目次
- 姉妹たちの証し
- ① ヴィアン・エリザベス姉妹(ルーテル教会、ノルウェー)
- ② エリザベス・ワイザー姉妹(インターナショナル教会、イスラエル/米国)
- ③ アンジェラ・デッカー姉妹(ブラザレン系教会、カナダ)
- ④ アリソン・チャップマン姉妹(ペンテコステ派教会、英国)
- ⑤ レイチェル・エーンスト姉妹(改革派教会、韓国/米国)
- ⑥ エリン・バーネット姉妹(長老派教会、北アイルランド)
- ⑦ マルスィア・リンコン姉妹(ブラザレン教会、南米コロンビア)
- ⑧ カロリーヌ・M姉妹(ミッション・テモテ教会、フランス)
- ⑨ デボラ・F姉妹(改革派バプテスト教会、米国)
- ⑩ ジェシカ・ロルダン姉妹(バプテスト教会、米国)
- ⑪ アッシュリー・ブラウン姉妹(無教派教会、米国)
- ⑫ イリナ・グラツコヴァ姉妹(無教派教会、ロシア/カナダ)
- ⑬ トッド・プラット姉妹(プロテスタント教会、米国)
- ⑭ A・パルナック姉妹(プロテスタント教会、米国)
- ⑮ エープリル・カスィディ姉妹(バプテスト教会、米国)
- ⑯ N姉妹(イラン/ギリシャ・レスボス島難民キャンプ)
- 牧師の証し
姉妹たちの証し
① ヴィアン・エリザベス姉妹(ルーテル教会、ノルウェー)
名前:ヴィアン・エリザベス
年齢:23歳
所在地:ノルウェー
ベールを始めた時期:2014年夏
1)読者のみなさんに自己紹介してください。
こんにちは。私はノルウェー人で、クリスチャン・スクールで教師兼アシスタントとして働いています。また聖書翻訳の勉強もしています。
私は2013年の暮れにイエス様を信じました。そしてそれ以来、人生の中での私の望み、そして目標はただ一つとなりました。それは、主のため、そして主の働きのため、聖別された人生を生きることです。私は宣教師の伝記を読むのが大好きです。また、ピアノを弾くこと、歌うこと、刺繍・編み物、お料理なども大好きです!
2)どこの教会に通っていらっしゃいますか。そこの教会で、祈りのベールを実践している姉妹の方々は他にもおられますか?
私は保守的なルーテル教会に通っています。多くの誠実な信仰者の集うすばらしい教会です。また、数人の女性たちが被り物を実践しておられます。
3)どのような経緯で、祈りのベールを実践するよう導かれたのですか?
それまで私は被り物についてあまり深く考えたことはありませんでした。でも本当にイエス様を信じて、信仰者になった時、私は初めて「開かれた目をもって」聖書を通読し始めたのです。そして1コリント11章にさしかかった時、そこに書いてある御言葉がぱっと目の前に現われてきました。
こうして私は御言葉によって確信に導かれました。また、祈りのベールの慣習が、教会の歴史を通してこれまでずっと保持されてきたクリスチャンの慣習であることも勉強し、こうして私は確信に導かれたのです。
4)被り物をして最初に主日礼拝にのぞんだ時、どんな心境でしたか?
それほど他の主日と変わったことはありませんでした。また他の方々も別段、奇妙に思っている風ではありませんでした。それどころか、何人かの方々がわざわざ私の所へやって来て、「今も、被り物という聖書的慣習を守ろうとしている人がいることを知ってうれしい!」と声をかけてくださったんです。とても励まされました!
また何人かの子ども達も私に「ねえ、頭の上にのっているのはナニ?」と訊いてきました。おもしろいことに、私が祈りのベールのことについて子ども達に説明すると、たいてい、みんな、「かわいいね!」と言ってくれるんです。
ですから、私のベール体験は、かなり肯定的なものだといっていいと思います。
5)ノルウェーにおける被り物の状況について少しお話くださいませんか。ベールを実践している教団・教派はありますか。一般的な福音派教会で――数人ではあってもとにかくベールを実践している女性がいる――というのは日常光景なのでしょうか。
被り物が当たり前の教会というのがノルウェーに存在するのかどうかはよく知りません。でも福音主義教会の中で、今もベールの慣習を守っている女性たちはいるにはいます。
6)人目を恐れるあまり、ベールを実践したくても、そうすることができないでいる女性たちに何か励ましのメッセージがありましたら、どうぞ。
聖書は私たち女性に、「恐れてはいけない。主に信頼しなさい。」と言っています。「祈りのベールは確かに聖書の言う教えだ」と確信したのなら、あとは実践あるのみです。とにかくやってください。
主の掟が厄介に感じられたり、従うのが難しく感じられたりする時、「とにかくやる!」――これが私のモットーにしていることです。とにかく主に従うのです。そうすると、後のことは主がなんとかしてくださいます。
また反抗的・挑戦的な心の姿勢でベールを始めることもお勧めできません。それはいわば、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(箴11:22)と描写されている女性のようだと思います。
7)被り物に関して、もっともすばらしい点、あるいはもっとも困難な点があるとしたら、それはどういう所でしょう。
私にとって、被り物は、謙遜であることの大切さを常に思い起こさせてくれるものです。また、ベールをかぶっている時、私は自分が女性であること、それから女性であるがゆえの属性といったものについての思いが与えられます。
もっとも困難な点は、、、そうですねぇ、自分のベール姿を、(クリスチャンになる前の自分のことを知っている)人々に見られる時でしょうか。私はちょっと恥ずかしがりやなので、その点で、みなの注目にあってしまうのが苦手です。でもそれは同時に、主が私の心の中でなしてくださったことについての、目に見える可視的な証しでもあるのかもしれません。
8)どんなベールを使っていますか。どこで購入していますか。
私はGarlands of Graceで買っています。ここのお店のベールはとてもフェミニンです。いろいろな型を使っていますが、今は、スヌード型のベールを使用しています。
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② エリザベス・ワイザー姉妹(インターナショナル教会、イスラエル/米国)
名前:エリザベス・ワイザー
年齢:26歳
所在地:イスラエル、ベエールシェバ市
祈りのベールを始めた時期:2011年7月
1)読者のみなさんに、少し自己紹介してくださいますか。
私はイスラエル在住の、アメリカ人医学部生です。ユダヤ人でもない私がイスラエルで勉強しているというのは、母国でも、そしてここイスラエルでも、「ちょっと普通ではない事」と受け取られているようです。
しかし私の大学は、グローバル公衆衛生に力を入れており、ベドゥインの遊牧民や、アフリカからの難民、世界中からのユダヤ人移住者たちと共に働き奉仕する機会が与えられており、私にとってはまさに理想的な環境です。
ベエールシェバのベドウィン市場で、やぎを見ている正統派ユダヤ教徒の男性
というのも、私は将来的に医療ミッションに関わりたいと思っているからです。
イエメン系のユダヤ教徒の女性たち(ベエールシェバ市)
母国で医学部を修了するのなら、この先5年から10年待った上で、はじめて、言葉も文化も不慣れな外国の宣教地に足を踏み入れるということになると思います。でも今、私は勉強しつつ、しかもすでに「現場に」いるのです。また、私の住んでいるベエールシェバ(Beer Sheva)は、かつてアブラハムが住んだ町でもあります!
ですから、聖書がユダヤの南とか、荒野とか、ネゲブと言っている時には、私は自分の部屋から外を眺めさえすればいいのです。そうすれば、それがどんなものか立ちどころに分かります。
2)どこの教会に通っていますか。
私はベエールシェバで唯一英語通訳のある教会に通っています。この教会にはまた、スペイン語とロシア語の通訳もついており、それはイエスの御名の中で、異邦人とユダヤ人が共に集まり、神様を礼拝するという美しい光景を生み出すものとなっています。ここのコミュニティーの人たちは本当にすばらしいです。
非常に多くのユダヤ人クリスチャンの方々が、イエス様に信仰を持ったゆえに、家族から絶縁されています。また洗礼式を行なうのも覚悟が要ります。というのも、うちの教会で洗礼式が行われるという情報が流れると、オーソドックス・ジュー(正統派ユダヤ教徒)の人々が教会に暴動を働きかけてくるからです。
(なぜなら、一人のユダヤ人がバプテスマを受けるということは、ユダヤ人であることから離反すること〔de-Jewed〕を意味するからです。)
このように自分が、クリスチャンという[イスラエルにおいては]少数派の一員であるという体験は、周りの文化ではなく、意識的に自分の信仰そのものを実践し生きていくということを学ぶ上で大きな励みになっています。
3)どのような経緯で祈りのベールを始めるようになったのですか。
私はファンダメンタル(聖書主義)の教会で育ちましたが、そこでは、女性の「長い髪」というのが「被り物」のことだと捉えられていました。高校を卒業後、私は親許を離れ、別の州にある大学に入学しました。そしてある日、そこにある叔母の教会に行ってみようと思い立ちました。
実は、その叔母の教会が、祈りのベールを実践する教会だったのです。(約半数の女性たちが礼拝時に被り物を被っていました。)叔母は、そういう光景をみて私がびっくり仰天しないよう、前もって心の準備をさせようと思ったのでしょう、被り物についてのあるエピソードを私に話してくれたのです。
それによると、叔母はかつて友人に「もしも被り物に関する聖句について、主があなたに何かを示してくださったら、あなたは進んでその変化を受け入れたいと思う?」と訊いたそうです。でもその友人には、進んで変化を受け入れる心がなかったそうです。
そう言いつつ叔母は、私に、「神様に対しやわらかい心を持ってね。そして主とそのみこころについて、今後より良く知っていく過程で、変化を進んで受け入れてね。」と熱心に語ってくれました。でもそれからの二年間というもの、私はその教会に通いつつも、ベールはしませんでした。水曜祈祷会の席でも、ベールをしていない女性は私だけでした。
ある日、祈祷会の席で、牧師さんが何かの話のついでに、「長い髪というのは女性の光栄(=glory)であり、誰も神のご臨在の中で自らを誇ってはならない(=glory)のです」と言われました。その説明は、被り物を認めていない立場に立っていた私にとって、はじめて聞く、説得力ある議論でした。
しかし、私は「周りのみんながしているから」という理由だけで、何かを受け入れるつもりはありませんでした。その後さらに2年以上に渡り、私はその教会に通い続けました。そして大学4年の時、もう一度、被り物に関する説教を聞きました。
しかし私は説教を鵜呑みにするのではなく、一度自分でしっかりここの聖句を調べてみようと思っていましたので、大学を卒業して、院に入学するまでの待ち時間の間に、1コリント11章のリサーチに取り掛かりました。
こうして検証の結果、ここの聖句でいう「被り物」というのは髪の毛ではなく、帽子とかスカーフ等のcoveringのことを意味しており、これは今日の教会でも実践されるべきものであるという結論に私は導かれました。
4)初めて被り物をして主日礼拝に臨んだ時、どんな心境でしたか。
最初にベールをして礼拝に臨んだのは、大学院の近くにある新しい教会を訪れた時のことでした。主のご慈愛により、会堂にはなんともう一人、被り物をしている女性がおられたのです。そしてそれは私がぜひとも必要としていた励ましでした。
礼拝前にベールをかぶるに当たって一番しんどい思いをしたのは、幼い時から通っている故郷の教会でスカーフを頭にかぶる、その瞬間でした。しかし感謝なことに、誰からも何も言われず、「なぜ被り物をしようと思ったのか」という自分の新しい決心について他の人に弁明する必要もなく、礼拝に参加することができました。
このような立場に私を導いてくださった主を賛美します。というのも、祈りのベールの実践を通し、それ以後、私は自分の友人たちに、神様への恭順の美しさについて証する機会が与えられるようになったからです。
5)イスラエルの教会での被り物の実践状況についてお話くださいませんか。祈りのベールというのは、イスラエルでは多数派によって実践されているものですか。
私の教会では、既婚女性信者の約3割が、礼拝時にベールをかぶっています。そういった女性信者のほとんどが、ロシアおよび東方正教会の背景をもっておられます。
ロシア正教徒の女の子
一方、非ロシア系の女性でベールをかぶっている女性たちは、保守的なユダヤ教出身の方々です。保守的なユダヤ教のラビ教義によれば、イサクに会う前にレベカが頭を覆ったことに由来し、「既婚女性はが公の場に出る時には、帽子やスカーフ等をつける」という慣習があります。
保守的なユダヤ教徒の女性
イスラエルにある他の諸教会では、ベール女性の割合は、だいたい75-80%というところでしょうか。でもこれらは、より保守的ないしはオーソドックスなキリスト教会で見受けられる現象です。
アラブ系の福音主義クリスチャン女性で、ベールを実践している方には今までお会いしたことがありませんが、これは私がアラブ系のクリスチャン・コミュニティーとの接点が少ないという事情に因るからかもしれません。
6)人目を恐れる余り、ベールを実践したくてもすることができないでいる女性たちに何か励ましのメッセージがありましたら、どうぞ。
私はどちらかというと、余り人を恐れないタイプかもしれません。でも聖くへりくだった心で神様を礼拝することの尊さについては知っており、神様とのより深い交わりのためなら、たとい他の人からの軽蔑を受けようとも、それらは価値あって余りあるものだと思います。
でも実は、私自身、高校の時、礼拝時に帽子をかぶっている姉妹たちのことをバカにしていたんです。ですから、元嘲笑者である私からみなさんにアドバイスがあるとすれば、それは、「現代の感覚からあまりかけ離れていない型の帽子やスカーフを被り物として選ぶなら、あまりジロジロ見られることはないでしょう」ということです。
80年代の服装で身を包むからといって、私たちはより霊的な女性になるわけではありません。ベールの目的は、それをすることにより、私たち女性の髪の美しさや、あるいは帽子の奇抜さなどによっても、御使いや人々が気を乱されることなく、一心に神様を礼拝できるようになることです。
7)被り物に関し、もっともすばらしい点、あるいはもっとも困難な点があるとしたらどんな点だと思いますか。
イスラエル在住のクリスチャンのベール女性にとって一番やっかいな点は、保守的で既婚のユダヤ教徒の女性と勘違いされることです。
保守的なユダヤ教徒の女性(Hasidic woman)
ユダヤ人の女性たちは、私が安息日に財布を持って歩いているのをけげんな目つきで見てきます。アラブ系の若者たちは、すれ違いざまに私をやじります。また最近起こったことですが、ある世俗ユダヤ人に、私は「死ね」と言われました。しかも、これらはいずれも、私がキリストの御名のゆえの苦難でさえないのです。。。ただ自分が何者かということで勘違いされているだけなのです。
その一方、すばらしい点は、清い良心をもって教会の礼拝に臨むことができ、聖書のみことばに対する不滅の愛を、このように生きた形で証することができる事です。また、神様の前でへりくだることをも教えられています。
8)どんな被り物を使っていますか。どこで購入していますか。
そうですね、Target, Kohls, Walmartとかいった普通のお店で売っている帽子やスカーフを被り物として私は使っています。もしスカーフをどのように頭に巻くのか興味がある方は、「Tichel(ユダヤ式被り物)のかぶり方」というような、おもしろいyoutubeがいくつかあるので観てみてください。
↓ユダヤ教徒の女性の方のheadcovering tutorialです。
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③ アンジェラ・デッカー姉妹(ブラザレン系教会、カナダ)
名前:アンジェラ・デッカー
年齢:19歳
所在地:カナダ、トロント市
祈りのベールを始めた時期:2015年4月
1)読者のみなさんに自己紹介なさってください。
こんにちは!私は大学二年生です。昨年、バイブル・カレッジでの一年間の課程を修了し、その後二回に渡って、宣教旅行に行っていました。私は同胞クリスチャンのために、そして未信者の方々のためにお仕えしたいという熱い希望を持っています。そして共に救い主イエス様を深く知り成長していくことができるよう、カナダ国内外にいるクリスチャンを励ましていけたらと思っています。
2)どこの教会に通っていますか。その教会でも姉妹たちは礼拝時に、祈りのベールを被っていますか。
私は今春から地元の単立教会に集い始めたのですが、そこはブラザレン教会にとても似ています。教会の中ではほとんどすべての姉妹たちが、マンティラやスカーフ、帽子などで頭を覆っています。時々、教会を訪問される姉妹なら、被り物は課せられません。しかし、教会員になりたいと志願される方に対しては、被り物の必要性が説明されます。
3)どのようにして祈りのベールを始めるよう導かれたのですか。その経緯をお話ください。
私はこの町に移ってきてすぐその週に、(現在通っている)この教会を訪れました。初めてそこの礼拝に参加した時、私はびっくり仰天してしまいました。「うぁー、この人たちの頭の上にのってるのは、一体何なんだろう!?」
イエス様の生誕を描いた絵画などをみていたこともあり、私はそれまでずっと「被り物というのは文化的なもの」って思い込んでいたんです。(絵画の中で描かれている人たちはほぼ全員、頭に何かを被っていましたから。)
それに私は、被り物のことを、「はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によって飾り立ててはいけない」という聖句などと一緒にして考えていましたし、「コリントの売春婦に間違われないために当時の女性信者がしていた文化的な慣習だったんだ」ってずっと思っていました。
礼拝後、私の中でこの祈りのベールに関する探究心が芽生えてきました。「じゃあ、私もベールを被らなきゃいけないってことなのかな?」でもまずはしっかりリサーチする必要がありました。
家に帰り着くと、私はギリシャ語原語の聖書をひもとき、1コリント11章のこの箇所を調べ始めました。そしてその後、Youtubeで被り物の証しを検索し始めました。その過程で、私はHead Covering Movement’s videosを見つけたのです!とても分かりやすくシンプルな教えがなされていましたが、検証には深みもあり、私はついに思ったのです。「うん、これって、確かに正しい」と。
1コリント11章の箇所で、最も私に確信を与えた点は、――パウロの言及している「御使い」や「創造の秩序」のことも勿論そうですが――それだけでなく、この箇所が、私たちの常時読んでいる聖書の中に、これだけの字数を割いて書かれてあるという事実でした。
一体どうして1コリント13章の「愛」の箇所にはしっかり耳を傾けながら、同時に1コリント11章は無視する、ということができるでしょうか?
4)被り物を着けて初めて主日礼拝に集った時、どんな心境でしたか。
すばらしい心境でした。ただ最初の日曜日は、ベールの事にあまりに心が集中してしまい、しかも焦ってベールが何度か頭から落ちてしまいました。でもこの教会では祈りのベールは普通のことなので、誰も私の方を凝視したりはしませんでした。その意味で、私はこの選択をしやすい環境にあったといえます。プレッシャーもなく、詰問もなく、逆に多くの人がそのことを話題にしている位ですから!
5)いつ祈りのベールを被っていますか。
私は今年の4月にベールを始めましたが、春夏の間は、教会の公式礼拝の時だけ被っていました。しかし、その内だんだんと、教会の外であっても、デボーションや祈りをする時などにベールを被るようになっていきました。そして今年の10月、私はフルタイムでベールをするようになりました。
でも個人的には、聖書は私たち姉妹にフルタイムでのベール着用は命じていないと考えています。にもかかわらず、どうして私はフルタイムでベールを被るようになったのでしょう。それは、祈りのベールを着けることで、一日中、イエス様のことを想うことができるからです。
またベールは私に、自分の言葉や態度に気を付ける大切さを思い出させてもくれます。さらに、神様がとても近くにおられることを思い出させてくれるという意味でも、私にとって慰めです。
また、祈りのベールは私を謙遜にします。私は自分の(美しい!)ブロンドの髪を最新型のヘアスタイルでかわいく編みたいって思います。でも、こういった美に「蓋」をすることは、私にへりくだりを教えます。
いえ、それだけではありません。この行為は、さらに美しいリアリティーへと私の目を開いてくれるのです。そうです、(自分の美ではなく)神様ご自身が私のフォーカスになるというリアリティーです。
5)祈りのベールに関して、最もすばらしい点、逆に最も困難な点があるとしたら、それを教えてください。
最も困難な点、、は、やはり、同胞クリスチャンからの厳しい態度でしょうか。しかも私はまだ未成年なので、自分の信仰の立場はさらに軽んじられる傾向にあります。(「ああ、彼女はね、ちょっと一時的に熱くなってるだけ。時期的なものよ。」とか「あなたみたいな若者が、聖書の難解な箇所をこうだって解釈するのはちょっと早すぎ」とか言われます。)でも、そうではなく、実際にこの教えを尊守していらっしゃるクリスチャンの方は数多くいるのです。
一方、一番すばらしい点は、神様との良い関係、そして神様を近く感じることだと思います。主の前にもっとへりくだって近づくことができ、ベールを被っている時、日々のさまざまな状況の中で、私は自分の内に、周りに、主のご臨在をもっと感じます。そして自分の頭の上にある被り物の感触を通して、私が自分が誰に属しているのかを知ります。そうだ、私はこの世にではなく、神様に属しているんだって。
6)人目を恐れ、被り物をしたくてもできないでいる女性のみなさんに何かアドバイスがありますか。
(被り物に理解のない)人々のいる所で、ベールを被るのはかなり恐ろしいことです。私も例えば、教会の外でベールを着けている時、それから友だちと会う時や、他のクリスチャンの方々とこのテーマについて話す時など、すごくビクビクします。
でも、みなさん、聞いてください。自分たちの安全ゾーンを超えて、神様を求めるというのは本当にすばらしいことです。私たちが、自分の快適なポジションから一歩を踏み出す時、そこにはイエス様にあるとてつもない報いがあります。
実際、主は祈りのベールを通して、私にすばらしく報いてくださっています。個人的に言えば、例えば、自分の偶像の一つだった「髪」を覆うという自己犠牲を通して、また、(そこから導かれる)信者や未信者の方々との会話など、、多くの実が生っています。
祈りのベールに関して、私は確信を持って信仰生活をしています。私の祈りは、現在ベールを始めることを考えていらっしゃる全ての女性のみなさんもまた、主にある確信を見い出すことです。
7)どんな被り物を使っていますか。どこで購入していますか。
日曜に教会に行く時には、スペイン風の長いマンティラを被っています。私はこのマンティラをSilver Hill Treasures というオンラインのお店で買いました。(このマンティラ、かなりいいです!ある程度重さがあるので、ピンで留めたりしなくても、ずれ落ちてこないんです。)
それから家にいる時(や外にいる時)は、上の写真のように、ゆったりしたスカーフを使っています。風の強い日などはパシュミナス(pashminas:ヒジャーブ型)を使うこともあります。また寒い日には帽子も被ったりします。スカーフはBurlington Coat Factoryなどから購入しており、パシュミナスはトルコやマーケット・タイプのバザールで購入されたもので、私への贈り物でした。
↓このドキュメンタリーの冒頭でアンジェラ姉妹が登場します。このVTRは、主としてユダヤ教およびキリスト教それぞれの視点から被り物を取り扱っている非常に有益な考察資料です。
④ アリソン・チャップマン姉妹(ペンテコステ派教会、英国)
名前:アリソン・チャップマン
年齢:44歳
所在地:英国、オックスフォード
祈りのベールを始めた時期:2010年
1)読者のみなさんに少し自己紹介してください。
アリソンと申します。私は宣教師としてセイシェル(*インド洋西部にある島群からなる共和国)で福音宣教の働きについていた両親と共に、70年代をインド洋西部の島で過ごしました。
赤色で囲んだ所がセイシェル共和国
幼い時から主のことは知っていましたが、心からの信仰というよりは頭での知識といった感じでした。
私が主の愛に本当に出会ったのは、20代後半、バイブル・カレッジで訓練を受けていた時でした。そのカレッジにおいて、主は抜本的に私を変えてくださり、「より深く主と神の真理を知りたい」、そして「この御方のことを他の方々にも紹介したい」という願いを自分の内に起こしてくださったのです。
日々の生活の中でイエスさまにお従いしていくということ、全身全霊で主を愛すること、そしてこの良き知らせを分かち合うこと、、そういった事が私の心にあります。主は私の心にイスラエルに対する思いを置いてくださり、私はかの地でさまざまな働きに関わる機会をいただいています。
私は41の時に、結婚しました。(結婚を長く待ち望んでいた)その間の歩みは時に険しく、痛みを伴うものでしたが、神様は敬虔でまっすぐな男性を私のために備えていてくださったのです。私は主人から多くのことを学んでおり、彼の妻であることに喜びを感じ、感謝しています。
2)どこの教会に通っていらっしゃいますか。お話ください。
私たちはオックスフォードにある小さなペンテコステ派の教会に通っています。主人と結婚したのもそこの教会ででした。それ以前には同じくオックスフォードにある大きな教会で奉仕しており、そこから海外宣教への働きに遣わされました。その後、英国に戻り、結婚しました。主は私たち夫婦をこの小さな教会に導かれたのですが、そこの牧師夫妻は主を愛し、まごころから仕えておられます。
3)どのような経緯で祈りのベールを始めるよう導かれたのですか。
70年代後半に、家族と共にセイシェルから帰国した後、私たちはブラザレン教会に通いました。そこの教会の姉妹たちの多くは礼拝時に、帽子をかぶっていました。そんな彼女たちを見て、私は「律法主義的だなあ」と思い、教会の中における被り物というイシューに関し、心の中で軽蔑するような態度をとるようになりました。
対等主義
20代後半、バイブル・カレッジに通いましたが、教会の中での女性の役割に関し、私たちは対等主義的な(Egalitarianism、福音主義フェミニズム)見解しか教わりませんでした。
私は対等主義を支持する論文を書き、その中で(批判の意味を込めて)被り物のことにも触れました。その中で私は「被り物というのは文化的なものであり、今日には適用されないものである」と論じました。それまで一度も「ベール擁護派」の見解を聞いたことがなく、また私の心はこの聖句に対する他の見解に対し閉ざされていました。
フェミニズム
30歳になるまで、私はこの世およびフェミニズムの影響下にありました。実にこの思想によって、私はわれ知らず、影響を受けていたのです。
30代になると、私と主との関係は深まっていき、より深く主を知り、お仕えしたいと願うようになりました。その後、しばらくの間、私はイスラエルで働いたのですが、そこで、ベールのクリスチャン女性たちを目撃したのです。彼女たちは教会の中でも、また社会の中でも、ベールを被っていました。
へりくだることを学んで
イギリスに戻った後、私はある男性(後に主人となる人)に出会い、その人が私に祈りのベールのことを少し話してくれました。折しも主はこの時期、私にへりくだることを教えてくださっていました。
そしてそれまで自分が正しいと思い込んでいたいくつかの聖書箇所が実は間違った解釈だったのではないか、という気づきを与えてくださっていたのです。ですからこの兄弟に祈りのベールの事を指摘された時、「もしかしたら、この箇所においても、従来の私の聖書解釈は間違っていたかもしれない」と心を開いて聞くことができました。
そしてもう一度、この箇所を調べてみようと思いました。また、デリック・プリンス、ウォッチマン・ニー、W・ヘンダーソンなどの論文にも目を通しました。そして私は気づいたのです。それまでの自分の思い込みとは裏腹に、ここの聖書箇所は実は「難解」ではなかったということを。
目から鱗の思いがしました。なぜ被り物をしなければならないのか、その理由が目の前の聖句に、ちゃんと書かれているではありませんか!それに「御使いのためにです」というのは文化的なものではないのです。つまり、祈りのベールというのは今日のクリスチャン女性にも適用されるべき神の掟だったのです!
4)ベール姿で礼拝に初めて集った時、どんな心境でしたか。
最初にベールを被ったのは、友人と共に祈っている時でした。そしてその時の祈りは力強いものでした。なぜなら、その場で主は、自分たちがこれまでの人生の中で、いかにフェミニズムに縛られていたのかという啓示を与えてくださったからです。その結果、私も友人も共に悔い改めに導かれました。現在、私は教会内外で、祈りや預言をする時、ベールを被っています。
確かに一人で祈りのベールを実践するのは大変なことですが、少しずつ、その大変さに慣れてきています!でもやっぱり、他の人がどう思っているのか心配してしまう自分がいますし、それに、ベールを始める前の自分を知っている旧友たちの前でベールを被る時など、かなりしんどさを覚えます。
でもこの点における御言葉の真理について私の中には内的確信が与えられており、神の御言葉に従いたい、主をお喜ばせしたいという願いから、私はそれを実践しています。
それでも、やっぱり時としてかなり困難を感じる時があります。でもそんな時は十字架に架かってくださったイエス様の犠牲を思います。そうすると、ベールのことなど、主の払ってくださった犠牲に比べればほんの些細なことだと思えます。
また励まされることに、しばらくしてから、うちの教会の牧師夫人もまたベールを始められたのです。しかもその大胆さにおいて彼女は私に勝っており、その意味でも以前に比べ、実践しやすくなったのです。この証しを読んでくださり、ありがとうございました。
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⑤ レイチェル・エーンスト姉妹(改革派教会、韓国/米国)
名前:レイチェル・エーンスト
年齢:25歳
所在地:韓国ソウル市
祈りのベールを始めた時期:2015年1月28日
1)読者のみなさんに自己紹介してください。
レイチェル・エーンストと申します。私は最近結婚したばかりの妻で、軍人の夫と共に、現在、韓国に住んでいます。もともと南カロライナ州の出身なのですが、結婚前の二年間はワシントンDCで働いており、そこで現在の夫であるリチャードに出会いました。
大学では歴史と音楽を専攻し、現在は、通信で、改革派神学校の聖書学修士課程を履修しているところです。またパートでも編集の仕事をしています。
私はクリスチャンホームで育ちましたが、自分の信仰が成長し始めたのは、高校・大学時代です。大学の時には一年間休学して、南アジアで6カ月、ホームレスの女の子たちのために奉仕活動をしました。そしてこの体験が私の人生コースを大きく変えたのです。私はムスリムの女性たちに対して特別な思いを持っています。そして彼女たちがキリストの愛によって解放され、強められることを祈っています。
2)どこの教会に通っていますか。そこの教会では、姉妹たちは祈りのベールをかぶっていますか。
私は現在、ソウルにあるカベナント教会という教会に通っています。これは改革派の、福音主義教会であり、「繁栄の神学」の氾濫するこの国にあって、光として輝いている教会です。
教会にはさまざまな人生経路をたどって来られた人々が集まっていますが、皆、福音により一つに結ばれています。私以外に祈りのベールをしている女性はいませんが、自分自身これまでベールが聖書の教えとして教えられている教会に行ったことが一度もないので、一人であることにそれほど苦痛を覚えていません。
3)どのような経緯で祈りのベールをするよう導かれたのですか。
主人と私が交際しはじめて数週間経ったある日、彼が不安げに、1コリント11章の被り物に関する彼の関心と確信について私に打ち明けてくれたのです。
彼は、「僕がこんなことを言ったら、彼女は怖がって、僕の元を離れていくかもしれない」とかなりビクビクしていたそうです。でも、(後で聞いたのですが)、その話に「引かず」、むしろ心を開いて彼の話に聞き入った私の姿をみて、彼は「この女性と結婚したい!」と願うようになったそうです。実は、主人も、被り物を実践している教会で育ったわけではなかったのです。
私がそれまでの人生の中でベールの女性たちを見かけたのは、次の二つの場所でした。一つは、大学の近くにあったメノナイト・コミュニティー。
それからもう一つは、南アジアにいた時に、です。そこでは大半のクリスチャン女性はベールをかぶっていましたが、その理由は、ムスリムの隣人たちに対する敬意や礼儀上のものだったようです。(この「ベール=イスラム教」という固定観念が、実のところ、私の被り物への理解を妨げていた最も大きな障害物でした。)
それからいろいろと熟考し、祈った末、これは私が「彼のために」やるようなものではないことをリチャードに話しました。当時、私たちはまだ交際していただけですし、それに私たちはワシントンDCという、アメリカの中でも最もリベラルな都市に住んでいたのです。
もしも本当に被り物を教会で始めるのなら、私は「どうしよう、どうしよう」と周囲の目を気にしながらではなく、しっかり確信を持ち、そして覚悟して始める必要がありました。それに他の女性たちは、ベールをしている私をみて、「彼女はただボーイフレンドに影響されているだけ」と受け取らないとも限りません。
だから、祈りのベールを実践するのなら、それは(ボーイフレンドのご機嫌を取るためでなく)純粋に、主の栄光のため、そして神のお造りになられた創造の秩序に敬意を示すためでなければならない、そう思いました。
その後、私はネットで多くの論文を読み、またこのテーマに関する説教を聞きました。でも最終的な決定打となったのは、私が霊的リーダーとあおいでいる数人の方々の助言でした。
私はこれまでの人生の中でお世話になった何組かの牧師夫妻にメールを出し、自分が1コリント11章の祈りのベールの教えのことで葛藤していることを打ち明けました。そしてなぜ今日キリスト教会がこの教えを遵守しなくなっているのか、それを正当化する論拠をぜひ挙げてくださいとお願いしました。
私はこういった方々を尊敬しており、きっと彼らは、「祈りのベールは今日にも適用される掟である」という主張をくつがえすに足りる、しっかりした論拠を挙げてくださるに違いないと期待していたのです!
しかし驚愕したことに、ある一人の方を除き、他の方は全員、「これはクリスチャンの選択の自由であり、もしあなたがそのように確信を持ったのなら、ぜひすべきです」と書いてこられたのです!(ちなみに、残りの一人の方は強烈なベール反対論者でしたが、その論拠となると、「ここの箇所はあくまで隠喩なのです」という非常にあいまいな主張しかすることができていませんでした。)
まさか、このような肯定的な回答がくるとは思ってもいませんでした。そしてその時、「よし、実践しよう!」と心に決めたのです。その週の水曜の小グループでの学び会の時、私は初めてベールをかぶりました。その時以来、祈りのベールは、キリストとの個人的な歩みの中でも、また結婚生活の中でも、私にとって大きな祝福になっています。
4)ベールをかぶって初めて礼拝に参加した時、どんな気持ちでしたか。
前に申しあげましたように、私が初めてベールを始めたのが、水曜の学び会の時でした。その日、私は青色のバンダナをしていましたので、おそらく、私が「ベール」をしていると思った人は誰もいなかったかもしれません。
でもそれからすぐ、私は一目で「ベールだ」と分かるようなタイプの被り物をするようになりました。それでも特に、周りの人から変に扱われるようなことはありませんでした。
5)いつベールをかぶっていますか。
私は教会の公的集まりの時にベールをしています。私にとってそれはつまり、他の信者と集まって祈ったり、御言葉を学んだりする時はいつでも、ということです。実際的にいえば、それは主日礼拝、水曜の女性の集い、木曜の祈祷会などです。
家で主人とよく讃美歌を歌うのですが、その時にもベールをかぶっています。私の場合は、神礼拝をそのような形で聖別したいという思いがあるため、それ以外の普通のイベントの時などはベールは使用していません。
6)人目を恐れる余り、ベールを始めたくても始めることのできない女性たちに対して、何かアドバイスがありますか。
祈ってください。そして助言を求めてください。そして何よりも、キリストの内にご自分のアイデンティティーを見い出してください。私は、ベールの実践に行きつくまでの自分の経緯を主に感謝しています。なぜなら、実際に始めたとき、私はすでに心の準備ができており、恐怖を克服できていたからです。
私にのしかかっていた恐怖の多くは、自分の尊敬する牧師さんたちの聖書解釈のことでした。私は自分の決心によって、こういった方々の聖書解釈に「反旗を翻す」ようなことはしたくありませんでしたし、一致を壊したくなかったのです。
でも大半のクリスチャンは被り物のことに対し、どうやら反感は抱いていないようだという事に気づき、その部分においての恐怖は克服できるようになっていきました。
そうして最後に残ったのが、「人への恐れ」でした。でも、「人への恐れのせいで、創造の秩序に基づく主の掟に従えないというのはダメだ。それではいけない」という思いがあり、神の恵みによって、私はそこで立ち止まることをしませんでした。
でもみなさんに勧めます。疑いや恐れがあるのでしたら、それに向き合ってください。被り物は、その意味を熟考し、なぜそれを実践する必要があるのかという点をしっかり学んだ上で始めるなら、さらに大きな喜びと平安が与えられると思います。
7)祈りのベールに関し、最もすばらしい点、または最も困難な点は何でしょうか。
私の義理の兄が、その点について語ってくれたことがあります。それは、私たちの夫に対するインパクトの大きさです。私たち女性は、一度被り物をかぶると、自分ではそれが見えませんので、そこまで意識しないかもしれません。
でも、夫となると話が違います。彼はそれを目の前に「見ている」ので、それはリーダーとしての自分の責任を具体的な形で常に思い起こさせる象徴となるわけです。
祈りのベールというシンボルは、聖書の中で命じられている夫のあるべき姿を主人に思い起こさせるだけでなく、自分の妻が、全幅の信頼をもち、彼女をリードしケアすることを夫に委ねているという目に見える印ともなり、それは彼を励ますものとなります。
現在どなたかと交際している姉妹の方、あるいはすでに婚約・結婚されている姉妹の方々は、被り物に関して、彼に率直に打ち明けるのがいいと思います。なぜなら、1コリント11章のベールの教えの箇所は、女性だけでなく男性にも指示を与えている箇所だからです。ありがとうございました。
⑥ エリン・バーネット姉妹(長老派教会、北アイルランド)
名前:エリン・バーネット
年齢:16歳
国:北アイルランド ベルファースト市
祈りのベールを始めた時期:2014年6月
1)エリンさん、読者のみなさんに少し自己紹介してください。
私は北アイルランドの高校一年生です。私は愛情深いクリスチャン家庭で育ちましたが、残念なことに、ジェンダーの役割に関する私の考え方は、うちの家族が通っていたリベラル派教会の教えの影響によって歪んだものになってしまっていました。(女性の牧師就任や中絶合法化支持など)
私は聖書など全然読んでいませんでしたが、それにもかかわらず、とても独善的な振る舞いをしていました。しかし神は私の人生の中で働き始められ、私はある時、突如として自分で聖書を読みたくなったのです。この時期、私は主イエス・キリストによる救いを体験しました。
その後しだいに、私は自分の属している教会の中にこれ以上とどまり続けることはできないと感じるようになっていきました。というのも、この教会では聖書に正当な権威が与えられていないように思えたからです。
こうして16歳になった時、両親は私がこの教会を去ることを許してくれました。両親は私の信仰の持ち方には同意してくれていませんが、それによって私たちの親子関係にひびが入ることのないよう配慮してくださっています。
現在、私は受験勉強で忙しくしていますが、空き時間にはクリスチャン・フィクションを読んだり、書いたりしています。また私はカルヴァンやその他改革者たちの神学に関心を持っており、卒業後は神学の勉強をしたいなあと思っています。でも私の最大の望みは妻になり、母親になることです。
2)どこの教会に通っていますか。そこの教会では他の方々も祈りのベールを実践しておられますか。
私は今年の1月から、マウント・メリオン自由長老派教会(Mount Merrion Free Presbyterian Church)にフルで通い始めています。それまではユースの集いだけに参加していたのです。
ここは被り物の教えがなされている教会です。巻末に紹介されているベールの教えの説教(Headcovering and the Young Christian)はうちの教会でなされたものなんです!この教会は住宅街の中にあるとても小さな教会ですので、地域に出て行って福音を伝えるのに格好の教会です。
私は講解説教が大好きです。自由長老派教会には政治的な意味合いにおいて、少々マイナスのイメージがつきまとっているかもしれませんが、この教会の焦点は常に福音であったし、現在もそうであるということを申し上げておきたいと思います。
3)どのような経緯で祈りのベールを始めるようになったのですか。
14歳の時、はじめて新約聖書を読み始めたのですが、いろいろな箇所に驚かされ、ショックを受けました。特に1テモテ2章と1コリント11章です!キリスト教会における「ベール」というのは、私にとって初耳だったのです。
ベールというのはイスラム教徒だけのものかと私はそれまで考えていました。(祈りのベールに関する)文化的解釈に基づくさまざまな議論を聞きましたが、納得がいきませんでした。
聖句の重要な箇所を捨て去ってしまうことは、それ以後、次から次にその他もろもろの教えが拒絶されるという滑坂へと私たちを陥れる結果になります。それがどれだけ危険かということは、主流のプロテスタント諸教派の大半が現在、どのような状態になってしまっているかをみれば一目瞭然だと思います。
また私は次のような反論も受けました。それは、祈りのベールというのは結婚した女性のためだけのものであり、もしくはここの聖句でいっている「女」とは成人だけを指しているのだという反論です。
この点に関して私は完全に確信を持っていたわけではなかったので、しばらくの間、ベールを着けたり、やめたりしていました。しかし、主の助けを求め、また次のような記事(ココ)やオーディオ説教を聴いて探求し続けた結果、パウロの言うが如く「心の中で確信を持つ」(ローマ14:5)ようになりました。私は祈りのベール、そして神様のデザインされた女性らしさというものが大好きです。
4)人目を恐れて、祈りのベールを実践することができずにいる女性たちに何か励ましの言葉はありますか。
恐れというのはサタンの使う道具であり、それによって、サタンは、私たちが満ち満ちたクリスチャン・ライフを送ることができないよう阻みます。考えてみてください。あなたがベールを着けたことで最悪何が起こりますか?結局のところ、私たちの周りの世界の人々にとって、それは単に一切れの布にすぎないのです。
キリストと共に歩む道程を通して、私たちは数多くの困難を乗り越えてゆかなければなりませんが、それは祈りと、御言葉を読むことを通してのみ、なされうることなのです。
私の好きな聖句は2テモテ1:7です。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」それにみなさん、ベールってなかなか楽しいものでもあるんですよ!
5)祈りのベールに関して、最もすばらしい点、それから逆に最も困難な点は何でしょうか。
一番すばらしい点は、そうですね、とっても女性らしさを感じることです。そしてベールという、目に見えるシンボルを通して、この世および、そこから生み出されたフェミニスト文化からの分離がなされることです。
またベールを実践する私たちの姿をみる人々にとって、私たちが聖書をまじめに受け取り信じていることが、これによっても証しされるのです。(だからといって、ベールを被っていない方々が聖書をまじめに受け取っていないということではありません!)
一方、最も困難な点は何かというと、人々が私たちのことを律法主義者だとか、ファンダメンタリズム(根本主義)に洗脳されてしまったとか、そういう風にみなすことです。
また、被り物をしていない人たちのことを見下すような思いにもなりがちです。でもこれはあってはならない高慢な態度です!祈りのベールは大切ですが、全てを貫いて最も大切な主の掟から私たちをそらすものになってはいけません。
6)どんな種類の被り物を使っていますか。どこで購入していますか。
現在、私は(上の写真に写っているような)クローシェ編みの帽子を使っています。母が買ってくれたものなので、どこで売っているのかは分かりません。でも夏場には、バンダナ風の被り物をしようかなと考えています。他の女性たちが紹介してくださっているかわいいネットのお店は、(そのほとんどが米国にあるものなので)私たちのような海外購買者にとっては郵送料がかなり高くつきます。英国・ヨーロッパにあるどこかよいお店を知っている方がいましたら、ぜひ教えてください。
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⑦ マルスィア・リンコン姉妹(ブラザレン教会、南米コロンビア)
名前:マルスィア・リンコン(Marcia Rincón )
年齢:20歳
国:南米コロンビア
祈りのベールを始めた時期:2014年12月
1)読者のみなさんに自己紹介してください。
私は妻であり、パート・タイムで働く教師です。十歳の時、キリストを自分の救い主として主として心に受け入れました。兄が私をキリストに導いてくれました。
私は聖別された人生を送ろうと探求している若い女性であり、キリスト・イエスにある永遠のいのちの希望のうちに日々の生活を送っている者です。そして主のために生きたいと望んでいます。私は教師ではありますが、実際には、私は家庭に献身しており、また夫に仕えています。
2)どこの教会に通っていらっしゃいますか。教会の他の方々も祈りのベールを実践しておられますか。
主人と私は長年、ブラザレンの教会に通っていましたが、引っ越しして以来、良い教会を見つけることができずにいました。それで私たちは毎週日曜日、隣の市に遠出し、そこにあるエマオ・バイブル・チャーチというブラザレン教会に通っています。この教会ではほぼすべての姉妹が祈りのベールを着用しています。
3)今通っておられる地元の教会を除いては(つまり、コロンビアにあるブラザレン教会以外の教会では)祈りのベールの実践状況はどんな風になっていますか。
実際のところ、コロンビアにおいて、祈りのベールが現在尊守されているのは、唯一ブラザレン系の教会だけだと思います。悲しむべきことに、他の諸教会では、「ベールは文化的な慣習に過ぎず、今日においては、適用されない。」と理解されているのです。
4)どのような経緯で祈りのベールを始めたのですか。
私はエマオ・バイブル教会の聖書教材(“The woman who pleases God” )を読んで後、このテーマに関して強い確信に導かれました。この教材を通して、祈りのベールの重要性に気づくようになりました。
「パウロは多くの節を割いて、この教えについて説明しており、また、天使や創造、自然、かしら観、旧約の律法といった、キリスト教信仰の根幹的なテーマに多く触れている」とその教材は説明していました。
ここから明らかなのは、祈りのベールというのは文化的慣習であっただけでなく、今日にも適用される主の掟だということです。また、この学びをする前まで私は、「かぶり物というのは、年配女性もしくは既婚女性のためだけのものだ」と思い込んでいました。
5)はじめてベールを被って主日礼拝に参加された時、どんな感じがしましたか。
兄がクリスマスの日に、私にとてもすてきなベールをプレゼントしてくれました。ですから、私にとってベールを着けての最初の礼拝は特別なものとなりました。
6)いつベールを着用していらっしゃいますか。
聖餐式の時、祈祷会の時、そして礼拝の時です。
7)人への恐れから、祈りのベールを実践することができずにいる女性たちに何かメッセージがありますか。
この真理を個人的なものとして受け取り、聖書に向かってください。そして聖霊があなたのうちに働きかけ、この美しい真理へとあなたを導くことができるよう心を開いてください。またこのテーマに関して理解を助けてくれる聖書の教材なども活用してみてください。祈りのベールを単なる文化的慣習だと片付けている人々の意見に翻弄されないでください。
これは今日にも適用される主の掟であり、あなたがこの点に関し、神様に従った時、あなたの人生に主の祝福が臨むのをあなたはじきに、ご自分の目でみるようになるでしょう。
8)祈りのベールに関する最もすばらしい点、それから逆に最も困難な点についてお話ください。
最もすばらしい点は、新来者の方が教会にいらした時、いつも私たちに質問をしてくださることです。「どうしてあなたはベールを被っているのですか?」と。こうして私たちは神様のことを証しする機会が与えられるのです。
一方、最も困難な点は何かと言いますと、コロンビアの人々は、ベールを、「異端の宗教」もしくは「カトリック教会」と結び付けて考える傾向がある、その点ではないかと思います。私たちの教派の一部の姉妹たちは、実際、カルト宗教と一緒くたにされることを恐れるあまり、被り物自体をやめてしまいました。
9)どんなベールを使っていますか。どこで購入していますか。
マンティラ
私は花模様のマンティラ(=スペイン・南米の女性が頭からかけるレースのスカーフ)を使用しており、Veils By Lily というネットのお店や lldmchalinas.com というお店で購入しています。ここのベールは、ずれ落ちてこないので愛用しています。
⑧ カロリーヌ・M姉妹(ミッション・テモテ教会、フランス)
名前:カロリーヌ・M
年齢:26歳
国:フランス
祈りのベールを始めた時期:2014年12月
1)読者のみなさんに自己紹介してください。
こんにちは。カロリーヌと申します。私はLa Femme Modeste(「慎み深い女性」)というクリスチャン向けフランス語ブログの執筆者です。私は自分のことを「サーカスの娘」と呼ぶことが多いのですが、なぜかというと、それが私が幼い時からやってきた生業だからです。
少し前まではサーカスの教師としても教えていて、いろいろと巡業していました。一年間、フィンランドで教えていた時期もあります。現在、私は故郷に戻り、喜んで家族に仕えること、そして神さまに仕えることを学んでいます。ブログには慎み深さや祈りのベールのことなどを書いています。
2)どこの教会に通っていますか。他の姉妹たちも祈りのベールを実践していますか。
私は地元のバプテスト教会に通っているのですが、宣教に力を入れている教会です。私が祈りのベールのことについて考え、取り組み始めたちょうどその頃、ベールを実践しているある若い姉妹がうちの教会にやって来たのです。彼女の存在によって私は大いに鼓舞されました!
ですから、現在、この教会には二人のベールの姉妹がいるわけです。もう一人、いつも帽子をかぶっていらっしゃる女性がおられますが、彼女がファッションとしてそれをやっているのか、それとも聖書的な理由でそれをやっているのか、そこはよく分かりません。
3)どのような経緯で祈りのベールをするようになったのですか。
最初のきっかけは、ムスリムの女性たちが誇りをもってヒジャーブを着用している様子をみたことです。それをみて、私たちクリスチャンの祈りのベールの慣習についても調べてみたくなったのです。
その後、1コリント11章についてはよく理解していないけれども、公的礼拝の時に、女性はかぶり物をつけるべきではないかと感じ、それを実践しはじめたクリスチャン女性の証しをみつけ、読みました。
その後さらに私は、批判的精神をもって、このテーマについて真剣に調べ始めました。それからの一年半というもの、さまざまな情報源から、ありとあらゆる資料を見つけ出し、それらを熟読しました。しかし最終的に、ウォッチマン・ニーのベールに関する教えを読んだことが決定打となりました。
4)ベールで現れた最初の主日礼拝はどんな感じでしたか。どんな心境でしたか。
ああ、それはもうひどい状態でした!私はもともととてもシャイで、引っ込み思案な性格で、教会でもできるだけ目立たないようにしています。皆の前で声を出して祈ることでさえも恥ずかしくてできない位なんです。そんな私が、ベールを着用して教会に現れることになったんです!それがどんなに大変だったか想像していただけると思います。
「たった一枚の布っきれのことじゃない。何でもないことよ。」と言う方もいらっしゃるかもしれません。でも私にとってはこれは大事(おおごと)でした。最初の三十分位は「超」がつくほど恥ずかしくてどうしようもない気持ちで、目を伏せ、誰とも目を合わせないようにしていました。でもその後、気分が少し落ち着いてきました。
5)フランスの教会におけるかぶり物の実践状況について教えてください。祈りのベールを実践している教派はありますか。一般の福音主義教会では、ベールを着けている姉妹は(たとえ二、三人でも)いますか。
フランスではかぶり物は一般的なものではありません。時折、ベールの女性をみかけることもありますが、それは「その方個人の信仰ゆえ」である場合がほとんどであって、どこか特定の教派や教会の教えのためというわけではないというのが現状です。
ですからこの教えをしている大きな教団はないように見受けられます。比較的小さな教団、たとえば、ペンテコステ教会といったカリスマ派のグループ、ジプシーの集う教会、単立のプロテスタント・ミッション、「伝統派」とよばれるカトリックの共同体、ブラザレンの集会などでは姉妹のベールは「普通のこと」とみなされていると思います。
6)人目を気にする余り、ベールをすることができないでいる姉妹たちに何かメッセージはありますか。
私自身、祈りのベールに関する確信が与えられていたにも関わらず、人への恐れからそれを実践することができずにいた一人です。
ベールを着け始めて数週間の間、私は主日の朝、いつもより早く起き、礼拝に行く前、三十分祈りました。そして「主よ、あなたに従うことができるよう、私に勇気を与えてください」と神様に嘆願しました。今でも、ベールのことでおじけづきそうになった時には、日曜の朝、早く起き、恐れから解放され、主を喜ばすべく行動することができますようお祈りしています。
7)祈りのベールに関してですが、どういう点が一番すばらしく、またどういう点が最も困難だと思いますか。
祈りのベールに関する最も美しい側面、そして同時に最も困難な側面といえるもの、それは「恭順 submission」に関することについてでしょう。
サタンの反逆によって顕著に特徴づけられている反逆精神に満ちた現代社会にあって、私たち女性は、恭順というかたち(image)を映し出すよう召されているのです。これはすばらしい特権だと思います。
キリストは恭順という点でも私たちにとって完璧な模範となられました。主イエスを除いて誰がこれほど完全な形で御父に服従できたでしょうか!恭順のうちにはなんというすばらしい栄光が内在していることでしょう!
自分の頭に――創造主によって定められた「秩序」に対する恭順を象徴するベールを着けるという――この神聖な責任を与えられていることを私はとても光栄に感じています。
創造主にとって定められた秩序とは、これです。つまり、男性に対する女性の恭順、キリストに対する男性の恭順、御父に対するキリストの恭順です。もしも女性たちが、ベールを通してもたらされる、この霊的リアリティーの美しさとすばらしさを知ることができたら、もっともっと多くの姉妹たちが祈りのベールを始めたいと願うようになるでしょう。
しかし今日、恭順が真に意味していることを理解している人はほとんどいません。というのも、この世がその意味するところを台無しにしてしまっているからです。そしてそれが、ベールのもたらす最も困難な点をも指し示しているのです。つまり、ベールのメッセージは往々にして誤解されてしまうのです。
ベールを着けた女性たちは御使いたちを喜ばせますが、その一方において、この教えに関してこれまで不十分に指導を受けてきた兄弟姉妹たちは、そういうベールの姉妹たちを見ることによって不快さを感じてしまう(傷つけられたように感じる)かもしれないのです。
もう一つの困難な点は、信仰告白のところで、祈りのベールを認めないと記している、あるいは、かぶり物=律法主義と公に教えている教団教派とのかかわりといったところでしょうか。
8)どんなベールをしていますか。どこで購入していますか。
私はいつも首に巻いているスカーフを使っています。教会に行く時にはそれを頭の上にもかける、ただそれだけです。でもGarlands of Graceというお店から近々ベールをネット注文しようかと思っています。ここで売っているベールはきれいですし、それに現在の私のヒジャーブ・スタイルよりもっと控え目で落ち着いた感じだと思うからです。
⑨ デボラ・F姉妹(改革派バプテスト教会、米国)
名前:デボラ・F
年齢:39才
住んでいる所:米国バージニア州の中央部
祈りのベールを着け始めた時期:2015年2月
1.読者のみなさんに自己紹介してください。
こんにちは。デボラと申します。私は米国の専業主婦で、三人の子供(5才、9才、11才)のホームスクーリングをしている母です。家はバージニア州の中央にあります。
空き時間に、私はsilvermaplemedia.comというサイトを通し、グラフィック・デザインの仕事を少ししています。また御言葉をモチーフにした壁掛けをデザインするのも好きです。ピアノを弾くのが好きで、また時々、お菓子作りなどもします。
2.どこの教会に通っていますか。それについて少しお話ください。
私は中央バージニアにある改革派バプテスト教会に通っています。この教会は、ロンドン・バプテスト信仰告白(1689年)にその基盤を持っています。郊外にあるこじんまりとした教会で、会員数は三十人余りといったところでしょうか。
ですから、私たちは一大家族といった感じです。うちの教会にはもう一人、祈りのベールを着けている方がおられるのですが、彼女の家族は去年、うちの教会に移ってきたばかりなのです。主は彼女を通して私に被り物についての確信を与えてくださいました。
3.どのような経緯で祈りのベールを始めるのようになったのですか。
実は、幼いころから、私はベールというものに魅了されていました。実家はクリスチャン・ホームではありませんでしたし、幼少時代、霊的なことを教えてくれる人も周りに誰もいない環境でしたので、ベールを好む思いというのはきっと主によって私の心に植えられていたのでしょう。
2000年、主を信じた後、私は聖書年間通読を始めました。はじめてⅠコリント11章を読んだ時、自分の内で警笛が鳴り、私は牧師先生の所に質問に行きました。
すると、先生は、(文化的解釈に基づき)なぜこの箇所は、今日のクリスチャン女性には適用されないのかということを、非常に合理的に説明してくださいました。それで私は先生の言葉を受け入れました。
うちの教会には昨年までベールを着けて教会に入ってくる人はほぼ皆無でしたので、私は一応、自分たちのこのベール理解に満足していました。でも、、、自分で御言葉を読む時、あるいはベールを着用している女性をどこかで見かける時など、私は自分のうちに内なるうめきを感じ、「助けて」と言わんばかりに主人の方を見たりしていました。
2014年の春、私は勇気をふりしぼり、教会に新しくいらした例のベールの姉妹に、被り物についての彼女の意見を訊いてみました。すると彼女はロバート・スピニー(Robert Spinney)の書いた小冊子(=クリスチャン女性は今日、祈りのベールを着用する必要があるのでしょうか)を手渡してくださいました。
中に書いてある内容に私は内心同意しましたが、やはり自分の教会の公式見解に逆らうということに抵抗を感じ、結局、ベールのことは「押し入れの中に」しまい込んでしまいました。
こうして、新年が明け、私の聖書通読箇所は、また例の1コリント11章にきてしまいました。しかし今回、私の良心は逆らえないほどの重々しさをもって、この聖句をさらに調べるよう私を促しました。
そこで私はheadcoveringmovement.comの他、多くのすばらしいサイトを見つけました。また、祈りのベール賛成派・反対派、それぞれ数人にも個人的に意見を訊いてみました。
そこで私が発見したのは、パウロはこの箇所で、被り物を文化とはけっして関連づけていないということでした。その反対に、パウロは創造の秩序の美しさに関して、それを非常に詩的に描いてみせているのです。(私にとっては)これはすべての信者に関連することだと思えてならないのです!
また祈りのベールを着けるにいたる私の旅路の中で、他のクリスチャン女性たちによる、ブログ上での証しも私に大きな影響を及ぼしました。それらの証しに感銘を受け、私もブログを開設することにしたのです。いつの日か、私の証しも、祈りのベールに関して励ましを必要している女性へのなぐさめとなり、また、この聖句が超文化的なものであるということをこの世に示す助けとなったらいいなあと願っています。
3.ご主人はあなたのご決心に関し、どのような役割を果たされましたか。あなたとは違う意見でしたか?
ええ、主人は当初、私とは違う立場に立っていました。というのも、主人は教会の指導者の意見に敬意を表していたからです。
でも、私が被り物についてリサーチすることに関しては夫は非常に協力的でした。主人は、私がこれに関してどれほど真剣に取り組んでいるかということを見、またベールを着ける行為が、私たちの結婚生活に肯定的なものをもたらしていることを見た後、私を全面的に応援してくれるようになりました。
私はフルタイムでベールを着けるよう導かれました(これはあくまで私の個人的な確信です。)そして主人は毎日のように、「ベールを着けている君は、前よりもっと美しいよ」と言ってくれます。主人の心の中にシンボリズムが働いているのだと思います!
4.最初にベールを着けて主日礼拝に行った時、どんな心境でしたか。
最初の二回は、冬場でしたし、かぎ針編みの帽子をかぶって行ったので、ほとんど誰にも気づかれませんでした。でも布製のベールを着けて初めて教会に行った日曜日は、ほんとうに緊張しました。でも、それでも、肩から重荷が取りのけられたような、そんな気持ちがしました。
おもしろいことに、その日、ベールについて誰も何も言ってきませんでした。教会の兄弟たちが、直接訊くのをためらいつつ――私がこれからもベールを続けるのかどうか今「様子を見ている」最中なのか、それとも、教会に来たベールの新来者にあっさり感化されてしまったのだろうと思っておられるのか、、、それについては正直まだよく分かりません。
時がたてば、それらは明らかになるでしょう。私としては、自分のくだした決心が、教会のみなさんの内に否定的な反応を引き起こさなければよいがと思っています。
5. 祈りのベールについてですが、どんな点が最もすばらしく、またどんな点でもっとも困難を覚えていますか。
最もすばらしい点といえば、今までよりも自分のうちに「もろさ・こわれやすさ」を感じなくなり、安心感が増したということです。
どうしてそう感じるのか言葉では十分に説明できないのですが、おそらく、この聖句を使徒的掟として受け止め、それに従っているため、自分の良心に安息が与えられているからかもしれません。
またベールは私を虚栄からへりくだらせ、常に目に見える形で、「私は夫に属しているんだ。他のどの男性にも自分の魅力を見せつける必要はない。そして愛をもって主人に従うよう召されているんだ」ということを思いださせてくれます。
一方、もっとも困難を覚えている点ですが、やはり、私の敬愛する兄弟や先生方のご意見に反して何かをしているということでしょう。だからよく「私って何様なのかしら。先生方の解釈とは違う風にこの聖句を受け取っているなんて、、」と後ろ向きな思いに駆られることもあります。
6.人目を恐れ、いまも祈りのベールを着けることができずにいる女性たちに何かメッセージはありますか。
最初に本格的なベールを着けて教会に行った時、私はもうビクビクしぱなしでした。私は元々非常に内向的な性格で、できるならいつも、人目につかないところにいようと逃げ回るタイプです。
被り物を着けるというのは、それこそ、私の安全ゾーンをはるかに超えさせる行為でした。いや、もうあまりにも超えすぎて、自分の安全ゾーンさえもはや見えない状態にありました!そうではあるのですが、しかし、私はこれを主への畏れから実践することに決心しました。
もしあなたが今、祈りのベールのことですでに確信が与えられていて、でも恐怖心ゆえ、それを実践できずにいるのでしたら、(私と一緒に)ガラテヤ1:10の御言葉を考えてみましょう。
「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」
人への恐れというのは強固な力です。そしてそれは主との歩みの中で罠となるものでもあります。恐れにとりつかれそうになる時、私は自分の好きな作家であるJ.C.ライルの次のことばを思います。「自分の人生の終わりを迎える時、あまりに聖く生き過ぎたとか、あまりに神と近く歩み過ぎたなどと言う人はいません。」
私の証しを読んでくださって、ありがとうございました。
⑩ ジェシカ・ロルダン姉妹(バプテスト教会、米国)
以前私は、「かぶり物の慣習は今日には適用されないものだ」と考えていました。1世紀のコリントの女性たちだけが祈りや預言をする際にベールを着用することになっていたと何度も聞いてきたからです。
ですから、このことに関する箇所(1コリント11:1-16)を読むたびに、私はさっさとそこを読み飛ばし、次の箇所に移っていました。でもいつもこの聖句については「本当のところ、いったいどうなんだろう?今日にも適用されるべきものなのかしら?」と落ち着かないものを感じていました。
そんなある日、私はあるクリスチャン姉妹のブログ記事を読んだのです。タイトルは「クリスチャン女性は頭をおおうべき?」でした。私は興味をもちました。この姉妹はまたそれに関する参考文献もいくつか挙げていましたので、私はそれも全部読みました。そして1コリント11:1-16について熟考しました。
そうして後、ある時、私はかぶり物が実際、すべての時代、すべての場所を通し、すべての人(姉妹)に向けられた「掟」であることを悟ったのです。それは私にとって全く明瞭なものとなったので、私はただちに従う必要を感じました。さもなくば、神様に対して罪を犯すことになってしまう、そう思いました。神様はこうおっしゃっています。
「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります」Ⅰヨハネ2:4-5
またこうもおっしゃっています。
「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です」(ヤコブ4:17)
主人から許可を得た後、私は箪笥を開け、頭をおおうことのできる物を探しました。そして長方形のスカーフをいくつか見つけたのです。
今後、フルタイムでかぶり物を着けることになるのか、それとも、祈ったり、聖書を読んだり、子供たちに教えたりする時だけ着けることになるのかそれはまだはっきり分かりませんでしたが、一つ確かなのは、ともかく実行に移すということでした。――それも今すぐに。
最初の試練はその後すぐやってきました。その時期、私たちはある大きな祝賀会を開くことになっており、多くの人々が一堂に会する予定でした。
私は思いました。「この祝賀会が終わった〈後に〉かぶり物をつけ始めるっていうのはどうかしら?こんなに大勢の人の前にかぶり物をつけてる自分をさらすなんて、すごく恥ずかしい。でも神様の掟を守らないなら、私は偽り者ということになってしまう。そして真理は自分のうちにないっていうことになる。つまり罪を犯すってことになる。ああそれには耐えられない!」
それで私はどんなに決まり悪い思いをすることになっても、とにかくスカーフをつけることにしました。
その祝賀会の席では誰も何も言ってきませんでした。でも皆がいぶかしがっているのは確かでした。でもそれから少しして、その場に同席していたある人が私の所にやって来て、その話題を始めたのです。ああ、そのどんなに怖かったこと!
その方はつかつかと私の所にやってくると挨拶も無しにいきなり、こう言い放ったのです。「あなた、なんで頭の上にそんな物着けてるの?なんで行ないによって救われようとしているのよ?」ーー私はあまりのショックになんと答えていいものやら言葉を失いました。
でも私は必死でこう答えようとしていました。「かぶり物というのは旧約の掟ではなく、新約に書いてある掟なの。私も、人は行ないによっては救われないってことを知ってる。だから私がかぶり物をしているのはそういう理由からじゃないの、、」
でも私の言葉は鋭くさえぎられ、もはや何も返答させてもらえませんでした。その方は数分間、大声でどなった後、きっと踵をかえすと、さよならも言わずに去って行ってしまいました。私はショックを受け、悲しみに沈みました。神様に従ってかぶり物を着けるなら今後こういう対応がひたすら私を待ち受けているのかしらと。
しかし幸いなことに、その後は、その方からもその他の人からもそういった対応をされることはありませんでした。でも、今でも私は祈りのベールを着けることに葛藤を覚えています。人に変に見られたくないんです!普通でありたいんです!でも、突き詰めて考えてみると、結局は、主の掟に不従順であることによって御父の心を悲しませるよりは、他の人に変だと思われることをむしろ選びたいのです。
それに私は自分の救いを「得よう」としてかぶり物を着けている訳じゃないんです。私の寄り頼むのはイエス様の義であり、自分自身の義ではありません。「キリストは律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:4、10)。
私が頭を覆っているのは、神様に対する従順からです。なぜなら私は主を愛しており、こういった「ささいなこと」においてでさえも主をお喜ばせしたいと願っているからです。
取るに足らないささいなこととは、どれくらいささいなことをいうのでしょうか。従順における小さな一歩は、あくまで一歩にすぎず大きな跳躍ではないから、取るに足らないのでしょうか。
「主よ、私は『大きな事』にはちゃんと従いますよ。でも、瑣末なことには干渉しないでいただきたいですね!」と言える人がいるでしょうか。私たちは神様に対し――大きな事と同様、小さな事も――明け渡すべきではないでしょうか。人々にイエス・キリストを通して与えられる救いについて宣べ伝えることももちろん果たしますが、それと同時に、祈りのベールを着けることによって、主の立てられた秩序に喜んで服従していることを示す必要があると思います。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」マタイ25:21
私は、上の言葉を主から受け取りたいです。
もちろん、一部の方々にとって私は奇妙に映ることでしょう。異議を唱え、私を見下す方もいるでしょう。また誤解して、私のことを「律法主義者」だとみなす方々もおられるでしょう。また「いばっていて」「目立ちたがり屋」というレッテルを貼る方もいるかもしれません。でもイエス様も中傷をお受けになられなかったでしょうか。それなら私だって耐えるべきです!
私はこれからもくじけず、強くありたいです。つらいことより、祝福に目を留めたいです。今自分が受けている祝福のいくつかを以下、書き出します。
1.謙遜さ。私の「光栄」(髪の毛)を覆うという行為によって、虚栄ではなく、謙遜な精神が育まれつつあります。
(↑家で聖書を読むジェシカさん)
2.柔和さ。頭に四六時中、服従の象徴をのせているという行為によって、主人と言い争うという誘惑から守られています。主人の意見に不賛成の時であっても、あくまでやわらかく平和的に退くよう導かれています。
3.崇敬の念。頭にベールを着けているという「儀式」に付随し、聖書の学びや祈りが美しい荘厳さやおごそかさによって光彩を与えられています。
4.忍耐。上流に向かって泳いでいくことで筋肉が鍛えられます!祈りのベールに理解がなく共感もない環境に直面することを余儀なくされることによって、私の霊的「筋肉」は鍛えられていっています。
5.女性らしさ。ベールを着けることにより、主人と私の違いが際立ち、それによって私はさらに女らしさを感じるようになりました。自分にふさわしい役割の中で憩うことにより、私の中の女性は開花し、やわらかくされており、また主人にリーダーシップを取ってもらっています。
ここに全部挙げることはできませんでしたが、これからかぶり物を続けていくことでさらに新たな発見があることでしょう!あなたはどうですか。神様があなたのために取っておいていらっしゃる祝福が何であるのかお知りになりたいですか。あなたが主に「はい」と応答することによって今にも開かれようとしているその祝福が何であるのかお知りになりたいですか。
もしかしたら、あなたはすでに従順の一歩を踏み出していらっしゃるのかもしれません。それなら、あなたはこれからもめげずに忍耐強く続けていきたいですか。
あなたの勇気と断固とした従順のことをあるいは今後お耳にすることがあるかもしれません。もしそうなら、それは私にとって大きな励ましとなるでしょう。
祈り
主よ、すべての小さなことについて、あなたに明け渡すことができますように。ささいなものだからといってないがしろにすることなく、わずかな物に忠実であることができるよう助けてください。かぶり物を着けるという単純なタスクに従順であることを通し、今後与えられるであろう、さらに大きな責務に備えさせてください。あなたに目を注ぎ続けます。どうぞ私たちを喜びで満たしてください。アーメン。
⑪ アッシュリー・ブラウン姉妹(無教派教会、米国)
名前:アッシュリー・ブラウン
年齢:22歳
所:米国ニューヨーク州ロングアイランド
祈りのベールをつけ始めた時期:2013年9月
1)読者のみなさんに、自己紹介してください。
私は22歳で、ニューヨークのブルックリン生まれ、ロングアイランド育ちです。私の趣味は、作曲、ピアノ奏楽、バスケ、それに楽しいこと何でも好きです。私はオープンで社交的な性格です。地元に住んでいる人をみんな知っているというタイプの娘ですが、本当の友だちといえるのは数人です。
私はイエス様が大好きで、主を喜ばせたい、主に仕えたいというのが自分の唯一の願いです。私の家族はすてきな人たちです!うちはホームスクーリング家庭です。母は賢い人で、主に熱心に仕えています。私の継父は現在うちの教会の賛美リ―ダ―をしています。父はやさしくて、穏やかで、心のひろい人です。私は7人兄弟の真ん中ですが、兄弟仲がすごくいいです。
私は常に宣教に対する情熱がありました。そして今年から中国宣教に関わり始めています。でも何か特別なことをしているわけじゃありません。行く先々で御言葉を分かち合い、世の中のものから聖別された者として、自分の信仰についてお証ししているだけです。にもかかわらず、神様は働いてくださり、私を変えてくださっています。そのことを主に感謝しています。
2)あなたはどこの教会に通っていますか?教えてください。
私はロングアイランドにある教会(non-denominational)に通っています。うちの教会はかなり大きいです。メンバーは500-600名以上います。やさしく、協力的な人ばかりです。また私はヴォディー・バウハム師、ポール・ウォッシャー師、ビル・ゴサード師の説教が好きです。
3)どのような経緯で、祈りのベールをつけるようになったのですか?
話は中国への長期宣教旅行に行っていた時にさかのぼります。
その当時、数カ月に渡って、神様は私に慎み深い服装をするよう内的示しを与えてくださっていました。でも、慎み深い服装といってもいったい何から始めていいものやらさっぱり分かりませんでした。というのも母教会の人々、学校のともだち、家族みな同じようなファッションをしていたからです。
でも神様はある時点でついに私の服装を決定的に変えてくださったのです。そしてそれは絶妙のタイミングでした。というのも、私の宣教フィールドは、中国人を除けば、その他は大部分イスラム教徒だったからです。効果的な宣教をする上で、この慎み深い服装というのは大きな役割を果たすと私は思います。
それはともかくとして、聖霊が私にその事をはじめて示してくださった時、私は服装を完全に変えるまで部屋を出ることができませんでした。私に示された慎み深い服装とは、ロングスカート、それに胸の部分を覆うスカーフでした。そういうスカーフをすることで、体のラインが隠れ、変な注目を避けることができるのです。
でも最初私はおびえていました。なぜって他の人と違っているのが怖かったからです。でも聖霊は私がこれ以外の着方をするのを許しませんでした。
神様に対するこの服従は、正しい決断をする上での一つの大きなステップでした。またこの事を通してさらに自分自身を余すところなく主に明け渡す覚悟ができました。そして自分の育ってきた異教文化からさらに聖別される覚悟もできました。
そんなある日のことです。御言葉を黙想し、深い祈りのうちにあった時、私は1コリント11章の言葉に行き当たりました。実は以前にもその箇所にぶち当たったことがあり、教会の長老のところに質問に行ったことがありました。すると長老は「この箇所は今日の私たちには適用されない」とおっしゃいました。
私は当時まだ子どもだったのですが、その説明になにか納得いかないものを感じました。とはいえ、私は長老の言葉の影響を受け、それ以上は考えないことにしました。
でも今回その箇所を読んだ時、私はそこを素通りすることができませんでした。なんだか頭がおかしくなりそうでした。だって聖書はここで明らかに二種類のかぶり物のことを言っているではありませんか。
一つは祈りおよび預言する際のかぶり物、そしてもちろん後半の箇所で神様は、私たち姉妹に男性のように髪を短く切ってはいけないことをおっしゃっています。
私は家族や親しい友人たちにメールを出し、これに関して意見をきいてみました。祈る時にかぶり物を着けないのは、髪をそっているのと同じくらい恥ずべきことだと神様はおっしゃっています。髪をそるというのは、当時、不名誉の象徴でした。つまり、これは深刻な問題なのです!
もちろん私のクリスチャンの友人たちは、この聖書箇所をどうにか解釈した上で、「だから結局ここの御言葉に従う必要はない」ということを正当化すべく、いろいろ答えを持っていました。
それで私は考えついたのです、、、いっそのこと神様に祈って、直接主に訊いてみたらどうだろうと。この時点で私はすでに聖霊に示されていたので、かぶり物をつけ始めていました。私は祈り神様に訊きました。「主よ。本当にこれをつけなければならないのでしょうか?」すると御霊は「もしわたしがあなたにそう示したなら、あなたはそれに従いますか」と私に示してくださいました。
それ以後、私は自分のすべきことが分かりました。たくさんのクリスチャンが変な目で私をみるようになりました。中には私がイスラム教か何かに改宗したのかと思った人もいる位です。私のことを物笑いの種にし、あざ笑う人たちもいましたが、私は神様がおっしゃってくださったことについて確信がありましたので、揺らぎませんでした。
なぜ自分の頭を覆うのかということについても神様はその理由を明かしてくださいました。それは単に外面的なもの、ないしは慎み深さといった理由だけでなく、私が神様の権威の下にあること、そして結婚後には夫の権威の下にも置かれるということを私に気づかせる目的もあったのです。
そして自分は未来の夫に対して従順である必要があるばかりでなく、神様に「こうしなさい」と言われること全てに対して従順である必要があること――これについても私に気づきを与えてくださいました。
4)ベールをつけて初めて日曜礼拝に参加した時、どんな気持ちでしたか?
中国で通っていたインターナショナル・チャーチの礼拝に、はじめてかぶり物をつけて現れた時、教会の人は私のことをいぶかしげに見ていました。でも毎週毎週、かぶり物をつけて教会にやって来る私を見るにつれ、これは単なる奇習ではなく、もっと深い何かであることに彼らは気づき始めたようです。
多くの人が私のところにやって来て、なぜかぶり物をしているのかと訊いてきました。そしてそれに対し私は理由を説明しました。しばらくすると、教会の姉妹の多くが私の感化を受けはじめました。彼女たちはまだ実際にかぶり物をつけるところまではいっていませんが、「もしかしたら、これが神様が願っていらっしゃることかもしれない」と心を開き始めています。
その教会はインターナショナルでしたので、かぶり物の習慣を今も守っている文化圏の姉妹たちもいました。たとえば、インド人姉妹は全員、頭にかぶり物をしていました。彼女たちはパウロの書いたあの聖書箇所を非常に真剣に遵守していたのです。ガーナのある地域から来た姉妹たちも祈りのベールをつけていました。
休暇でアメリカに一時帰国した時、母教会に行くのが最初かなりこわかったです。もしベールをつけずに教会に行くのなら、私は内心苦しむだろう。それに魂の内の何かがそれはいけないと私に言っていました。かといってもしかぶり物をするなら、いろんな人の注目を浴びることになる、、、だって、、こ、ここはアメリカなんですもの!!
ベールをつけ始めた時、私は一種「中東風(といっていいと思いますが)」にかぶり物をつけるよう導かれました。ですから、それは隠そうにも隠せない代物だったのです。それだけじゃありません。私は賛美チームのメンバーでしたので、なんと「ステージの上で」ピアノを奏楽しなくちゃならなかったのです!
とにもかくにも私は礼拝に行きました、、、でも予想に反しておそれていたようなことは起きませんでした。それどころか逆に、人々は私の身なりを誉めてくれ、「いいね」と言ってくれたのです。
誰しも心の奥底では、慎み深く身を包み、スカーフをつけることには、ある種の尊敬が込められており好ましいことだと感じているのだと私は思います。
5)人の目がこわくてかぶり物をつけることができずにいる女性たちに何かアドヴァイスがありますか?
とにかくやってみてください。もし神様があなたを導いておられ、聖霊によって示されているのなら、おそれずに、とにかくやってみてください。
イエス様は、私たちが主のためにいのちを失う時はじめて、それを見い出すだろうとおっしゃっています。また日々自分を否む必要性をイエス様はおっしゃっています。さらに自分に死なない限り、実を結ぶことはできないことを主はおっしゃっています。
また主に従っていくことは、父や母や家族を否むことでもあるとイエス様は言われます。これは大きな信仰のステップであり、これを通して神様と私たちの関係は今までよりもずっと親密かつ個人的なものになります。
かぶり物というこの小さい事に関して主に従うことができるなら、今後さらに大きな事に対しても従うことができるようになるでしょう。従えば従うほど、キリストにある私たちの人生はより良いものへと変えられていきます。これ(祈りのベール)を従順の象徴としようではありませんか。そして主を信頼していきましょう。
6) あなたはどんなかぶり物をしていますか?どこで購入していますか?
私はスカーフを使っていて、いわゆる「中東風」にかぶっています。つまりスカーフで頭部分と胸の当たりを覆っているのです。私はそれを小物屋さんやスカーフのお店で買っています。
アフリカン・スタイルの帽子やヘッドバンド、頭に巻くスカーフなど他のかぶり方もありますが、そういうファッションでは(アフリカ系アメリカ人である私の場合)かぶり物の真の意味があまりはっきりしないのです。とにかく聖霊によって私は中東風のかぶり方をするよう示されているので、それにただ素直に従っています。
そして私はそこから大きな喜びを得ています。神様を以前よりももっと近くに感じます。またかぶり物は私たちが神様と男性の権威の下にあることを象徴し、思い出させてくれます。
私は父に従順に従い、父を敬う必要があり、結婚後には夫を敬愛し、従う必要があります。かぶり物をつけたことで、従順という行為に対する私の態度が変えられました。そして天のお父さまにとって聖なる宮でありたい、生けるささげ物となりたいとますます願うようになりました。
ありがとうございました。
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⑫ イリナ・グラツコヴァ姉妹(無教派教会、ロシア/カナダ)
名前:イリナ・グラツコヴァ
年齢:25歳
所:カナダ、NL州セイント・ジョンズ
祈りのベールをつけ始めた時期:2010年10月
1)読者のみなさんに少し自己紹介してください。
こんにちは。私の名前はイリナ・グラツコヴァで私は独身のクリスチャン女性です。私はロシアから来ました。カナダには2007年9月より在住しています。それ以前には交換留学生として11カ月米国に住んでいました。
私は多くの思想探究の旅を続けた末、12歳の時、主イエス様を救い主として心に受け入れました。私は生まれつき身体に障害があり、これまで7回手術を受けてきました。自分が身体障害者だということで、子ども時代から10代にかけ、私は深刻ないじめに遭ってきました。
私が生まれた時、病棟の医者たちは母に、「この子を病院に置いていかれたらどうですか。ひどく病弱ですし、それに身体的にいくつもの欠陥があります」と説得しました。悲しいことに、これはロシアおよび旧ソ連諸国では普通に行なわれていることなのです。
でも母はそれを拒みました。そして母は多くの犠牲を払って私を育ててくれました。私の最大の夢は、自分の家族が救いに導かれることです。
深刻ないじめに遭ってきたと書きましたが、このいじめの体験は、私を真理探究に向かわせました。この世に正義が存在しないということが私にはどうしても受け入れられませんでした。私は母と連れだってロシア正教会に通っていました。でも、聖人に祈ったり、イコン等の前にひざまずいたりすることに葛藤を覚えていました。
交換留学生として米国に滞在していた時、私はバプテスト教会の牧師家庭にホームステイしていました。そしてそこで私の信仰は成長し始めたのです。その時、私は17歳でした。
米国滞在後、カナダの大学に進学することを私は考え始めていました。ちょうどその頃、息子さんの卒業式に出席するため、現在私が通っている教会(フェイス・バイブル・チャペル)から一人の婦人が米国にやって来られました。
さらにニューファウンド記念大学から入学許可および奨学金をいただくことができました。こうして主は私をここニューファウンドランドに導いてくださったのです。私はハイキングや散策、小物作り、読むこと、書くこと、歌うことが好きです。いろいろな形の雲をみるのも好きです。
2)あなたはどこの教会に通っていますか。あなたの教会のことを少しお話ください。
私はnon-denominationalのフェイス・バイブル・チャペルに通っています。教会の規模は小さいです。
以前、米国ミシガン州のローズビルにあるコーナーストーン教会を訪問したことがありますが、会員数約3000人という巨大さに驚きました。私の教会は世界各地に宣教師を送り出しており、またさまざまなミニストリーに協力しています。
私たちは礼拝の前と後に共に賛美を歌います。私は牧師先生の説教が好きです。それは人の心の琴線に触れ、また具体的な生活に適用することのできるすばらしいメッセージです。また平日にはたくさんの聖書勉強会が開かれ、毎週金曜日の朝7時には祈り会および朝食会があります。
3)どういう経緯で祈りのベールをつけるよう導かれたのですか?
私はロシアで生まれ、17歳までロシアに住んでいました。そして時折私たち家族はロシア正教会に通っていました。そこでは既婚女性は頭巾で頭を覆うことが義務付けられていました。また、5歳以上の女の子もかぶり物をつけるべきだと言っている神父さんも大勢いらっしゃいました。
正教会の信徒
2006年、前に述べたように私は交換留学生として米国に来ました。そこで聞いたのが、「かぶり物というのは文化的な習慣だった」という説明でした。それで私はかぶり物についてそれ以上考えなくなりました。
そして2007年、カナダに来た私は現在の教会に通い始めました。教会に行った最初の日、数人の女性が礼拝中、レースのベールをつけているのに気づきました。牧師先生や長老が私にベールをつけるよう言ってこられるかもしれないと思って念のため、私はかばんの中にスカーフを入れていました。でも誰もそうするよう言ってきませんでした。
後で人に訊くと、レースのベールをつけている女性たちは、夫に対する従順のしるしとしてかぶり物をしているのだと説明してくれました。それで、しばらく私はそのテーマについて何も考えないようにしていましたが、依然としてそれは心から離れませんでした。その後、私はかぶり物に関する記事や論文をたくさん読み、多くのビデオも観ました。
そして1コリントの手紙を何度も何度も読み、祈った後、私はかぶり物をつける決心をしました。創造の秩序、権威、「御使いがみている」というのは万人に当てはまることです。それに使徒パウロは髪の長さについて言及する前に、かぶり物について語っているのです。
女性の髪の長さは礼拝中もしくは祈りの間、変わるものではありません。ですから、特にこういった礼拝や祈りの時、女性は頭にかぶり物というしるしが必要であるとパウロは言っているのです。
私はそのことについて長老に相談に行きました。すると長老は、「もし神様があなたをそのように導いておられるのなら、あなたはかぶり物をつけるべきです」とおっしゃいました。
祈りのベールをつけ始めた後、私は自分のうちに大きな喜びを感じ始めました。現在私は、礼拝、聖書の学び会、(他の方々と一緒に祈っている時であれ、個人的に祈っている時であれ)祈りの時に、ベールをつけています。
4)祈りのベールをつけていて最もすばらしいと感じる時、また逆に最も大変に思う時はどんな時ですか。
ベールをつけ始めてから私は今までよりもずっと神様を近くに感じるようになりました。また礼拝の時、祈っている時、御言葉を読んでいる時、以前に比べて気が散漫になることが少なくなりました。また主に近づく上で前よりもずっと謙遜な心そして大胆さをいただくようになりました。
それに女性にはかぶり物をつけることが求められているということを知った私は、今まで以上に特別なアイデンティティを感じるようになりました。考えてもみてください。自分たちの着こなしによっても私たちは救い主イエス様にお仕えすることができるんです!――これって本当にすばらしいことじゃないでしょうか。
それに、前よりももっと聖書やお説教の内容が理解できるようになりました。また「どうしてベールをつけているのですか」と尋ねてこられる方もいらっしゃいますので、信仰を分かち合うすばらしい機会も与えられています。
一方、つらいこともあります。私は聖歌隊の一員として他教会を訪問することがあるのですが、そういった教会では祈りのベールをつけている姉妹はおらず、「律法主義者だ」とレッテルを貼られたり、裁かれているように感じることもあります。
数年前、ある女性のお世話をしていたことがありますが、その方は私に、「かぶり物というのは抑圧的です。そして、かぶり物をつけるという行為によってあなたはキリストの払ってくださった犠牲をないがしろにしているんですよ」と言われました。
5)人の目が気になり、そういった恐れから祈りのベールをつけることができずにいる女性たちに何かアドヴァイスがありますか。
恐れというのは私たちを麻痺させ、私たちが信仰のために立ち上がることを不可能にしてしまう場合があります。また恐れから、多くの人々は問題を自分流にとらえはじめ、それによって神様のご計画を台無しにしてしまうこともあります。
恐れにつかれたアブラハムは妻を他の人にやってしまいました。ペテロは三回イエス様を否みました。そしてアダムとエバは神様から隠れようとしました。イエス様は「わたしに信頼しなさい」と私たちにおっしゃいました。そして「恐れてはならない」とおっしゃいました。クリスチャンとして私たちは人ではなく神をおそれるべきです。
また祈りには力があることを覚えてください。私たちはイエスにあって勝利者なのです。そして神様は私たちの力の源です。それに、かぶり物にはいろんな選択肢があります。例えば、スカーフだけでなく帽子もれっきとしたかぶり物です。あなたの文化圏で帽子の方がより受け入れられているのでしたら、帽子をかぶってみたらどうでしょうか。聖書は特別な布地や色、スタイルなどを特定してはいません。
6)あなたはどんなかぶり物を使っていますか。どこで購入していますか。
私はいろんな種類のかぶり物を使っていますが、通常、四角形のスカーフを二つに折り、あごの下で結ぶ(つまり、伝統的なロシア・ベラルーシ・ウクライナ式のかぶり方)か、もしくはバンダナ式に結んでいます。時々、パシュミナ・ショールや長方形のスカーフをヒジャーブ風に覆うこともあります。ヒジャーブ風と言いましたが、でも髪の毛は全部隠れているわけではありません。また夏場には帽子をかぶります。
聖書の学び会の時など、単にセーターのフードをかぶる時もあります。またGarlands of Graceというオンラインのお店も友だちに紹介してもらいました。友人がクリスマスや誕生日にベールをプレゼントしてくれることもあります。ですから現在、私のかぶり物は10個以上あると思います。そしてその日の服装にかぶり物がフィットするよう気をつけてもいます。
ありがとうございました。
⑬ トッド・プラット姉妹(プロテスタント教会、米国)
イエスさまの御名によってごあいさつします。どのようにしてかぶり物(headcovering)を着けるよう、主が私の心に働きかけてくださったのかをこれから皆さんにお分かち合いしようと思います。
私はかつてあまり霊的でない教会に通っていました。そんな中、教会の中のある女性が祈りのベール(かぶり物)を着け始めたのです。これだけたくさんの女性がいる教会の中で、彼女は勇敢にもたった一人でそれを始めたのです!
彼女は私の友人でした。私は最初、訳が分からず、〈彼女は日曜学校のスキットに出演していて、衣装のベールをぬぐのを忘れたのかなあ〉と思って、彼女に訊ねたところ、彼女は丁重に「いいえ、そうではないの。」と答えました。
それから何週間も経ちましたが、その間、私たちがそれを話題にすることはありませんでした。でもついにある日、私は彼女をコーヒーに誘い、かぶり物について直接訊いてみたのです。そして一緒に聖書を開いていろいろ話し合いました。
そして彼女はどういう経過でかぶり物をつけるようになったか証ししてくれました。こうして私の心に神さまは種を植えてくださったのです!その後、私はかぶり物をつけるべきだと確信するようになりました。でもそれを実行するまでにはそれからもう何か月かかりました。
最初は日曜日に、教会に行く時に、小さなかぶり物(髪のおだんご部分を覆うベール)をつけるだけでした。しかしまもなく、私はスカーフ状の(髪全体を覆うタイプの)ベールに切り替えました。(これで、教会の中でかぶり物をつけているのは二人になったのです!)
やがて主はさらに私の心に働きかけてくださり、私はかぶり物をフルタイムでつけるようになりました。これがどれだけ私の人生と結婚生活に変化をもたらしたか表現できないほどです!
従順な妻であることを思い出させる、この外面的なベールを着用するようになってから、私自身のものの感じ方、主人の振る舞い、周りにいる人々の行動等、いろんな変化が起こりました。
本当にすばらしい変化が起こったのです!主人は以前よりも私のことをいとおしんでくれるようになり、私は私で「もっと主人に従いたい」と願うようになりました。
でも周囲の反応すべてが肯定的だったかというとそうではありませんでした。嘲られたり、ジロジロ見られたりしました。悲しみのほとんどは、自分と同年代の女性からの反応によるものでした。神さまの立てられた秩序に従っている私を見て、彼女たちは心に咎めのようなものを感じたのでしょうか。
その一方で、青年や年配の男性はもっと私に丁重でした。また年配の女性はベールをかぶっている私に親近感を持って近づいてきてくださり、会話をはじめたりしました。そしてそれがイエスさまのことを証しするすばらしいきっかけとなったのです。
ベールを着けていて、私はとても幸せです。主の御言葉を読み、それを実行する時、主イエス・キリストを知る知識と知恵において成長できるということを知りました。
ベールを着ける決心をしたことは、従順という面で、私にとって大きなステップでした。そしてそれを実行することができて本当によかったと思っています。私のこの証しがみなさんにとって祝福となり、励ましとなりますようお祈りします。
⑭ A・パルナック姉妹(プロテスタント教会、米国)
「そう、それでね、、」 ホテルのベッドの端に腰かけていた私は、友に話し始めました。
「私、一大決心したの。実はね、私、フルタイムで頭にベールを着けることにしたんだ。」
私のことを知っている方は気づいていらっしゃると思いますが、私は頭にかぶり物(headcovering)を着けています。このことをいつかお話したいって思っていたんですが、どういう風に切り出せばいいのか分からずにいました。
クリスチャンは往々にして、こういったささいな違いをリトマス試験のようにして、誰が「聖いクラブ」にいて、誰がいないかといったような判断をしがちです。
もちろん、ベールを着けている他の姉妹のことを聞くと本当にうれしくなりますが、ここではっきりしておきたいことがあります。それは、かぶり物(祈りのベール)に関するあなたの立場がどのようなものであろうと、私は、キリストにある姉妹としてあなたを愛し、尊敬しているということです。
マタイ23:23
忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。
私のベールは、いわゆる、はっかの十分の一のようなものだといえます。そしてこれが「はるかに重要なもの」の一つではないことも十分承知しています。朝、頭にかぶり物を着けることは、わが子に対してイライラせず接してあげることに比べれば、百万倍も容易なことです。それにクリスチャン生活において、頭にベールを着けること以上に大切なことはたくさんあります。
もしあなたが、「いつも喜んでいること」、「イライラを克服すること」、「時間を有益に使うこと」等の秘訣をすでにご存じなら、あなたは聖潔の道において、私などよりずっと先を進んでいらっしゃると思います!
では、どうしてあえてこのトピックについて書こうとしているのでしょうか。もしくはそもそも、どうして頭にかぶり物を着けようなどと私は決心したのでしょうか。
なぜなら、「これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけない」からです。神さまは今もなお、ご自身の民に「はっかの十分の一」を納めるよう言っており、聖書に対し正直に接するなら、やはり「かぶり物を着ける」という結論に導かれずにはいられないからです。
でもこれは今日、風変わりな慣習となっています。もちろん、近年、再び、かぶり物を着ける姉妹たちが増えてきているように見受けられますが、それでもやはり、依然として少数派です。
それゆえに、これ自体は小さなトピックかもしれませんが、ここに至るまでの私のストーリーおよび私のとっている立場について、お分かち合いしたいと思っています。
この証しを通して、私と同じような道をたどっている姉妹たちを励ますことができるなら、またそうではない姉妹の方々が、かぶり物を着けている姉妹たちのことをもっと理解くださるなら、とても幸いです。
ーーーーー
かぶり物についての私の「旅路」は、ミシガン州グランド・ラピッツにいる私の伯父夫婦の15人乗りバンの中で始まりました。私の後ろの座席には、(後に私の夫となる)青年が座っていました。彼は当時16歳でした。私たちは前の晩、知り合ったばかりでした。
日曜の朝、バンで伯父さんたちの教会に向かう途中、伯母さんは後ろを振り向いて、祈りのベールの詰まった入れ物を手にこう言いました。「うちの教会の女性たちは、この小さなベールを着けているの、、、」
かぶり物(ベール)を着けるというクリスチャンの慣習は、Ⅰコリント11:3-16から来ています。
「しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります、、、かぶり物を着けなさい」(Ⅰコリント11:5a、6b)。
教会に到着した時、私はレースのスカーフを頭に着けました。そして車の窓を鏡にして自分自身を覗き込んでみました。
とっても不思議な気持ちでした。
なんというか、守られている安心感みたいなものを感じました。特別な気持ちでした。そして出会ったばかりのあの青年は、これは聖書的な教えだと強く言っていました。うーん、じゃあ、私は今までどうしてこのことを学んでこなかったのかしら?
かぶり物に関する反論の中で一番多く聞くのが、「ここで言っているかぶり物というのは、実際には、長い髪のことを言っているのであって、ベールとか帽子のことを言っているのではない。」というものです。
私が個人的に、前述の解釈(かぶり物=長い髪という説)を受け入れられない理由は、この読み方をすると、6節が全く意味をなさなくなってしまうからです。「長い髪」ロジックに従うなら、あなたの髪が長ければ、頭は「おおわれている」ことになり、あなたの髪が短ければ、頭は「おおわれていない」ことになります。
6節では、かぶり物を着けないことについて言及がなされています。もし「かぶり物を着けない」のところが、「短い髪」と置き換えられるのだとしたら、ここの聖句はこうなります。「女が短い髪なら、髪も(also)切ってしまいなさい(短い髪にしなさい)。」
もしすでにあなたの髪が短いなら、どうして(alsoという言葉を使い)、短い髪にしなさいなどということができましょう?ここが、「長い髪」と「かぶり物(ベール)」という二つの物について言っていると理解してはじめて、この聖句はつじつまが合うように私には思われます。
この若いパルナック氏と私は一週間もしないうちに恋に落ちました。私は休暇後、実家のあるオレゴン州に戻りましたが、求婚者である彼と私は手紙や電話でのやりとりを続けました。自分にとっては斬新なアイディアであったかぶり物のことについても私は葛藤していて、彼ともよくそれについて話し合いました。
もう一つ、ひんぱんに出される反論として、「かぶり物は、コリントでの単なる文化的問題にすぎなかった。」というものです。この線に沿ったありとあらゆる説明を私は耳にしてきました。
その中でも一番奇抜だったのは、次のような解釈でした。
「コリントの女性は実際、教会内で服をもろとも脱ぎ捨てていた。彼女たちの『脱ぎっぷり』はまずベールを脱ぎ捨てることから始まっていた。だから、パウロがここで言っている真意は、彼女たちに『ストリップはやめなさい』ということなのだ。」
私はこういう見方にも納得することができませんでした。Ⅰコリント人への手紙は、コリントにある教会に宛てて書かれたものですが、同時に、「私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々(Ⅰコリント1:2)」に対しても書かれています。
ですから、この教えは全ての人のためのものであり、そこに書かれてある掟は、地元の都市や文化うんぬんにかかわらず、全ての信者に適用されるものです。でも私にとって、「コリントの文化」を持ち出したロジックを受け入れることができない最大の理由は、
「市場にいる人たちがあなたのことを売春婦だと思うといけないから、かぶり物を着けなさい。」とか「かぶり物を着けなさい。そうしたら、あなたの兄弟姉妹はあなたのことを誤解しないだろうから。」等、、そんなこと、聖書は全く言っていないからです。
聖書には「ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです(Ⅰコリント11:10)」と書かれてあります。ここで取り扱われている文化というのはコリント文化ではないのです。そうです、これは御使いの文化のことを言っているのです。
私は御使いの文化がどんなものか知りません。ですから、主の御使いたちが見るために、主が私に何かをするように求められるのなら、いろいろと問いただすことをせず、単純にそれを実践すべきだと私は思います。
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手芸店で購入した円形のレースでアレンジし、細かい縁取りの入った帽子。
決心はしたものの、私の心臓はドックンドックン高鳴っていました。周りの人はどう思うだろう?かぶり物を着けて母教会に行ったら、みんな何と言うだろう?周りの人と違っているというのは容易なことじゃない。でも私には選択の余地がありませんでした。このことを信じ始めていたからです。でも教会に行ってみると、自分の予想に反して、人々は何も言いませんでした。
かぶり物はとにかく「奇妙すぎる」と言う人もいます。クリスチャンの姉妹が変てこな布を頭に着けなければならないと聞いたら、世の女性たちはクリスチャンになりたがらなくなるんじゃないかと。
この主張はⅠコリント9:22「すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです」という聖句に基づいてなされています。
これは自分たちで考え出した何かについての事なら考慮してさしつかえないと思います。例えば、鼻の先にまがい物のサイの角をつけたりしないとか、そういう理由ならきわめて妥当など思います。でも神さまが私たちにお与えになっている掟を捨て去る言い訳にするのなら、それは良い理由とはいえません。
クリスチャンは「奇妙に」見えるような多くのことを実践するように召されています。例えば、結婚までは性行為をしない、飲酒をしない、自分たちを憎む人たちを愛すことなどです。
「私は売春婦の人たちに福音を伝えようとしている。だからそういった売春婦の人たちに違和感を覚えさせないために、私は売春を支援する必要がある。」とか、
「ゴシップ好きな、お茶仲間の女性たちに福音を伝えたい。彼女たちに、『あなたはクリスチャンになれるし、しかも今まで通り普通に生きていける』ということを分かってもらうために、私もゴシップを始める必要がある。」などという論理が通るでしょうか。そんなことをあえて真剣に言う人がいるでしょうか。
何かを実践するように神さまが私たちにおっしゃっているのなら、たとえ奇妙な感じに見えても、私たちはそれを行なわなければならないのです。
こうして次第に、私は「いつも帽子をかぶっている女の子」として知られるようになっていきました。
私は教会や大学でのキリスト者の集まりの時にかぶり物を着け、またデボーションの時を持つたびに着けました。でも段々と、私はあることに気づきはじめたのです。デボーションの時を終えても、「はい、これで神さまとのデボーションの時は終わり!」といった風に割り切ることのできない自分がいました。
主とのこの親しい交わりの時をひきつづき持ちたい、祈りを通して主とずっとつながっていたい、そう願う自分がいたのです。
いちいちかぶり物を取ったり着けたりすることなしに、いつでも祈りたい時に主にお話することができたら――私の中でそういう思いが芽生えてきました。デボーションの時が終わり、大学の教科書を取り出す時にも、かぶり物をそのまま着けていたいと願うようになりました。
そうこうするうちに、気がつくと、寮の部屋にいる間中、私はベールを着けているようになりました。
大学卒業後、私はパルナック兄と結婚しました。家に一人でいる時はかぶり物を着けていましたが、主人が帰ってくる音を聞くや、それをバサッと取り去りました。というのも、主人は、教会にいない時や、共に祈っていない時には、私にかぶり物を脱いでほしいと思っていることを感じていたからです。
一方、Ⅰコリント11章の「男は祈る時、頭にかぶり物をつけてはならない。」という部分に関しては、どれだけ多くの男性が現在でも真剣にこの教えを守っているでしょうか!
祈る時、兄弟たちは、たとえ嵐のような雨の中であろうとも、ギラギラ太陽の照りつける炎天下であっても、帽子をぬいで祈りますし、説教者の男性が、帽子をかぶったまま会衆の前で祈ることなど、彼らは絶対に許しません。
でもそうしている当の男性たちが、こと自分の妻のことになると、妻がかぶり物を着けずに祈っていることなどちっとも気にしていないのです。
「Ⅰコリント11章は髪のことを言っているんだ。」とそういった兄弟の方々は言うのかもしれません。でも不思議でならないのは、もしそれが本当ならなぜ、彼らは今も祈る時に帽子を取らなければならないと感じているのでしょうか。
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また話を戻します。私たち夫婦はある時、教会から家に戻る車中にありました。私は主人に正直にこう話しました。
「お友だちにね、『私、いつもベールを着けていたいなってすごく思うの。でも主人がそれを嫌うって分かっているから、やらないの』って話したの。」
すると主人はこう言いました。「いつもかぶり物を着けるっていう考えを誰に吹き込まれたの?」
その晩、私たちはもう一度、一緒にⅠコリント11章を読みました。女性が祈る時にはかぶり物を着けるべきであると言っているように確かに私たちには思われました。
それに加え、私たちは「絶えず祈る(Ⅰテサ5:17)」ことが求められています。私たち夫婦はこれらの御言葉に励まされ、主人は私がフルタイムでかぶり物を着けることを許してくれたのです。私はとってもうれしくなりました。
現在、私は長いスカーフタイプのベールを着けています。そしてそのベールを愛用しています。他の人と違っていることで、今でも時々しんどい思いをすることはあります。
それに、、、ちょっと変に聞こえるかもしれませんが、世の中の人よりも、クリスチャンの間にいる時の方がずっと精神的に大変なのです。
一方で、通りがかりの人は、目に見えるほどに私にやさしく接してくれます。私が公の場でもっと「フツー」に見られようとしていた時にはほとんどみることのできなかったような、やさしさと敬意を多くの人々から感じるようになりました。またそれは公の場における私の証しの機会を増やすことにもなりました。なぜなら、人々はみているからです。
私と同じような理解の仕方でⅠコリント11章を信じている姉妹にとって、フルタイムでのベールは、「ぜいたくなやすらぎ」といえましょう。なぜなら、自分の手が生肉やらパン生地やら、庭の土やらで汚れていることを心配することなく、もしくは、洗濯や赤ちゃんの世話で、祈りたい瞬間にベールを着けることのできない状況を憂うことなく、一日中いつでも祈りたい時に祈ることができるからです。
これが私の証しです。ありがとうございました。
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⑮ エープリル・カスィディ姉妹(バプテスト教会、米国)
2010年3月16日―その日、神さまと私はがっぷり四つで対話をしていました。
その頃、私は第一コリント人への手紙を通読していたのですが、その日は11章でした。そしてはたと止まりました。今まで何度も読んだことのあった章なのに、あたかも初めて読んでいるかのように感じたのです。
それまで私はいつもこの章の最初の16節はすすっーと読み飛ばして、それについて少しも良心の呵責を感じていませんでした。でも今回、なぜだか私はそれを無視することが全くできなかったのです。神さまが私の目をそこに向けさせたのです。
神さまに押され、私はここの聖句に取り掛かり始めました。これに解決をつけない限りは神さまは私をこの先一歩も進ませてくれない、そんな感じでした。1コリント11章に取り組む前、私は主人を敬うことについて、そしていかに神さまが夫を私の権威としてお立てになったのかということについて学んでいました。
そしてその学びを通して、神さまが「霊的権威」について語っておられる時にはいつでも注意を向けなければならないことに気づいていました。霊的権威というのは、とてもとても大切なテーマです。Ⅰコリント11章には、結婚について、そして神のデザインされたものついての深奥な真理が語られています。
みなさん、どうかこの箇所を敬虔な思いを持って、そして御霊に満ちた斬新な目でもって読んでみてください。そして祈りつつ、神さまがあなたの心に語ろうとしておられることは何でも受け入れますといった、開かれしスピリットを持って読んでみてください。
Ⅰコリント11章1-16節
3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。
4 男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。
5 しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。
6 女がかぶり物を着けないなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。
7 男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。
8 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、
9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
10 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。
11 とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。
12 女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。
13 あなたがたは自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。
14 自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、
15 女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。
16 たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。
でも、この箇所は現在もう適用されない、、、そうですよね?これはこれで置いといて、次の17節から始まる主の晩餐の話題に移っちゃいけませんか?
私は神さまと格闘しました。
なんだかんだ理屈をつけて主を納得させようとしました。「ほら、イエスさま、見てください。私、長く髪を伸ばしているじゃないですか。長い髪―これが私の女性としての光栄ですよね。それで十分じゃないですか?」
そしてなんとか理由を見つけて、神さまが私に求めておられるらしいことから逃れようとあがいていました。
私はこれまで多くの牧師が、かぶり物というのは「文化的なこと」であり、現在、もはや適用されないと言っているのを聞いてきました。でも私はそういう理由付けに納得できませんでした。というのも、パウロはここで霊的権威そして神>キリスト>男>女という「かしら観headship」について、創造における男女の秩序について言及しているからです。
また、パウロは女性がかぶり物を着けなければならない理由として御使い、ならびに夫の霊的権威が彼女の上にあるというしるしのことを挙げています。こういった理由は、どう考えても「文化的」だとは私には思えませんでした。
またこのテーマを学んでいく中で、教会の女性は1900年以上に渡り、祈りや預言をする時、かぶり物を着けていたことにも気づきました。
さらに多くのクリスチャン女性は、常時(つまりフルタイムで)、かぶり物を着けていました。それにより、家の「かしら」である夫にまっとうな敬意を払いつつ、いつでも「適切に祈る」ことができたからです。
しかし1960年代になりフェミニズム運動の高揚にともない、女性たちは祈る時や教会に行く時、もはやかぶり物を着けなくなっていったのです。
かぶり物の象徴がもはや私たちにとって「文化的に今日的意味を帯びていない」理由は、私たちが、神より与えられし夫の権威を捨て去ってしまったことにあるのです。
私たちは権威に関する神のシステムを捨て去ってしまったため、もはや夫の権威の象徴などをもはや「必要」としなくなったのです。そうです、もう神のやり方は御免だと私たちは結論づけたのです。
こうして神のやり方は現代女性にとって「抑圧的」「性差別的」「家父長的」「旧式」「不適切」だとみなされるようになりました。
(でもことわっておきますが、男性が全権を持ち、妻たちを支配していた時分、男性たちによって虐待されひどい扱われ方をしてきた女性たちがいた(いる)ことを私は全くもって認めます。それは女性に対するむごい不正義であり、そういった夫たちは権威を乱用したことに関し、義にして聖い神の前に申し開きをしなければならないと思います。虐待や暴虐は神が私たちに望んでおられることではありません。エペソ5:22-33では、結婚に関する神の美しいご計画が言及されています。)
ですから、1960年代、私たちの文化は――教会内でさえも――夫や教師、牧師、政府のリーダーといった人々に対する敬意、そして親に対する敬意を投げやってしまったのです。
60年代、70年代のフェミニズム運動、ヒッピー、反戦運動により、私たちは「権威からの自由」を得ました。でもその権威というのは、私たちを保護し、益を与え、供給し、主の方法でもって私たちを導くべく、神が私たちの上に置かれたものだったのです。
そういう物が取り去られた後、残るは全て、「私」に関することのみ、となりました。私がほしいもの。私が一番いいと思うもの。誰が金輪際、権威のことなんか考えるものですか!私たちがほしいのは「自由」と「独立」なの!
義憤
そのうち私は内に義憤を覚えました。
私たちの世代がどれほど女性としてのアイデンティティをはく奪されてしまったか、どれだけのものを私たちは失ってしまったのかー神の知恵、結婚に関する神のご計画、女性らしさ、育児、、、こういったものはことごとく私たちの世代には無縁のものです。
私たちの前の世代がボールを落としてしまったのです。そして私たちは今その代価を払っており、しかもその代価というのは天文学的に高いものです。今日、結婚の実態をみてくださいーそして私たちの教会の実態を。
(私自身の結婚も、非常に高い代価を払いました。それは、私がかつて神より与えられし権威につばを吐きかけ、「私は夫よりもよく知っている!私は神よりよく知っている!私がここの責任者なの!神よ、あなたにきく必要なんてない!私はわが道を行くんだから!」と世的で不敬虔な態度を受け入れてしまっていたことに原因がありました。)
私の従順はどれほど深いものか?
今や私は神の御言葉を受け入れ、神に従おうと考えるようになっていました。なんといっても、神は私の主なのですから!天が地よりも高いように、主の知恵は私の知恵よりすぐれているのです。主であり王である、私の愛の対象である神さまに「No!」などと言えるでしょうか。
それで、今、このトピックに関する私の歩みについてみなさんにお分かち合いしているのです。なぜなら、この証しによって神さまに栄光を帰すことができると思うからです。
私は人からの称賛を求めていません。もし人からの称賛がほしいのだったら、このトピックについてなどぜったい書かなかったでしょう。
私はかぶり物についての議論を、賛成側/反対側、両サイドから検証してきましたが、これは多くの女性にとって、かなり物議をかもしだしている問題だということに気づきました。
でも私にとって問題は結局のところ、「主が私に何かをするように求められた時、私はそれに従うのだろうか、それともあえて自分の思う通りにやっていこうとするのか?」というところにありました。
結婚しても自分の思うがままに振る舞っていた頃、夫を尊敬することなんてちっとも理解せず、結婚の舵とりを自分がしていた頃――私は自分たちの結婚生活をめちゃくちゃにしていました!その結果、自分があれだけ求めていた親密感は得られず、私はさみしく、ストレスだらけの女性でした。
私は心配ばかりし、批判的で、マイナス思考で、ゆううつ、かつイライラした女性でした。いろんな面で、私は敬虔な女性とはいえない存在でした。私の人生、態度、言葉や行ないは神に栄光を帰すものではありませんでした。
主人はというと、彼は無気力で消極的な人でした。私たちの結婚生活は、キリストと教会の奥義を表すものからは程遠いものでした。だからⅠコリント11章で、権威の秩序のことを読んだ時、私は苛立ちませんでした。
いやむしろ、自分の人生に、神さまの立てた権威の秩序を喜んで受け入れたいと思ったほどでした。というのも、これまでの過程で、主のやり方に従う時、自分の心に深い平安が訪れることをすでに発見していたからです。
私をカバーし、養い、権威となり、守る者として神さまが主人をお立てになったことを受け入れました。すでに一年前に、敬意を示すことや聖書的恭順(submission)について学んでいたので、このこと自体は難しいことではありませんでした。
でも私にとってしんどかったのは、祈る時に、頭の上に何かをのせるよう、神さまが私に求めていらっしゃるということでした。そんなのイヤ、したくないって思いました。だってそれって変じゃないですか。周りにいる人だって誰もそんな事してないし。
(そういえば、うちの教会には2、3人、帽子をかぶって礼拝に参加する姉妹たちがいましたが、それでも2000人以上の教会の中にあってはほんの一握りの人でした。)
とにかく、人に変って思われたくありませんでした。それに不便だし。今の世じゃ、文化を逆行するようなものです。エー、いやだー。「神さま、本当にしなくちゃならないんですか?そんなことし始めたら、大恥かくことになります!」
恥ずかしい、、、
でもその時、私の発言が、神さまの耳に、どんなに浅はかに聞こえているだろうということに気づきました。キリストは私に代わって、非常に屈辱的でむごたらしい死を死んでくださったのです。
私が帽子やベールなどを頭につけて祈ることで、キリストに栄光を帰すことができ、主人に敬意を示すことができるのなら、そしてそれが御使いや主のためなのなら、
――それなら、「そんな犠牲なんてあなたのために払いませんよ。あなたは、私にとってそこまで価値ある方ではないんです。あなたが望んでおられることを進んでするほどの信仰は私にはありません。そう、たとえそれが自分の頭に帽子やベールを着けるといったシンプルなことであっても、です。」などと神さまに言う私って何様なんでしょう?
あぁー!
決心
それで神さまが私にこれを実践するよう求めておられるなら、私は主に従おうって決心しました。私はその事に関して祈り、主人の同意を得ることができますように、と祈りました。そして主人に打ち明けたのです。
「あのー、、、ベールで頭をおおってもいい?家で祈る時、それから教会で祈る時、私の上に立てられたあなたの(夫としての)権威に敬意を示すために、、」
それを聞いた夫は答えました。「うん、いいよ。」
えっ???何?ほんとに?
こんなにあっさり同意してくれた夫の反応に私はびっくり仰天してしまいました。私は、ここに神さまが働いておられることをみました。
「分かりました、神さま。あなたに従います。他の誰も、そんなことしてなくても、とにかく私は従います。」
親愛なる奥さん、神さまに愛されている姉妹のみなさん。私はここでみなさんに、「あなたもかぶり物を着けなさい」と言っているのでしょうか。いいえ、これは私とあなたとの間のことではないのです。
これはあくまであなたと神さまとの関係にかかわることなのです。あなたにどうしなさい、こうしなさいという資格は私にはありません。ただ神さまがあなたの目を開いてくださいますようお祈りします。私たち女性が失ってしまった霊的慣習について、あなたの目が開かれますように。
そして神さまの御言葉にさらされ、主に従うことのすばらしい益について、あなたの目が開かれますように。決断はあなた自身にかかっています!あなたは私に申し開きをするわけじゃないのです。私たちは皆、神さまに申し開きをするのです。
もしここの聖句が、1世紀のクリスチャンのためだけに書かれたものであり、私たちのためではなかったとしたら、どうなるでしょうか。つまり、祈る時にかぶり物を着けるのが、どういうわけか「間違い」だった、、そう仮定します。そうしてある日、私は召され、天で主に会い、主は私にこんなことをおっしゃったとします。
「ああ、あのⅠコリント11章の聖句ね?あれはね、わたしがうっかり間違って、聖書に入れてしまっていたものなんだよ。あれは間違いだった。かぶり物を着けなさいという意図はわたしにはなかったんだよ」と。
そうすると、この場合、私は何を失うでしょうか?
唯一、失ったものとして追憶できるのは、おそらく、祈っていた私の外観が他の人とは違っていて、ちょっぴり変に見えていた――それくらいだと思います。でもそれって大きな損害ではありません!それほど大きな損害ではないのです。
それに仮に、この聖句が2013年においては文化的に意味をなさないものだと主が考えておられたとしても、聖書の言っていることに従順に従おうとした私の姿勢によって、主に栄光が帰されないでしょうか。
そして神より与えられし主人の権威を私が認め、それに敬意を示していることで、主人に光栄が帰されないでしょうか。神さまは私の従順そして主に従いたいと願う心を理解し、いとおしんでくださると思います。私の側からのそういった従順な態度、それがかぶり物そのもの以上に、神さまにとって意味があるのだと思います。
一方、Ⅰコリント11章を含めた神の御言葉が、現代を生きる私に実際、適用されるのだとしたら、いったいどうなるのでしょうか。もし神が実際に、聖書の中にこの聖句を入れてくださったのだとしたら?
もし主がご自身の主権のうちに、ある明確な意図をもって、この聖句を入れてくださったのだとしたら?――そして私がそういう主のおっしゃることにあえて従わないのだとしたら?
もしくは、「えっ、だって、今じゃ、誰もかぶり物なんか着けてませんよ。だからこの掟には従わなくたっていいに決まっている。」と言い訳をしながら、神の掟をないがしろにするのだとしたら?
こんなに小さいことを実践することを拒む自分は、どうやって主に申し開きをすることができるのでしょうか。どうやって自分を弁護することができるのでしょう。王の王、主の主にどんな言い訳ができるというのでしょう。
私はどんなにしても言い訳を打ち立てることができませんでした。なぜ主が私にそれを求めておられるのか、その意味が分からないとしても、主に対する私の従順を神は祝福してくださると思います。たとえ、それが不人気なことであっても。たとえ、ひとりぼっちでそれに従うことになったとしても。
ベールを着けて祈ることによって受けているたくさんの祝福
私は一人で祈る時、また教会で祈る時、かぶり物を着けていますが、こうやって神さまに従ったことで、思いもかけない祝福がたくさん与えられたのです。
☆主人の権威に対してふさわしい態度をとることが前よりもずっと容易になりました。自分の頭に彼の権威のしるしがあることを自覚しているからです。また、祈ることに対して、主人に対して、また神さまに対して、どのような態度でのぞんだらいいのか、そういうことが以前より分かるようになりました。
☆かぶり物を着て祈る中で、神さまが、私を守り導くために主人を私の上に置いてくださったことを知り、主人に対して、以前よりも、もっと謙遜になり、感謝するようになりました。
☆祈る中で以前よりもっと主人を尊敬するようになりました。そしてそうやって尊敬の念をもって神さまに近づく時、その時に、力強く奇跡的な方法で祈りが答えられるのを体験しています。それは不遜な態度で神さまや主人に接し、祈っていた時には決して見ることのできなかったものでした。
☆かぶり物は、効果ある力強い祈りの生活の大きな鍵だと思います!頭の上の小さな布切れにマジカルパワーがあるとか、「かぶり物を着けないのなら神さまは私の祈りを聞いてくださらない」とか、そういうことではありません。でも、かぶり物は、祈る上での私の態度、心の姿勢に確実に影響を与えています。
また、私を高ぶりから守ってくれてもいます。神さまにとって一番大切なのは、祈る時の私の心の態度であり、主人に対する態度なのです。外面的な象徴は、主として私自身の益のためであり、また主人の益でもあり、御使いのためでもあるのです。
☆ベールや帽子をかぶって家で一人で祈る時、私は以前よりもずっと霊的に主人とつながっていること、そして主人と近いことを感じるようになりました。かぶり物という象徴は、主人の権威や私に対する守りを思い出させるものですが、それによって、主人の愛の中で、そして神さまの愛の中で、(前よりもずっと)「守られている」という安心感を得るようになりました。そしてその愛の中に安心して憩うことができるようになりました。
☆祈る前にかぶり物を着けるという行為によって、日々、私は自分の上に立てられた主人の権威の大切さを認識するようになり、それによって夫婦関係をふさわしい形でみることができるようになりました。そして主人にもっと敬意を払うことができるようになりました。
☆私が夫の権威を認めるしるしである、かぶり物を着けはじめたことで、主人は、わが家の霊的リーダーとしての自信を回復し、「自分は神さまの方法で、妻や子どもたちを導くという深遠な責任があるんだ」ということを自覚するようになったそうです。男の人は視覚に強い存在です。神の前に、私がこのような形で夫を敬おうとしているという事を夫が「見る」時、それは力強く、彼の魂に語りかけるのです。
こういった神さまの深い奥義は、あまりにもすばらしく私の理解を越えています。 上に挙げた祝福の他にも、パウロ自身、次のようなことを挙げています。
☆主人のリーダーシップおよび権威を認めていることを示すべく、かぶり物を着けるという私の行為は、天にいる御使いたちにインパクトを与えているというのです(Ⅰコリント11:10)。
☆私がみずから進んでかぶり物を着けることは、かしらと霊的権威という神さまの秩序に対して敬意を示すことであり、それは主にとって大切なことです。
かぶり物は私の光栄である私の髪(15節)をおおうものです。それゆえ、「私」の光栄は、祈りの間、見えなくされているのです。一方、主人はキリストの栄光の現われであるため、主人の頭はおおわれていません。女性は男性の栄光の現われです(7節)。
男性の栄光は祈りの間、おおわれていなければなりません。主の御目的に仕え、主に栄光を帰すべく、このような形での礼拝や祈りを神さまは望んでおられるのです。
かぶり物を着けるという私の行為は、男性がまず造られ、その後、(男性が女性のためではなく)女性が男性のために造られた(9節)という創造の秩序に関係するものです。
それは神と人間の関係を髣髴させるものです。神ははじめからおられ、(神が人のためではなく)人が神のために造られました。そこには神さまの深い奥義があって、謙遜に告白しますが、それは私の理解を越えています。
私にはこういった一片の布きれが、正確にどういう重要性をもっているのか、それも分かりません。ただ分かるのは、主人の権威のしるしを頭に着けようという私の意思によって、霊的および天的な領域で起こっている事に、何らかの影響が及んでいるということです。
ですから、たとえ全部の意味は分からなくても、神さまのくださった処方に従うのが賢明だと思います。患者さんは、たとえ処方箋が自分の体内で薬学的に生化学的にどのように働いているのか全く知らなくても、お医者さんの指示に素直に従うことで、薬が効き、いやされるのです。私たちがお薬を飲むなら、自分の理解とは関係なく、処方箋はちゃんと効を為すのです。
神さまの掟もそんな感じだと思います。主より恩恵を受け、また神さまに栄誉を帰すために、私たちに求められているのは理解ではなく、あくまで従順なのです。
これって律法主義的?
祈り、聖書朗読、教会に行くこと、夫を敬うこと、人を愛すること、十一献金をすること、慎み深く身をつつむこと、、、神さまに対するどんな従順の行為であっても、それを律法主義的なレベルにおとしめることは可能です。
鍵は、私の動機にあります。
もしキリストに栄光を帰し、キリストを喜ばせたいというのが私の願いなら、それは律法主義ではなく、喜びに満ちた自発的な従順です。神さまは、私が正しい動機でもって、正しいことをするよう望んでおられるのです。
(2014年4月9日更新追記)。これまで家や教会で祈る時は、スカーフを頭にかけていました。数ヶ月前、グレッグ(主人)が「帽子をかぶって教会に行ってもいいかもね。」と言いました。帽子も、すごくいい感じです!家で祈る時は、今でもスカーフを使っています。
私は個人的に、フルタイムではかぶり物を着けていません。でも、もしグレッグがそうしてほしいって望むなら、もちろん、喜んでそうするつもりです。この聖句を文字通り生きることで、私は主人に敬意を示そうと努めているのです。
この証しを読んでくださって、ありがとうございました。
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⑯ N姉妹(イラン/ギリシャ・レスボス島難民キャンプ)
レスボス島のモリア難民キャンプに辿り着いた後、私たちは宣教師たちの集っているキリスト教会に家族で通うようになりました。
イランでは女性は強制的にベールを着用させられ、もしも公の場でベールを着用していないところをイスラム宗教警察に見つかった場合、留置所に連行され、鞭打ち刑を受けます。そういった過去のトラウマもあり、私はヨーロッパにたどり着いた途端、ベールの着用をやめました。
夢をみる
そんなある晩、私は夢を見ました。夢の中で女性宣教師のKさんがベールを被り、部屋の中でなにか一生懸命祈っていました。私は日頃、親しくしているKさんと共に祈りたいと思い、彼女の元に駈けつけようとしました。
するとその瞬間、私の霊の目が開かれ、私の頭は何によっても覆われていないことにはっと気づかされたのです。それだけではありません。神の圧倒的な臨在と光の中で、私は頭に覆いをしていない自分が、神の前で裸同然であるように感じ、羞恥心で、もうどうにもいたたまれなくなりました。と、そこで目が覚めました。
クリスチャンとして新たな意味でベールを始める
そこで翌日、バイブル・スタディーに行き、その後、誰もいない個室にKさんを呼び、昨日見た夢を彼女に説明し、なぜ、クリスチャンの女性は、祈りの時に頭に覆いをしなければならないのか、その聖書的根拠を教えてほしい、そして、イスラムのベールの教えとキリスト教のベールの教えはどう違うのか、その相違点を教えてほしいと彼女に頼みました。そうすると、彼女は聖書からていねいに説明してくれました。
前述したようなイラン・イスラム共和国のベール事情により、シーア派出身の多くの姉妹はベールに対してトラウマ感情やあからさまな嫌悪感・侮蔑感を持っていますので、私にとって、そういった人々の目がある中で、再びヒジャーブをすることは非常に勇気の入ることでした。「再びイスラム回帰?」と疑いの目でみられないとも限らないからです。
ですが、夢の中で主に示されたあの真理は自分の中で全く疑いようのないものでした。また、Kさんからの説明で、聖書的根拠があることも確認することができました。そこで私は、もう人がどう思おうとも構わない、私は主をお喜ばせすることだけを考えようと、翌週の主日礼拝から、頭にスカーフを巻いて礼拝に参加することに決心し、今日に至っています。
牧師の証し
① ロビン・バッサム師(トロンデイム・インターナショナル改革派教会牧師、英国/ノルウェー)
1)こんにちは。ご自身のこと、それから牧会しておられる教会のことについて、少しお話くださいますか。
ロビン・バッサムと申します。英国のロンドン生まれです。1970年、25歳の時ですが、私は福音自由教会でイエス・キリストを信じ救われました。1974年、私はノルウェーの地で主に仕えるよう、主からの召命を受けました。
1983年にノルウェーに来て以来、私は長年にわたり、ノルウェー北部の地で主に仕えてきました。七年前に、私たちは開拓を始め、Trondheim International Reformed Churchが誕生しました。この教会は英語による教会です。
12名の同志と共に開拓を始めましたが、現在は35名から40名ほどの信者が集まるようになっています。メンバーの国籍もイギリス、ノルウェー、カナダ、ルーマニア、ウクライナ、ベトナム、シンガポール、ガーナ、フィリピンと多岐にわたっています。
2)どのような経緯で「祈りのベールは今日にも適用されるべき不変のシンボルである」ということを確信されるに至ったのですか。
救われた当時通っていた福音自由教会は、神学的にはカルヴァン主義の改革派教会でした。
そこの牧師は被り物が今日にも尊守されるべき掟であることを信じており、教会に集う女性たちの約半数が被り物(主として帽子)を被っていました。最初牧会した4、5の教会においては、比較的多くの女性がベールを着けていました。しかしその後私が牧会した教会では一つとして被り物の実践はなされていませんでした。
エリム聖書大学(英国におけるペンテコステ系の聖書学校)で私は一度、1コリント11章の祈りのベールの今日性を問うディベートに参加したのですが、気が付くと私は被り物を擁護する側に立っていました。
しかしその時には、被り物のこと自体を擁護していたのではなく、ただ「被り物をしたい女性がいるとしたら、その人にはそれを選択する権利がある」という点を擁護していたのです。
その後、数多くの女性たちが私の所にやってきて、「先生、私たちが被り物をする権利があるということを言ってくださり、私たちのことを擁護してくださってありがとうございました」と感謝の意を表されました。
その後次第に私は、1コリント11章は、祈りのベールについて非常に明確に教えていることが分かってきました。新しくイエスを信じたばかりの人が(教派的先入観なしに)この聖書箇所を読むなら、誰でも皆、これは時代を超えた不変の神の掟であり、公的礼拝の時、女性は頭を覆う必要があるということを理解するでしょう。
3)この事項に関するあなたの神学的見解に変化が生じたということを、あなたは信徒の方々にどのようにして知らせたのですか。
約二年前にさかのぼりますが、今日の福音派キリスト教会のひどい霊的状態について主は私の目を開いてくださいました。
教会の中に聖さがないこと、礼拝が今やエンターテイメントに置き換わってしまっていること、福音をまっすぐに説く説教や教えが欠乏していることなど、主は私に示してくださいました。
こうして私は、自教会の方向性や神学に関し、意図的なUターンを決行することにしました。私たちは皆で、ウェイン・グルーデムの『組織神学』Wayne Grudem’s Systematic Theologyとジョン・パイパーの『神を求める』John Piper’s Desiring Godを読み始めました。そしてこうした教えを支持している方々とも交わるようになりました。
そして今年の7月、私たちは相補主義(Complementarianism)と対等主義(Egalitarianism)について学ぶことにしました。
私は両サイドの立場を検証し(相補主義としてはウェイン・グルデムの『福音主義フェミニズムと聖書の真理』Evangelical Feminism and Biblical Truth、そして対等主義側の著作としてはピアース・グローティウスの『聖書的平等の発見』Discovering Biblical Equalityを読み、多くのメモを取りました。)
そしてその記録をサーシャ姉妹(ウクライナ出身の方で、私たちの同労者)に送りました。すると彼女は返信をよこしてきたのですが、そこには驚くべきリクエストが添付されていました。以下が彼女の書いてきたことです。
先生の記録ノートの中には書かれていない内容なのですが、私はあるテーマについてぜひ教わりたいと思っています。――それは、クリスチャン女性の被り物について、です。
私はウクライナにある伝統的なペンテコステ教会で育ったのですが、そこの女性たちは全員、スカーフで頭をおおっていました。ノルウェーに来て、ノルウェー人と結婚し、私は「この被り物から逃れたい」って思ってました。でも、、、先生、ぜひ一度、このテーマについて教会で私たちにお話くださいませんか。
そこで私は、相補主義を包括的に取り扱う中で、その一環として祈りのベールのことも教えることにしました。そしてこの主題について教える前に、私は教会のみなさんにこう語りかけました。「みなさん、私はこれまで35年間、牧会してきましたが、祈りのベールについて教えるのは今日がはじめてです」と。
そして現在のところ、この教えをしているクリスチャンは少数であり、自分はその少数派の一人だと説明しました。
この主題に関し、説得力をもって語るために、私は(中途半端ではなく)徹底的に信徒のみなさんに説明することが必要だと思いました。「被り物は今日にも適用されるべき主の掟であること」に対するあらゆる反論について検証し、それに対して答える用意がなければならないのです。
こうして私は「クリスチャン女性は今日も教会で被り物を着けなければならないのでしょうか?」(Should a Christian Woman Cover Her Head In Church Today?)という教材を作りました。私はその後、四週間にわたって、毎日曜日、ベールの教えをしました。
第一週目:ベールの教えへの入門。それから今日の論争点についての背景説明。
第ニ週目:1コリント11章1-16節を、節ごとに区切って解説しました。
第三週目:ベールの教えに対する主な反論点(そのうちの15点ほどを取り上げました)に対する回答。姉妹たちとの質疑応答。それから、初代教父のベールの教え、および1950年間つづけられてきたキリスト教会のベールの慣習についても説明しました。
第四週目:私たちの倣うべき模範としての、キリストのへりくだりと服従について。最近、祈りのベールを着けるよう導かれた姉妹たちの証しの紹介。
第四セッションの時までに、四人の女性たちがベールを着け始めていました。前述のサーシャ姉妹もその中の一人でした。第三週目の日曜日、彼女は私に言いました。「先生。私、納得しました!これはやっぱり、聖書的な神の掟です。」
4)1コリント11章を説教された時、教会のみなさんの反応はどうでしたか。
教会のみなさんの反応は「すばらしい」の一言に尽きます。私自身が、この教会の開拓牧師だったことも幸いしたのかもしれませんね。
若い時は、教えよりも説教を好んでいたのですが、今、私は説教と同様、教えをも好むようになっています。そして教会のみなさんも聖書の教えを熱心にきいておられます。
レイチェル姉妹はうちの教会の賛美リーダーなのですが、彼女はかなり慎重派でした。もし彼女が被り物をすることになったとしても、おそらくそれは最後の最後になるだろうと私は思っていました。
しかし、です。先週、私は彼女が交わりの場で次のように言っているのをふと耳にしたのです。「ジョイ姉がベールを被り始めた時、私、かなり懐疑的でした。すごく変って思いました。でもロブ先生のベールの教えを聞いて、私はショックを受けたんです。だって、本当にこの教え、明白じゃないですか!それで私は、これから教会に集まる時には、いつもベールを着けることに決心しました。」
そしてその言葉通り、先週の日曜日、彼女は初めてベールを被って礼拝にのぞみました。この教えをする前には、ベールを実践している女性はたったの一人でした。しかし今はそれが六人に増えました。
5)祈りのベールというこのシンボルについて、最近、「これが今日にも適用されるべき主の掟だ」と確信されるようになった牧師先生方がいらっしゃいます。そういった先生方は、いかにしてそれを教会のみなさんに伝え、この教えを導入することができるのかと思案されているようです。こういった方々に何かアドバイスがありますか。
ある教会でうまくいったことが他の教会でもうまくいくとは限りません。私とは全然違うアプローチをとる方が、結果としてその教会で非常に効果的に教えを導入することができたということもありえます。
とはいっても、実際、このテーマに関する私の教えを聞いた女性たちのうち六人がそれに応答し、被り物を始めたことは実に驚きでした。それでは以下、同胞の先生方に何点かアドバイスをさしあげたいと思います。
主題を熟知してください。私はこのテーマについて何年も学びました。ウォッチマン・ニー、K・P・ヨハンナン、ザック・プーネン、The Head Covering Movementのサイト、その他、入手することのできるあらゆる参考資料にあたりました。
そしてネット上でも最新論文が出るたびにそれらを参照しました。また、1コリント11章の聖句を検証する上で、ギリシアのインターライナーや、ヴァインの新約聖書ギリシア語辞典をも用いました。そして独自の教材(Teaching Manual)も作成し、それを少なくとも五回改訂しました。
また考えられ得る、ありとあらゆる反論についても検証を続け、それらに対し明確に回答できるよう努力しました。ですから、このテーマについて教えを始める前に、しばらく準備の時をもたれることをおすすめします。
信徒のみなさん一人一人を知り、犠牲的な愛をもって彼らを愛してください。牧者というのは、牧している人々のことを知り、彼らを愛すべきです。もし信徒のみなさんがあなたのことを愛しており、彼らもまた、あなたの愛をひしひしと感じているのなら、彼らはあなたの言うことに耳を傾けるでしょう。そしてあなたに敬意を払い、ついてくるでしょう。
堂々と、且へりくだった態度で教えてください。「このテーマはいろいろと論争の的になっておりまして、、、」などとお詫びしながら教えることはやめてください。教える時には堂々とした態度でのぞんでください。そして信徒のみなさんに対してしもべの心をお持ちになってください。
あなたは彼らに仕えるためにその場に遣わされており、一人一人の魂のために、自分にできる最善を尽くそうと願うことが大切だと思います。被り物がもたらす祝福や喜びといったものを語ってください。またユーモア感覚のある方なら、それも用いてください。ユーモアというのは時として、緊張をほぐすものにもなります。
ありがとうございました。
② マーク・ミニック師(マウント・カルバリー・バプテスト教会牧師、米国)
Mark Minnick (ボブ・ジョーンズ大 新約解釈学Ph.D)Pastor Mark Minnick :: Mount Calvary Baptist Church
私は、Ⅰコリント11章のこの箇所を説教するにあたり、今、ある種の興奮を抑えることができません。しかし今朝も長老の方々にお話しましたが、私の心は実のところ穏やかではありません。心に恐れがあると言っていいかもしれません。なぜなら、この説教をした結果、私たちの元を去る教会員の方々がいるだろうと思うからです。おそらくそうでしょう。
それを思うと私の心は悲しみに沈みます。でももしあなたが去っても、依然として私たちは友であります。私の心には不安があります。ですから私は主に祈り求め、「どうか私が立ち上がり、大胆に説教することができるよう助けてください」と嘆願しました。
ここ数週間、皮肉なことに、この世の中で起こっていることが一層の契機となって、私はこの(祈りのベールの)教えの重要性に気づきました。
昨日、アイルランドでは、歴史上初めて、国民投票により、国民の大多数が、「自然」(ローマ1:27)に反することに支持表明を出しました。そうです。同性婚をめぐる憲法改正のことです。
みなさん、これは驚くべきことです。私たちの在世中に、このようなことが現実化すると誰が予想できたでしょうか。そういった意味においても、Ⅰコリント11章で述べられている祈りのベールというシンボルは、私たちの教会にとって、本当にタイムリーな教えなのです。
これは教会のかしらであるイエス・キリストにより与えられているものです。私たちは、男女間における髪の長短の違いをもって、それから、目に見えるベールを実践することにより、「神の前における、また相互間における、男女の正しい位置・立場」を表明するよう、イエス・キリストよりこの教えを受けているのです。
しかもそれを表明する方法というのは、実にシンプルなのです。
(女性たちが)頭にベールを着ける――ただこれだけのシンプルな行為によって、私たちはある偉大な真理を公に表明することができるのです。そして、それはすべての文化がしかと見なければならないものです!
男性のみなさん、不愉快に思わないでください。
女性のみなさん、不愉快に思わないでください。
私たちは、キリストのゆえに、これに従うのです。
特にこのような時代潮流の中にあって、(神によって与えられた)こうした男女の区別はより一層表示される必要があります。
かぶり物の慣習は、普遍的な教会の慣習でしたが、ここ数十年、わきに追いやられてしまっていました。しかし、この教えは回復されるでしょう。なぜなら、これは神の真理だからです!
現在、教会および家庭内における男性と女性に関する聖句はことごとく、「(世俗)文化」によって規定させられようとしています。そうです。世俗文化が、聖句に対する私たちの立ち位置を決めようと強制しているのです。世俗文化により私たちは隅の方へ追いやられている感があります。
でも私は、かぶり物に関するこの教えを愛します。受け入れます。そして自分の最善を尽くし、これを通して主に栄光を帰そうと思っています。
※このテーマに関するミニック牧師の説教シリーズをお聴きになりたい方は下をクリックしてください。
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③ カールトン・マクレオド師(カルバリー・リバイバル教会牧師、米国)
カールトン・マクレオド師。サウス・カロライナ生まれ。1997年、カルバリー・リバイバル教会を開拓。牧会の初期、さまざまな世的アプローチを駆使し、暗闇に住む若者たちを更生させようと努力するも実は生らず。その後、主は彼に「聖書に徹底的に立ち帰るよう」促し、そこからD6 Reformationという働きが誕生。アンダーソンビル神学大学博士号。奥さんのドンナ夫人との間に一男二女。
2013年1月、私は第一コリント人への手紙を講解説教するよう、主の導きを受けました。この書簡の内容を思うと、私は血気立つ一方、不安にもなりました。
なぜでしょう。というのも、この書簡の中には、私たちが従うようにと主に求められている内容が多々包含されているからです。 実際私は、「これが私たちの教会に対するあなたの御心でしょうか」と祈りの中で一度ならず主にお尋ねしました。また長老たちにも相談しました。私たちはそれについて話し合い、祈りました。
それにしてもどうしてこれほどのためらいがあったのでしょう。なぜなら、第一コリント書は他の聖書箇所と比べても、かなり「恐ろしい」書簡だからです!
とにもかくにも、私たちはこうして2013年5月に、祈りのうちに講解説教を始め、それは2014年12月まで続きました。でも確かに、私の恐れは根拠のないものではなかったのです。
そうです。この書簡は私たちの教会に、文字通り衝撃を与えました。なぜなら私たちはいわゆる「解釈が困難」といわれている聖書箇所であっても、ないがしろにしたり、言い逃れしたりすることを拒み、文脈の意味に忠実でありつつ、とにかく正面から取り組むことに決意したからです。
そしてその結果はどうだったかといいますと、、、私たちは教会の人々の気分を害してしまいました。教会を去る人々も出ました。また私に対し、ますます非難が集中するようになりました。なぜ、そういうことになったのでしょう。
それはなぜかと申しますと、聖書のこの書簡の中には、現代人の好まないトピック――特に、教会での規律、霊の賜物、教会での秩序、そしてジェンダー問題など――が多く含まれているからです。それが事の真相でした。特に、1コリント11:2-16はかなり「しんどい」箇所でした。
私は最善を尽くし、この聖句を、歴史的文脈の中において説明しました。また歴代のキリスト教会がいかにこの(祈りのベールの)掟に応答してきたのかということも、時間をとってみなさんに示しました。
しかしやはり、教会の女性たちの多くにとって、これは聞くに堪えない内容のものでした。何人かはこうして教会を去りました。もちろん、被り物の説教をしたから教会を去ったとは、遠慮して誰も何も言いませんが、私は知っています、、はたして、そうだったのです。
しかし幸いことに、数人の女性たちは被り物を始めました。またベールを始めたり、やめたり、また始めたり、、、と、まだ優柔不断の状態にある女性たちもいます。一方、教会の男性たちは一様に「頭を覆わず」、礼拝に参加しています。
被り物がうちの教会の女性たちにどのような影響を及ぼしているかについてですが、正直、私には分かりかねます。男として、それは私の知らざる領域だからです。ただ想像できることとしては、彼女たちは羞恥心と戦っているのでしょうか。あるいは気まずさと。
被り物を始める決心によって、着る服装にも変化が呼び起こされるのでしょうか。また、それに関連した慎み深い服装のことも挙げられるかもしれません。
それから、セルフ・イメージに対する取り扱い。これまで感化されてきたフェミニスト的思想との対決。男性の権威に対する恭順等、、、そしてこういったもろもろの問題が、祈りや預言の際に着ける「被り物」という一枚の布きれの中に集中しているのです!
理論では分かっているつもりでした。でも実際に始めてみて、自分はそれらの事が本当には分かっていなかったことに気づきました。とにもかくにも、私たちは細心の配慮を施し、誰もこの問題で「自分は裁かれている」と感じることがないよう努めました。
でもそれは避けられない問題でした。そしてそう感じてしまった方々のことで私たちの心は痛みました。
被り物という、はっきり目に見えるシンボルゆえにこういった問題が起こるのでしょう。こうして私たちは愛を込め、教会の女性たちに対し、「それぞれの家族の決断」に基づき、ベールを実践するか、しないかの二択をする選択肢があることをやさしく説明しました。
しかしこの過程は一筋縄ではいかない、困難なものとなりました。状況が落ち着くまでに、実にまるまる一年かかったのです。
一方、すばらしいことに、これらを通して、私たちの教会は強められました。新たな魂も加えられました。信仰も深められました。私たちがこの使徒的教えを真剣に受け取った結果、神は、「その行ないによって私たちを祝福」してくださったのです(ヤコブ1:25)。
ええ、もちろん、これは現代人の感覚では、少々奇妙に見え、またそう感じられるかもしれません。なにしろ、2015年という現代にあって、妥協することなく、こういった聖書的掟を尊守しようとしているのですから!
私たちは多くの間違いをしてきました。主はそれをご存知です。でも私たちは前に進もうと努めています。主よ、あなたの恵みに感謝します。この書簡は――きわめて人間中心的な傾向を強めている現代の教会に対し――挑戦状を突きつけてきます。そしてこれは良いことだと私は考えています。
アメリカの教会は現在、なぜ苦しんでいるのでしょう。それは、我々が神の御言葉を本気かつ文字通りに受け取っていないからではないでしょうか。
事実、教会は預言的な声を失っています、、、「主はこう仰せられる」とあえて宣言するその「声」を教会は失ってしまっています。そしてその結果、全世界は傷を負い、痛み苦しんでいます。(私はこのテーマについてこの本を出版しました。)
確かに、1コリントの書簡は、痛みをもたらしました。しかし、次のことを私はどうしても申し上げなければなりません。それは、この書簡の中で主が仰せられていることを聞き、そしてそれに対して最善を尽くし従っていくことは――それによって払うべき代価に関わらず――真に価値ある特権だということです。
Soli Deo Gloria!(ただ神にのみ栄光!)
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④ パトリック・スミス師(アッパー・ルーム・コミュニティー教会牧師、米国)
1)スミス師、ご自身のことと、それから牧会されている教会について少し教えてください。
パトリック・スミスと申します。私はカリフォルニア州チュラ・ヴィスタにあるアッパー・ルーム・コミュニティー教会で牧会をしている者です。
小さな、こじんまりした教会で、私たちは聖書が神の言葉であり、イエスが生けるかしらであることを信じています。
2)どのような経緯で、「祈りのベールが今日にも適用される、永続的なシンボルである」ということについて確信を持たれるようになったのですか。
北米の大半のクリスチャンと同様、私も1コリント11:2-16の箇所を、単に「文化的なもの」として片づけていました。
しかし、約三年前のことになりますが、福音フェローシップという集いを通して、私は被り物が今日にも適用される聖書の掟であると信じる兄弟姉妹に出会ったのです。その出会いがあったためか、説教準備をすべく、いざ1コリント11章に取り組もうとした際にも、ある程度、私の心は開かれていました。
1コリント11:10の「それも御使いたちのためにです」という箇所にさしかかった時、私ははっと立ち止まりました。御霊がその瞬間、その聖句を光で照らしたかのようでした。そしてその日初めて、「御使いというのは全く文化とは関係のない存在である」ということに気づいたのです。
そうしてそこから、パウロが他の聖書箇所においても、創造の秩序、神の国の中における権威の構造、自然という観点から、超越的・永続的な議論をしていることに私の目は開かれていきました。
3)大半の人は、この聖書箇所は女性に関するものだと勘違いしています。しかし先生は、説教の中で、「主はこの聖句を用いて、自分自身の髪のことについても悔い改めを与えてくださいました」とおっしゃっていましたね。この点についてもう少しお話ください。
そうなんです。1コリント11章は女性たちにだけに語られている箇所ではないんです。被り物に関するパウロの指示が文化的なものではないことに気づいた時、私は自分自身の長髪もまた御心ではないことを示されました。
しかし悲しむべきことに、私はすぐには実行しませんでした。つまり相変わらず、長髪のままでいたのです。
パトリック牧師の長髪時代
そして「男性が長髪にすることには問題がない」と書いてある註解書などを読んで、うずく自分の良心をなんとかなだめようとしていました。しかし神は情け深く、忍耐強いお方でした。こうして一年後、聖霊が再び私に迫られた時、私はついに従順になり、短髪にしました。
女性は男性の栄光の現われであり、私には美しい妻がいます。ですから私にはこの他に栄光は必要ないわけです。
また私は路傍で説教していた時にも、トレーナーのフードを頭にかぶったり、時には帽子さえかぶっていました。でも主に示され、それもやめました。神の御言葉に従いたいのです。王であるイエスをお喜ばせしたいというのが私たちの願いであり目的です。
御言葉が何かを言うなら、「主が私にそれを実践してほしいと願っておられるのだ」と受け取っています。ヤコブは「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコブ1:22)と言っています。
4)このテーマに関し、あなたの神学的見解が変わったということを、どのようにして信徒の方々にお知らせしたのですか。
私たちのホーム・チャーチは他の小さな教会(アッパー・ルーム・コミュニティー教会)と協力関係にあります。はじめて合同の集会が開かれた時、私はみなさん全員に、「今までそれぞれが信奉してきた神学をいったん脇に置いてください」と言いました。
こうして私たちは地域教会として、直接、神の御言葉から神学を打ち立てようと心に決めたのです。
そして私たちは「神は、ほんとうにそう言われたのですか」(創3:1)という最初の誘惑の箇所について話し合い、「神の御言葉というのは、時として私たちにとって耳障りの悪いものに思える時であっても、依然として真理なのです」と説きました。
妻と私はこの箇所について学び祈ってきていましたので、説教箇所が1コリント11章にさしかかる一か月前にはすでに、妻は祈りのベールを実践し始めていました。ですから1コリント11章を教会全体で学んでいく時には、私たちの心の準備はできていたのです。
5)1コリント11章に関するあなたの説教を聞いた信徒のみなさんの反応はどうでしたか。
それは、すばらしいの一言に尽きました。信徒のみなさんはこの教えを字句通りにそのまま受け取られたのです。神様をお喜ばせしたいという願いを抱き、彼らは、謙遜にして、しかも開かれた心を持ってここの聖句を受け入れたのです。このような教会に置かれ私は本当に祝福されています。
こうして半数以上の女性たちが礼拝の時、祈りのベールをかぶり始めました。
6)最近、被り物というこのシンボルの今日性について確信を持たれるようになった先生方がおられます。こういった先生方は現在、いかにしてこの教えを自分の教会に導入するのが最善なのかと考えておられます。何かアドバイスや励ましの言葉があったらお願いします。
神に信頼を置き、へりくだりと愛の内に前進なさってください。私たちは牧師として、自分たちが教えてきたこと、もしくは教えてこなかったことについて、やがて神の前に申し開きをしなければなりません。ですから、神から来る栄誉、これを追い求めてください。
「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」(ヨハネ5:44)
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