巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖書のワード・スタディーをする際に注意すべき事:その⑩ えり好み的、かつ偏向した立証資料の使用(by D・A・カーソン)

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D.A.Carson, Exegetical Fallacies, Chapter 1. Word-Study Fallacies, p.25-66(拙訳)

 

小見出し

 

自分が主張したいことを、えり好み的な資料使用により訴える

 

その⑤の項で、私はケファレー(κεφαλή)に関する取扱いにおける誤謬について触れました。その際、私の論点は、背景資料が不適切に扱われているという事にありました。

 

さて、本項で私は、それとは少し異なる種類の誤りについて述べようと思います。これもまた背景資料に関わってはいるのですが、それだけに制限されているわけではありません。

 

この種の誤りに陥っている解釈者たちは、実際に神の言葉が何と言っているかという事に耳を傾けることなく、あくまで自分が主張したいことを、えり好み的立証資料に訴えることによって成し遂げています。

 

トーマス・H・グルームのキリスト教教育論と、彼の陥っている複数の落とし穴

 

この種の現象は現在、あまりにも蔓延しているため、この誤謬により生み出された多種多様な歪曲を集積したなら、やがて1冊の本が出来上がるほどでしょう。

 

本項では私はその中のただ一例だけを取り上げます。キリスト教教育に関するカトリックの重鎮であるトーマス・H・グルームは、「知ることに関する聖書的方法("the Biblical way of knowing")」という議論の中で、一つではなく複数の釈義的落とし穴に陥っています。*1

 

まずグルームは深刻な形で誤謬⑦に落ち込んでおり、言語とメンタリティーを混同してしまっています。彼は言います。

 

「ヘブル的認識の仕方は、知的ではなく体験的です。一方、ギリシャ的思想はかなり異なっています。しかし〔彼グルームの観点からみて〕幸いなことに、ヘブル的背景は通常の異教ギリシャ人を修正しましたので、そのため、新約聖書においてでさえ、『神を知ること』は、データの取得ではなく、経験、従順、他者への愛と関連するものでなければならないとされたのです。」

 

このようにして彼は、旧約のセム的背景と新約それ自体の間の不適切な関係に関連する誤謬の渦に巻き込まれることとなりました。(その⑭を参照)。さらに彼は、乖離的(disjunctive)誤謬をも犯しています(その⑪を参照)。

 

しかし本項における私の主要な懸念は、聖書立証資料に対する彼のえり好み的使用にあります。彼はヨハネの著述を参照した上で、ある意味、神を知ること(もしくは神を信じること)が、神の掟を守り、他者を愛すること(例:1ヨハネ2:3-5、3:6)に関連している諸聖句を引用しています。*2

 

しかしその一方、彼は、(ヨハネの著述であれ、その他の著述であれ)キリスト教信仰には命題的内容もまた存在するということを示すような多くの聖書箇所を引用しようとはしていません。

 

例えば、ヨハネの著述から幾つかの例を挙げるなら、キリストを信じるだけでなく、キリストが仰せられていることを信じることも必須であり(例:4:50;5:47;11:26)、また時としてto believeの後に内容節が来ています。つまり、「to believe that...」ということです(例:ヨハネ13:19;17:21)

 

もちろん、キリスト教信仰及びキリスト教知識は、排他的に知性的なものだけに独占されているわけではありません。しかし、立証資料をえり好み的に抜き出すことにより、グルームは、「キリスト教信仰及び知識は、排他的に経験的かつ非知性的なものです」という(誤った)結論に持っていくことに成功しています。

 

その結果として生み出されたのは、一貫して実質内容を軽視する教育理論です。この誤りの主因は、えり好み的立証資料の提示が証拠を構成するのだというグルームの盲目的仮説に在ります。

 

*1:Thomas H. Groome, Christian Religious Education: Sharing Our Story and Vision (San Francisco: Harper and Row, 1980), 特に、p.141-45.

*2:しかしグルームが自ら引用した諸聖句を本当に理解しているかは大いに疑問です。というのも、彼はこういった聖句が最初に書かれた当時の状況にいかに関連していたかという事に関し全く認識していないからです。