巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

プラトン思想とキリスト教世界観(by ヴェルン・ポイスレス)

 Mosaic showing Plato's Academy. Public domain.

プラトン時代のアカデメイアを描いたモザイク画

 

目次

 

Vern Poythress, In the Beginning Was the Word Language—A God-Centered Approach, Appendix D, Platonic Ideas, p.326-331(抄訳)

 

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ヴェルン・ポイスレス(ウェストミンスター神学大、写真右)

 

あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。2テモテ1:13

 

はじめに

 

ギリシャの哲学者プラトンは、思想および言語に関する西洋的ものの見方を含め、西洋文明に甚大な影響を及ぼしてきました。

 

この論考ですべての分野をカバーすることはできませんが、言語に対する聖書を基盤としたアプローチが、プラトンのそれとどのように異なっているのかについていくらか素描できたらと思います。*1

 

プラトンの対話篇では、正義や、善、美、真理といった鍵となる概念についての省察がなされています。プラトンは、感覚の世界は、(正義や美のイデア等の)理想的抽象ないしは「イデア("forms")」という真の世界の影にすぎないと考えました。

 

そして至高のイデアは、善のイデア(ἰδέα του ἀγαθοῦ)とされました。また、犬のイデア、馬のイデア、牛のイデア、ヤギのイデアという風に、多くの種類のものに対しても理想的イデアが存在するとされました。そして哲学者プラトンの人生の目的は、そういったイデアを知ることにありました。

 

 

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 出典

 

言語との関連性

 

また、プラトンはイデアについての議論だけでなく、いかにして私たちがそういったものを認識していくことができるのかについても考察しました。

 

彼は思想に焦点を置いていましたが、彼はそれを言語を使って論述していました。理想的イデアは、(「正義」「善」等)言語の中にあるkey wordsに対応していたのです。*2

 

ですから、プラトンは間接的に、言語に対しある含意を提示しています。つまり、言語と思想は、互いに関連し合っているということです。

 

では、私たち自身の、言葉に対するアプローチと、プラトンとのそれとを対照することで、プラトンの採っているアプローチに対する理解に努めてみることにしましょう。

 

まず言葉(words)は、多数の関係性の中に存在しており、〔素粒子、波動、領域視点といった〕多数の視点(perspectives)から見ることができます。*3

 

その見解の中で、彼は、《素粒子》的視点を、それがあたかも全体真理であるかのように用いています。つまり、彼によると、それぞれのイデアは素粒子(a particle)であり、基本的にそれ以外の全てのものから独立しているのです。

 

人間行為のすべての単位と同様、言葉も、対照・同一性形態(contrastive-identificational features)、差異(variation)、文脈(配分)を持しています。*4

 

その中でプラトンはただ唯一、対照・同一性形態だけを欲しました。プラトン的純粋思惟というのは、純粋対照形態のようなものであり、それは、例えば、個別の犬といった個別(particularities)との必然的関連性を持たない純粋カテゴリーです。こうして差異は省かれます

 

もちろんプラトンも、一件の個別の家が、ある意味における《差異》、ないしは、家のイデアの個別的顕れであることは認めていたでしょう。しかし差異は、イデアと比較するなら完全に二次的なものでした。こうした個別の降格が、プラトン哲学を特徴づけています

 

それに加え、プラトン的範疇(categories)には、私たちが犬(dogs)を観察し、そういった犬たちについて語るべく全文章を用いるところの「文脈」ーーこれとの関連性がありません。

 

従って、文脈(分配)も省かれることになりました。その結果として勿論、idealization(イデア化、観念化)が生じてきますが、それはまた、ユニタリアン的でもあります。

 

しかし神はそのような御方ではありません。そして神の創造された世界も、そのようには造られていません。私たちは自分の思考の中で、世界を、イデアにかたどって作り直そうとするかもしれませんし、現実をそれに適合させようとするかもしれません。しかしそれは還元主義です。

 

多と一(The Many and the One)

 

多くの哲学者たちはこれまで、個別の、普遍との関係性をどう捉えるのかについて模索してきました。*5

 

個別というのは個々の馬のことを指し、それに対し、普遍とは、《馬》という一般概念のことを指します。それではこの両者は互いにどのように関連し合っているのでしょうか?

 

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出典

 

それに対するプラトンの回答は、一(いつ)である普遍的イデアの優先および現実への強調でした。しかしそれならば、個別は一体どのように生成し得るのでしょうか?

 

多と一(たといつ)の問題は、三位一体の教義の内に、その解明を見い出すことができます。神は、一(いつ)であると同時に三(みつ)であり、そこには三に対する一の「優先」はありません。

 

神は多と一の原型的(archetypal)実例です。それに対し、被造されたものは、多と一の模写的(ectypal)ないしは派生的実例です。

 

言語においては、対照・同一性形態は、一(いつ)であり、多くの顕れの統一を表しています。そして差異(variation)は、多を表しています。

 

同一性、差異、文脈(分配)の相互連結は、三位一体としての同時内包性を反映していますので、この連結は偶発的なものではありません。

 

また(プラトンはおそらく主張するでしょうが)それは、「私たちの存在が肉体の中にあり、諸感覚に従属しているという不幸な副作用であるから」という訳でもありません。またそれは、「言葉だけに属し、純粋思惟には属さないなにか」でもありません。

 

それは確実に、人間存在および人間経験の中に組み込まれているのです。そして、私たち人間の間でそれがその様である理由は、それがまず神ご自身の内に実在する型(pattern)だからです。そしてこの神は多と一の原型です。

 

プラトンは、イデアを、「純粋思惟の領域の中に実在するもの」と描写しました。それならば、物質世界はどのようにして生成したのでしょうか?プラトン後期対話篇の一つである『ティマイオス』の中で、プラトンは、「デーミウルゴス」を登場させています。

 

デーミウルゴスというのは、一種の「下級神」であり、イデアを見、型としてイデアを用いながら物質世界を創造したとされています。しかし結局のところ、このデーミウルゴスは、イデアに劣るものでした。なぜなら、彼が造ろうとしていた物質世界を決定していたのはイデアだったからです。

 

ですから、プラトンの「デーミウルゴス」は、ある意味、神的存在ですが、彼は第二級の神に過ぎず、真の神のまがい物であるに過ぎません。*6

 

それに加え、プラトンの視点は、超越性と内在性に関するノン・クリスチャンの思考方式と関わり合いを持っています。*7

 

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出典:Transcendence and immanence – Cornelius Van Til (図表の文字が見えにくくてごめんなさい!はっきり見たい方はココのp321でどうぞご確認ください。Thank you!)

 

 

プラトンによると、仮に人間がイデアを掌握するなら、彼は究極的リアリティーを掌握し、よって究極的リアリティーの征服者となります。その際、人間理性が万事を裁断する計りとなります

 

こういった人間理性の勝利は、ノン・クリスチャンの《内在性》の形態であり〔上の図の右下部分の(4)がそれに該当します)、そこでは人間が究極的審判者となっています

 

それと同時に、イデアには、事実上、アクセス不可能です。なぜなら、肉体存在の中における人間は、常に、諸感覚や(物質世界に存在する個別の馬やヤギや犬などといった)不純な個別による妨害や干渉に甘んじなければならないからです。

 

こういったイデアへのアクセス不可能性は、ノン・クリスチャンの《超越性》を表象しており、そこでは究極的リアリティーは不可知なものとされています。〔上の図の右上部分の(3)がそれに該当します。〕

 

キリスト教化されたプラトニズム

 

あるキリスト者たちは、イデアを「神の思いの内部に(within God's mind)」置くことにより、キリスト教の枠組みの中にプラトン思想を適応させました。

 

このヴァーションによると、もはやイデアは神から独立しておらず、神に優越してもおらず、それは単に神自身の思考の諸側面に過ぎません。

 

この見解は、より納得のいくものでしょう。なぜなら、イデアはもはや、神の外側にあり、神に優っているとされている〈なにか〉に神を従属させようとはしていないからです。

 

この見解は、ある種の言語観にも援用され得ます。そこでは、言葉および言語は、まず第一に、神の思考の中に存在しており、その後、私たちの内に存在していると考えられています。

 

しかしながら、キリスト教化されたプラトニズムは今もって、「一(いつ)である普遍が、多である個別に先行している」というプラトンの見解を廃絶してはいません。

 

この見解では、馬のイデアというのは神の思いの中に存在しているわけですが、それは、馬のイデアの型に従って神がお造りになった多くの馬に先行しています。しかし、これは真理の半分でしかありません。

 

馬(horses)についてのキリスト者の見方

 

創造主としての神は、個々の馬を創造しようとご計画されたにとどまらず、馬の全種をお造りになることを企図されていました。神の思い(思考)の中で、神の御計画は、馬(horses)に先行しています。また神の御計画は、「普遍的集団としての馬の全種という被造物」にも先行しています

 

つまり、被造世界は、普遍であるところの〈馬の種, the species of horses〉、そして個別であるところの〈個々の馬〉を持っているわけです。これは被造された多と一です。そしてこの被造された多と一の背後には、多と一、その双方に対する神の御計画が存在しています

 

実に、多も一も等しく、神の御計画、神の思いの中にあって究極的です。なぜでしょう?それは、両者共に、多と一であるところの、神の持つ三位一体という特徴を反映しているからです

 

多と一は、前述しました言語に関する二つの視点に密接に関連しています。一(いつ)であり、普遍であるところのものに焦点を置くことは、言葉に属している《対照・同一性形態》に相当します。「馬」という言葉は、一つの語です。登場するたびに、それは同じ語です。

 

他方、「多」に焦点を置くことは、差異に相当します。「馬(うま)」という語が出て来るたびに、発声される〈オト〉はそれぞれ皆異なっています。またそれはそれぞれ、異なる文章に属しており、異なる文脈の中で言及されています。

 

私たちは文脈(分配)に留意する必要があります。個々の単語は、関連する諸文脈の中に現れています。

 

類比的に、馬(horses)は、諸文脈の中――つまり、他の馬との文脈、彼らを飼育している人間との関連における文脈、そして彼らが放牧されている牧場の文脈などーーに現れています。

 

馬に対する神の御計画には文脈ーーつまり、それぞれの馬に関わっている残りの世界に対するご計画ーーがあります。そして全歴史に対する神の御計画は一(いつ)です。

 

それはご自身の思考の調和と一致によって統一されており、究極的には、同時内包している三位一体神の三位格の調和と一致によって統一されています。ですから、神の思考の内部にあってでさえも、そこには孤立した馬の「イデア」なるものは存在していないのです。

 

それは孤立し得ません。なぜなら、三位一体神の各ペルソナは、同時内包(coinherent)しておられるからです。そして「馬」に関するこういった原型的同時内包、対照、差異、文脈(分配)からの派生もまた、同時内包しているからです。

 

異文化間の普遍性と個別性

 

それでは今度は、プラトン思想と、言語・文化の多様性との関わりについてご一緒に考えていくことにしましょう。

 

プラトンは、イデアというのは、あらゆる文化内の、あらゆる(知性を持った)人間に対して絶対的に同一であるものと考えていました。

 

プラトンによると、人間理性というのは、それが健全な時には、完全に普遍的であり、そこには差異がありません。そしてそれは全ての人間にとって同一です。この見解によると、一つの普遍的理性は、一つの普遍的イデア(例えば、馬のイデア)を理解し把握しようとしています。

 

思考におけるこの次元においては、そこに文化的差異の余地はありません。人間の統一性に関するこういった見方は、霊的に言うと、三位一体的であるよりはユニテリアン的です。

 

それでは、神の持つ三位一体の特性を考慮に入れた場合、人間の統一性とは一体どのような外観を持つようになるのでしょうか。そうです、この場合においても、すべての健全な人間思考の内には、深い統一性があります。なぜなら、神は一であり、全ての人間は神のかたちに造られているからです。

 

しかし神の内にある各人間の多様性は、人間的、模写的次元において反映されています。人間はそれぞれの思考において多様性を持しています。そういった多様性は、誤りや罪やプライドが私たちの思考を腐敗させる時には、確かに破壊的なものになり得ます。

 

しかし聖霊によって刷新されたキリストのみからだの内にあっては、全ての多様性の皆が皆、混乱を生じさせるものであるとは限りません。むしろ、それは私たちに豊かさをもたらすものであると言えましょう。

 

こういった多様性はどのような外観を帯びているのでしょうか。いくつかの素朴な例をとって考えてみましょう。さて、まずは馬のことから始めましょう。

 

私の妻の友だちは何頭かの馬を飼育し、それらを調教しています。そして騎手を育てています。彼女はそれぞれの馬の性格も、肉体的強さ・弱さもよく知っています。それぞれの馬が彼女にとっては友なのです。ですから、彼女の中での馬についての考えは、それぞれの馬との彼女の経験によって色づけられています。

 

それでは、彼女のこういった経験と、自分の農地に迷い込んだ野生の馬たちを必死に追い払おうとしている一人の農夫の経験を比較してみてください。

 

はたしてこの二人は、馬に関する同一の「観念」を持っているのでしょうか?あるいは、二人は、(馬を専門とする)獣医が馬に関して持っているのと同一の「観念」を持っているのでしょうか。

 

あるいは、家畜としての馬と、ウマ科に属するその他の種との関連性を研究している動物学者の持っている「観念」とは同じでしょうか?あるいは、馬の足潰瘍をいかに治癒することができるのかを研究している専門家の持っている「観念」とはどうでしょうか?

 

上に挙げた人々は皆、家畜用の馬という種に関するいくらかの観念を持っています。しかしそういった種に関する彼らの観念は、神の持っておられる知識のほんの一側面を表しているに過ぎません。

 

神の知識こそ包括的です。それは上述の人々が知っているあらゆる詳細を包含しています。そして神の知識は、一人の人間が、自らの関心や経験という背景を基に、馬に対して考える全ての視点を認識していることを含んでいます。

 

ですから、神の知識を、プラトン的普遍ーーhorsenessーーに粉砕することは還元行為です。

 

もしもこういった人々が皆、欺かれておらず博識であるとするなら、彼らは純粋な知識をもたらし、それは全て真です。

 

こうして彼らは馬に関する誰の「観念」が正しいのか否かをめぐって互いにいがみ合ったり戦ったりする代わりに、互いを補完し、補い合います。それぞれが相手から何かを学ぶことができるのです。

 

その過程において、各人はーー馬と、神の御計画の全体との関係性についての知識を含むーー神の包括的知識に対するさらなる認識の内に成長していきます。

 

馬についての異なる諸見解という多様性は、同じ言語を母語とする人々の間にさえ存在します。ましてや他の諸言語を用いる人々との間にはさらなる多様性が浮き彫りにされることでしょう。

 

例えば、他の諸言語には、私たちの母語にマッチしない語彙があるかもしれません。彼らはもしかしたら、私たちとは異なる仕方で、馬の色や気質や品種を区分しているかもしれません。

 

また彼らの動物種分類は、私たちのそれとは食い違っているかもしれません。しかしそういった事は私たちの心を乱すものではありません。

 

私たちは鯨やイルカを、科学的分類法という見地から、「哺乳類」と分類しつつ、同時に、これらの生物の体の形や生息地という見地から、口語的に「魚」と分類することもあり得ます。

 

部分的部類というのは、ーーそれが、その他すべての視点による分類を自動的に皆「虚偽」呼ばわりすることによりそれらを排除するような、見境のない主張をしない限りにおいてーー、真であり得ます。

 

視点(Perspectives)

 

空間的視点における多様性は、馬に関する諸見解の違い、および、語彙における相違、言語間におけるその他の相違に対しての理解のためのシンプルな類比(analogy)を提供しています。

 

さあ、ここに何人かの人がいて、一軒の家を見ているとしましょう。

 

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Aさんは私の家を飛行機の上から見ています。Bさんは私の家を通りから見ています。Cさんは私の家を裏庭から見ています。Dさんはわが家の居間のソファーに座りながら私の家を見ています。

 

さて、それぞれの人が見ているものは間違っているのでしょうか?もちろん、そんな事はありません。数学的には、それぞれの地点からの角度(見地)における相違を算出する等式と、これらの視点との間を「移動(translate)」させることは可能です。

 

また私たちは、どんな物体が、それより近い所にある物体によって塞がれ、見えなくなるのかということを予測するという方法で各視点の間を「移動」することもできるでしょう。

 

各視点はそれぞれ皆、妥当です。そして全ての人はリアルなものを見ています。彼らは私の家を見ているのです。

 

神はこれら全ての視点をご計画されました。神は余すところなくそれら全てをご存知です。そして神は純粋に、それらの視点を、人間が経験するものとして是認しておられます。

 

神はまた、各視点の間の関係性をもご計画され、私たちはある地点から他の地点に移動する際、そのことを経験します。

 

それゆえに、神はまた、馬についてのあらゆる視点をご計画されたのです。神は全ての言語をご計画し、それらの使用を是認しておられます。

 

こういった豊かさとは対照的に、プラトン的イデアは、全ての言語の中にあって全ての人に対しそれが純粋に同一であるとしています。それにより、豊かさは打ち壊され、多様性無き統一性へと還元されています。

 

言語内にも、罪深い腐敗による困難が侵入してきます。しかし、罪の除去は、その他の種類の多様性の排除を要求するわけではありません。なぜでしょう?なぜならそれは統一性の中にある多様性だからです。

 

実に、神は三位一体の神です。空間的各視点という多様性は、統一された人間理解によって統一されており、それにより私たちがそれらの間を移動することが可能にされています。

 

私たちの人間理解の統一性は、神の理解における原型的統一性を反映しています。しかし、それは、わが家の居間のソファーに座っていたDさんの特定経験の真性(genuinness)を帳消しにしたり、非現実化したりはしません。

 

私の家という統一性という『一(いつ)』は、多くの空間的視点という『多』と相反していません。神がそのようにご計画なさったのです。

 

そして神がそうなさったのは、調和に満ちた多数の視点の中でご自身の栄光を示すことを神がお喜びになっているからです。

 

この方は三位一体の神です。そしてこれこそが、多様なる空間的視点のため、多様なる諸言語のための究極的礎であり土台なのです。さらに言うなら、言語においては、豊かなる多様性への可能性は、さらに雄大なものだといえましょう。*8

 

ー終わりー

ーーーーー

*1:次の論文も参考のこと。John M. Frame, “Greeks Bearing Gifts,” in Revolutions in Worldview: Understanding the Flow of Western Thought, ed. W. Andrew Hoffecker (Phillipsburg, NJ: Presbyterian & Reformed,2007), 1–36; Vern S. Poythress, “The Quest for Wisdom,” in Resurrection and Eschatology: Theology in Service of the Church, ed. Lane G. Tipton and Jeffrey C. Waddington Phillipsburg, NJ: Presbyterian & Reformed, 2008, 96–100.

*2:もちろん、プラトンはギリシャ語で用語を用いていますが、挑戦となる点は英語でも同様です。

*3:本書第7章を参照。

*4:本書第19章で取り上げられているbehavioremesを参照のこと。

*5:本書第33章を参照。

*6:訳者注:〔対話篇『ティマイオス』のグノーシス主義への影響について〕グノーシス主義はヘレニズムの思想的・宗教的シンクレティズムのなかから生まれた「精神の姿勢」としての世界観的な宗教・思想であり、悪であるこの世と善である永遠の世界を対立させて考える二元論です。悪の世界すなわちこの世は物質の世界であり、善である超越的世界はプラトンの概念ではイデアの世界に当たります。 グノーシス主義は、なぜ、悪である物質世界が存在するのかを説明するため、『ティマイオス』の創造神話を援用しました。つまり、傲慢な下級の神であるデーミウルゴスがこの不完全な世界を創造したのだ、としたのです。イデア界に当たる超越的な世界は、アイオーンから構成されるプレーローマ世界と呼ばれています。人間はプレーローマに起源のある「霊(プネウマ、ギ: πνευμα)」を内に持つ存在であるが故に、グノーシス(gnosis)の認識を通じて、永遠の世界へと帰還し、救済されるとされました。(参照

*7:本書のappendix Cを参照。

*8:Vern S. Poythress, “Reforming Ontology and Logic in the Light of the Trinity: An Application of Van Til’s Idea of Analogy,” Westminster Theological Journal 57/1 (1995): 187–219も参照。