巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

今日の神学の状況(by ミラード・エリクソン)

目次(小見出しは管理人が任意に作成したものです。)

 

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Millard Erickson (1932-)

 

ミラード・J・エリクソン著(宇田進〔監修〕/安黒務〔訳〕)『キリスト教神学 第1巻』、第3章、p63-70

 

今日の神学の状況

 

神学は、人間による他のあらゆる探求と同様に、特定の文脈の中で行なわれる。神学者や神学を学ぶ人々はみな、時間を超越した真空状態の中ではなく、ある特定の時代を生きており、神学は、その状況のうちでなされなければならないのである。

 

また、どんな状況にも、神学的要素と非神学的(あるいは文化的)要素がある。論を進める前に、今日における神学の状況の特徴を概観しておこう。

 

神学の短命化

 

今日の神学の顕著な、そして固有とも言える特徴として最初に挙げられるのは、神学の短命化である。これは、漸進的に進展してきた傾向である。初期の時代には、一つの神学が形成されると、それが数十年、あるいは数世紀もの間存続していたのだが、現在では状況が変わってしまったようである。

 

アウグスティヌスによる、プラトン哲学と神学の綜合(『神の国』参照)は、さまざまな面で800年以上もの間、神学を支配していた。次いで、トマス・アクィナスがカトリック神学をアリストテレスの哲学と綜合し(『神学大全』参照)、それが宗教改革の時代に至るまで神学の基盤となった。期間はほぼ3世紀にわたる。

 

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トマス・アクィナス 

 

宗教改革者たちは、それまでのカトリックの綜合の立場から独立した神学を発展させた。カルヴァンの『キリスト教綱要』は、新しいキリスト教理解を最も徹底した形で表現した書物である。

 

その後、時に異端的な運動が起こったり、福音主義神学についての多少異なった特色をもった理解が、ジョン・ウェスレーの著作によって提示されたりしたが、カルヴァンに匹敵するような影響力をもった大神学者や著述は、250年以上もの間現れることがなかった。

 

そして、フリードリヒ・シュライエルマッハ―の著作によって誕生したのが、自由主義神学である。これは、理神論のように外部から正統主義を批判するものではなく、教会内部での一つの新しい動きであった。

 

シュライエルマッハ―の『宗教論ーー宗教を軽んずる教養人への講和』は、新しい神学が普及しつつあるということを示す最初の動きであった。*1

 

自由主義は19世紀から20世紀初頭まで、さまざまな形態をとりつつ、ヨーロッパ神学を席巻した。北アメリカでは多少遅れてから浸透した。カール・バルトにとって19世紀が終わったのが1914年8月だったとしたら、*2その新しい変化が神学界に明らかとなったのは1919年である。この年、『ローマ書』が出版されたのである。*3

 

これによって、自由主義神学が終焉を迎え、新しい神学が支配を始めることになった。これが後に新正統主義として知られるようになる神学である。しかし、新正統主義が優勢だった期間は、それ以前の諸神学と比べ、きわめて短かった。1941年、ルドルフ・ブルトマンの『新約聖書と神話論』によって、一つの運動(実際には「計画」である)が始まった。それが聖書の非神話化論である。*4

 

これも結局は短命であったが、新正統主義に取って代わるものとなった。1954年にエルンスト・ケーゼマンは、「史的イエスの新しい探求」を提唱する論文を発表し、ブルトマンの見解に疑問を呈した。*5

 

ただし、実際には新しい体系が導入されたわけではなかった。それは第一義的に、優勢であった諸体系の終わりを示唆するものだったのである。

 

現代の傾向について考えてみよう。初期の偉大な諸神学体系は、数百年続いた。しかし、どの体系についても、それが支配的だった期間は、その前の神学体系より、次第に短くなっている。神学の寿命はだんだんと短くなっているのである。

 

明らかなのは、知的世界の状況に合わせようとしすぎる神学は、すぐにすたれてしまうということである。このことが顕著に現れていたのが、「神の死の神学」である。注目を浴びたのは1960年代半ばであったが、その繁栄は長くは続かなかった。

 

その登場も早かったが、同じくらい速く衰退していき、姿を消してしまったのである。現代の科学用語で言えば、新しい神学の「半減期」はきわめて短いということになろう。

 

偉大な神学学派自体の消滅

 

今日のもう一つの現象は、偉大な神学学派自体の消滅である。これは教育機関のことではなく、さまざまな運動や、ある神学を信奉する人々の集まりのことである。

 

今日、神学や神学者が個人的なものになっている。この表現は完全に正しいわけではないが、それでも一般論としては、ほぼ正しいと言える。1950年代には、神学者を陣営や派に分類することは可能だった。

 

しかし、今日では事態は全く異なっている。スポーツにたとえるなら、以前はユニフォームを見れば、誰がどのチームの選手であるのかすぐに見分けがついたが、現在では一人一人の選手がそれぞれ別のユニフォームを着ているように見える。

 

政治にたとえると、政党がなくなって、党員がそれぞれ別々の政党を作っているような状態である。確かに、「希望の神学」や「プロセス神学」など、明確な神学がないわけではない。しかし、それらは、全般的な主題あるいはムードの上に築かれていた神学的体系に伝統的に見られていた、内的一貫性や完全な教理の体系に欠けている。たとえば、ジョン・カップが組織神学を記述するという考えを放棄していることに留意せよ。*6

 

以前には、事実上あらゆる項目について見解を述べる明快な神学が存在した。したがって、一つの体系を採用すれば、さまざまな問題についてそれぞれ一貫した解答を得ることができた。しかし、それは現在ではもはや期待できない。存在するのは神学の詳細な青写真ではなく、単なるスケッチなのである。

 

神学的巨匠の不在

 

以上二つの傾向に関連した事実として、神学的巨匠の不在を挙げることができるだろう。ほんの一世代前には存在したにもかかわらずである。20世紀前半は、広範囲にわたる綿密な神学体系を形成した、偉大な神学思想家を輩出した。

 

カール・バルト、エミール・ブルンナー、パウル・ティリッヒ、ルドルフ・ブルトマンがそれである。保守派陣営でも、オランダのG・C・ベルカウワーや、米国のエドワード・カーネル、カール・F・H・ヘンリーなどが指導者として認められていた。

 

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G・C・ベルカウワー(Gerrit Cornelis Berkouwer,1903-1996)

 

それらの神学者のほとんどは現行の神学からは姿を消してしまったが、彼らに匹敵するような神学界を支配する思想家は起こっていない。

 

注目に値する業績を残した人物として、ヴォルフハルト・パネンベルクとユルゲン・モルトマンの二人を挙げることはできるが、彼らにしても、さほどの信奉者を集めるには至らなかった。その結果、影響力のある神学者はかなりの数に上るが、一人一人が及ぼす影響の大きさは前述の巨匠たちには及ばない。

 

神学の研究は、特に「知識の爆発的増加」を特徴とするこの時代になされている。情報量が急速に増大しており、広範にわたる思想に精通することは、ますます難しくなっている。これは、特に科学技術の領域にあてはまるが、聖書と神学に関する知識もまた、以前と比べ、かなり広大なものになっている。

 

その結果、以前より専門化の度合いがはるかに大きくなってきている。たとえば、聖書研究においては、新約聖書学者が福音書やパウロの書簡を専門的に扱ったりする。教会史家は、宗教改革など、一つの時代を専門的に扱う傾向がある。結果として、より狭い領域における、より深い調査や出版が行われるようになった。

 

このことは、組織神学者にとって教理の全範囲を扱うことがますます困難となっていることを意味する。組織神学は、さらに複雑なものとなっているが、それは、聖書や、教会史全体における思想の発展に関するあらゆる知識を必要とするという事実による。

 

さらに、新しい情報に関して言えば、組織神学は、たとえばヘブル文献学の領域における最近の発見に制限されるものではない。「世俗」の領域、すなわち社会学や生物学などの多くの学問の進歩にもかかわらなければならないのである。それでも、神学の研究は、初歩的、概論的な段階を含む、あらゆる段階でなされる必要がある

 

なぜ近年、組織神学に携わりにくい知的雰囲気が広がりつつあるのか?

 

ここ数十年間、組織神学に関わりにくい知的雰囲気が広がりつつある。これは、知識に対する細分化した(全体論的ではない)アプローチの結果でもある。

 

習得すべき膨大な細目があることがわかり、資料の断片を集めて包括的な全体を作り上げることなどとてもできないという気分が生み出された。誰の目にも、組織神学の全領域を概観することなど不可能であると映ったのである。

 

組織神学を妨げたもう一つの要素は、歴史的出来事こそ啓示であるとする見解であった。この見解によれば、啓示はつねに、具体的な歴史的状況において与えられるものである。したがって、啓示の内容も局所的な視点に制限された。

 

メッセージは物事一般についての普遍的な言明ではなく、むしろ特定の事柄を取り扱うものとされた。時として、このように多様な個々の事項からは、いかなる調和ある全体も作り上げることはできないと考える傾向が生じた。

 

この傾向の根底には、実在は内的に首尾一貫していないという暗黙の前提があることに留意すべきである。そのような実在であれば、調和させたり組織化させたりすることによって、必然的に歪められてしまうことになる。

 

そのようにして、適切な研究は聖書神学であり、組織神学はなくてもよいものであると考えられるようになった。聖書神学は実質的に、組織神学に代わるものとなった。*7

 

これによって二つの結果が生じた。第一に、それは、神学的記述や研究の視野が狭められることを意味した。今や、パウロの人間論やマタイのキリスト論だけを集中して研究することが可能となったのである。これは、それらの主題に関して聖書全体が何を語っているかを調べるよりも、取り組みやすいものであった。

 

第二の結果は、神学は規範的なものではなく、むしろ記述的なものになったということである。「あなたは罪について何を信じているか」ではなく、「あなたは、パウロは罪について何を教えたと信じているか」ということが問われるのである。

 

続いて、罪について言及しているルカ、イザヤなどの聖書記者の見解が記述される。特に、それらの見解がたがいに相反すると考えられるところでは、聖書神学が信仰の規範となることは、ほとんど不可能であった。

 

その間、組織神学は後退し、もっぱらその本質についての内省的な議論がなされていた。組織神学は実際に正当なものなのか。どのようにして行われうるのか。相対的に言えば、神学の包括的で全面的な取り扱いに関しては、ほとんど何もなされていなかった。

 

神学の個々の主題に関する論文は書かれたが、神学の伝統的特徴である、体系の通観的な構築については書かれなかった。

 

しかし、今日、状況は変わりつつある。新しい組織神学の教科書、特に福音主義の視点から書かれたものが事実上急増しているのである。例として、以下のものがある。*8

 

聖書神学は今や、組織神学に取って代わるどころか、その実行可能性が再検討されている。また、ある研究は、実質的に、聖書神学の将来を見据え、聖書神学はもっと組織神学のようになる方向に向かうべきであると主張しているのである。*9

 

直接的な経験が現れることが、ますます強調されているにもかかわらず、神学研究に真摯に取り組みたいと願う一般信徒の数は増えている。カルトや他宗教には、信者を過度に管理したり、異常な行動をとるものもあるが、それらが成長している状況は、我々に、宗教においては内省的で批評的な要素が不可欠であることを強く思わせる。

 

部分的には「新しい解釈学」の興隆によって、聖書だけに基づいて何らかの神学を組み立てることは不可能であるという認識も強まっている。聖書をどのようなものと考えるべきか、聖書の解釈にはどのようなアプローチをとるべきかといった問題が扱われなければならない。*10

となれば、伝統的に組織神学が扱ってきた、より広い問題の領域にかかわらざるをえなくなるのである。

 

行動科学の影響の増大

 

現代の神学を取り巻く環境のもう一つの側面は、さまざまな行動科学の影響が増大しているということである。以前、哲学と自然科学は神学のパートナーであり、資料源としても用いられた。しかし、種々の解放の神学は、フェミニスト神学であれ、黒人神学であれ、第三世界神学であれ、行動科学、特に社会学の洞察によるところが大きい。

 

グローバリゼーションの傾向

 

グローバリゼーションの傾向も顕著に見られる。以前、神学的著述は、その大部分がヨーロッパ人や北アメリカ人によってなされてきた。彼らの洞察は普遍的なものと考えられた。

 

しかし、他民族や他集団との接触が増大し、また第三世界のキリスト教の勢力が増大するとともに、過去に書かれた神学の視点にはある種の限界があると見られるようになっている。他の、非西洋人が語ることに耳を傾け、その有益な洞察を我々の神学に組み入れることは大切である。

 

時代を超えたキリスト教の真理形態に立ち返ることの重要性

 

以上で、近年および現在の神学的環境を簡潔に概観したが、そこから教えられることの一つは、最近の文化的風潮と同調しすぎないよう注意すべきであるということである。神学における急激な変化は、文化一般における急激な変化の反映にすぎない。

 

そのような急激な変化の時代に、神学と神学が表現される世界との間にあまりにも密接な調和を試みることは賢明とは言えまい。以下の数章で、キリスト教のメッセージを今日化するという問題について議論するが、現代においては、時代を超えたキリスト教の真理形態に立ち返り、極端に今日化された言明との間に距離をおくことが賢明でろう。

 

これを機械にたとえてみよう。機械装置は、過度の消耗を引き起こすことになるので、あまり緩めすぎないほうがよい。しかし、あまりきつく締めすぎると、各部が通常の運動をするための「遊び」がなくなり、故障してしまいかねない。

 

本書は、教理の、時間を超えた本質と、今日の会衆に適合する教理の説き明かしとのバランスがとれた神学を見いだそうとするものである。前者に重きを置く分だけ、聖書に見いだされる要素が、本書の基本構成の規範となる。

 

これに関連して、正統的な神学の形式は、ある特定の時代の神学ではなく、ごく最近のものでもないことを指摘しておきたい。この、ある特別な時代の神学こそが神学の正統的な形態であるという誤った概念が、ブレバード・チャイルズがルイス・ベルコフの『組織神学』を「17世紀の教義学の復帰」と特徴づけた根柢にあるように思われる。*11

 

ある人たちには、現代に記されたこの著作は、17世紀のものと同じものに見えるかもしれない。確かに、正統神学について17世紀の記述を取り入れ、繰り返していることからすれば、この種の批評は正当化されるかもしれない。

 

しかし、ある神学が前の時代の神学にたまたま同意しているというだけの理由で、それを以前の神学の焼き直しにすぎないと評価するべきではない。

 

むしろ、その二つの神学は、伝統的なキリスト教の立場をそれぞれの仕方で説明したものであろう。カーソップ・レイクは、彼自身は保守派ではないが、この点を認めている。

 

 「根本主義を、新奇な思想の形式と考えることは、歴史神学の知識をほとんど持ち合わせていない教養人がしばしば犯す誤りである。それは全く別物である。かつてすべてのキリスト者が普遍的に信じていた神学の、部分的で無教養な残存物なのである。

 たとえば、18世紀のキリスト教会に、全聖書の無謬の霊感を疑った人はどれくらいいただろう。いたとしても、きわめてわずかである。確かに、根本主義者は間違っているかもしれない。私は間違っていると思う。

 しかし、伝統から離れたのは我々であって、彼らではない。そして、権威を根拠として根本主義者と議論しようとする人のことを遺憾に思うのである。「聖書」と教会の神学の集積は根本主義の側にある。」*12

 

教理体系をある程度柔軟に保っておきたい

 

今日の神学状況についての概観から得られる第二の教訓は、ある程度の折衷主義が可能であり、また、望ましいことでもあるということである。

 

これは、互いに排除的な基盤を前提とする、広範で多様な観点をもった思想を受け入れるべきだということではない。むしろ、留意すべきことに、今日の問題は一般的に言って、あまりイデオロギーとは関係のない観点から扱われている。その結果、以前と比べ、明確な体系が生み出されにくくなっている

 

我々の教理体系を柔軟に保っておき、全体としては同意できない立場のものからでも、その有効な洞察を認め、活用できるようにしておく必要がある。聖書的資料を組織化したり統合したりするときは、あまり狭い基盤に立ってそれをするべきではない。

 

ある程度独立性を持ちつつ神学に携わることの大切さ

 

現在の状況から引き出される第三の教訓は、個々人がある程度独立性をもちつつ神学に携わることができるようにしておくことが重要だということである。

 

神学的巨匠による特定の教理の考え方を、よく考えもしないで受け入れてしまう傾向がある。しかし、他者の体系を無制限に受け入れるなら、師から学んだ事柄を繰り返すだけの、言葉の最も悪い意味での弟子となってしまう。創造的、批評的な、独立した思考は停止する。

 

しかし、問題のないスーパースターはいないし、いたとしてもごくわずかである。その事実によって、我々は誰かの教えを批評的に読んだり聞いたりすることができるようになり、改善できると思われる点を進んで修正することができるようになるだろう。

 

*1:Friedrich Schleiermacher, On Religion: Speeches to Its Cultured Despisers, New York: Harper & Row, 1958.

*2:Karl Barth, God, Grace, and Gospel (Edinburgh: Oliver & Boyd, 1959), pp.57-58.

*3:Karl Barth, Epistle to the Romans, 6th ed., trans. Edwyn C. Hoskyns (New York: Oxford University Press, 1968). In 1963, E.V.Z. Verlag of Zurich issued a reprint of the original German edition--Der Romerbrief Unveranderter Nachdruck der ersten Auflage von 1919 (K・バルト『ローマ書』、カール・バルト著作集14、吉村善夫訳、新教出版社、1967)。

*4:Rudolf Bultmann, "New Testament and Mythology," in Kerygma and Myth, ed. Hans Bartsch (New York: Harper & Row, 1961), pp.1-44 (R・ブルトマン『新約聖書と神話論』山岡喜久男訳、新教出版社、1980)。

*5:Ernst Kasemann, "The Problem of the Historical Jesus," in Essays on the New Testament Themes, trans. W. J. Montague (London: SCM, 1964), pp.15-47.

*6:David Ray Griffin, "John B. Cobb, Jr.: A Theological Biography," in Theology and the University: Essays in Honor of John B. Cobb, Jr., ed. David Ray Gaffin and Joseph C. Hough Jr. (Albany: State University of New York Press, 1991), pp.238-39.

*7:Henry J. Cadbury, "The Peril of Archaizing Ourselves," Interpretation 3 (1949): 332-33.

*8:Gordon D. Kaufman, Systematic Theology: A Historicist Perspective (New York: Scribner, 1968); John Macquarrie, Principles of Christian Theology (New York: Scribner, 1966); Donald Bloesch, Essentials of Evangelical Theology, 2 vols. (New York: Harper & Row, 1978); Dale Moody, The Word of Truth: A Summary of Christian Doctrine Based on Biblical Revelation (Grand Rapids: Eerdmans, 1981); Gordon R. Lewis and Bruce A. Demarest, Integrative Theology, 3 vols. (Grand Rapids: Zondervan, 1987–94); Wayne A. Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Grand Rapids: Zondervan, 1994); Robert W. Jenson, Systematic Theology, 2 vols. (New York: Oxford University Press, 1997–99); James William McClendon Jr., Systematic Theology (Nashville: Abingdon, 1986, 1994); Alistair McGrath, Christian Theology: An Introduction (Malden, MA: Blackwell, 1997); Ted Peters, God—the World’s Future: Systematic Theology for a New Era (Minneapolis: Fortress, 2000); Stanley J. Grenz, Theology for the Community of God (Nashville: Broadman & Holman, 1994); Norman L. Geisler, Systematic Theology, 3 vols. (Minneapolis: Bethany, 2002–5); Robert Reymond, A New Systematic Theology of the Christian Faith (Nashville: Nelson, 1998); Michael Horton, The Christian Faith: A Systematic Theology for Pilgrims on the Way (Grand Rapids: Zondervan, 2011); Daniel P. Akin, ed., A Theology for the Church (Nashville: Broadman & Holman, 2007).

*9:Brevard Childs, Biblical Theology in Crisis (Philadelphia: Westminster, 1970), chap. 6.〔管理人注

Vern Poythress, Kinds of Biblical Theology, Westminster Theological Journal 70/1 (2008) 129-42. 

*ゲルハルダス・ヴォスやリチャード・B・ギャフィンの定義する「聖書神学」と、ジェイムス・バーの批判対象であるいわゆる「聖書神学」は別物であるということが上の論文の中で解説されてあります。尚、biblical theologyという語はなんとも厄介な多義語であり、この二つ以外にも少なくとも二つ別の体系や運動を指すこともあるようですので注意が必要だと思います。その詳細については上の論文をご参照ください。

*10:Anthony Thiselton, The Two Horizons: New Testament Hermeneutics and Philosophical Description (Grand Rapids: Eerdmans, 1980).

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Review of Thiselton on the Two Horizons

*11:Childs, Biblical Theology, 20.

*12:Kirsopp Lake, The Religion of Yesterday and Tomorrow (Boston: Houghton, 1926), p.61.