巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

なぜ私が詩篇歌を愛するようになっていったのかーーミッシェル・ラフェブレ牧師の証し

目次

 

執筆者:ミッシェル・ラフェブレ(米国インディアナ州 Christ Church Reformed Presbyterian of Brownsburg 牧師)

 

Michael Lefebvre, Singing the Songs of Jesus: Revisiting the Psalms, 2012

 

なぜ私が詩篇歌を愛するようになっていったのか

本書はしがきより(翻訳抜粋)

 

 

 

子ども時代から教会に通っていた私は、「旧約時代、イスラエルは詩篇を歌っていた」ということを教わっていました。しかし、キリスト教会が今日でも、詩篇を歌う(?!)ということについては、そんな考えすら浮かんだことがありませんでした。

 

確かに学生時代、聖歌隊の一員として、(詩篇118:24からの)「♪この日は主が造られた」、(詩篇100:4からの)「♪感謝しつつ、主の門に」といった歌を歌ったことはありました。

 

ですが、私の頭の中では、「昔々、イスラエルは詩篇を歌っていた⇒けれども、今日の私たちにとっては詩篇とは主に『読むものである』」といった考えが強くありました。

 

そんな私に転機が訪れました。まだ若者だった私は、ある時期に別の教会に移ることになったのですが、その教会では、なんと詩篇がまるごと150篇すべて礼拝の中で歌われていたのです!

 

でも私の第一印象は、「一体なんだこれは?」という不可解なものでした。詩篇を歌うというのはなんだか変な感じがしてなりませんでした。なぜかというに、詩篇の中に溢れているあの嘆きや呻き、混沌のさなかの祈り、裁き、犠牲のそなえ物、神殿の祭りといったものを余すところなく歌っていくのですから!

 

正直に言って、そういった詩篇は私にとって理解が困難でした。もちろん、詩篇は聖書の中に収められている書ですから、それを歌ってはいけないと人を責めることはできません。

 

でも内心、私の中では、「うーん、やっぱり、ルター作詞の『♪神はわがやぐら』のような賛美の方が、キリスト教会での礼拝賛美にはふさわしいのではないかな?」という思いが圧倒していました。

 

そして実際、今日でも、私はマルティン・ルターや、チャールズ・ウェスレーなどの偉大な讃美歌作者たちの歌が好きです。しかし時の経過とともに、私の中で、詩篇歌に対する愛がますます深まっていきました。

 

そして気づいたのですが、最初に私が「詩篇を歌うこと」に対して抱いていたあの違和感は、その行為自体になにかきまり悪い、ちぐはぐなものがあったのではなくーー実は、問題は私の側にあったのです。そう、私はそれまで一度も、そもそも詩篇とは何かということを教わったことがなかったのです。

 

また、詩篇というのがどのように用いられるべきものなのか、詩篇を歌う際の心構えなどといったこともそれまで誰からも教わったことがありませんでした。

 

こうして、その後、教会の中で実際に詩篇を歌っていくことを通し、また詩篇歌を実践している他の信仰者の方々からの教えを通し、そして御言葉の中の賛美の型(パターン)についての研究を通し、私は次第に、詩篇の中に存在する諸原則を発見していくようになりました。そして本書の中でそのことをみなさんとお分かち合いしたいと思っています。

 

本書は、詩篇を「歌うこと」に関心を持っている方々を対象に書かれています。ですからこれは詩篇そのものの研究書ではなく、クリスチャンの個人礼拝*1や、教会の公同礼拝の中で、どのように詩篇を用いていくのかについての書です。

 

詩篇という書は、これまでの歴史の中でずっとキリスト教会の主要な讃美歌でした。歴代、詩篇を歌うというのは、キリスト教礼拝における標準(norm)であり、その他の聖歌を歌うという行為はあくまで例外的なものでした。

 

しかし、そういったものは、もはや古めかしい宗教の風変りな慣習なのだからと、私たちは「賢明にも」そういったものを片付けてしまい、新しいものへと進みつつあるのでしょうか?それとも、詩篇を歌うという歴史的キリスト教の礼拝形態(devotion)から今日も、私たちは何かを学ぶことができるのでしょうか?

 

現在では、私たちクリスチャンは詩篇をただ「読む」ことに終始していますが、それをもはや「歌わなくなった」ことにより、私たちの教会は大切ななにかを喪失しつつあるように思います。

 

そして、「礼拝の中における詩篇歌唱」という歴史的慣習を再発見する旅に出ることにより、私たちクリスチャンは霊的に滋養され、豊かにされると信じます。

 

イサク・ワッツや、P・P・ブリスなどの作者たちの聖歌や讃美歌はこれまで、教会のデボーショナルな生活に重大な貢献をしてきました。

 

しかし、そういった讃美歌と、聖書の中の詩篇との間に存在する相違というのは、単なる時代の隔たりや、明瞭性の問題(そうです、確かに詩篇は時として理解が難しい時があります)にあるわけではありません。詩篇は、その他の讃美歌と、少なくとも二つの点で質的に異なっているということを本書の中で私はご説明したいと思います。

 

さて仮に、クリストファー・コロンブスが1492年にアメリカ大陸に上陸した際、そこに詳細なる新世界の地図を発見したとします。しかし、複雑に描かれた皮製のこの地図が単なる原住民のアートワークに過ぎないと考えたコロンブスは、それを観賞用のアート作品として自分の部屋の壁に飾ってしまいました。

 

そうこうする間にも、コロンブスと仲間たちは、岸をあちこち探索し続け、小さな沿岸部分をスケッチしていっています。そしてこう思っています。「おお、スケッチしたこの地図はすごい発見の代物だ」と。こうしてその間ずっと、すでに出来上がっているあの美しい地図は壁に下がったままです。ーーですが彼らはそれに気づいていません。

 

詩篇に対する現代教会の姿勢は、もしかしたら、コロンブスとこの地図の話に似ていないとも限りません。クリスチャンのアーティストは、イエスに関する私たちの経験や、私たちの人生の中における主の働きについて描写した歌を作詞しています。そしてそういった作詞作曲は、クリスチャンの信仰を励ますすばらしい働きです。

 

しかしながら、それが盛んに奨励される一方、神によって私たちにすでに贈られている、この豊かにして神聖なる精巧な讃美集(=詩篇歌)がもはや顧みられなくなっているというのは何という悲劇でしょう!

 

ーーこの讃美集は、教会の聖徒が用いるようにと神が与えてくださっているものであり、誰かが昔書いた歌として単なる観賞用に放っておかれるために存在しているのではないと思います。

 

本書において、私は、21世紀のクリスチャンが「詩篇を歌うこと」の価値を再発見するお手伝いができたらと願っています。突き詰めていきますと、詩篇を用いた礼拝を学んでいくのは、ちょうど自転車乗りを練習する過程に似ていると思います。

 

つまり、習得する最善の方法は、「起ちて、実際やってみてごらんなさい!」です。そしてそれを続けていくのです。そうすると、あなたの中で次第に、この深い礼拝形態に対するある種の《感覚》が育っていくことでしょう。

 

それから、読者のみなさんの中には、「詩篇のみ」の立場*2('Exclusive Psalmody' position)に重荷を持っていらっしゃる方々がおられるかもしれません。その方々に申しあげたいのは、本書は、exclusiveな詩篇歌唱についての議論を進めている本ではないということです。(ただし、私自身も、公同礼拝の中で詩篇だけを歌う教団に属しており〔the Reformed Presbyterian Church〕、EPのみなさんと同じ立場には立っています。「詩篇歌のみ」か否かの議論に関しては、どうかその他の著述をご参照ください。)

 

本書を通しての私の心からの願いは、聖歌を歌うバプテスト教徒のみなさん、ルター派の信徒のみなさん、長老派のみなさん、メソディストのみなさん、そしてその他すべての教団・教派のみなさんが、公同礼拝の中にもっと詩篇歌を取り入れるようになってほしいということです。

 

感謝なことに、私は詩篇歌唱という悠久のキリスト教遺産を通し、歴代教会の生み出してきた豊かな霊的富をいただく幸いに与っています。そして本書を通し、その豊かさをみなさんと共有できたらと願っております。

 

古の日に弟子たちと共に詩篇を歌われた*3イエス・キリストが、ーー今日の教会の中で私たちがご自身の詩篇を歌うことを通しーーご自身の臨在を引き続き私たちに顕してくださいますようお祈りします。

 

インディアナ州ブラウンスバーグにて

ミッシェル・ラフェブレ(Michael LeFebvre)

 

訳者の小さなメモ

 

 

アマゾンで、The Psalms of David in Metre, Trinitarian Bible Society, 2007〔ハードカバー〕を購入しました。これは1650年にスコットランドで出版されて以来、今日に至るまで世界中の聖徒たちに愛され続けてきた詩篇歌です。

 

このヴァージョン以外にも、もっと訳の新しい現代語版も複数出版されていますので、いろいろと比較検討しつつ、それぞれが自分の好きな訳を選択すればよいのではないかと思います。

 

それではなぜ私がこのヴァージョンを選んだのかと申しますと、まず、この1650年版は、ヘブライ語原典にできるだけ忠実に訳してあるとの定評があり、各方面で篤く信頼されているという事と、それから英訳文の類まれなき美しさに魅了されたという二点があります。

 

文体的には欽定訳に似ています。実際に歌ってみると分かりますが、本当にこれを翻訳した人たちは天才的なほどに音感と語学のセンスその両方に長けていたと思います。リズムを持ち、しかも簡素にして優麗な詩文。

 

ロバート・マクシェーンやチャールズ・スポルジョンなども、きっとこのヴァージョンの訳と、そして同じメロディーで朝に夕に詩篇を歌い、祈っていたのだなあと思うと、なにか非常に感慨深いものがあります。この訳のメロディーをお聴きになりたい方はThe Scottish Metrical Psalter (1650) | The Psalms of David - Sung a cappellaをクリックしてください。

 

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