巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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アンソニー・C・ティーセルトン著『二つの地平』の書評(by ヴェルン・ポイスレス、ウェストミンスター神学校)

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地平

 

Vern S. Poythress, Review of Thiselton on the Two Horizons, Westminster Theological Journal 43/1 (fall 1980): 178-180.

 

著者名:Anthony C. Thiselton

書名:The Two Horizons. New Testament Hermeneutics and Philosophical Description with Special Reference to Heidegger, Bultmann, Gadamer, and Wittgenstein.

出版社:Grand Rapids: Eerdmans; Exeter: Paternoster.

出版年:1980. 

 

アンソニー・C・ティーセルトンは、福音主義の視点から、本書の中で、新約学に対する哲学的寄与を分析しています。

 

彼は、(初期・後期の)ハイデッガー、ブルトマン、ガダマー、新しい解釈学、(初期・後期の)ヴィトゲンシュタインの論述に対する克明な解説をしつつ、その目は常に「こういった哲学が新約学にどのような関わりあいを持っているのか?」という点に据えられています。

 

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それでは、彼が取り扱っている論述群の間に共通してみられる特徴とはどのようなものなのでしょうか?そうです、いずれの論述も、さまざまな方法で、解釈と理解において〈解釈者〉が為している寄与ーーこの部分に私たちの注意を向けさせているのです。

 

新約聖書のようなテキスト研究の中では特に、一つではなく、二つの歴史的そして文化的「地平」が存在し、それを考慮に入れなければならないという事実に私たちは気づくべきでしょう。

 

一方には新約聖書が書かれた歴史的文脈が存在し、もう一方には〈解釈者〉の立っている文脈が存在します。純粋なる客観主義により、解釈者が自分の現代文脈を取り除くことができるのかというと、それは不可能です。

 

逆に、人がテキストを読む方法において、まさしくその現代文脈およびその影響を認識することにより、その人は、本文に取り組む上で、より新鮮且つより正確、そしてより深い理解をしていくことができるようになるでしょう。

 

私の見解では、ティーセルトンは、そういった課題を良く読者に伝達していると思います。実際、この点における彼の業績は高く評価してもし切れないほどです。

 

まず第一に、本書は、その解説の明瞭さにおいて秀逸しています。哲学的解釈に関連するテーマは一般に難解で、取り扱うのが困難である場合が多いのですが、ティーセルトンの驚くべき表現の明快さ、分かりやすさにより、その理解が容易になっています。

 

ティーセルトンはまた、時折、新約研究の具体例から、解釈学的諸原則を説明しています。彼がもっと多く具体例を挙げてくれていたらと思いますが、本書に収録されている具体例だけからでも、解釈学者や牧師たちは、哲学的解釈の妥当性に関する考察に大いに益を得ることだろうと思います。

 

また本書の強みは、明快さだけにあるのではなく、文学に対する感慨深い精通・造詣の深さ、分析における洞察力、そして批評の鋭さにも顕れています。その傑出した一例を、私たちは、ブルトマン解釈に対するティーセルトンの分析に見ることができます(8章ー10章)。

 

また彼は、ブルトマンが、複雑な仕方で、先行する数多くの思想家たちーー新カント主義、リベラル主義、19世紀のルター主義、弁証法神学(バルト)、ハイデッガーを含むーーに依拠していることを、説得力を持って私たちに示しています。

 

事実、ブルトマンの神学、及び、非神話化のプログラムにおける歪曲の大部分は、ハイデッガーに由来しているのではなく(そう考えている人が多いのですが、、、)実際には、事実と価値に関する新カント主義の二元論に起因しているのです。

 

さて、私見ですが、コーネリウス・ヴァン・ティルの著述と、ティーセルトンによって描出されている発展を統合させる著作が私たちに今後必要になってくるのではないかと思います。

 

「なぜヴァン・ティル?」といぶかしく思われた方がいらっしゃるかもしれません。私がここでヴァン・ティルを持ちだした理由は、諸前提に関する彼の思想が、実際には、ハイデッガーの「先行理解(“pre-understanding”)」、ヴィトゲンシュタインの「生活形式(“form of life”)」「文法的な言明(“grammatical utterances”)」と密接に関係しているからです。

 

そしてヴァン・ティルは、先行理解におけるただ一つの領域にフォーカスを置いていました。それは、宗教的コミットメントの領域です。

 

それとは対照的に、ハイデッガー、ガダマー、ヴィトゲンシュタインは、諸前提、基本的コミットメント、前提された真実性(assumed verities)、関心の優先事項、態度、人生基調といったあらゆるスペクトルに関心を持っていました。

 

ヴァン・ティルもその他の論者たちも共に、いかに基本的コミットメントというのがーー多くの場合、無意識的にーー解釈に広範囲な影響を与えているのかということを指摘しています。ですから、ある意味において、ヴァン・ティルは、問題の中の、ある特別な事例に限ってこれを説明しているのかもしれません。

 

表面的には、ヴァン・ティルは、解釈の地平のただ一つの側面にしか目を留めていないように見えます。しかしこの一側面はまた、「どうしても必要な(“one thing needful”)」一つのことでもあります。

 

ティーセルトンが取り扱っている、「解釈的スペクトルにおいて決定的に欠落している要素」というのは、安定し、超越的、人格的かつ接近可能な権威の源泉です。これなしには、ハイデッガー、ガダマー、ヴィトゲンシュタイン、その他多くの論者たちは、純粋なる相対主義まであと一歩のところにいます。

 

人は常に、解釈学的循環全体に関する自分自身の分析が、自分の歴史的・文化的地平に根差したものであると指摘することができます。そしてもちろん、彼らはそれを自覚しています。

 

しかし、彼らはいかにして(何かについての)彼らのあり方が正しいということを認識できているのでしょうか?彼らは、自分自身の地平線内での自律的省察により、真理を見い出すことができるという可能性を前提(恣意的に?)しなければなりません。

 

そしてその際、彼らはいかにして、自分たちの主張していることが評価的・価値的(evaluative)ではなく、記述的(descriptive)であるということを認識できているのでしょうか?

 

彼らが評価的・価値的ではなく、記述的なものとして打ち出しているものには、ーー(例えばですが)実証主義、プラトン主義、アニミズム、イスラム教運命論、クリスチャン・サイエンス、幽体離脱体験、フィリップ・ディックやホルヘ・ボルヘスの作品でいう「安定した世界と自我の消失」等ーー、潜在的に否定的な評価が含まれています。

 

その際、彼らは、そういった「生活形式」を排除し、もしくはそれらを周縁化する文化的地平を前提しています。それでは彼らはどのような土台の上に立って、そのような評価を出しているのでしょうか。そして何の権威によってそうしているのでしょうか?

 

彼ら自身の「生活形式」の中には、純粋なる超越的指示対象が存在しておらず、それゆえに、そういった問いに対する回答も存在しないのです。

 

哲学的解釈学によって提起された諸問題に対する関心および評価の、唯一にして、究極的妥当性を持つ基盤は、イエス・キリストに対する宗教的コミットメントです。

 

そして私たち信仰者は、キリストおよび主の御言葉に忠実であるがゆえに尚一層のこと、御言葉を理解するに当たり、ーー(個的・集団的)自分たちの罪によって引き起こされるーー歪曲や諸限界を克服するよう、最善を尽くし働いていかねばなりません。

 

福音主義クリスチャンはティーセルトンの著作を読むべきです。そこには学ぶべき多くのことが詰まっています。

 

ー終わりー

 

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関連論文の案内:

ティーセルトンの教え子であり、カナダのマクマスター神学大で教鞭をとるStanley E. Porterの(感謝と批判両方を含んだ)批評的書評 on Thiselton on Hermeneutics: Collected Works with New Essays.(PDF