巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

人は聖書的男性像を「見る」ことによって変えられる

聖書的男性像(biblical manhood)というのは一体どのようなものなのでしょうか。それは現実に存在するものなのでしょうか。

 

百聞は一見にしかずということわざがありますが、確かに百回抽象的概念を聞くよりも、一度、その概念を具現化しているような実体なり人物を実際に「見る」ことの方がはるかに説得力があります。

 

数年前に話はさかのぼりますが、私は数奇な導きの下、国立アテネ大学文学部に籍を置くことになり、しかも(入学してから知ったのですが)その科では古典ギリシャ語の知識が必須だということで、やむを得ず、大学内で開講されていた「外国人のための古典ギリシャ語補講コース」を受講することになりました。

 

初めてその教室に足を踏み入れた時、「黒々とした」なにか異様な雰囲気に度肝を抜かれました。それもそのはず、受講生のほとんどが黒い法帽と黒い法衣、そしてごわごわした黒い髯をたくわえた、中東や東欧出身の正教会修道士たちだったのです。

 

女性は私を含め4人程いましたが、一人はロシア正教会の修道女(神学修士課程)、それからルーマニア出身の教会史家(神学修士課程)、もう一人はカザフスタン出身のギリシャ人で、今後イコン聖画をライフワークにして神様にお仕えしたいと意気込んでいる純真な学生でした。つまり、私以外の受講者はほぼ全員、正教会の献身者たちだったわけです。

 

そして今思うと、クラスメートとして過ごした、あの「黒々とした」彼らとの不可思議な数か月間は、私の中での「聖書的男性像」に何か底知れぬ、しかも決定的に強烈な刻印を残すような意義深い時となりました。

 

彼らは寡黙です。必要な時に口を開いて話しますが、それ以外の時は通常、黙っています。また、非常にいんぎんで礼儀正しいのですが、女性になれなれしく話しかけることはないので、挨拶以外、私は彼らとほとんど会話をしたことがありませんでした。

 

それでも、授業中の彼らの発言や休み時間の言動などを通し、修道士たちそれぞれの人柄や性格などは徐々に分かってきました。私にとって印象的だったのが、彼らの「堂々としたあり様」でした。

 

空威張りした虚勢ではなく、内側にある不動の支柱が彼らにどっしりした重量感を与えている感がありました。また言葉遣いや表現は簡素・簡潔・ストレートで、そこに長々しい前置きやお茶を濁すような曖昧さ、おべっか、お世辞、愛想笑いのようなものはありませんでした。

 

休み時間になると、たいてい一人で外の窓辺に静に腰を下ろし(おそらく祈っている)修道士がいましたが、なにかそこには荘厳な雰囲気が漂っていて、畏れ多く、気軽に近くには寄れない感じがしました。しかも不思議だったのが、その近づき難さというのが、周囲を遮断している種類の「拒絶」ではなく、ある種の威厳が彼の存在を通しその場を満たしている・・・そのような〈聖なる境界〉ゆえの近づき難さでした。

 

また、真に神を畏れる礼拝者としてのこの隠者の姿を目の当たりにした私の中で、次第に、抑えがたいほど強い敬拝への切望感と渇きが生じるようになりました。

 

彼は何も話しません。彼はまったき静寂の内にただ神に語りかけていたのです。そうであるのに時には、そういった沈黙の魂を通し、聖霊が、大音響のラッパの音以上に激烈になにかを語りかけてくることがあるのだという事もこの時はじめて知りました。

 

ちなみに彼はその後、危険を承知で、戦火の中にある母国シリアの教会に戻って行きました。ですから現在、彼が生きているのかどうかは分かりません。ですが、おそらくこの人なら殉教の死も静かに毅然と受け入れるだろうと思わせる内なる強さが彼にはありました。(最後に彼が残した言葉は、「Ο Θεός ζει.(神様は生きておられます)」という一言でした。)

 

ある一群をみた時、またその一群に接する時、私たちはその集団から全体として漂ってくるなにがしかの印象を受け取ります。私がこの「黒々とした」男性群から感じ取った最も強い印象は、「男らしさ」でした。

 

思えば、小中高大と、女子の方がずっと元気で勢いがある環境で育った私にとって、集合体としての「男らしさ」に遭遇したのは、それが生まれて初めてでした。そして創造の賜物としての、その力強いmasculinityは彼らの讃歌斉唱の中にも如何なく顕れているように思いました。

 

 

詩篇116篇1-9節(LXXでは115篇;アラビア語による詩篇歌、ビザンティン式)

この詩篇歌116篇は、最初の1節「私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。فرحت جداً لان الرب يسمع صوت تضرعي」の部分がリフレーンになっています。)

 

詩篇146篇(LXXでは145篇;古代シリア語〔Syriac〕による詠唱)

 

詩篇118篇(LXXでは117篇;アラビア語による詩篇歌、ビザンティン式)

この詩篇歌118篇では、最初の1節「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。إحمدوا الرب لأنه صالح لأن إلى الأبد رحمته هللوياの部分がリフレーンになっています。

 

 

こうした現実の遭遇により、「クリスチャン男性は一般に弱々しく頼りない」という日本で広く行きわたっている(そして私の中にも少なからず存在していた)一般概念が根本からひっくり返され、覆されました。

 

また、彼らの存在から伝わってくる男らしい力強さを通し、私の中で御父の偉大さ、荘厳さ、力強さといった属性にも目が開かれていくようになりました。相補主義を貫き、それに生きれば、人はここまで男らしくなれるのかと圧倒され、また感動しました。

 

そう言えば、クリスチャンの猛者(もさ)は過去にたくさんいました。中世のジュネーブやスコットランドではジョン・ノックス (*)という命知らずの豪傑が勇ましく奮戦し、チューリッヒやチロルではゲオルグ・ブラウロック (*) が大胆不敵に伝道を続け、火あぶりにされました。

 

また初代教会にもテルトゥリアヌスという迫力満点の論駁家がいました。

 

また、「福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっているように、瞬時も彼ら〔にせ兄弟ら〕の強要に屈服せず」(使2:5)、さらに、教会の重鎮の一人であるペテロがアンテオケに来た時、「彼に非難すべきことがあったので」、こそこそとではなく「面と向かって」堂々とペテロに対峙した(使2:11参)パウロは何と男らしく、勇敢だったことでしょう!

 

教会の中のフェミニズム浸透は悪であり、それに対する論駁は必ずなされなければならないと思います。(そしてこの点に関し、日本でも、グルーデム、コステンバーガー、シュライナー、ポイスレスのような、男性教師たちのはっきりした声が挙がることを願ってやみません。)

 

しかしそれと同時に大切なのは、フェミニストたちが、そしてフェミニスト文化の中で育ち、歪んだ男性像しか見る機会を持たなかった女性たちが、教会の中や家庭の中で、真の男らしさ、そして聖書的男性像を具現化するような男性たちを実際に「見る」ことだと私は確信しています。

 

そして同様のことが、聖書的女性像の具現化にも言えると思います。「無気力で頼りない夫」グレッグさんが、恭順な女性へと変えられていく妻エープリルさんの生きる姿を通し、一家の長としての自信を取り戻していったように (*)、私たち女性の中で聖書的女性像が回復されていく時、それを「見る」男性たちの内で、健全なるmasculinityの覚醒と回復がなされていくと信じます。