巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖書のワード・スタディーをする際に注意すべき事:その① 語根にかかわる誤謬(by D・A・カーソン)

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小見出し

 

D.A.Carson, Exegetical Fallacies, Chapter 1. Word-Study Fallacies, p.25-66(拙訳)

 

はじめに

 

言葉というのはなんと驚嘆すべきものでしょう!言葉は情報を伝え、感情を表現し、あるいは引き起こすことができます。また言葉は、私たちの思考を可能にする媒体でもあります。私たちの発する命令の言葉により、物事が成し遂げられもします。

 

さらに、崇敬に満ちた言葉を用いて私たちは神を賛美するかと思えば、別の文脈の中では、その同じ言葉が神を冒涜するものにもなり得るのです。

 

言葉は、説教者が用いる主要な道具です。――彼の学んでいる言葉にしても、その学びを説明する際の言葉としても、です。幸いなことに、最近では、語彙意味論(lexical semantics;語や形態素の意味構造を扱う意味論の下位領域)の一般領域を解説する優れた入門書が出版されており*1〔Word-studyをする際に生じやすい〕特定の誤用についての警告がなされています。

 

ナタン・スーダーブロームがいみじくも言ったように、「言語学(philology)というのは針の穴のようなものであり、そこから全ての神学的ラクダは、神学の天国に入らなければなりません。」*2

 

私自身の提案というのは控え目なものであり、ただ、説教者たちが聖書の中の言葉を学び解説する際に、繰り返し登場してくる一連の一般的誤りをここに列挙し、いくつかの例を挙げたいと考えています。こういった事項が有益な「警告旗」として役に立つなら幸いです。

 

意味論の領域における、よくある誤謬

 

1.語根にかかわる誤謬(The root fallacy)

 

最も根強い誤りの一つである、語源にかかわる誤謬ですが、これは「すべての単語は、その語のかたちないしは(部分部分の)構成要素と密接に関係する意味を持っているのだ」ということを前提しています。

 

この見解によると、意味は、語源(etymology)によって決定されます。つまり、語根(root)ないしは単語の語根によって意味が決定されるというのです。

 

私たちは過去に何度、次のような説明を聞かされたことでしょう。「ἀπόστολος(使徒)の動詞語源は、ἀποστέλλω(私は~遣わす)なので、『使徒』の語根的意味は、『遣わされた者』という意味なんですよ」と。

 

欽定訳聖書の序文には、μονογενήςの「字義的」意味は、"only begotten"と書かれています。*3しかしそれは本当でしょうか?

 

また、どれだけ多くの説教者たちが、ἀγαπάω(to love)をφιλέω(to love)と対比させた上で、「ここの聖書箇所は、特別な種類の愛について言及しているんです。なぜなら、まさにこの箇所において、アガパオーが用いられているからです」との教えを説いていることでしょうか?

 

こういった一連の事はすべて、言語学的ナンセンスです。例えば、これを英語の語源の場合で考えてみましょう。アンソニー・C・ティーセルトン(Anthony C. Thiselton)は、具体例として、英語のniceを挙げ、この語が、元々、ラテン語のnesciusから派生した語であり、nesciusの意味は「無知、馬鹿げた」だと説明しています。*4

 

またgood-byというのは、アングロ・サクソン語の「God be with you(神があなたと共におられますように)」の縮約形です。

 

さて、nesciusからどのようにして"nice"が生じるに至ったかを通時的に辿ることは可能でしょう。また、"God be with you"が、どのような経緯で "good-by"と縮約されるようになったのかを想像することは勿論たやすいことです。

 

しかしながら、今日、「Aさんは"nice"な人です」と言っている人が、実は、そのセンテンスに、「Aさんは無知で馬鹿げています」という意味を含ませている(「なぜなら、"nice"という語の、『語根的意味』ないしは『字義的意味』は《無知、馬鹿げた》だからです」)というような事例を私は一度もみたことがありません。

 

ὑπηρέτης(しもべ)の基本的意味は、「船やボートを漕ぐ人」??

 

こういった点に関し、J・P・ロー(J.P. Louw)は、すばらしい実例を提供しています。*51コリント4:1で、パウロは自分自身や、ケパ、アポロ、その他の指導者たちのことを次のような語で書き表しています。「こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ(ὑπηρέτης, servants)、また神の奥義の管理者だと考えなさい」

 

もう、かれこれ1世紀余り前のことになりますが、R・C・トレンチという人が、「ὑπηρέτηςは、ἐρέσσω(=〔船やボートを〕漕ぐ)という動詞から派生した語である」という見解を流行らせました。*6

 

それゆえに、「ὑπηρέτηςの持つ基本的意味は、『〔船やボートを〕漕ぐ人』なのです」となったわけです。事実、トレンチは、かなりはっきりと、ὑπηρέτηςというのは、「元々、漕ぎ手でした(ἐρέσσωより派生)」と断言しています。

 

その後、A・T・ロバートソンと、J・B・ホフマンがこの説をさらに押し進め、「ὑπηρέτηςというのは、形態論的に、ὑπόと ἐρέτηςという二語から派生している」と言明しました。*7

 

さて、ἐρέτηςというのは、(BC8世紀の!)ホメロスの作品の中で「漕ぎ手」という意味を持っており、ホフマンは、そこから形態論との明白な関連性を引き出し、こうして次のように結論づけました。

 

「ὑπηρέτηςというのは、基本的に、『漕ぎ手の下で』ないしは『漕ぎ手の助手/アシスタント』ないしは『従属的漕ぎ手』のことを意味しています。」

 

もっとも先ほどのトレンチはそこまでは言っていませんでした。というのも、彼自身は、ὑπόという語に、『従属』という観念は検出していなかったからです。にもかかわらず、今度は、レオン・モリスが、「ὑπηρέτηςというのは、卑しい種類のしもべ("a servant of a lowly kind")という意味である」と結論づけました。*8

 

そして、ウィリアム・バークレーがさらに突き進み、「ὑπηρέτηςというのは3段オールのガレー船〔古代ギリシャ・ローマの軍艦〕の低斜面にいる漕ぎ手という意味である」と指摘しました。*9

 

しかし、(一つの例外*10ーーしかもそれは単に『そうである可能性がある』と言われているにすぎず、確かではありませんーーを除き)ここに一つの変らない事実があります。

 

それは、ὑπηρέτηςというのは古典文学の中でただの一度たりとも「漕ぎ手」という意味で用いられたことはなく、ましてや、新約聖書でそのような用いられ方をしている実例はまったく皆無です。新約聖書におけるὑπηρέτηςは、しもべであり、多くの場合、この語と、διάκονοςとの境目は曖昧です。

 

ローが指摘しているように、ὑπόと ἐρέτηςから、ὑπηρέτηςの意味を引き出す行為は、「butter(バター)」と「 fly(飛ぶ)」からbutterfly(チョウ)の意味を引き出す、ないしは「pine(松)」「apple(リンゴ)」からpineapple(パイナップル)の意味を引き出すのと同じくらい、本質的に非現実的な試みだと言わざるを得ません。*11

 

ハワイに一度も行ったことのない人でさえも、パイナップルという食べ物が、松の木に生える特別な種類のリンゴなどではないということを知っています。

 

各種の語源と結びついた《隠れた意味》を探そうとの試みは、「全く異なる意味を持つ二つ別々の単語が、同じ語源をもっている」際に、さらに滑稽じみたものになっていきます。

 

ジェームス・バーは、著書『The Semantics of Biblical Language(聖書言語の意味論)』の中で、ラヘム(לָהַם)と、ミルハマー(מִלְחָמָה)というヘブライ語のペアーに注目し次のように述べています。(前者は、「パン」、後者は「戦争」という意味です。)

 

 「〔語の標準的用法における〕古典的ヘブライ語の中で、この二語の共通した語根が、なにか意味論的に重要性を持っているかということに関してですが、それは疑わしいと言っていいでしょう。

 

 そして、ーーあたかも、戦闘が通常、パンの糧を得るためであったとか、パンというのが戦いのために必要な糧食であったかのようにーー「二語が互いを喚起させるものである」と結論づけることは、まったく空想的産物にすぎません。

 

 もちろん、時として、音の類似(を際立たせるべく)、似通った音の並びを持つ単語を意図的に並列させることはあり得ます。しかしそれはあくまで特別なケースであり、他の例とは区別されてしかるべきです。」*12

 

それでは前述した3つの事例に話を戻すことにしましょう。

 

ἀπόστολος(使徒)

 

確かにἀπόστολος(使徒)がἀποστέλλω(私は~遣わす)と同じ語源を持っているというのは論拠あることですが、この名詞ἀπόστολοςの新約聖書での用法は、「遣わされた者」という意味ではなく、むしろ「メッセンジャー、使者」という意味に重点を置いています。

 

メッセンジャーというのは大概の場合、遣わされますが、messengerという語はまた、その人が携え持ってきているmessageをも想起させ、この使者が、彼を送り出している御方を代理・代表しているということを示しています。

 

換言すると、新約聖書での実際的用法は、ἀπόστολοςというのが普通、「遣わされた人」というよりはむしろ、特別な代理人あるいは特別なメッセンジャーという意味を帯びているということです。

 

μονογενής

 

μονογενήςという語は、しばしば、「μόνος(唯一の)+ γεννάω(生む、to beget)という二語から生じている。それゆえ、その意味は、"only begotten"である」と考えられています。

 

語源的なレベルにおいてでさえ、γεν-という語根はトリッキーです。つまり、μονογενήςは、「μόνος(唯一の)+γένος(種類、人種)という二語から生じている。それゆえ、その意味は、『その種類の一つに過ぎない』もしくは『比類がなくユニークな』という意味である」と捉えることも不可能ではありません。

 

この用法についてさらに考察を進めていくなら、七十人訳は、"begetting"という意味の影すら出さず、יָחִיד(yahid)を"alone"もしくは"only"と捉えていることに気づくでしょう。(例:詩篇22:20〔LXXでは21:21〕"my only soul"、詩篇25:16〔LXXでは24:16〕"for I am lonely and poor〔私はただひとりで悩んでいます。〕")

 

確かに新約聖書の中で、この語はしばしば、親と子の関係に言及していますが、しかしここにおいてでさえ、注意が必要です。ヘブル11:17で、イサクはアブラハムのμονογενήςだと言われていますが、これは当然、"only-begotten son"を意味していませんし、それは不可能です。

 

なぜなら、アブラハムはまたイシュマエルの父親ともなり、ケトラによっても子孫を設けていたからです(創25:1-2)。しかしながら、イサクはアブラハムにとってのuniqueな息子であり、特別にして愛すべき息子でした。*13

  

それゆえ、"for God so loved the world that he gave his one and only Son" (ヨハネ3:16, NIV)というような訳出の仕方は、パラフレーズへの過度の愛着からなされたものではなく、主要な真理を否定しようという邪悪な願望によるものでもなく、言語学的考察からなされたのです。

 

ἀγαπάωとφιλέω

 

同様のことがアガパオ―についても言えます。確かにἀγαπάω(to love)の全領域と、φιλέω(to love)の全領域が全く同じであるというわけではありません。

 

ですが、この二語はかなりの度合いで互いに重なり合い、オーバーラップしています。そしてそのように両者が重なり合っている部分に対し、ある人が、そこにあえて区別を設けようと「語根の意味 "root meaning"」に訴え出ることは誤っています。

 

2サムエル13章(LXX)では、ἀγαπάω(to love)も、同じ語源のἀγάπη(love)も共に、腹違いの妹であるタマルに対するアムノンの近親相姦的レイプ行為を言及していると言っていいでしょう(2サム13:15, LXX)。

 

ダマスが、邪悪な今の世を愛したためにパウロを捨て去りましたが、ここで用いられている「今の世を愛し」の動詞はἀγαπάωです。これも言語学的には何ら驚くべき理由を見い出しません。

 

ヨハネ3:35では「父は御子を愛しておられ」とあり、動詞はἀγαπάωです。そしてヨハネ5:20はこの思想を再度繰り返していますが、この箇所で用いられている動詞はφιλέωであり、ーーそこに、意味におけるいかなる認識可能なシフトも存在していません。

 

ἀγαπάωとφιλέωのペアーに対する誤った思い込みは、非常に蔓延していますので、私はこの問題に関し、後ほどまた触れようと思っています。ただここで私がとりあえず申し上げておきたい点は、動詞ἀγαπάωも名詞ἀγάπηも、「その真の意味(ないしは隠れた意味)が何か特別な種類の愛を指している」という事を立証するなんら内在的原因を持っていないということです。

 

3つの但し書き

 

しかし今ここで私は3つの但し書きをしたいと思います。まず一点目ですが、私は、「結局、単語はどんな意味でも持ち得る」というような事は言っていません。通常、個々の単語には、ある限定された意味領域があり、それゆえ、ある境界内においてのみ、文脈は個々の単語の意味を修飾したり、成形したりします。

 

もちろん、意味の全領域は、恒久的に固定されているわけではありません。時の経過により、あるいは新奇な使用法により、それはかなりシフトする可能性もあります。

 

しかしそうではあっても、私は、単語というのが無限に可塑性のもの(plastic、変形しやすい)であるとは言いません。私が申し上げたいのは、個々の単語の意味は、語源によって確実に決定されるということはできず、また、「どんな語根も、それがひとたび発見されたならば、それは常に、その語根を包含するどんな単語の上にも、ある意味の積み荷を投影している」ということはできないという事です。

 

言語学的に言って、意味というのは、個々の単語の内在的所有ではありません。そうではなく、「それは、動詞的シンボルがsignであるところの一式の関係性なのです。」*14

 

もちろん、ある意味においては、ーーつまり、①帰納的に観察されている語彙領域を提供している、もしくは、②ある特定の文脈の中における単語の意味を特定化している際にはーー、私たちが「この単語の意味は~~です」と言う事は妥当です。しかし、その際、私たちはその説明に、語源的積み荷をあまりにも詰め込まないようにしなければなりません。

 

さて二番目の但し書きですが、それは「個々の単語の意味は、それを構成する各部位の持つ意味を反映している場合がある」ということに関してです。

 

例えば、ἐκとβάλλωから構成されている動詞ἐκβάλλωは、実際、「私は~追い出す」「私は~投げ出す」という意味を持っています。ですから、個々の単語の意味がその語源を反映していることはあり得るわけです。

 

そして実際、この現象は、英語のような言語よりも、ギリシャ語やドイツ語のような総合的(synthetic)言語においてより一般的に見い出されます。つまり、ギリシャ語やドイツ語には、比較的高いパーセントでの《透明な単語》(⇒その意味とある種の自然な関係を持っている単語のこと)が見い出されるのに対し、英語には《不透明な単語》(⇒その意味となんら自然な関係を持っていない単語のこと)がより多く見い出されます。*15

 

しかしそうではあっても、私たちは、語源が意味に関連しているということを「当然のものであるかのように」前提することはできない、というのが私の論点です。私たちは帰納的に個々の単語の意味を見い出していくことによってのみ、要点や主張を検証することができます。

 

最後に申しあげたいのは、私は「語源の学びが無益である」とは微塵も言っていないという事です。例えば、①個々の単語の通時的学び(⇒長い期間を通じた個々の単語の学び)において、②立証され得る最も原始の意味を特定する際に、③同系言語の研究の際に、そして特に、④hapax legomena(⇒ギ:使用例が一つしかない語)の意味を理解する際、語源の学びは有益となります。

 

特に④のhapax legomenaに関してですが、語源(学)というのは意味を識別する上で確かに手際の悪い道具ではありますが、比較参照できる実質的手段が欠如している状況下にあっては、時としてそれを用いるより他に方法がないと言えます。

 

それゆえに、モイセス・シルヴァは、著書『Biblical Words and Their Meaning』の中で優れた議論を展開し、「意味の決定において、語源学というのは、ギリシャ語新約聖書においてよりもヘブライ語旧約聖書において、遥かに重要な役割を果たしている」と述べています。

 

なぜなら、ヘブライ語には比例的に〔ギリシャ語よりも〕ずっと多くのhapax legomenaが含まれているからです。*16

 

[Silva, Moisés]のBiblical Words and Their Meaning: An Introduction to Lexical Semantics

 

「こういった語源学の使用の相対的価値は、その言語の〔研究のために〕入手可能な資料の質と反比例しながら変化していきます。」*17

 

とにかく、語源だけを唯一の基盤にした単語の意味の特定化は、「教養ある推測」の域を決して出ることができないと言っていいでしょう。

 

*1:特に以下に挙げる著述を参照のこと。James Barr, The Semantics of Biblical Language (Oxford: Oxford University Press, 1961); Eugene A. Nida and Charles R. Taber, The Theology and Practice of Translation (Leiden: Brill, 1974); Stephen Ullmann, Semantics: An Introduction to the Science of Meaning (Oxford: Blackwell, 1972); G. B. Caird, The Language and Imagery of the Bible (London: Duckworth, 1980); Arthur Gibson, Biblical Semantics of New Testament Greek (Philadelphia: Fortress; Chico, Calif.: Scholars Press, 1982); そして特に、モイセス・シルヴァの次の著書を参照のこと。Moises Silva, Biblical Words and Their Meaning: An Introduction to Lexical Semantics (Grand Rapids: Zondervan, 1983).

*2:"Die Philologie ist das Nadelohr, durch des jedes theologische Kamel in den Himmel der Gottesgelehrheit eingehen muss." これは以下の著書の中に引用されています。J.M.can Veen, Nathan Soderblom (Amsterdam: H.J. Paris, 1940), 59 n.4; また次の著書の中でも引用。A.J.Malherbe, "Through the Eye of the Needle: Simplicity or Singleness," Rest Q 56 (1971):119.

*3:The New King James Bible (Nashville: Nelson, 1982) もしくはThe Revised Authorized Version (London: Bagster, 1982), iv.

*4:Anthony C. Thiselton, "Semantics and New Testament Interpretation," in New Testament Interpretation: Essays on Principles and Methods, ed. I. Howard Marshall (Exeter: Paternoster; Grand Rapids: Eerdmans, 1977). 80-81.

*5:Louw, Semantics of New Testament Greek, 26-27.

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*6:R.C. Trench, Synonyms of the New Testament (1854; Marshalltown: NFCE, n.d.), 32.

*7:A.T. Robertson, Word Pictures in the New Testament, 4 vols. (Nashville: Broadman, 1931), 4:102; J.B. Hofmann, Etymologisches Worterbuch des Griechischen (Munich: Oldenbourg, 19501, s.v.

*8:Leon Morris, The First Epistle of Paul to the Corinthians, Tyndale New Testament Commentary series (Grand Rapids: Eerdmans, 1958), 74.

*9:William Barclay, New Testament Words (Philadelphia: Westminster, 1975), s.v.

*10:問題となっている碑文には次のような文が刻まれています。τοὶ ὑπηρέται τᾶν μακρᾶν ναῶν (大きな乗り物の上にいる従者たち〔漕ぎ手たち?〕)。『リーデル・スコット英語ギリシャ語大事典(LSJ)』(1872)によると、漕ぎ手たちという意味は疑わしいとなっています。

*11:Louw, Semantics of New Testament Greek, 27.

*12:Barr, The Semantics of Biblical Language, 102.

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*13:詳細は、Dale Moody, "The Translation of John 3:16 in the Revised Standard Version," JBL.72 (1953): 213-19を参照。

ムーディの論文を論駁しようとの試みは、今日に至るまで説得性を持っていません。一番最新のそういった試みとしては、John V. Dahms, "Te Johannine Use of Monogenes Reconsidered," NTS 29 (1983): 222-32.

ここで彼の論点に対し詳細に反証を加えていくことはしませんが、私の判断では、彼の立証は、常に公明正大であるわけではありません。例えば、詩篇22:20におけるμονογενήςの使用に関して言及する際、彼は人ではなく事象が視野に入っていると強調しています。

それなのに、詩篇25:16(LXXでは24:16)"for I am μονογενής (lonely) and poor〔私はただひとりで悩んでいます。〕"の箇所では、彼は「lonelyという意味は可能である」と譲歩しつつも、次のように付け加えています。

「私たちは、"only child"(つまり、助けを供給する兄弟たちが誰もいない)という意味が(もまた?)意図されているということが可能だと考えています。」(p.224)

しかしながら、ダビデがこの詩篇を書き、ダビデには兄弟たちがたくさんいたという事実があるのも拘らず、ダームズは上記のような議論を繰り広げています。しかし少なくともダームズは、「意味は、語源ではなく、用法によって決定される」ということは認識しています。(p.223)

そしてこれがまさに私の主眼点です。ムーディは、「アリウス論争により、聖書翻訳者たち(とりわけヒエロニムス)は、μονογενήςを、unicus(only)ではなくunigenitus(only begotten)と訳すよう刺激されました。しかしここにおいてさえ、ヒエニムスは首尾一貫していません。

なぜなら彼は今もまだルカ7:12:8:42;9:38等、キリストに対する言及ではなく、したがってキリスト論的問題が関与していない聖書箇所はunicus (only)という訳語の方を好んでいたからです」と述べています。

これらの事から、ヒエロニムスの方針変更を刺激したのは、言語学的研究ゆえではなく、むしろ、同時代における神学的論争の重圧ゆえであったことが提示されていると言えます。

*14:Eugene A. Nida, Exploring Semantic Structures (Munich: Fink, 1975), 14.

*15:特に、Ullmann, Semantics, 80-115を参照のこと。

*16:Silva, Biblical Words and Their Meaning, 38-51.

*17:同著p.42.