巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

聖書のどの語も、組織神学で使われている「術語」と100%イコールではない。(by ヴェルン・ポイスレス)

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目次

 

Vern Sheridan Poythress, Symphonic Theology: The Validity of Multiple Perspectives in Theology, chap.7(抄訳)

 

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ヴェルン・ポイスレス(ウェストミンスター神学大、新約解釈学)

 

聖書の中の言葉と「術語」

 

聖書の中の言葉や句は、一般言語の言葉であり句です。

 

聖書の中の言葉や句は意味を持っていますが、その意味は、曖昧でぼやけた境界線("fuzzy boundaries")を持っているため、一般に、術語(専門用語;technical terms)の境界線ほどくっきりはっきりしているわけではありません。

 

そして普通、聖書の中で用いられている言葉は、それ自体としては、術語を特徴づけるような、何か意味深長なる意図を持っているわけではありません。

 

もちろん、幾つかの宗教用語が準専門的な精密さを持つものとして発展するというのは自然なことでしょう。例えば、1世紀のユダヤ教において、祭壇、神殿、犠牲、安息日といった用語はある程度そういった性格を持ち合わせていたと考えられています。しかしそういった精密さは往々にして過大評価されがちです。

 

言語の語彙というのは、数多くの異なる(そして時には互いに相反さえしている見解)を表現するための媒介でなければならないため、それは一般性(generality)を保持しています。

 

そのため、特定の個人や教派が持っている見解というのは、(彼らが自見解を表現する際に用いている)語彙アイテムの持つふつうの意味よりもずっと「ぴっちり」しているわけです。

 

従って、「三位一体」や「救いに導く信仰("saving faith")」といった神学用語を発展させる際、そういった術語を、個々のヘブライ語やギリシャ語に完璧にマッチさせることはできないのです。

 

なぜでしょう?それは、広々として柔軟な意味を持ち、あるいは異なる諸文脈の中でいくつかの色調を帯びている言葉と完全にマッチしているような、的確なる意味を持つ用語を私たち人間は作り出すことができないからです。

 

それに仮に私たちが本当に、ヘブライ語やギリシャ語に「完全にマッチ」するような用語を作り出すことができたとするなら、それはつまり、その用語は、ギリシャ語やヘブライ語におけるそれと全く同様、ぼんやり曖昧で柔軟性を帯びている語であるということです。

 

そうなると、そういった語は、術語的精密さや意味における固定性といった利点をなんら持ち合わせていないということになります。従って、私たちが術語の精密さを究めていけばいくほど、当該ヘブライ語やギリシャ語の単語への完全合致からの距離は遠くなっていきます。

 

例えば、組織神学は、「救いの順序」(Ordo Salutis)に関する省察において、いとも簡単に混乱状態に陥り得ます。

 

「新生」「召し」「信仰」「義認」「子とされること(adoption)」「栄化」などの語を試しに考えてみてください。そういった用語はすべて、キリスト教会の歴史的省察の歩みの中で、救済のわざの過程における神および人間の働きを指し示す術語となってきました。

 

そして往々にして、こういった術語を使う際、私たちの内で、二つの相反する願望が生じてきます。

①英語(or日本語)の言葉を、ヘブライ語もしくはギリシャ語の語彙アイテムとマッチさせたいという願望。

②かなりの量の教理や歴史神学を、ある一語の中にぎっしり凝縮させたいという願望、です。

 

実例①チャールズ・ホッジ

 

例えば、チャールズ・ホッジは、①、②両方の願望を一どきに満たそうと試みました。「救いの順序」のついて述べた最初の項で、ホッジは人々を信仰へと導き入れる際の聖霊の働きについて描写しています。そして彼は次のように続けています。

 

 「聖書の中で、御霊のこの働きは、VOCATION(召し)と呼ばれています。改革派神学の持つ優れた点は、できる限りにおいて、聖書の用語を聖書の教理のために保持していることにありますが、この語についてもそれが言えます。そういった保持は妥当なことです。

 言葉と思想は互いに密接に関連し合っているため、前者を変えることによって、後者は(大なり小なり)深刻なる修正を加えられてしまいます。聖書の言葉は御霊の言葉でありますから、両者が保持されることは適切かつ重要なことです。」*1

 

この箇所では、言語の機能に関するホッジの不十分な省察が露呈しています。まず、ホッジは、混乱を伴う仕方で「霊感」と「翻訳」をごちゃ混ぜにしてしまっています。

 

霊感の教理について、ホッジは正当にも、聖書が逐語的に霊感された書であり、神が原典の中の一字一句を選ばれ、そういった語によって構成される使信には完全なる神的権威があると述べています。

 

しかしながら、この立場は、翻訳理論に関しては何ら直接言及していません。ーーつまり、異なる単語と異なる文法を持つ別の言語の中での使信をいかにして表現するかに関する見解に関してはなにもダイレクトに言っていないのです。この点においてホッジは、翻訳と解釈のプロセスにおける複雑性を見落としてしまっていると思います。

 

また、ホッジは、改革派神学についても、そして彼自身の語彙についてもここで誤りを犯しています。彼の使っている語彙が、聖書語彙とマッチしていないことは容易に判別されます。

 

例えば、救いの順序においての術語としての"faith"を、ギリシャ語のpistisやpisteuoと同一視することはできません。

 

ギリシャ語のpistisは、“faithfulness”(ローマ3:3)、 “solemn promise” (1テモテ5:12)“a special gift of faith”(1コリ12:9) “body of belief” (ユダ3)“trust”(ローマ3:22)といった意味と共に用いられています。

 

また動詞pisteuoは、“entrust”(ルカ16:11)という意味と共に用いられています。またこの語が“believe”の意味を持っている時には、それはニュートラルに用いられることも(使9:26)、弱く用いられることも(ルカ8:13)、否定的に用いられることも(2テサ2:11)可能です。さらには、狭義の術語的意味における「救いに導く信仰」とより密接なつながりを持つ文脈の中で用いられることもまた可能です(使4:4)。

 

従って、pistisやpisteuoの使用領域は、「救いに導く信仰」という術語的思想とは到底「マッチング」していないわけです。

 

ホッジや彼以前の神学者たちは、ローマ3:22や使徒4:4といった聖句を孤立化させた上で、そういった聖句のみをベースに「救いに導く信仰」という術語を築き上げました。術語というのは、単一の語からフルに発育するものではなく、諸聖句全体の教えから引き出されたものです。

 

そして術語は実際、鍵となる主要聖句の中で用いられているpistisやpisteuoの意味とも完璧にマッチしているわけではありません。なぜなら、それらの聖句は〔孤立した個々の〕単語よりも豊かだからです。

 

ですから、私たちは、「救いに導く信仰」について学ぶ際、それを、①聖句の中に存在するすべての語、②その文脈、そして③それらが互いに持っている相互関係、という共同寄与から総合して学んでいくのであって、単一の単語だけを分析することによって学ぶのではありません。

 

それゆえに、英語や他の諸言語の中で用いられている術語は、特定のギリシャ語単語とマッチしていませんが、主題テーマに関連する数多くの文章・パラグラフ全体の持つ共通した特徴を捉えています。

 

実例②ヘリット・コルネーリス・ベルカウワー

 

神学者が、ある術語にある一つの意味だけを与えたり、それだけに固執したりする時、事はかなりややこしくなってきます。ベルカウワーは、著書「信仰と聖化(Faith and Sanctification)」の中で、「聖化」の意味を定義していません。*2

 

大概の場合、ベルカウワーは、「聖化」(オランダ語でheiliging)という語を、学術的神学界内での通常の術語的使用と似たような形で用いています。つまり、霊的成熟と倫理的清廉の過程における信者の成長と言い表しています。

 

しかしながら、他の場合に彼は、hagios, qadosh(及びそれらの派生語)が用いられている聖書箇所に訴えているのですが、それらの語が「聖化」と密接に関連していない時でさえも、そうしているのです。その結果、この書の幾つかの箇所はかなり混乱を生じさせるものになっています。

 

やや広範な例を挙げることによってその混乱の様子がフルに伝わってくると思います。義認と聖化の関連性についての詳細叙述の中で、ベルカウワーは次のように書いています。

 

「このように理解されてしまうことで、義認と聖化との間の区別が、完全に神に帰される一行為と、完全に人間に帰される一行為となる結果が生じます。そうなると、聖化とは、『それ以前に義とされた人間によってなされる一連の敬虔なる行ないとわざ』という風に描写されることになるでしょう。そして義認と聖化との間の区別は、それぞれの行為の主体ーー神か人間かーーに辿ることができるとされてしまいます。」*3

 

記述されているような歪曲されたアプローチに対するベルカウワーの批判はまっとうなものです。しかし、彼が自らの立場を立証すべく出している根拠はあまり適切であるとは言えません。彼は言います。「このような分離に対し聖書が不寛容な姿勢を取っていることは明白です。例えば、キリストは『私たちにとって、神の知恵となり、また義と聖めと、贖いとになられました。』(1コリ1:30)」*4

 

残念なことに、ベルカウワーは、「定義の問題」と、「そのように定義された用語を用いつつなされる神学的確言の問題」を区別していません。

 

少なくとも、理論の上では、"sanctification"という英語の術語を、人がその人生の中で成熟していく過程における人間の諸行為として定義することは可能でしょう。

 

神もまたそこに働いておられるということを私たちが否定していない限り、そういった定義づけに別段問題はありません。

 

これは、人を成長せしめる神の御行為を指し示すべく、組織神学の中で「聖化」という語が慣例的に用いられているという歴史にかかわる事柄に過ぎません。

 

しかしベルカウワーは、神もしくはキリストが「聖化」のagent(動作主、行為の主体、媒介)であるという聖句を単に引用しつつ、「聖化というのは人間の行為ではない」という事を明示しようとしています。しかし神はそのような事を明示してはおられません。

 

もしも組織神学の中で「聖化」というのが、私たちを成長させるところの神の御行為を意味するようになったのだとしたら、聖化が神の御行為であるということを示すべくわざわざ聖句を引用する必要性はないわけです。それは定義づけによって、この意味を持つに至っています。

 

他方、もしも私たちが、「霊的成長について聖書は何と言っているのだろう?」と問うのなら、その時私たちは、霊的成長に関する諸聖句を引用しなければなりません。その際、1コリント1:30はそういった聖句となるかもしれませんし、そうでないかもしれません。

 

幾つかの翻訳聖書の中で"sanctification"という語が登場してくるからといって、それで問題解決になるわけではありません。なぜなら、私たちは原文がその術語的意味を包含しているのかどうかを問わなければならないからです。

 

キリストと合一により私たちには神の御前における祭司の地位が与えられているという事実を鑑みた時、パウロはおそらく、"consecration"(聖別)を念頭に置いていたのではないかと思います。

 

1コリント1:30に出てくるhagiasmosは、おおざっぱに言って、旧約聖書の中でqdsの生起がしばし意味していることに相当していると考えられます。つまり、神の奉仕のために聖め別たれるという意味です。

 

そういった用法から分かるのが、キリストとの合一により、私たちは神の御前に立つにふさわしく完全に聖い存在とみなされているということです(ヘブル10:10、14)。そうするとこの語は、私たちが通常「義認」と言っているところのものとかなり近くなってきます。

 

そしてもしもそうであるなら、1コリント1:30は、ベルカウワーの論点から外れているということになります。

 

著書「信仰と聖化」を読み進めていきますと、同様の問題が繰り返し出現してくるのに皆さん気づかれると思います。聖さに関する聖句を引用する際にも、ベルカウワーは、"holiness" が "sanctification"という術語と関連しているのか否か、またはどのように関連しているのかと言ったことを全く問うていません。

 

ここから得られる教訓は、多くのそういった問題が、根柢に横たわる誤謬より生じているということです。

 

神がお語りになる時、神はご自分の仰せられること、そしていかにしてそれを仰せられるのかについて無限大の配慮をしておられます。しかし私たちはそれに付加して次のように言うのです。「それゆえ、神はペダンチックに精密な専門的意味をもつ言葉を用いておられるのだ」と。

 

しかし神の無限大のご配慮とはそういった性質のものではありません。神はそのご配慮の内に、人間の言語を巧みに用いお語りになります。つまり、神は、個々の語彙アイテムの意味の中に存在する漠然性やバリエーションを可能な限りフルにお用いになることができるのです。

 

そして、これは新奇な発想ではなく、正統的霊感説を信じてきた古典的主唱者たちによって一般に認識されてきたものです。A.A.ホッジは次のように言っています。

 

「思想と言葉は双方とも人間に似ており、それゆえ、人間的諸限界に従属しています。しかし、神的管理(divine superintendence)および保証は、一方に対するのと同様、他方にまで及んでいるのです。」*5

 

人間言語と神のご配慮

 

神は、ヘブライ語およびギリシャ語の各語彙アイテムの使用におけるバリエーションを完全に把握しておられます。

 

神は術語という人工的専門用語を作り上げるのではなく、漠然性をもつ、主ご自身がデザインされた資源を用いてお語りになります。私たちが人間の言語に関する誤った見方を持ち込み、神がその中に収まってくれるよう期待するのは思慮を欠いています。

 

この種の誤謬は、少なくとも二つの方向性においてその影響を及ぼし得るでしょう。

 

まず第一に、私たちは、同一の言葉が登場するたびに人工的精密さを聖書の中に読み込もうとするかもしれません。そして「この語は登場してくるすべての箇所において同じ事(つまり、私たちの術語的定義)を意味しているに違いない」と想像します。

 

一方それとは逆に、ある単語の使用における明白なる多様性があるにも拘らず、根柢に潜んでいるに違いない「核心的意味(“core meaning”)」との深遠にして奥義的合一を見い出さなければならないと考える人がいるかもしれません。

 

そして両ケース共に、そこに、人間言語の理解における真の配慮への欠如が顕れています。

 

 

*1:Charles Hodge, Systematic Theology, 3 vols. (1871-73; reprint, Grand Rapids: Eerdmans, 1970), 2:639.

*2:G. C. Berkouwer, Faith and Sanctification (Grand Rapids: Eerdmans, 1952).

*3:同著、p.21

*4:同著、p.21

*5:Archibald A. Hodge and Benjamin B. Warfield, Inspiration (reprint, Grand Rapids: Baker, 1979), 19-20. See also p. 28. それから、Benjamin B. Warfield, The Inspiration and Authority of the Bible (reprinted; Philadelphia: Presbyterian and Reformed, 1967), 93-94も参照。