巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖書のワード・スタディーをする際に注意すべき事:その⑫ 意味領域に対する根拠なき制限(by D・A・カーソン)

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広域的ひろがり・・・

 

D.A.Carson, Exegetical Fallacies, Chapter 1. Word-Study Fallacies, p.25-66(拙訳)

 

小見出し

 

単語のトータルな意味領域の広さ

 

特定の文脈の中の単語の意味を誤解する道というのは多種多様です。

 

ある場合には、不当にその単語の意味領域を制限してしまうことによって誤解が生じます。あるいはそれを誤ってterminus technicus(専門用語)だと断言してしまうことにより(その⑧)、あるいは意味の乖離(disjunction)に訴え出ることにより(その⑪)、あるいは、背景資料を誤用することにより(その⑤)誤解が生じてきます。しかし問題自体は、こういった個々のカテゴリーを超越しています

 

時として私たちは、個々の単語のトータルな意味領域がどんなに広大なものであるか認識し損なってしまいます。それゆえ特定聖句の釈義をいざ始めようとする際、考えられ得る他の選択肢について十分に考慮しなかったり、正しい意味に内包されているかもしれない他の幾つかの可能性をうっかり排除してしまいがちです。

 

boardの事例

 

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board(板)

 

意味の広域な幅についてよく引き合いに出されるのがboardという語です。*1

 

Boardというのは加工された木材であり、厚板のことを指します。「部屋代と食事代」を意味するroom and boardという英語フレーズがありますが、この表現はおそらく、古い英語で特別な催しの際につく食卓のことをfestive board(祝祭の食卓)と呼んでいたことに由来していると考えられています。

 

また運営委員会のことはa board of trusteesと言います。そしてその運営委員会の人たちが、船や汽車に乗るなら、彼らはstep on board(乗船・乗車・搭乗)し、願わくば〔船や汽車から〕fall overboard(転落)しないよう気を付けるでしょう。

 

また同じboardという語が動詞として機能することも可能です。例:職人が壊れた窓ガラスをboard up(板張り)している。乗客がジェット旅客機にboard(搭乗)する等。

 

この点を充分に納得してもらうため、私は当時開講していたゼミのクラスで学生たちに次のような質問をしてみたことがあります。「みなさん、一つ名詞を挙げてください。どんな名詞でもいいですから。それで私はその名詞にはたして一つ以上の意味があるかどうか言い当ててみることにしましょう!」

 

するとクラスのひょうきん者A君が、すかさず、「ジェットコースター」とのたまいました。しかしこの事例であってさえも、少し考えた後、あるアイディアが浮かんできたのです。

 

〈そうか、熱くなったり冷めたり、激変するロマンス関係にある人は『わが恋愛人生はジェットコースターなり!』と言うことができるだろう。〉

 

そしてその事を話すと、皆納得したようでした。つまり、色彩豊かなメタファーは(そして新しいメタファーは常時どんどん造り出されていっています)、単語のトータルな意味領域の内に含ませるべきなのです。

 

広大な意味領域をもつεἰμί 

 

こういった広域的で幅のある意味領域を持つ単語の中でもとりわけやっかいなのが、連結詞εἰμί(to be, ある、~である)です。

 

カードは、著書『Language and Imagery』の中で、ギリシャ語連結詞の中でも、彼が「主要な型」と呼んでいるものの一覧表を作っています。有益なリストですので下に挙げておきます。*2

 

a.同一性(Identity):「律法は罪か?」(ローマ7:7)

b.属性(Attributes):「尊い方は、神おひとりの他には誰もいない」(マルコ10:18)

c.原因(Cause):「肉の思いは死であり」(ローマ8:6)

d.類似(Resemblance):「舌は火であり」(ヤコブ3:6)

 

これは実際、非常に助けになるリストであり、聖書の中でもっとも激しく議論されている4語、つまり「This is my body.」の考察にも関連しています。

 

"This is my body"

 

キリスト教界のいくつかの宗派は、この文の中の"is"を、aの同一性を表す言明として取り扱っています。しかし、"to be"の意味領域は非常に広域であるため、aの同一性をそのまま前提することができないのは火を見るより明らかです。ーーそうです、それは当然のものとして前提されるのではなく、議論されなければなりません。

 

そうかといって、上記の立場の人々の解釈に反対している陣営の人々も、「ヘブライ語もアラム語も真の連結詞を持っていない」という理由をベースに反論することはできません。*3

 

なぜなら、まず第一に、この見解は、「セム系の言語はかなりの度合いで、εἰμίの意味領域に影響を及ぼしているため、εἰμίもまた、〔ヘブライ語やアラム語と同様に〕制限されている」という事を推測・前提しています。

 

しかしこの前提には、しかるべき立証が必要とされているだけでなく、実際のところ、この前提は誤っています。そして第二番目に、この見解は、「ヘブライ語やアラム語は、どんな方法をもってしても、予測を表現することの能わない言語である」という事を前提していますが、これもまた誤りです。

 

カードは続けて次のような主旨を述べ、議論を進めています。「This is my bodyという言明は、同一性の範疇ではあり得ない。なぜなら、イエスは、ご自身の手の中のパンと、生けるからだとを同一視(identify)することはできないから。ーー現にその手は、からだの一部なのです。」*4

 

しかし、もしもこの文の中の"body"が、(手がその一部であるところの)bodyとはやや異なる指示対象を持っているのだとするなら、その際には、"is"は、隠喩的に(metaphorically)用いられているということになり、すべてのメタファーは先ほどのリストのd.に属しています。

 

「しかし問題は」とカードは続けます。

 

 「ここでの "is" が "represents (表す、表象する)" "symbolize(象徴する)"と提案するやいなや、聖餐の要素は、『単なるシンボル』と捉えるべきではないという返答が返ってきます。この反論の誤りは、シンボルというのは常にそれらが表すところのリアリティーに置き換わるのだという前提の内に在ります。

 それは、食欲を刺激するけれどもそれを満たすことはできない、本物の果物や魚に対する《静物画》の関係のごとくあります。

 しかし、口づけ、握手、鍵の贈呈等の多くのシンボルは、それらが表象しているものを伝播する手段です。それゆえ、聖餐の箇所でのこの連結詞の最も自然な解釈は、"represent (表象する)"となるでしょう。つまり、イエスは、それが象徴するリアリティーを伝えるべくパンを賜わったのです。」*5

 

一見したところ、カードのこの議論には非常に説得力があります。しかし、この見解には一つ弱点があると思います。

 

彼は次の二例を挙げています。ーー①口づけは愛のシンボルであり、それは実際に愛を運ぶ。なぜなら、それは愛の一部であるから。②成長していく子どもに贈呈される鍵は、自由のシンボルでありそれは実際に自由を伝播する。なぜなら、それはその自由の持つ手段の一つであるから。

 

しかし、パンというのは、ーー口づけが愛のシンボルであり、且つ愛の一部であるのと同じような仕方ではーー同時に、イエスのからだのシンボルであり、且つイエスのからだの一部であるというわけにはいきません。

 

彼の提示している握手の例は幾分ましですが、とにかく、私がこういった懸念を表明している理由は、連結詞の型に関し、たとい"is"が正しく同定された時でさえも、それでその他すべてのさらなる議論・検討の可能性が無効になったわけではないという事を示したかったからです。

 

ヨハネ1:1「ことばは神であった」

 

それでは彼の提示している二番目の議論について考察してみることにしましょう。ヨハネ1:1の最後の節「ことばは神であった」は、同一性の言明であるように見えます。

 

しかし、彼は「それはあり得ない」と言います。ーーなぜなら、二番目の節(「ことばは神とともにあった」)がそれを否定しているからです。

 

そこで私たちが「ことばは神であった」を属性的言明(bの型;NEB訳"what God was, the Word was")と捉えようとした場合、そこでも問題が生じます。「なぜなら、神は一(いつ)の類ですから、誰であれ神のすべての属性を持っている者は神であります。ですから、属性的言明は、同一性の言明に変換されます。」*6

 

こうしてカードは最終的に、不確かで、非常に説明的な表現をせざるをえなくなり、それによってさらに新たなる問いを生じさせる結果を作り出してしまいました。

 

しかし問題は彼自身の形成過程にあります。つまり、同一性の言明というのは必ずしも相互交換的・双務的であるとは限らないのです。

 

「犬というのは動物である」という言明は、「動物というのは犬である」という言明を暗示してはいません。それゆえ、「ことばは神であった」は、「神はことばであった」を暗示してはいないわけです。

 

確かに、神の属性を持っている者は誰であれ神に違いありません。しかし、もしも神の属性を持っている者が、それと同時にその他の属性を持っているからといって、「神はまたその人でもある」という事はできません。

 

彼は、「ヨハネ1:1の第二節は、第三節が同一性言明であるという見解を否定している」という事を肯定しています。しかしその肯定は、語彙意味論によって要求されているわけでもなく、構文論によって要求されているわけでもありません。

 

伝道者ヨハネは、たしかに「神は一(いつ)であるけれども、同時に神はある種の多元的一致でもあられる。なぜなら、神は受肉したみことばが主なり神なり呼ばれることを良しとされているからです(ヨハネ20:28)」といった趣旨の内容を語っているように思われます。*7

 

そしてそれと同じ視点が、ヨハネ1:1の第2節と第3節が当惑することなく共に並び、共に立つことを許容しているのかもしれません。

 

連結詞の4つの標準タイプに加え、私は第5の型を付け加えたいと思います。

 

e.成就(Fulfillment):「これは預言者ヨエルによって語られた事です。(This is what was spoken by the prophet.)」(使徒2:16)

 

これは同一性言明ではありません。なぜなら、"this"に先行する内容は、最初のクリスチャンのペンテコステに関連した一連の現象であって、預言それ自体ではないからです。

 

この文が本当に意味しているのは、「これは預言者ヨエルに語られた事を成就しています」という事です。

 

同じような事が黄金律(マタイ7:12)に関しても言えるかもしれません。黄金律はたしかに律法であり、預言者です("is")。しかし、これは同一性言明ではあり得ないため、ある人々はこれをタイプdとして受け取っています。

 

私見では、これをタイプeと捉えるのが、文脈的に言って、より優れていると思います。つまり、黄金律は律法および預言者を成就したのであり、それは、マタイの福音書の中で、命題においても予型においても、預言的役割を持つものとして提示されています。(マタイ5:17-20;11:11-13を参照)。*8

 

とにかく、私の論点は、単語の意味領域に対する根拠無き、早まった制限は、方法論的誤りであるということです。そしてこの誤謬は、解釈者たちが聖句の正しい解釈はとにもかくにも発見され得ると考えている所に在ります。ですが、多くの場合において、それは可能ではありません。

*1:Milton S. Terry, Biblical Hermeneutics: A Treatise on the Interpretation of the Old and New Testaments (1883; Grand Rapids: Zondervan, 1974), 191.

*2:Caird, Language and Imagery, 101. εἰμίのこういった使用は、連結詞使用の場合のみに適用される型です。これに加え、動詞は、例えば、「初めに、ことばがあった」(ヨハネ1:1)のような《存在の言明》を表すものとしても使われています。

*3:יֵשׁ(yesh)というヘブライ語は、《存在の言明》として用いられていますが、連結詞として普通に使われている語ではありません。(例外:ただし意味が"become"に近くなる、未来時制は除きます。)参:Caird, Language and Imagery, 100.

*4:同著、p.101.

*5:同著、p.101-2.

*6:同著、p.102.

*7:ヨハネのキリスト論のこの側面に関する詳細議論は次の著書を参照のこと。Carson, Divine Sovereignity and Human Responsibility, 146-60.

*8:Carson, Matthew, in the Expositor's Bible Commentary.