三回浸水すること、特定の日に断食すること等。

 

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カイサリアのバシレイオスΒασίλειος Καισαρείας, 330年頃-379年)は、ギリシャ教父、4世紀のもっとも重要なキリスト教神学者の一人。

 

どれを真正なる使徒伝承とみなすかについて、教父たち(西方のアウグスティヌスやレリンズのヴィンセント等)は、「それが果たして教会全体を通し認定され、実践されているものであるか否か」を判断基準として要求しました。しかし何を権威ある使徒伝承とするかをめぐり、結局、東方と西方は互いに道を分かつことになっていきました。

 

東方正教会

 

正教会が正統とする、第七回までの全地公会議のイコン(19世紀に描かれたもの、出典

 

東方正教会は、伝統を、聖書を基にした教会の証言の全体と規定するようになりましたが、その中でも主として全地公会議Οικουμενικές Σύνοδοι, first seven ecumenical councils)、教父たちの著述、および典礼的礼拝について言及しています。

 

原則として、聖書、そしてその証言者としての生ける教会が根幹に置かれています。ですが実際面では、伝統の重みが優勢となっており、教会は、4世紀から7世紀の間に形成されたものへの固定化傾向の中で沈滞しがちでした。聖書を除くと、先述の全地公会議が、伝統を規定する上での至高の権威となっています。*4

 

カトリック教会

 

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教皇教令を承認するローマ教皇グレゴリオ9世(16世紀ラファエル画、出典

 

中世時代を通し、西方教会の見解はあまり変化しませんでしたが、書かれた聖書を根本的なものだとより強調するようになったことや、使徒伝承のための規範的スポークスマンとして(公会議ではなく)ローマ教皇に対する強調がさらに高まっていった等の変化はありました。

 

しかし14世紀になり、ある種の教理(キリストの絶対的貧しさや、聖母マリアの無原罪懐胎説など)は到底御言葉からは立証できないということが認識され始め、それに神学者たちの資料に関する洗練化なども加わり、彼らの内の何人かは、伝統を、使徒継承ーー特に無謬の教皇を通した継承ーーにより受け継がれてきた、別個の、不文律の資料として捉えるようになりました。

 

すべての伝統に対するプロテスタントの拒絶により、トリエント公会議において、カトリック教会の公的立場に変化が生じることになりました。ーー福音の真理と宗規は、書かれた聖書「および」キリスト/使徒たちを通した御霊によって教会に与えられた不文律の伝統の中に含有されており、両者共に、「等しく」敬意を受けるに値するものだと規定されました。

 

トリエント公会議(Concilium Tridentinum;教皇パウルス3世によって1545年3月15日にトリエント(現在のイタリア領トレント)で召集され、1563年12月4日にピウス4世のもとで第25総会を最後に終了したカトリック教会の公会議。諸事情により、多くの会期が断続的に行われましたが、宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を明確にし、対抗改革といわれるカトリック教会の刷新と自己改革の原動力となりました。参照

 

第一会ヴァチカン公会議で、教会の教えの役職が、無謬の教皇を中心とすべきだと宣言されたことにより、上述の線上の思想が完結しました。16世紀以降、カトリックの間で、意見の相違が生じており、ここ150年余り、その事が多くの注目を引いています。

 

ドイツのヨハン・アダム・モーラー(Johann Adam Möhler,1796 –1838)や英国のニューマンに関連したロマン派は、明確に別個の資料というよりは、世紀を経るごとに次第に理解と充満性が増し加わっていくという「生ける伝統」について語ることを好みました。

 

ガイゼルマン(Joseph R. Geiselmann)は、トリエント公会議が、予備的な「部分的 “partly . . . partly”」形成を拒んだと述べつつ、聖書の「物質的十全性 “material sufficiency”」を主張しています。

 

物質的十全性というのは、それが全体もしくは未発達の状態における信仰の種全体を内包しているという事を意味しています。そしてさまざまな形でこれは現代のカトリック教徒の間で非常な影響を及ぼしています。

 

また(コンガー等)他の人々は、書かれた聖書および、教え、訓育、典礼を通し、教会に受け継がれてきた一つの使徒伝承のことを言及しています。第二回ヴァチカン公会議では、資料としての伝統に関するそれ以前の声明を拒絶したわけではありませんが、それでも前に比べずっと聖書に力点を置き、一致を形成するものとしての「聖書と伝統」を語り、それにより、忠実な者たちは神の真理に関する全き知識に導かれると述べています。

 

プロテスタント教会

 

プロテスタントはほとんど常に、原則としては伝統を拒んできましたが、実際面ではやはりどうしても、伝統が別の形態を伴い、再出してくるのを如何ともすることができず、甘受せざるを得ませんでした。

 

ルターは、教会的伝統を、「聖書の中でのみ見い出される真の福音の歪曲」として拒絶し、彼およびそれ以後のほとんど全てのプロテスタントは、教会的伝統を単なる人間的なものにすぎないとして、使徒の権威からラディカルに分断してきました。

 

カルヴァンは聖書解釈の問題に真っ向から取り組み、御霊が、信者たちを照明すべく御言葉と相互作用すると論じました。ーーもっとも、この点はカトリックも認めていました。ただし、教会の厳格な監督の下において、です。

 

全ての宗教改革者たちは、御言葉が教会を生み出すのであって、その逆ではない、そして御言葉は「明瞭 "perspicuous"」であるため、それを正しく解釈するに当たり使徒伝承は全く必要ではないと論じました。

 

聖公会やルーテル派は、「聖書に相反していない」多くの典礼や慣習を保持していますが(スウェーデンのルーテル派は『自分たちは使徒継承の中に静止している』とまで言っています。)、カルヴァン主義者や後の自由諸教会は、あらゆる教会的・礼拝的諸慣習の基礎を、聖書の教えの中に確立しようと試みました。

 

しかしながら実際面ではどうかというと、大半のプロテスタント諸教会もまた、「伝統」を形成しており、しかもそういった伝統の拘束力はカトリックに劣るとも勝らず、類似の諸権威を確立しています。ーー例えば、教会会議、各種信条、教派法案、教会諸規則、特定教会の神学者たち(特にその派の創始者たち)などがその権威筋に当たります。

 

「私たちは聖書のみに立っており、伝統的な諸権威は一切認めない」と主張しているそういった自由諸教会ーー特に北米の諸教会は、ある意味において、逆に最も自由のない教会だと言えます。なぜなら、彼らはいかなる伝統が彼らの聖書理解を形成してきたのかという意識すら持っていないからです。

 

しかしプロテスタントとカトリックの間にはやはり決定的な一つの違いがあります。プロテスタントたるもの全て、「こういった伝統は、必ず聖書の光に照らし合わせ吟味・検証されなければならず、それらが、ーー聖書の『上』もしくは聖書に『並行した』ーー独立せし使徒的権威を所有するようなことが断じてあってはならない」という見解に立っているからです。

 

またそれと同時に、近年、聖書の正典形成や教会史の辿ってきた道程に関する学術的研究の進展により、伝統という主題に関し、プロテスタントの信者の間でも、以前と比べ、より思慮深く、また正直な姿勢をとる人々が増えてきています。

 

神の御言葉は、隔絶されたテキストとして、真空空間で働くことはせず、また働くことはできません。それは、キリストの教会を構成する、集められた信者たちという文脈の中で御霊を通し活き活きとやって来ます。事実、説教というのが、伝統を永続させる主要なプロテスタントの形式(つまり、御言葉の権威ある解釈および適用)であります。

 

それゆえ、「いかにして説教という特定の伝統が形成されるに至ったのか?」そして「いかにして私たちのデボーショナルな実践、教会の政策、礼拝の諸形態といった伝統が形成されるに至ったのか?」等についていくらかの理解をしようと努めることーーこれはプロテスタント信者に最低限必要なことではないかと思います。

 

もちろんプロテスタントはそういった伝統に決して使徒的権威は授与しません。使徒的権威はただ唯一、書かれ霊感された使徒の証言の中に存在します。

 

しかしいかにして歴代の教会がそういった証言を伝達していったのかを調べることにより、私たちはそれらの証言に関する理解および持続化においておおいに豊かにされ充実していくことでしょう。

 

〔文献〕Berkhof, Christian Faith; F. F. Bruce, Tradition Old and New; Y. Congar, Tradition and Traditions; J. A. Fichtner, NCE 14:223–28; R. P. C. Hanson, Tradition in the Early Church; A. McGrath, Christian Theology: An Introduction; H. E. W. Turner, Pattern of Christian Truth.

 

(執筆者 John Van Engen)

*1:The Earliest Church [1956], The Earliest Christian Confessions [1949].『原始教会の信仰告白』(由木康訳)新教出版社、聖書学叢書1957

*2:関連資料:

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 目次

『ユダ書と初期キリスト教会におけるイエスの家族』伊藤明生

『預言の頂点――ヨハネ黙示録の研究』岡山英雄

「分かれ道――何が起き、なぜ起きたのか」山口希生

『イエスとその目撃者たち――目撃者証言としての福音書』浅野淳博

『イエスとイスラエルの神――「十字架につけられた神」と新約聖書における神としてのキリスト論』小林高徳

『他の被造物と共に生きる――緑の聖書解釈と神学』横田法路

『栄光の福音書――ヨハネ神学の中心主題』遠藤勝信

*3:

*4:〔訳者注〕

第1~第7全地公会議のまとめ

第1ニカイア公会議(325年) - アリウス派排斥およびニカイア信条(原ニケア信条)採択、復活祭(復活大祭)の日付を確定。

第1コンスタンティノポリス公会議(381年) - 至聖三者論の定義、ニケア信経(ニカイア・コンスタンティノポリス信条)採択。

エフェソス公会議(431年) - ニケア信経(ニカイア・コンスタンティノポリス信条)の正統性を確認。ネストリオス派の排斥と「神の母(theotokos)」論争の決着。

カルケドン公会議(451年) - エウテュケスらの唱えた単性論(449年エフェソス強盗会議において認められたもの)の排斥。この時、非カルケドン派が分離した。

第2コンスタンティノポリス公会議(553年) - 三章問題の討議、カルケドン公会議の決定の再確認。

第3コンスタンティノポリス公会議(680年~681年) - 単意論の排斥。ホノリウス問題を討議。

第2ニカイア公会議(787年) - イコン破壊論者の排斥。大斎の第一主日は「正教勝利の主日」とされ、この公会議でイコンの正統性が確認された事を記憶する。

「...ημείς τας σεπτάς εικόνας αποδεχόμεθα... τοις μη ασπαζομένοις τας αγίας και σεπτάς εικόνας, ανάθεμα. Τοις αποκαλούσι τας ιεράς εικόνας, είδωλα, ανάθεμα. われわれは尊きイコンを是認する、、聖なる尊いイコンに、尊崇の意を示さない者よ、呪われよ。聖なるイコンを偶像と呼ぶ者よ、呪われよ。」(Πρακτικά 7ης Οικουμενικής Συνόδου、787年第2ニカイア公会議での決定事項、私訳).