巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

なぜ聖書を真剣に学ぶ人々は、自分の使う言葉や用語について意識的になる必要があるのか?(by ヴェルン・ポイスレス)

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目次

 

Vern Sheridan Poythress, Symphonic Theology: The Validity of Multiple Perspectives in Theology, chap.7(抄訳)

 

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ヴェルン・ポイスレス(ウェストミンスター神学大、新約解釈学)

 

言語は、世界に対し100%透明というわけではない

 

自然な人間諸言語というのは、私たちが世界の中で見るものに対し何ら影響を及ぼしていない「完璧にして透明なガラス窓のような存在」ではありません。

 

また、かくの如き完璧な窓ガラスになれるような完璧な言語というのも存在しません。特に、諸前提をすることなしに(あるいは私たちが人として誰であるのかということに関わる諸言明なしに)諸事実を述べることーーこれを可能にしてくれるような言語も存在しません。

 

部分的アナロジーや類似をベースにした上で重要な判断をしていかなければならないという事実から私たちを解き放ってくれるような特別な言語も存在しません。

 

また、宇宙の範疇に関する究極的構造を私たちのために直に可視的なものにしてくれるような特別な言語も存在しません。

 

積極的には、自然言語というのは、人間の意志疎通および、神と人間間の意思疎通を可能にするに十分な伝達手段です。*1

 

また一見、不完全で欠陥点のように思われる特徴のいくつかは、実際、肯定的利点である場合もあります。

 

例えば、聖書の中で、神は厳密にして正確な専門用語よりはむしろ、普通一般に使われている言語(言葉)を使っています。

 

神は聖書の中に、学者たちの関心を引き寄せるような専門的でペダンチックな詳細すべてを盛り込んではいません。そうすることにより、神は、専門知識を持っている学者たちだけではなく、一般の人々に対しても明確に語りかけておられるのです。

 

神が言っておられることは網羅的ではありませんが、それは私たちを救済し、人生の確かな指針を提供するのに十分です。

 

それゆえ、聖書を読むにあたり、一般の謙遜な読者は特に問題を抱えておらず、よくやっておられます。そして皮肉なことに、問題に巻き込まれやすいのはむしろ聖書教師や神学者たちの方なのです。

 

なぜなら、彼らは聖書の専門的ないしはペダンチックな精密さの度合いを過大評価しがちだからです。それゆえ彼らは、一般の聖書読者は陥らないような種類の誤りに陥ってしまうのです。

 

それゆえ、より学的で神学的な省察をする際、私たちは、自分たちの使う言葉や言語について、より意識的にならなければならないと思います。

 

もちろん、大半の神学者たちは、高度に発展した形態の言語哲学を明確なる基盤として、神学的考察をしているわけではありません。しかしそうであっても依然として、彼らの犯す誤りが誤りであることには変わりがありません。

 

そしてそういった誤りは実際に起こっています。事実、言語に関する誤謬、不明瞭さ、不十分さ、不適切さは、今日、私たちの間でかなり頻発度を増しており、そういった誤りは、信頼のおける学術的神学論文の中にさえも散見されます。*2

 

ジェームズ・バーの挙げている6つの代表的誤謬

 

ジェームズ・バーは、「聖書言語の意味論(The Semantics of Biblical Language)」(1961)の中で、学者たちの犯しやすいそういった誤謬を列挙しています。

 

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詳細に立ち入ることはしませんが、バーが挙げている一般的誤りの内、6つをここに列挙しようと思います。*3

 

その1.ある言語の文法構造からダイレクトに神学的結論を演繹しようとする試み。

例えば、ソールリエフ・ボーマン(Thorlief Boman)は、ヘブライ語の時制体系から哲学的時間概念を演繹しようとしています。(同著pp. 79-81)

 

その2.語彙のシノニムの数や関連性からダイレクトに神学的結論を演繹しようとする試み。

例えば、エドモンド・ジェイコブは、いくつか異なる用語が用いられているという事実から、聖書の奇蹟の概念は流動的なものであるという結論を演繹しようと試みています。(p. 147)

 

その3.(現在用いられているその語の意味が、よく知られ周知のものである時でさえも)そういった現行の意味の代わりに語源を用いようとする試み。

例えば、「"holy" 聖なる」と「"healthy" 健康な」は語源的に互いに関連していますが、現在、この二語は同じ事を意味してはいません。そして、そうであるのにも拘らず、尚もそういった二語が同じ事を意味していると主張するのは混乱を招く行為です。(p. 111)

 

その4.ある一つの単語の持つさまざまな語義を結合させた上で、ある特定の世界観を演繹しようとする試み。

ヘブライ語のダヴァール(דָּבַר)は文脈によって、「言葉」を意味する時もあれば、「事柄」「事」などを意味する時もあります。しかし、トーマス・F・トーランスは、「往々にしてダヴァールは同時に両方を意味している」と誤った結論を出すに至っています。(p. 133)

 

その5.「非正統的な全体移動(“Illegitimate totality transfer”)」*4聖書の中のすべての諸文脈の中において、一つの単語が持っているさまざまな意味が、全部まとめて単一の聖句の中に読み込まれてしまっています(p. 218)。

例えば、さまざまな箇所において聖書は、教会がキリストの花嫁であり、キリストのからだであり、神の国の顕現であると教えています。そのため、人々は往々にして、エクレシア(ἐκκλησία, “church”)という単語が登場する箇所であるならどこででも、それらすべての事がもろともに意味されていると考える傾向にあります。

 

その6.「非正統的なアイデンティティー移動(“Illegitimate identity transfer.”)」

二つの単語が同じ事を言及しているので、その二語は同じ事を意味しているに違いないと考える誤り(pp. 217-218)。

例えば、ヘブライ語のダヴァール("thing")は、時として歴史的出来事の言及に用いられており、「歴史」という語もまた、同じ出来事への言及に用いることが可能です。

しかしそうだからと言って、「ダヴァールの意味は『歴史』です」と結論づけることは間違っています。

似たような例を挙げましょう。私たちはある人のことを「クラスで最も優秀な学生」であるとも「私の家族の中で唯一赤毛の人」とも表現することができ、この二つの描写は同じ人のことを指しています。

しかしこの二つは同じ意味を持ってはいません。「学生」は「赤毛」と同じ意味ではなく、「クラス」は「家族」と同じ意味ではありません。

ーーーーー 

この著書、および類似テーマを取り扱っている後期著述群の中でジェームス・バーは、聖書学者たちの論述にかなりの焦点を置いています。*5

 

しかし、類似の諸問題は、組織神学者たちの間でも生じています。往々にして彼らは、自らの用いている術語の不明瞭性に関する問題を抱えています。これに関し、一つ二つ実例を挙げてみましょう。

 

実例①ルイス・ベルコフ

 

ルイス・ベルコフは、二分説(dichotomy)と三分説(trichotomy)に関する議論の初めの方で次のような事を述べています。

 

「特にキリスト者の間では、人間が、肉体と魂という、ただ二つの異なる部位(distinct parts)によって構成されていると通常考えられています。この見解は、専門的に言って、二分説と呼ばれています。」*6

 

さて、ここでベルコフが言っている「部位(“part”)」とはどういう意味なのでしょうか。そしてある部位が "distinct"(異なる、別個の)であるか否かは何によって決定されるのでしょうか。

 

二本の腕や二本の足は、一人の人間の部位であり、それらはそれぞれ別個のものです。

 

それでは、良心、記憶、想像、感情といったものもそれぞれ「部位」なのでしょうか。そしてそれらはそれぞれ別個のものなのでしょうか。

 

ベルコフは主要術語に関する問題提起をしておらず、主要文脈の中における主要術語の使用がはたして、アリストテレスに由来する本体論を前提しているのか否かについての議論もしていません。

 

私たちは、宇宙を、「(属性がそれらの実体に付随しているところの)多数のさまざまな独立的存在という実体から構成されているものであり、それぞれの実体は後に結合する」と捉えるべきなのでしょうか。

 

この点で私はベルコフに異議を唱えていますが、それは彼がアリストテレスの形而上学を前提しているからではなく、彼が自分自身の諸前提を明確に特定していないからなのです。

 

実際、次のページでベルコフは次のように結論しています。「聖書の中における人間本性の一般的表明は、明確に二分法的である。」*7

 

この場合、ベルコフは、ーー鍵となる術語が明確であると前提することによってのみーーこの立場を支持できるのですが、実際には、これらの術語は明確ではありません。その結果、この章のそれ以降の言述全体が、砂上の楼閣となってしまいました。

 

ここで要となっている問いは、二分説が正しいのか、三分説やその他の諸説が正しいのかに関するものではありません。

 

ここで問われているのは、まずもって、私たちが自らの言っていることを明確に認識しているのかどうか、そして自分たちの言っている内容を支持するに当たって、一体何が立証証拠とみなされるのかをしっかり認識しているのか否かにあります。

 

実例②カール・バルト

 

カール・バルトの新正統神学もまた、この一般原則への侵害を露呈しています。

 

言語の観点からみた時に、バルト神学全体が抱えている最も基本的問題は、ほとんど全ての基礎術語の意味における、かなりの不明瞭さ(ambiguity)にあります。

 

多くの論者の裁断によると、バルトは、啓示というものを、日常世界/世俗世界/科学的世界とは何ら直接的接触をもたない生活の次元のものにせしめました。しかしこういった接触なしには、神学的語彙は、言葉の中で何ら違いをもたない、無意味なものになるという脅威にさらされます。

 

それゆえに、アンソニー・ティーセルトンは、ヴィトゲンシュタインに訴えつつ、次のような洞察をしています。

 

「『贖われる'being redeemed'』『神によって語りかけられる 'being spoken to by God'』等の概念は、私的な実存主義的経験をベースにしてではなく、ある種の行動パターンにおいての公的伝統をベースにした時はじめて認識可能となり『教授可能』とされるのである。」*8

 

ここでティーセルトンはブルトマンを批判しているのですが、同様の批判内容が、(ブルトマンほど強烈ではないにしても)バルトにもある程度、適用されるかもしれません。

 

実際、こういった問題は、バルトの『教会教義学』をランダムにめくるだけでも至る所に露呈しています。例えば、人間についてバルトは次のように言っています。

 

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カール・バルト

 

 「それゆえに、神の不在性は、人間にとって、可能性ではなく、本体論的(ontological)不可能性です。人間は、神無しではなく、神と共にいます。

 

 しかしそうであるからといって、神の存在を否定する人間は存在していないという事には、勿論なりません。疑いの余地なく、罪は犯され、存在しています。しかし罪それ自体は可能性ではなく、人間にとっての本体論的不可能性です。

 

 私たちは実際、イエス、つまり神と共にいるのです。つまり、私たちの存在は罪を内包するのではなく、それを排除します。罪の内にあること、神不在の状況(godlessness)にあることは、人間性に反する存在形態です。なぜなら、イエスと共にいる人間はーーそしてそれが人間の本体論的決断ですーー神と共にいます。

 

 もし彼が神を否定するなら、彼は自分自身を否定することになります。その時、彼は本来そうであり得ないなにかとなっています。彼は自身の不可能性を選び取っているのです。

 

 そして神不在性(godlessness)がそれ自体として表現し得るところのあらゆる違反(例:不信心、偶像礼拝、神に対する疑いや無関心)は、その理論的・実際的形態の中において、人が自分自身しょい込み、覆い隠し、自己腐敗させるところの違反です。そしてこれは、彼自身の被造物性(creatureliness)の継続に対する攻撃に他なりません。」*9

 

もちろん、ここで私たちは参酌し、大目に見るよう努める必要があるでしょう。バルトの作品全体という、より大きな文脈を考慮するなら、バルトが本当に言わんとしていることがより理解しやすくなるでしょう。

 

また、この特定箇所を考察するに当たり、私たちは逆説的、神秘的、誇張的に物事を述べることの修辞的価値をも考慮に入れる必要があります。

 

しかしここでの私の異論は何かと言いますと、ある人が彼自身の意味でバルトを読み込んだ上で彼に賛同したり、あるいは、反対の意味で読み込むことによりバルトに反対するというのは余りにも軽率すぎるということです。

 

「神不在」「本体論的」「可能性」「イエスと共に」「神と共に」「内包する」VS「排除する」、「継続性への攻撃」といった用語は、どこでしっかり定義されているのでしょうか?

 

バルトの「万人救済論 “universalism”」はここで明白に表れており、その立場は、イエスが人であり彼が私たちの「ための」存在であるという省察より生じています。

 

しかしこういった万人救済論的レトリックの大部分は、具体的にどういう点でイエスが私たちのための存在であるのかといった問題を単に迂回しているに過ぎず、こういった修辞は、異なる意味の間でよろめき、揺れ動きかねません。

 

それゆえに、このユニバーサリズムが実際には何を意味しているのかについて議論が生じてくるわけです。

 

イエスが「私たちのため」であるのなら、それは誰もが究極的に救われるという意味なのでしょうか。もしくは、伝統的な意味における「終わり "end"」というのは存在しているのでしょうか。

 

あるいは、贖い自体は普遍的でも、幾人かは最終的に失われてしまう可能性があるのでしょうか。

 

それとも、キリストの羊(ヨハネ10章)に対する、より狭義なフォーカスをも持つ贖いの行為に対しては、ただ単に普遍的恩恵があるのみなのでしょうか。それとも、贖いというのは神のご慈愛を表すためのメタファーとしての永遠行為の一種なのでしょうか。

 

そういった問いのほとんどは、バルト神学アプローチの持つ動的性格には無縁の静的志向を表しているのかもしれませんし、そういった「静的」問いは的が外れていると批判する人もいることでしょう。

 

しかし問題は、もし誰かが静的問いに答えることができず、自分の回答をしっかり弁明できず、理由を説明できないのなら、私たちは回答を知ることができなくなり、こうして意味が不明瞭(未解決、不詳、漠然とした;indeterminate)になってしまう点にあります。

 

こういった動的アプローチはあまりにもしばし、「何でもあり」の神学と化し、そういった神学は結局のところ、何でも意味し得るし、もしくは何をも意味していないということにもなりかねません。

 

しかしこういったレトリックは聞こえはいいでしょう。なぜなら、そこで使われている言葉自体は今も尚、より伝統的な文脈の中で獲得されてきた感情的連想性を付帯しているからです。

 

*1:Poythress, “Adequacy of Language.”

*2:D.A. Carson, Exegetical Fallacies, 25-90. 

*3:Barr, Semantics of Biblical Language.

*4:

*5:Silva, Biblical Words and Their Meaning; and Carson, Exegetical Fallacies, pp. 91-137.

*6:Louis Berkhof, Systematic Theology (Grand Rapids: Eerdmans, 1939), 191.

*7:同著p192.

*8:Anthony Thiselton, Two Horizons, 382.

*9:Karl Barth, Church Dogmatics (Edinburgh: T. & T. Clark, 1936) 3. 2. 136.