巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

恒久的キリスト教の礼拝形態を探し求めてーー詩篇歌の歴史(by ミッシェル・ラフェブレ)

詩篇63篇1-2節(歌はココ

1 神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

2 私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。

 

目次

 

Michael Lefebvre, Singing the Songs of Jesus: Revisiting the Psalms, 2012より一部翻訳抜粋

*ミッシェル・ラフェブレ師は、米国インディアナ州 にある Christ Church Reformed Presbyterian of Brownsburg の牧師です。

 

旧約および新約聖書の中の詩篇

 

第一神殿時代、詩篇を歌うことは、聖書の公的朗読を伴うものでした。申命記31:11によると、モーセは礼拝における律法の書の宣言のために著述をし、第一歴代誌15-16章では、ダビデが、礼拝の中で歌うための詩篇を書いていたことがわかります。*1

 

第二歴代誌では、神殿での礼拝について次のような記述がされています。「全集団は伏し拝み、歌うたいは歌い、、、つかさたちが、ダビデおよび先見者アサフのことばをもって主をほめたたえるようレビ人に命じると、、」(2歴29:28-30)

 

バビロン捕囚後、第二神殿が建てられました。公の聖書朗読と説教が再び導入され(ネヘミヤ8章参)、会衆賛美としての詩篇歌の慣習が回復されました。「そして、彼らは主を讃美し、感謝しながら、互いに、『主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。』と歌い合った。」(エズラ3:11、彼らはここで詩篇136篇を歌っています。)

 

こうして詩篇を歌うという礼拝行為は、ーーギリシャ人とローマ人がパレスティナ地方を征服したーー動乱の中間期時代にも途切れることなく続いていきました。例えば、マカベア戦争(BC167-160)の記録をみますと、戦いに勝利した後、民が一丸となって神を賛美している箇所を見い出します。

 

「全軍は帰還の途上、賛歌をうたい天を賛美した。『ほむべきかな。その憐れみはとこしえに変わることはない。』」(2マカベヤ4:24、詩篇136篇を歌っています。)

 

詩篇は、新旧約の中間期、そして新約期に至るまでずっと歌われました。

 

イエスが来られた時、イエスは旧約聖書から説教され(例:ルカ24:44)、また、御父に向かい詩篇を歌いました。例えば、マルコ14:26で、イエスは、過越しの詩篇を歌うよう弟子たちを導きました(詩篇113-118)。*2また、十字架の上で、イエスは嘆きの詩篇の一つを用い、悲嘆の叫びを天に上げました。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46、ここで主は詩篇22:1を引用しておられます。)ヘブル人への手紙の記者もまた、イエスが詩篇を歌っていたことを述べています(ヘブル2:11-12;10:5)。

 

キリストの昇天後も、新約聖書の教会は引き続き、詩篇を歌い続けました。使徒4章における賛美については前章で述べました。それと同様、パウロは新約教会に、「心から神に向かって歌いなさい」と指示していますが、その中には「詩篇を歌うこと」も含まれていました。(コロ3:16、エペ5:26;それから1コリ14:26、ヤコブ5:13も参照のこと。)

 

旧約聖書期、中間期、新約聖書期全体を通し、こうして詩篇歌は歌われ続けました。新旧約時代を通し、詩篇は朗読され、説教されていましたが(使2:14-36;ヘブル1章)、それと同時に、詩篇は教会の『歌集』(song book)であり続けました。

 

ボンフェッファーは「いつ頃から詩篇は、〔教会の中で〕歌われなくなり、主として読むものへとシフトしていったのか?」という旨の問いを発していますが、以上のことから分かるのが、聖書時代には、まだその変遷は起こっていなかったということです。

 

初代教会の中の詩篇

 

新約聖書の使徒たちによる詩篇歌歌唱の模範は、その後、何世紀にも渡るキリスト教会の土台を築きました。讃美歌研究者のミラー・パトリックは、次のように説明しています。

 

「詩篇歌は、キリスト教の初めより、自然な形で、教会の讃美集になっていました。初期キリスト教文書を読みますと、個人礼拝および公的礼拝の中における詩篇歌の使用に関する一貫した証言がなされています。その間、新しいキリスト教讃美も生じましたが、それでもキリスト教会の中における詩篇歌の主要位置は不動でした。」*3*4

 

ヨハネス・クリソストムスは、初代教会のおける代表的後期教父の一人であり、彼は4世紀、コンスタンティノープルで牧会をしていました。クリソストムスは、当時、詩篇歌がどれだけ信徒たちの間で愛されていたかについて次のように書いています。

 

「私たちが教会で徹夜祭の祈り(vigil)をする時、ダビデの詩篇がまず初めと終わりに来、中ほどでも再びダビデの詩篇が来ます。早朝、祈り会をする時もやはり、ダビデの詩篇で始まり、ダビデの詩篇で終わり、中ほどでも詩篇を用います。おお、なんとすばらしい驚きでしょう!ほとんど文字の読み書きができず、識字の初歩の初歩もなかなかおぼつかない多くの信徒たちが、詩篇歌をすらすらと諳(そら)んじているのです。」*5

 

それと同時に、新しい讃美歌もまた生み出されていました。*6例えば、名もなき詩人が、ルカ2:14の御使いの歌をベースに、次のような初期讃美歌を作詞しています。以下は、ロシア正教会サイトの英語訳歌詞です。〔訳者注:日本語に重訳します。〕

 

「♪ いと高き所に、栄光が、神にあるように。

地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。

汝をほめたたえます。汝を祝します。

汝を礼拝します。汝に栄光を帰します。

偉大なる栄光ゆえ、汝に感謝を捧げます。

汝だけが聖なる方であり、汝だけが主であられます。

おおイエス・キリスト、御父である神の栄光をたたえます。アーメン。」*7

 

しかし新しい歌が現れてはきても、それらは詩篇を歌うという礼拝行為の置き換えとなることはありませんでした。それらの歌は、詩篇歌唱を補足するものだったのです。こうして初代教会期を通し、キリスト教礼拝の中で、詩篇歌は引き続き歌われ続けました。

 

中世キリスト教礼拝の中の詩篇

 

私たちプロテスタント教徒は一般に、中世時代に対し、おぼろげな見方しか持っていない場合が多いように思われます。しかしそれは残念なことだと言っていいでしょう。ローマ陥落から宗教改革期の間にも、神はご自身の民を通し、偉大なみわざを為してくださっていたのです。

 

その一方、この期間を通し、ある種の宗教的発達があり、後に、宗教改革者たちはそういった諸慣習を非聖書的なものとして斥けました。

 

教皇グレゴリオ(540-604)は、キリスト教礼拝の中に、いわゆる「グレゴリオ聖歌」といわれるものを導入しました。この詠唱式音楽スタイルは、聖堂での礼拝における超俗性(otherworldliness)を増し加え、礼拝の中における天的な感覚を強める目的で導入されました。

 

実際、時が経つうちに、教会讃美のこの「天的性質」をさらに確実なものとするべく、プロフェッショナルな聖歌隊が歌唱を独占するようになっていきました。たとい一連の事が善い意図でなされたとしても、それでもこれは、礼拝における悲劇的シフトだったと思います。

 

なぜなら、礼拝の中における「会衆賛美」の要素がごそっと取りはずされてしまったからです。しかしそんな中にあっても、詩篇歌は変わらず歌われ続けていました。

 

詩篇は教会讃美の主要な源であり続けました。東方正教会にも、ローマ・カトリック教会にも「聖務日課(Liturgia horarum)」というものがありますが、双方とも、聖歌隊が、毎週、詩篇歌を初めから終わりまで歌うようにと呼びかけています。*8

 

詩篇はまた、家庭の中でも歌われていました。この時期、平信徒は礼拝の中では歌っていませんでしたが、毎日の霊的日課の中では、詩篇を歌っていました。裕福なクリスチャンの中には、自宅で、デボ―ショナルな詩篇歌の使用ができるよう、詩篇歌集を購入する人々もいました。アルフレッド大王(849-899)は、毎日、詩篇歌を歌い、そのためにどこに行くにも詩篇歌を携帯していました。*9

 

この時期、会衆賛美自体は止んでしまいましたが、それでもクリスチャンたちは詩篇歌を歌い続けていました。

 

宗教改革の中の詩篇

 

会衆賛美の回復は、宗教改革における偉大なる特質の一つでした。マルティン・ルターはこう叫びました。「礼拝の本質とは、われわれの愛する主が、聖なる御言葉を通してわれわれと共に語ってくださり、それに応答する形で、われわれも祈りと讃美の歌を通し、主と共に語り合うことである。」*10

 

ルター自身、有能なミュージシャンでした。彼は人々に、聖書の詩篇歌を歌うよう教え、また、「民衆のためのドイツ語詩篇」と彼が呼ぶところの新聖歌を作詞作曲しました。彼の作った讃美歌の中で最も有名なものはやはり「♪ 神はわがやぐら(Ein' feste Burg ist unser Gott)」でしょう。これは今日に至るまで多くの信者たちに愛されています。

 


ジャン・カルヴァンなど他の宗教改革者たちもまた、会衆賛美に対する同じ情熱を共有していました。カルヴァンは、新聖歌を作っていくというルターの方針は共有していませんでしたが、彼は彼で、会衆賛美としての詩篇歌を推進し、ジュネーブにある諸教会のために詩篇のみことばを、旋律を持った節に翻訳する作業を進めていきました。こうして1562年、ジュネーブ詩篇歌の完成版が発行されたのです。

 

カルヴァンはまた、子どもたちのために、ジュネーブの諸学校の中に、「詩篇を歌うための講座」を開講しました。こうして信徒たちが礼拝に集まった際、(学校で詩篇の歌い方をすでに習っていた)子どもたちがまず詩篇歌を歌い始め、大人たちにそれを伝授することができたのです!

 

さらに、他の大陸でも、宗教改革の諸教会では、続々と旋律を持つ詩篇歌が生み出されようとしていました。トーマス・シュテーンホールドとトーマス・ホプキンズの編集した 『Whole Booke of Psalms』(1562年)は、英国における宗教改革の諸教会の歌集となり、『スコットランド詩篇歌』(1564年)は、スコットランド長老教会の歌集となりました。

 

ちょうどその頃、カルヴァンのジュネーブ教会を訪れたある訪問者が、会衆賛美としての詩篇歌が礼拝の中で歌われているのを目撃し、次のような事を記録しています。

 

「礼拝のために信徒たちが集まった。すると各自、自分のポケットの中から小さな本を取り出した。ーーそれは音符付きの詩篇歌集だった。会衆は、説教の前と後に、自分の母語で、心を込め、詩篇を歌っていた。〔礼拝後〕、皆が私の所に来て証言するのだった。詩篇を歌うことにより、自分たちはどんなにか慰めを受け、信仰が建て上げられていることかと。」*11

 

宗教改革当時も、詩篇というものが「神の民が主に向かって歌うよう備えられた歌集である」との認識が人々の間にありました。ジャン・カルヴァンも、聖書の中のこの一巻が、神に対する人間の言葉として用いられるよう企図されているという、詩篇のユニークな特徴に気づいており、次のように記しています。

 

「聖書の他の巻には、神がご自身のしもべたちを通し私共に宣布するよう仰せられた掟が収められています。しかしここ詩篇では、預言者たち自身、ーー神に語りかけ、自分たちの最も深奥にある心の思いや感情を吐露しつつーー、私たち一人一人が彼らに参与するよう、われわれを呼び、引き寄せています。」*12 

 

宗教改革のこの時点でも、まだシフトは起きていません。「いかにして詩篇が、讃美集ではなく書物としてのみ考えられるようになっていったのか?」という先ほどのボンフェッファーの問いに答えるためには、私たちは宗教改革後に一体何が起こったのかーーその部分を見ていかなければなりません。

 

ー終わりー

 

*1:ダビデの詩篇歌以前の、イスラエルの讃歌については、以下の論文をお読みください。M. LeFebvre, 'The Hymns of Christ: The Old Testament Formation of the New Testament Hymnal.'

*2:D. Kinder, Psalms 73-150, p.401; L. Allen, WBC: Psalms 101-150, 134: J. Jeremias, Eucharistic Words, 255-61. 〔訳者注〕関連記事

*3:M. Patrick, Story of the Church's Song, p.14.

*4:訳者注〕ただし、調べてみると、以下のような異見解も存在することが分かりました。参考までに引用させていただきます。「1990年代半ばまでは、古代イスラエルの詩篇歌唱が原始キリスト教の典礼および聖歌に強く影響を与えたと考えられていたが、今日では、最初期のキリスト教の聖歌には詩篇をテキストとするものがなく、また紀元70年のイスラエル包囲以後数世紀にわたってシナゴーグで詩篇が歌われていなかったことから、この見解は研究者の間では否定されている。」David Hiley, Western Plainchant,pp. 484-5.出典

*5:J.Neale and R. Littledale, Psalms, 1.1-2.

*6:一般の讃美歌創作もまた、初代教会の時代に行なわれていたということは、Exclusive Psalmody(詩篇のみ;略称EP)の立場に立っておられる読者の方々にとり、心乱されることではないかと察します。またEPの立場に反対している読者の方々は、この事実を、EP反証のための資料として引用したくなるかもしれません。しかし序文で述べましたように、本書の目的はEPか非EPかについての議論をすることにはありませんので、読者のみなさん全員に次のことだけ簡単に申し上げておきたいと思います。それは、キリスト教会の揺籃期にも、新しい讃美は書かれていました。ですが、その当時にあっても、やはりそれは論争の種となっていたのです。初代教会においても、今日と同様、「公同礼拝の時には詩篇歌だけが用いられるべきである」という立場が存在し、他方、「詩篇歌に加え、新しい讃美も用いることが可能である」と考える立場が両方存在していました。例えば、4世紀の教会公会議では、この問題を解決しようと次のような条項が出されました。「個人によって作詞された詩であっても、聖書外の本によって作詞された詩であっても、これらを教会の中で(公に)朗読してはならない。」(ラオディキア公会議、条項LIX)つまり、初代教会に、一般讃美歌が存在していたという事実だけでは、どちらの立場を「正」と立証することはできないということです。この事実はただ単に、この論争が長い歴史を持っているということを示しているに過ぎません。〔訳者注〕関連記事

*7:出典:ロシア正教会サイトhttp://en.liturgy.ru/nav/utrena/utren15.php

*8:訳者注〕カトリックの「聖務日課(Liturgia horarum)」の詳細についてはココ、正教会の「時課(ὧραι)」の詳細についてはココ、コプト教会の「アグペヤの祈りの日課」についてはココをそれぞれご参照ください。

*9:W.Holladay, Psalms through 3000 Years, p.177-8.

*10:M. Patrick, Story of the Church's Song, p.72.

*11:M. Patrick, Story of the Church's Song, p.92.

*12:Calvin, Psalms, xxxvii.