巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

クリスチャンであることの標(しるし)(by フランシス・A・シェーファー)

目次

 

 

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Francis A. Schaeffer, The Mark of the Christian,1970, now in public domain, the original article here.(全訳)

 

 

 

何世紀にもわたり、人は自分がクリスチャンであることを示すべく、多種多様なシンボルを用いてきた。えりの折り返しの所に印をつけたり、十字架のチェーンを首にさげたり、、中には、そのために特定の髪型をする人たちまでいた。

 

もちろん、そうするよう主に示されたのなら、上に挙げたことに何ら問題はない。しかしそれら全てに遥かに勝る標(しるし)があるのだーー、そう、特別な状況や特定の時にのみ便宜的に用いられるものではない「ある標」が。そしてこの標は、イエスが再臨されるまで、教会のあらゆる時代にわたって永続する普遍的標なのである。

 

この標とはなにか?

 

地上での宣教が終わりに近づく頃、イエスは十字架上でのご自身の死、開かれた墓、そして昇天を見据えられた。去るべき時がいよいよ近づいたことを知っておられたイエスは、今後何が起こるのか弟子たちに前もって予告しようとされた。

 

そしてここにおいて、主はクリスチャンの持つ顕著な標が何であるかをはっきり示された。

 

「子たちよ、わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』。わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」ヨハネ13:33-35

 

ここの聖句においてイエスは、ご自身がクリスチャンに与えた標――特定の時代や地域といったものに限定されず、主の再臨の時に至るまであらゆる時期、あらゆる場所で適用されうる標――について明かされたのである。

 

留意してほしいのは、ここでイエスが仰せられているのは事実の描写ではなく、掟であるということだ。しかもこの掟には次の条件がついている。

 

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」

 

「もし、、ならば(if)」という語が含まれている。もし、あなたがこの掟に従うならば、あなたはキリストのお与えになったバッジをつけることができるのである。しかしこれは掟であるため、破られる可能性もまたある。

 

要点はこうである。つまり、この標を表すことなくしても人はクリスチャンであることが可能である。しかし、もし周りのノンクリスチャンに自分のことをクリスチャンだと知ってもらいたいなら、 私たちはこの標を表さなければならない。

  

人と兄弟

 

ここでの掟は私たちの同胞クリスチャン、つまり兄弟たちを愛しなさいというものである。しかしもちろん、バランスはとられなければならず、もう片方のイエスの教えを忘れるようなことがあってはならない。

 

私たちは同胞である人間、つまりすべての人を自分の隣人として愛さなければならないのである。すべての人は私たちの隣人であり、私たちは自分を愛するように彼らを愛さなければならない。

 

私たちがこうするのは、創造の土台に基づくがゆえであり、たといその人がまだ贖われてはいないとしても、私たちは依然として彼を愛さなければならない。なぜなら、彼らもまた神のかたちに似せて造られたゆえに、価値を持つ存在であるからだ。

 

それゆえ、たとい高い犠牲を払うことになったとしても、それでも彼らを愛さなければならない。そしてこれがもちろん、イエスの話された良きサマリア人の話の要点である。つまり、人間というのは彼が人間であるゆえに、どんな犠牲を払ってでも愛が注がれなければならない対象なのである。

 

だから、イエスが私たちにキリストにある同胞兄弟を愛しなさいと特別にお命じになったその掟は、他の掟を無効にはしない。両者は互いに相反していない。

 

「自分を愛するようにすべての人を愛すること」と、「同胞クリスチャンを特別な仕方で愛すること」の二者択一を迫られているわけではないのだ。この二つの掟はむしろ互いを補強し合うものである。

 

ーーーーーーー

しばし起こることであるが、真の聖書信仰クリスチャンが、二種類の人類ーーつまり未だ神に反抗している状態にある「失われた人」とキリストを通して神に立ち返った「救われた人」ーーの違いを強調しすぎる余り、周囲に排他的な印象を与えてしまっている。これは醜い。

 

クリスチャンは、未信者の同胞を排除することによって信者の兄弟たちを愛するのではない。そうではないのだ。私たちは常日頃、良きサマリア人の例を意識して心に留めておく必要がある。

 

微妙なバランス

  

第一の戒めは、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、私たちの神である主を愛することである。そして第二の戒めは隣人を愛せよという普遍的掟である。

 

留意したいのは、第二の戒めはただ単にクリスチャンを愛することに限っていないという点だ。この戒めはそれよりもずっと広範囲に渡るものである。私たちは自分自身のように隣人を愛さなければならない。

 

(ヨハネの福音書が書かれた後に執筆された)1ヨハネ3:11の箇所でヨハネは次のように言っている。

 

「わたしたちは互いに愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。」

 

キリストの死後、何年も経って後、ヨハネはこの手紙を書きながら、ヨハネ13章に記されているキリストのあの掟に私たちを呼び戻している。

 

そしてヨハネは教会に向かい、「これを忘れてはいけない、、これを忘れてはいけない。この掟はキリストがまだ地上におられた時にご自身によって私たちに与えられたもの。そしてこれこそあなたがたの標となるものです。」と語りかけているのである。

 

真のクリスチャンのために

  

ヨハネ13章の掟を再度読んでみると、ある重要なことに私たちは気づく。まず第一に、これはすべての真のクリスチャン、すべての新生したクリスチャンに対し「特別な愛を持ちなさい」という掟であるということだ。

 

聖書的な観点からいえば、クリスチャンを名乗る人皆が、真のクリスチャンである訳ではないのである。そしてこれは特にわれわれの世代において然りである。

 

「クリスチャン」という語は実際、ほとんど何も意味しなくなっている。たしかに神の言葉を他において、これほどまでに価値を貶められた言葉はないだろう。意味論の中核をなす思想においては、シンボルとしての言葉は、その中に内容が注入されない限り、なんら意味を持たないとされているのだ。

 

しかしながら、ここでイエスは真のクリスチャン全てを愛すよう言っておられる。そしてこの掟には二つの重要な要素が含まれているのだ。つまり、

 

1)私たちは真のクリスチャンと、その他のあらゆる見せかけクリスチャンとを識別する必要がある。

2)そして尚且つ、真のクリスチャンである誰かをにせものだと誤解し、私たちの考慮の対象外にするようなことがあってはならない。

 

というこの二点である。

 

換言すれば、単なるヒューマニストや、クリスチャンの名を借りているだけのリベラル神学者たち、ないしは教会員名簿には載っていてもただ形式上のものにすぎない人などは真のクリスチャンとはみなされないということである。

 

しかし私たちは反対の誤謬に陥ることにも警戒しなければならない。そう、ーー自分たちの派ないしグループに属している・いないに関わらずーー歴史的・聖書的信仰に立っている人々はもれなく真のクリスチャンとして含めなければならないのである。

 

しかしたといある人が真のクリスチャンではなかったとしても、依然として私たちには彼を隣人として愛する責務がある。

 

だから「この人は私の知る限り、真のクリスチャンの群れに属する人ではない。だからもうこれ以上彼のことを気にかける必要はない」という事はできないのだ。そんな事はあってはならない。彼のような人は第二の掟の対象に含まれているのである。

 

質の基準

 

上に挙げたヨハネ13章の聖句から気づかされる二番目の点は、私たちの基準とすべき愛の質についてである。

 

私たちはーーイエスが「わたしがあなたがたを愛したように」と言われたその如くーーすべてのクリスチャンを愛さなければならない。ではここで、私たちに対するイエスの愛の質および量を考えてみよう。

 

言うまでもなく、主は無限なる方であり、一方、私たちは有限の存在である。主は神で、私たちは人間である。主は無限なる方であるゆえ、私たちの愛は決して主の如くにはなりえないし、無限の愛ともなりえない。

 

キリスト教会は、死にゆく文化の中にあって愛を実践する教会である。それなら、こういう「死にゆく文化」は私たちのことをどのように見ているのだろう。イエスは仰せられる。

 

「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」

 

この世において、そして現在の死にゆく文化のただ中にあって、イエスはこの世に一つの権利を与えておられる。主はご自身の権威により、あなたや私が新生したクリスチャンであるかどうかを判断する権威をこの世に与えておられるのだ。

 

では、彼らは何を基準に判断するのか?そう、すべてのクリスチャンに対する私たちの「目に見える形での愛の有無」を基に、この世は私たちを判断するのである。

 

もしこの世の人が「あなたは他のクリスチャンたちを愛していないじゃありませんか。」と言ったなら、私たちは家に戻り、跪いて、はたしてそれが本当なのか、祈りの中で神に尋ねなければならない。そしてもしそれが本当なら、その時、世の人は正当にもその発言をしたということになるのだ。

 

愛における失敗

 

この点において私たちは非常に警戒しなければならない。私たちは真のクリスチャンかもしれない。本当に新生したクリスチャンかもしれない。にもかかわらず、他のクリスチャンに対する愛という点で禍敗しているのだ。実際、まったく現実的にみるなら、事態はそれよりもっと深刻なのである。

 

やがて次のような時が来るのかもしれない(涙をもってこれを言う。)クリスチャンとしてお互いのことを愛するという点で私たちが落伍者になる時がくるかもしれないと。

 

もちろん、堕落したこの世にあって、イエスが再臨されるまでは、完全というものは存在しない。完全なる愛というのもまた然りである。そしてもちろん、私たちが愛の実践においてしくじった時には、神の赦しを求めなければならない。

 

しかし、ここでイエスは、「あなたは全てのクリスチャンを愛すことができていない。その事はとりもなおさずあなたがクリスチャンでないことを証明するものである」と言ってはおられないのだ。

 

この事をそれぞれ各自、自省してみよう。他のクリスチャンに対する愛に私が生きていないとしても、それは自分がクリスチャンでない、ということの証拠にはならない。

 

しかしながらここでイエスが言っているのは、もし私が本来、他のクリスチャンたちに対して持つべき愛を持っていないのなら、この世の人たちが「この人はクリスチャンではない」と判断を下す権利がある、ということなのである。

 

とはいえ、未信者は、自分の目に映る「クリスチャン像」の陰に隠れ、「偽善者たちめ!」と叫びつつも、実のところ、この人自身、キリストのなす要求に単に向き合いたくないだけの罪びとであることがしばし見受けられる。ーーそれは確かにそうである。

 

しかしイエスがここで語っておられるのはそういう事ではない。ここでイエスが言っておられるのは、個々人としての、そして信仰者の群れとしての私たちの責務――つまり、私たちが、他の全ての真のクリスチャンを真実に愛するがゆえに、世の人々はもはや私たちに対し「彼らはクリスチャンではない」と言う正当な理由を持たなくなるーー、そういった意味における私たちの責務のことである。

 

最後の弁証

 

しかしそれ以上に深刻な問題があるのだ。イエスはヨハネ17章において大祭司としての祈りを捧げているが、その中の一節には次のような祈りが記されている。

 

「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。」ヨハネ17:21

 

ここでイエスは教会が一つとされるよう祈っておられ、この一致が特に真のクリスチャンの間に見い出されなければならないことを言っておられるのだ。そう、イエスは一般の人間同士のヒューマニスティックでロマンチックな一致のために祈っておられるのではないのだ。9節がそのことを明確にしている。

 

「わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜った者たちのためです。彼らはあなたのものなのです。」

 

イエスはここで非常に注意深く線引きをし、区別しておられる。ーーすなわち、主に信仰を持った者と、未だに主に背を向けている者との区分を。それゆえ、21節で主が一致のために祈っているその「彼らの一致」とは、真のクリスチャンの間の一致であることが分かるのである。

 

しかしここで留意すべき点がある。21節では「みんなの者が一つとなるため、、、」とあるが、興味深いことに、ここでの強調点もヨハネ13章とまったく同じところに置かれているのだ。

 

すなわち、一部の真のクリスチャンだけでなく、全てのクリスチャンーーある特定の派やグループだけが一つとなるようにではなく、新生した全てのクリスチャンが一つとなるよう、イエスは祈っておられるのである。

 

そしてここで私たちは深刻な点に直面するのである。21節で言っておられるイエスの言葉は、いつも私をたじろがせるのだ。そして、一キリスト者として、もし私たちが心にたじろぎを覚えないのなら、おそらく私たちは、この問題に対する繊細な感覚にも真摯さにも欠けているのかもしれない。

 

なぜなら、ここでイエスは私たちに最後の弁証をしておられるからだ。

 

それでは最後の弁証とは何だろうか。

 

「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。」

 

これが最後の弁証である。

 

ヨハネ13章における要点はこうであった。すなわち、もし個々のクリスチャンが他の真のクリスチャンたちに愛を示さないのなら、その時、この世は「あの人はクリスチャンではない」と判断を下す権利があるのだと。

 

しかし21節のこの箇所では、イエスはそれとは別の何かーー身を切るように鋭く、さらに深遠なことを言っておられるのだ。

 

そう、「真のクリスチャンたちの間の一致」というリアリティーをこの世が目の当たりにしない限り、この世は、御父が御子を遣わされたということも、イエスの言説の真実性も、キリスト教の真理も信じないだろうということを。

 

これは恐ろしい事である。この現実に直面して心にざわめきを覚えない人がいるだろうか?しかしまたここで注意してほしい。イエスはこれを基準に(相手がはたして本物のクリスチャンであるかどうか)クリスチャン同士、お互いに裁き合えとは言っておられない。

 

この点にはどうか十分留意してほしい。教会はある人がクリスチャンであるか否かを、彼の信じる教理、信仰の命題的内容、そして真実なる信仰告白を基準に判断する。

 

しかしこの世に対しては、私たちはそういう判断を期待できない。なぜなら、この世の人にとっては、キリスト教の教理などまったく重要なものでないからだ。そしてこの傾向は、20世紀後半以降、特に著しい。

 

というのも、この世は自らの認識論をベースにし、この世界に絶対的真理があるという可能性さえ、もはや信じなくなっているからである。そして、もはや真理という概念自体を信じなくなったこの世に囲まれ、私たちは生きているのである。

 

そうであるなら、ある人の信じている教理が正しいか否かなど、この世の誰が関心を持つだろう?私たちはそんな事をこの世の人々に期待することはできない。しかしイエスはこの世の注目を引くある一つの標をお与えになった。

 

それは何か?

 

真のクリスチャンたちがーー自分の属する特定の群れや派に限定することなくーー互いに愛し合うその愛、それこそが標(しるし)なのだとイエスは言っておられるのである。

 

正直な応答、目に見える形での愛

 

もちろん、私たちはクリスチャンとして、率直な問いに対する率直な答えを提示する必要を軽視してはならない。知的な弁証というのは確かに必要である。聖書がそれを命じており、キリストとパウロがそれを例証している。

 

シナゴーグで、市場で、家々で、あらゆる状況下において、イエスとパウロはキリスト教について論じていた。だからそれと同様、率直な問いに対し率直に答えていくというのはキリスト者の責務なのである。

 

しかし、キリストは仰せられるのだ。真のクリスチャンの間に互いへの愛がないなら、たとい私たちが正当な答えを提示できたとしても、この世は私たちに耳を傾けないだろうと。

 

だから、率直な答えを提示すべく生涯ひたすら学びだけに没頭するという態度には気を付けなければならない。長年、正統派福音主義教会はこの点に関してしくじってきたと思う。

 

周囲にいる人々の持つ問いに答えるべく学びに時間を割くのはかまわない。しかし、失われたこの世に対しどのように使信を発していけばいいのかということをできる限り学んだ後も、次のことは肝に銘じておく必要がある。

 

すなわち、イエスが最後の弁証として与えておられるのは、真のクリスチャンの(他の)真のクリスチャンに対する「目に見える形での愛」であるということを。

 

今回の中心テーマでこそないが、この世を前にした、真のクリスチャンの間の「目に見える形での愛および一致」は、人間を隔てているあらゆる境界線を乗り越えさせるものだろう。

 

新約聖書はこう言っている。「ユダヤ人もなくギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もない」と。もしこの世が私たちの愛を目の当たりにしないなら、彼らはキリストが御父から遣わされた方であるとは信じない。

 

世の人々は妥当な答えだけでは信じようとはしない。そしてこの両者は互いに相反するものとして捉えられるべきではないのだ。

 

繰り返し言うが、この世はその率直な問いに対する率直な答えを必要としている。しかしそれと同時に、すべての真のクリスチャンの間に愛による一致が不可欠である。

 

そしてこれが、「イエスが御父から遣わされた方であり、従ってキリスト教は真理である」ということを人が知るにあたり必要とされている事なのである。

 

「一致」に対する誤った考え

 

しかしこの「一致」が何を意味するのかについて、ここで明確にしておきたい。それではまず、それに関する誤った考えを取り除いていくことから始めよう。

 

第一に、イエスが語っておられる一致というのは、単なる組織的一致ではないという点だ。その古典的な例は、歴代のローマ・カトリック教会である。ローマ・カトリック教会はこれまで偉大な外面的一致を保ってきた。

 

おそらくこの世界に存在してきた団体のうち、これほどの外的・組織的一致を保ってきた団体はかつて存在しなかっただろう。しかしそれと同時に、この教会の中には、巨大にして憎悪に満ちた内部権力抗争ーーこれが今までずっと続いてきた。

 

今日においても、古典的ローマ・カトリシズムと、漸進的ローマ・カトリシズムの間には相当の違いがみられる。ローマ・カトリック教会は今もなお、組織的一致の中に立とうとしてはいるが、それは単なる組織的団結にすぎない。なぜなら、そこには二つの完全に異なる宗教、二つの異なる神概念、二つの異なる真理概念が存在するからである。

  

そしてまさしくそれと同じことが、プロテスタントのエキュメニカル運動についても言えるのだ。イエスの言葉を根拠に、組織的に人を連合させようという試みであるが、そこに真の一致はない。なぜなら、そこには二つの全く異なる宗教、

 

1)聖書的キリスト教、そして

2)「キリスト教」(しかし実のところ、これはキリスト教では全くない)

 が入り混じっているからだ。

 

それゆえ、組織的一致のために一生涯をそこに投資した挙句、でも実際には、イエスがヨハネ17章で語っておられる領域には全く至っていなかった、ということも大いにあり得るのだ。

 

キリストがここで語っておられる一致を「組織的なもの」と解釈できない理由はまだ他にもある。ここでイエスは、「みんなの者が一つとなるため」という聖句通り、すべてのクリスチャンが一つとならなければならないと言っておられるのである。

 

この世に散らばっている新生したクリスチャン全てを含んでいる組織的一致というのはもちろん存在し得ない。それは全く不可能な話である。

 

例えば、新生した真のクリスチャンの中には、どの組織にも属していない人々がいる。また迫害によって外界から遮断された所に置かれている真のクリスチャンたちを一つの組織がいかに網羅できるというのだろう。組織的一致というのが答えでないことは明らかである。

 

また、一致に関する誤った概念は他にもある。

 

この見解は福音主義クリスチャンがしばし自身の隠れ家としてきたものである。彼らは言う。「イエス様がここで言っておられるのは、もちろん、目に見えない教会の神秘的結合についてですよ」と。

 

そして彼らはそれで一件落着とばかりに、それ以上はもう何もーーもう一切何も考えようとしないのである。

  

神学的な用語にはもちろん、「可視的な教会」と、「不可視的な教会」という二語が存在する。そして後者の「不可視的な教会」というのが真の教会(Church)であり、ある意味、唯一大文字のCで綴る権利を有する教会である。

 

なぜなら、それは、キリストを救い主として信じ受け入れてきた全ての信仰者で構成され、最も重要なものであるからだ。これこそキリストの教会(Church)である。

 

クリスチャンになり、キリストを信じた瞬間、人はこの(目に見えない)教会の一員になる。そしてそこには他の全てのメンバーとその人を結ぶ神秘的一致というのが存在するのだ。それはその通りである。

 

しかしイエスがヨハネ13章および17章で言及しておられるのは、そういう意味における一致ではない。なぜなら、目に見えないこの一致は、私たちが何をしたところで、決して壊され得ないものだからである。

 

それゆえ、ここでのキリストの言葉を、不可視的な教会の神秘的一致に関連づけることは、キリストの言葉を意味のない空言にしてしまうことに他ならない。

 

三番目の点であるが、イエスはここでキリストにある私たちの位置的一致(positional unity)についても言及はしておられない。

 

もちろん、キリストにある位置的一致は存在するし、キリストを救い主として信じ受け入れた時点で私たちには、一つの主、一つのバプテスマ、一つの誕生(そして二度目の誕生)が与えられ、私たちはキリストの義を着るようになるのだ。

 

しかしそれはここでの要点ではない。福音主義クリスチャンが、目に見えない教会の概念やそれに関連するその他の「一致」の概念の中に逃げ込もうとする姿勢は望ましくないと思う。

 

ヨハネ13章と17章の中の聖句を、ただ単に、不可視的教会の存在とだけ結びつけて考えることは、イエスの言明をナンセンスなものとしてしまう。イエスが何か可視的なものについて語っておられたと理解しない限り、私たちは事実、イエスの言っておられることをなぶり物にしてしまう結果にさえなってしまうのだ。

 

これが主要点である。ーーつまり、この世は、はっきりと観察される形での何かを根拠に、イエスが御父によって遣わされた方であるか否かを判断するのである。

 

まことの一致

 

ヨハネ13章と17章において、イエスは、すべての真のクリスチャンの間での、真に目に見える形での一致、実践する一致、あらゆる境界線を超えた実際的な一致について語っておられる。

 

キリスト者には実に二重の責務が課せられているのだ。私たちは神の神聖さと神の愛、その両方を実践しなければならない。神が無限にして人格的な(infinite-personal)方として存在しておられることを世に示さねばならず、それと同時に、聖さと愛という神のご性質をも表していかなければならない。

 

愛なしの神聖さではない。それはただの冷厳にすぎない。

 

また神聖さなしの愛でもない。それはただの妥協にすぎない。

 

御言葉およびキリストの教えによれば、表される愛というのは、非常に強烈なものでなければならない。そしてそれは、時折、ただ口先だけで言うような種類のものではないのだ。

 

可視的な愛

 

それでは、この愛とは何を意味しているのだろうか。どのようにすれば、それは可視的なものになるのだろうか。

 

まず第一に、これは非常にシンプルなことを意味する。つまり、私が過ちを犯し、自分の同胞クリスチャンを愛すことができなかった時に、彼の所に言って、「ごめんなさい」と謝ることである。これがまずやるべき事である。

 

「こんなに単純なことが第一のもの?」と期待外れに思った方がいるかもしれない。しかしそれがたやすい事だと思ったのなら、あなたはまだそれを真剣に実践しようとしたことがないのかもしれない。

 

内輪のグループの中で、クリスチャンの集いの中で、あるいは家庭の中でさえ、お互いに対する愛に欠けていたことに気づかされる時、クリスチャンとして私たちは自動的に相手の所に行き、「ごめんなさい」と言うだろうか。

 

そう、もっとも身近なレベルであってさえも、それは決して容易な事ではないのだ。「ごめんなさい」そして「赦してください」と言う事。こんなことは当たり前過ぎるのだろうか。しかし実際はそうではない。夫と妻の間であれ、親子、クリスチャンの集まり、ないしはグループ内の関係であれ、それは回復されし交わりへの道なのである。

 

相手に十分な愛を示すことができなかった時、私たちは相手の所に行き、「ごめんなさい、、、本当にごめんなさい」と謝るよう神に呼ばれているのである。

 

私が誰かに対して過ちを犯し、しかもその彼を愛していなかった場合、そして彼に「ごめんなさい」と謝りに行くことを自分が拒む時、そんな時私は、「世の人が見ることのできるクリスチャンの一致」という意味について、考え始めることさえ未だしていないのかもしれない。

 

そんな自分がはたしてクリスチャンなのかとこの世がいぶかしがるのも不思議ではなく、世の人には実際、そのような疑問を抱く権利があるのである。

 

それだけでない。繰り返して言うが、もし私がこんな初歩的なことの実践をさえ拒むなら、その時、世の人は、「イエスは、はたして神から遣わされたのか」、「キリスト教はほんとうに真理なのか」と疑問を投げかけて当然なのである。

 

これまで多くの国で、真のクリスチャン同士の間にもちあがる相違点をめぐったいざこざを私は目の当たりにしてきた。

 

真のクリスチャンという個々人や群れを分裂させ、隔てているもの、ーー20年、30年、40年経ってもまだ癒えないわだかまりや苦々しさを残しているものーーこれは、教理や信条の相違がもともとの原因ではないのだ。

 

そう、例外なくきまって、その原因は、愛の欠如、そして、相違点をめぐる議論のさなかで相手側の真のクリスチャンから言われたひどい言葉にあるのだ。そして投げつけられたそういう言葉は、私たちの脳裏にこびりついて離れようとしない。

 

歳月が経ち、そういった相違点がやや緩和されたかにみえる時であっても、そこには、(公明正大な話し合いの場だと思っていたあの時に)私たちが相手に言い放った、辛辣でむごい言葉の数々が依然として残っているのである。

 

そしてこういった愛のない態度や言葉が、イエス・キリストの教会に悪臭を放たせ、この世はそういった「本物のクリスチャンである人々」の間に漂うその悪臭に気づくのだ。

 

真のクリスチャンとして、私たちはどうしても同意できないと感じる時があるだろう。しかしそんな時であっても、私たちは舌を制御し、もっと愛をもって語れたのではないだろうか。

 

そうしたならば、わだかまりや苦々しさは5年や10年のうちに消えてなくなっていたかもしれない。しかし私たちはそうする代わりに、相手の内に傷跡を残していくのである。ーー何世代にもわたって続く呪いを。

 

そしてこの呪いは教会内だけにとどまらず、この世における呪いともなっていくのである。

 

そんな私たちを見て、この世の人々は身をすくめ、そして立ち去ってしまう。この世は、死にゆく文化のただ中にある生ける教会の始まりさえ見ていないのだ。そしてこの世は、イエスの最後の弁証ーーキリストにある真の兄弟である、本物のクリスチャンの間に可視的にみられる一致ーーの始まりさえ見ていない。

 

真のクリスチャンの間に存在する相違点そのものではなく、むしろ、辛辣な舌、私たちの間の愛の欠如こそが、この世にひどいつまずきを与えているのだ。

 

そしてこれはイエス・キリストのまっすぐで直接的な掟からなんと隔たっていることだろう。私たちのことをじっと見ているこの世に分かる形で、はっきりと観察されうる一致を表していきなさいというイエスのあの掟から。

 

赦し

  

しかし目に見える形での愛というのは、「ごめんなさい」と謝ること以上のものである。そこには公の赦しというのもまたなければならないのだ。人に謝罪することはたやすいことではない。しかし人を許すことにはそれに輪をかけた難しさがある。

 

しかし「この世は神の民の間にこうした赦しの精神を見なければならない」と聖書ははっきり言っているのである。

 

主の祈りの中で、イエスは私たちに次のような祈りを教えておられる。

 

「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」

 

もちろん、この祈りは救いのためのものではない。また私たちはただキリストの成し遂げられた御業ゆえに新生したのであるから、この祈りは新生とも無関係である。

 

しかし、これはクリスチャンの持つ、神との実存的にして毎瞬間の経験的関係にたしかに関わるものである。

 

私たちは義とされるべく一度限りにして永続する(once-for-all)赦しが必要であると共に、キリストの御業を基とした罪のための赦しーー瞬間瞬間(moment-by-moment)の赦しをも必要としている。

 

それにより神との開かれた交わりを持つためである。主が教えてくださったこの祈りは、日々の生活の中で、私たちクリスチャンを非常に厳粛にせしめる。

 

なぜなら、私たちは他の人々を赦しつつ、ご自身との交わりの経験的リアリティーを自分たちに示してくださるよう、主に祈り求めているからである。

 

「主の祈りは今の時代に向けられたものではない」と言うクリスチャンも中にはいるが、私たちの大半は、それが自分たちにも向けられていることを信じている。

 

しかしそうでありながらも、私たちは、自分に対する神の赦しに比べ、自分にはいかに赦しの心が欠けているかということについてほとんど考えてみようとしない。

 

確かに多くのクリスチャンは毎週の礼拝時、形式的に主の祈りを唱えてはいる。しかし「なぜ自分には、神との交わりにおけるリアリティーが欠けているのか」という問いを、人への赦しに欠ける自分の姿と結びつけて考えてみる人はほとんどいないのである。

 

私たちは、本来持つべき赦しの心に生きていないという事実を絶えず認識する必要があると思う。しかし依然として祈りは、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」である。

 

また私たちは相手が自分の非を認め謝罪してくるのを待つまでもなく、それ以前にすでに赦しの心を持っていなければならない。「相手に反省の色がみられた後、あなたがたは赦しの精神をもって相手に歩み寄りなさい」とは、主の祈りは提示していない。

 

そうではなく、相手がまだ最初の一歩さえ踏み出すこをしていない時点で、赦しの精神を持つよう私たちは召されているのだ。

 

もちろん、今もって私たちは彼が悪いと言うかもしれない。しかし「彼に非がある」と言っているその最中にあってさえ、私たちは彼を赦し、赦しつづけなければならないのだ。

 

もちろん私たちは、この赦しの精神をクリスチャンに対してだけでなく、すべての人に持つべきである。しかし、もしそれがすべての人に向けられているものだとするなら、それがクリスチャンに向けられていることはやはり重要なことだと言わざるをえない。

 

そのような赦しの精神は、他者に対する愛ある態度として外に表れ出る。しかしたといそれが「姿勢」と呼ばれるようなものであったにしても、やはり依然として、真の赦しは目に見えるなにかである。

 

信じてほしい。赦しに関する限り、その人の顔をみるだけで、私たちは彼が現在どこにいるのかが分かるのだ。

 

そしてこの世は、はたして私たちが自分の派やグループを超えた愛を持っているのか、自分の主義・陣営を超えた愛を持っているのかを観察するよう求められているのである。

 

彼らは私たちの内に、謝罪し、赦す精神を見い出すことができているだろうか?

 

繰り返して言わせていただきたい。私たちの愛は今もこれからも完璧なものではない。しかしそれはこの世が観察することのできる実体を持ったものでなければならないのだ。そうでなければ、ヨハネ13章と17章で語られている聖句の構造に符合しない。

 

そしてもしこの世がそれを真のクリスチャンの間に見いだすことができないのなら、これらの聖句の示す二つの恐ろしい裁きを下す権利がこの世には与えられているのである。私たちはクリスチャンではなく、キリストも御父から遣われた方ではないと。

 

クリスチャンの間で意見の相違がある時

 

しかしながら、私たちがキリストにある他の兄弟たちとどうしても意見を異にしなければならない状態になった時、ーー教理において、また生き方の面において、神の神聖さを表さなければならない状況にさらされた時ーー、その時、私たちはどうすればいいのだろう。

 

生き方や生活に関する事柄において、パウロはコリント人への手紙第一と第二の中で、はっきりとバランスを示してくれている。同じことが教理の領域にも適用されるだろう。

 

まず、1コリント5:1-5の中で、パウロはコリント教会を叱責している。なぜ戒規することなく、不品行の罪を犯し続けている者を教会にとどめているのかと。

 

神の神聖さゆえ、そして教会をじっと見ているこの世に対しこの神聖さを示すという必要性ゆえ、そして啓示された神の掟を基としたそのような裁きは神の御目に正しいことであるゆえ、パウロはこの人に戒規を行使しなかった教会を叱責しているのだ。

 

そして彼らがこの人に対し戒規を施した後、パウロは再びⅡコリント2:6-8の中で彼らに手紙を書き、今度は、彼らがこの人に愛を示していないことで彼らを叱責している。

 

この二つの事は合わせて考えられなければならない。私はパウロが最初の手紙と二番目の書簡の中でこのように手紙を書いたことを感謝している。なぜなら、ここで私たちは時間の経過をみることができるからだ。

 

コリントの人々はパウロの助言を受け入れ、実際にそのクリスチャンを戒規し、そして今パウロは彼らに書き送っているのだ。「あなたがたは確かに彼を戒規している。しかし今彼に愛を示したらどうか」と。

 

また彼は手紙を続け、イエスの御言葉を引用しながら次のように言うこともできたかもしれない。

 

「あなたがたを取り巻くコリントの異教徒たちに、『イエスは御父から遣わされなかった』と言われて当然ではありませんか。というのも、あなたがたはきちんと戒規処置を施したあの人に対して愛を示していないからです」と。

 

ここで非常に重要な問いが持ち上がってくる。「私たちはいかにして、相手の誤りや過失に加担(share:共有、同意)することなく、尚且つ、キリストの命じておられる一致を示していくことができるだろうか。」

 

私はここで二、三の方法を提示したいと思う。それにより、自分たちが意を異にしなければならないラインを超えた所にあってさえも、引き続きこの一致を実践し、示していくことができればと願う。

 

遺憾の念

 

まず第一に、私たちは、真のクリスチャンたちとの間のそのような相違に対峙しなければならなくなった際、遺憾の念と涙なしにそれらを行なってはならないということである。

 

単純なことのように聞こえるかもしれない。しかし福音主義クリスチャンはしばしこの点で失敗している。

 

私たちはここぞとばかりに、そして多くの場合、非常に嬉々としつつ相手側の誤りや荒探しをするのだ。そして相手側をけなし粉砕することによって、自らを打ち建てようとする。そしてこのような姿勢からは決してクリスチャンの間の真の一致は見い出し得ない。

 

真のクリスチャン同士の間で、やむを得ぬ意見の対峙があった場合、この世の目に私たちは次のように映る必要がある。

 

つまり、私たちが互いに対峙しているのは、自分たちが血の臭い、円形闘技場の臭い、闘牛の臭いを愛好しているからではなく、ひとえに神のためにそうせざるを得なくなったからなのだと。

 

そしてどうしても声を挙げなければならなくなった際、そこに涙が伴うなら、その時そこに美しいなにかが見いだされるかもしれない。

 

二番目に、真のクリスチャン同士の間の問題の深刻さに比例し、私たちは意識してこの世に可視的な愛を示していくことが大切である。

 

クリスチャン間に存在する相違点すべてが同質という訳ではない。いたってマイナーな違いもあれば、きわめて深刻な相違というのも存在する。間違いや誤謬が深刻であればあるほど、神の神聖さをはっきりと示し、何が間違っているのかを公に指摘することがますます肝要になってくる。

 

それと同時に、そういった相違点が深刻化していけばいくほど、私たちはますます、相手側の真のクリスチャンたちに対し愛を示していくことができるよう聖霊に寄り頼んでいく必要がある。

 

もしこれがささいな違いであれば、愛を示していくことはさほど深慮するに及ばない。しかし相違点が非常に深刻なものとなるなら、それに比例し、神の神聖さゆえに、ますます大胆に声を挙げていくことが重要になってくる。

 

そしてその時点においても、私たちは依然として互いに愛し合っているということを世に示していくことがより一層肝要になってくるのである。

 

それゆえ、次のことを考えてみよう。キリストにあるあの兄弟と私との間に横たわる相違点は本当に深刻きわまりないものだろうか。もしそうなら、なおさらのこと、私は主の前に跪き、「私や私の属する群れを通し、主よ、あなたが働いてください」と御霊に、そしてキリストに祈り求めることが重要だ。

 

そうすることにより、私(私たち)は、キリストにあるあの兄弟もしくは、他のグループに属する真のクリスチャンたちとの間に生じたこういう大きな相違のただ中にあっても、依然として彼らに愛を示していくことができるのである。

 

犠牲の伴う愛

 

三番目に、私たちはこういったディレンマの最中にあって、たといそれが犠牲を伴うものだとしても、実際的な愛を示していかねばならない。

 

愛という言葉が単なるスローガンであってはならない。つまり、たとえどんな代価を払うことになろうとも、この愛を示すべく、為されるべきことは万事を尽くし為されなければならないということである。

 

口先で「愛しています」と言っておきながら、その後、相手を攻撃するような真似は断じてしてはならない。そして聖書はこういったことを許してはいない。1コリント6:1-7には次のように書いてある。

 

「1 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。 

2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。

3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。

4 それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。

5 わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。

6 しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。

7 そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。」

  

これは何を意味しているのか。教会は悪をそのまま見過ごしにしてはいけない。しかし、クリスチャンは他の真のクリスチャンを訴訟するよりはむしろ、真のクリスチャン同士が持つべき一致を示すべく、実際的、そして金銭的な損失をも甘受すべきであるということなのだ。

 

なぜなら、相手のクリスチャンを訴え出ることはとりもなおさず、私たちをじっと見つめている世の前で、こういった目に見える一致をぶち壊すものだからである。

 

これは犠牲を伴う愛である。しかしこの世に顕され見ることのできる愛というのは、実践を伴うそのような愛をおいて他にはないのである。

 

パウロはここで目に見えるなにか、実にリアルな形でのなにかについて語っている。つまり、一キリスト者は、自分の兄弟との間の不可避的意見の食い違いがある最中にあっても愛を示す必要があり、その愛が彼をして損失をも自ら進んで甘受せしめるのだと。

 

またその損失とは金銭的なものだけにとどまらず、あらゆる種類の損失を含むのだ。(しかし残念なことに、大半のクリスチャンは事がいざ金銭がらみになると、とたんに愛も一致も何もかも忘れ去ってしまうようにみえる。)

 

さて、自分たちの兄弟の誤りや過失に加担(share:共有、同意)することなく愛を示す四番目の方法であるが、それは、相手を打ち負かそうという動機ではなく、なんとか問題を解決したいという願いを以てアプローチすることである。

 

負けたい、敗北したいと思う人は誰もいない。実際、神学者ほど、何が何でも勝利を得たいと熱望している人々はいないだろう。神学の歴史は、勝利をめぐってのこうした小競り合い史であると言っても過言ではない。

 

しかし私たちが肝に命じておかなければならないのは、こういった相違点をめぐっての私たちの働きはあくまで「解決」を求めての取り組みであるということだ。そう、神に栄光を帰し聖書に忠実な解決、そして尚且つ、神の「神聖さ」と「愛」、その両方を示していくという解決である。

 

意見の相違について自分の兄弟と話し合う時、あるいはグループの一員として他のグループと話し合う時、その時、私たちの態度はどんなであろう。

 

もしそこに愛を求める願いがあるなら、私たちは相違点について議論する際にも、単に自分たちの正当性を明かしたいという思いだけでなく、解決を求める願いをもそこに見いだすことだろう。

 

違いの「違い」

 

自分の兄弟の誤りや過失に加担(share:共有、同意)することなく愛を示す五番目の方法、それは、私たちが、

 

1)妥協してしまい、誤りを是とみなすようになる事が大いにあり得ると同時に、

2)キリストにある一致を示すことも往々にしてないがしろにされやすい。

 

という二点を認識し、たえず意識的にこのことを覚え、互いに注意し合い助け合うことである。そしてこれは真のクリスチャンの間に意見の相違が起こる前に、言及しておくべき内容である。

 

自分たちを見つめる世の前で、真のクリスチャンたちが、いかに実際的な形で神の神聖さに対する忠誠を示すと同時に、神の愛に対する忠誠を示していくことができるのか?

 

ありとあらゆる種類の会議が開かれるが、こういったテーマに取り組むクリスチャンの集まりがいったいどれほどあるだろう。

 

また、1)教理と生活における(可視的)教会の聖さを実践していく上での原則、2)すべての真のクリスチャンの間における目に見える形での愛および一致を実践していく上での原則、こういう一見して相反するようにみえる二つの原則を入念に提示しているような説教や書籍はどこにあるだろう。

 

私たちを見つめる世の前で、意見の相違にもかかわらずこういった目に見える愛が表されていく時、クリスチャンの取り扱う「相違」と、世の人々の取り扱う「相違」との違いが浮き彫りにされるのだ。

 

この世はおそらく、何のことでクリスチャンたちが互いに意見を違わせているのか理解しないだろう。しかし彼らはこの世の「食い違い・相違」とクリスチャンのそれとの間の違いをすぐに見抜くのだ。

 

そう、実際的なレベルにおいて、もしもそういった私たちの相違点が、目に見える率直な愛の中で取り扱われているのをこの世が目の当たりにするなら、である。

 

たしかにここに違いがある。なぜ「この世が注目するのは実にこの点なのだ」とイエスは言われたのだろうか?

 

教理的違いをこの世に理解してもらうことは望むべくもない。特に今日においてはなおさらそうである。というのも、現代のこの世においては、まことの真理や絶対的なものの存在自体が、概念としてでさえ、あり得ないものとして捉えられているからである。

 

また、「神の神聖さに基づき、私たちには、この世とは違う種類の『意見の相違』があるのです。なぜなら、私たちは神の絶対性を取り扱っているからです」と私たちが世に言ったところで、この世はそういった事を理解してはくれない。

 

しかし意見を異にしながらも尚、互いの間に存在する一致を私たちが示していくその時、彼らは、キリスト教の真実性および、「御父が御子を遣わした」というキリストの言葉について真剣に考え始めるだろう。

 

そしてその時こそ、つまり、私たちの間に意見の相違があるその時こそ、平穏な時以上に、ここでイエスの語っておられる事を世に示すことができるのだ。

 

とは言え、もちろん、あえて互いの違いを見つけ出そうとはすべきでないし、それに、努力して探さなくとも、相違点というのはもうすでに互いの間に十分すぎるほどある。しかしそういう意見の相違のただ中にあって、私たちはすばらしい機会を見出すことができるのである。

 

すべてが順調にいき、皆が皆、小さなサークルの中にきちんと納まっている時には、この世は別段私たちに関心を持っているわけではない。しかし、いざ私たちの間にまことの相違が生じ、その中で私たちが妥協のない原則を示しつつも同時に、目に見える形で愛を示していくなら、その時、この世は私たちの間に「なにか」を見るのである。

 

そして「この人たちは本物のクリスチャンであり、本当にイエスは御父から遣わされた方なのかもしれない」と、彼らはその「なにか」を通し、そのように判断していくだろう。

 

実践を伴う愛

 

そういった目に見える愛を示す美しい二つの実例をここで紹介したいと思う。一つ目の事例は、第二次大戦直後に、ドイツにあるブラザレンの群れの中で起こった。

 

教会を統制するべく、ヒットラーはドイツ内にあったあらゆる宗教団体を合併させる法令を出した。そしてこの問題をめぐり、ブラザレン教会の中で分裂が起こったのだ。

 

教会の半分はヒットラーの法令を受諾し、残りの半分はそれを拒んだ。こうしてヒットラーの命に屈した側の教会員たちはもちろん、その後ずっと楽な行程を歩むことができた。

 

しかし、リベラル諸団体と組織的に合併する中で、次第に、彼ら独自の教理的鋭利さや霊的生活は衰え、弱体化していった。その一方、合併をこばんだ人々は霊的な強さを保ち続けたが、結果として、非常に多くの人がドイツの強制収容所で命を落とすことになったのだ。

 

こうして両者の間に深刻な感情的軋轢が生じた。やがて戦争が終わり、彼らは再び顔を合わせることになった。彼らは同じ教理を信じ、一世代以上に渡り、共に働いてきたのだ。

 

さあ、これからどうなるのだろう。

 

ある人は自分の父親が強制収容所で死んだことを今でも生々しく覚えており、その一方で、今目の前にいる人々は(ヒットラーの指示通りに合併の道を選んだゆえ)その間、安楽に暮らしていたことを知っているのである。

 

その内に、兄弟たちはこのままの状態ではいけないと痛感するようになった。そこでついに二つのグループの長老たちは一か所に集まり、修養会を開くことにしたのである。

 

この話をしてくれた人に私は尋ねた。「それであなたがたは何をしたのですか?」

 

すると彼は答えた。「ええ、私たちは一堂に会し、それから数日の間、それぞれが自分自身の心を調べることにしたのです。」

 

すると実際、この期間に、それぞれの心の内に潜んでいたさまざまな感情が深く、深く取り扱われたのだ。

 

「私の父は強制収容所に送られ、母は無理やり引き離されました。」こういった事は感情の中にあるもののごく一部にすぎなかった。それらは実に、人間の諸感情の深い源泉にまで到達していったのである。

 

しかし彼らはここにおいて、キリストの掟を理解し、数日の間、各人がただひたすら自分の心と向き合い、自分自身の失敗や過ち、そしてキリストの掟について黙想したのである。

 

その後、再び彼らは一堂に会した。

 

私は彼に訊ねた。「それでどうなりましたか?」

 

彼は言った。「私たちはその時点ですでに一つとされていたのです。」

 

これこそまさにイエスが語っておられることではないだろうか。そう、御父はたしかに御子を遣わされたのである!

 

分かれても一つ

 

諸事情により、もはや共に働くことのできなくなった二つの新生信者たちのグループが、お互いにひどい言葉をぶつけ合うことなく平和的に分離する、私は長年、そのことを望んできた。

 

また二つの群れが、組織的一致を続けていくことがもはや不可能となったことを悟った後もなお、互いの間に存在する愛をこの世に示し続けていく姿を私は待望してきた。ここで話している原則は普遍的かつ、どの時代・場所においても適用されうるものである。

 

それでは二番目の事例を話そう。――今回の例は、同じ原則の異なる実践ヴァージョンである。

 

最近、アメリカ中西部の大都市にある教会で、ある問題が生じた。「現代的な」人々がその教会には多く通っていたのだが、そこの牧師は次第に、教会内に存在する二つのグループを同時に牧会していくことに困難を覚え始めたのだ。

 

「他の牧会者ならできるかもしれないが、私個人には、――長髪の人々や彼らが連れてくる『個性的な』人々と同時に、教会近郊に住む人々に仕えていくことはできない」と彼は感じた。

 

その後も長い間、共に働くことができるよう試行錯誤をつづけた末についに、長老たちは集まり、教会を二つにする決断を下したのである。そして彼らは「私たちが分離するのは、教理が異なるからではなく、あくまで教会運営の実際性(a matter of practicability)を考慮した結果そうするのです」ということを明確にしたのだ。

 

旧来の群れの一人が新しい群れに行き、こうして彼らは秩序ある移行が完了するまで、その間ずっと共に働いたのであった。こうして彼らは二つの教会となったが、その後も意識して、互いに対する愛を実践しようとしているのである。

 

ここに私たちは、組織的な一致なくして、尚且つ真実なる愛と一致を見るのだ。そしてそれはこの世がはっきりと見て取れるものである。

 

そう、御父はたしかに御子を遣わされたのだ!

 

ただ一つのまことの標(しるし)

 

ここで再び、クリスチャンの標について実に明瞭に指し示している聖書箇所を読んでみよう。

 

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」ヨハネ13:34-35

 

「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。」ヨハネ17:21

 

それでは以上のことから何が結論づけられるのだろう。良きサマリヤ人が傷を負った男を愛した如く、クリスチャンとしての私たちも、すべての人を隣人として愛すよう召されているのである。

 

そして二番目に、私たちはこの世にはっきりと分かる形で、真のクリスチャンである兄弟たちを皆、愛さなければならない。これは自分たちの間に、事の大小にかかわらず、相違点や食い違いがある時においても、それでも相手を愛し続けていくことを意味する。

 

たといそれが私たちに何らかの犠牲を伴わせるものであったとしても、そして、そのために自分が非常な精神的葛藤の下におかれているその時でさえも尚、相手の兄弟たちを愛し続けていくことを意味する。そしてこの世が見ることのできる形で彼らを愛し続けていくのである。

 

要約しよう。私たちは神の神聖さと神の愛、この両方を実践し、示していかねばならないのだ。なぜなら、これなしには私たちは御霊を悲しませてしまうからである。

 

愛、そしてそれを立証する一致は、この世の前で付着するよう、キリストがクリスチャンにお与えになった標(しるし)である。

 

そしてただこの標によってのみ、この世は、「クリスチャン」という人たちが本当にクリスチャンであり、イエスが御父から遣わされた方であることを知るのである。

 

ー完ー