巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

宗教改革の霊性ーー礼拝賛美について(by ジャン・カルヴァン、1543年)

What Did the Reformers Believe about the Age of the Earth?

目次

John Calvin, Preface to the Psalter, 1543 より抄訳

 

二種類の祈り(Two Kinds of Prayers)

 

公の祈りには二種類があります。一つは言葉のみによる祈りであり、もう一つは歌うことを伴った祈りです。そしてこの慣習は少し前にこしらえられた代物などではありません。

 

実に教会の揺籃期より、この慣習は存在していたのであり、それらは歴史書に記されています。また聖パウロも言葉だけの祈りにとどまらず、歌を伴う祈りをも捧げていました。

 

そして実際、歌うという行為には、人の心を動かし燃え立たせる強靭な力があり、それによって、より一層の熱心と情熱をもち神を賛美するよう心が呼び覚まされることを私たちは体験的に知っています。

 

しかしここで注意しなければならないことがあります。それは、歌が軽薄であったり、浮ついた種類のものであってはならないということです。

 

聖アウグスティヌスが言うように、〔神に捧げる〕歌は、重みと威厳があるものでなければなりません。また、巷の界隈や家々で人々を楽しませるような種類の音楽と、神および御使いたちの臨在の中にあって教会で歌われる詩篇歌の音楽との間には、甚大な違いがあります。

 

歌うことを通した表現(Expression Through Singing)

  

神に向かって歌う行為は 、教会内だけにとどまりません。それは家の中や野や畑にあっても、神に対する賛美の器官となり、私たちの心を主に向かせ、主のすばらしさ、知恵、義を黙想する中で私たちを慰めるものとなります。

 

また、聖書全体に渡り、聖霊が私たちに「神の中で喜ぶこと」を入念に勧告しており、また、そういった喜びの全てが真正なる目的に帰着しなければならないと説いていることにはそれ相応の理由があります。なぜなら、聖霊は、私たち人間がいかに虚栄的な愉悦に浸りやすい存在であるかをご存知だからです。

 

実際、私たちの〔肉の〕性質は、愚劣にして放埓なありとあらゆる歓楽をむさぼるよう私たちを引き寄せ誘おうとします。

 

それゆえ、私たちの主は、それとは反対に、肉およびこの世の誘惑から私たちを引き離すべく、可能な限りあらゆる手段を私たちに提示してくださっています。それにより、主が推奨してくださっているあの霊的な喜びの内に私たちがひたすらとどまることができるためです。

 

音楽の重要性(Importance of Music)

 

適切な形で人をゆっくり休養させ、喜びを与えるものの中で、音楽というのは、おそらく第一のもの(ないしは主要なものの一つ)と言えるでしょう。そしてそれは、神がかような用い方をするべく人間に与えてくださった賜物であります。

 

それがゆえに、尚のこと私たちは、それを悪用・乱用することがないよう気を付けなければなりません。そうでないと私たちは、本来善用されるべき〔神の賜物である〕音楽を汚し、卑しく不純化させ、非難の対象となるようなものに変質させてしまう恐れがあります。

 

ですから、音楽を用いるに当たり、私たちはそれをよくよく管理し、純正なる用い方をするよう努める必要があります。音楽は、私たちの肉欲を刺激するものであってはならず、秩序なき歓悦に浸らせるものであってもならず、浅ましく扇情的なものであってもいけません。

 

音楽の力(Power of Music)

 

古のプラトンが賢明にも考慮していたように、音楽ほど、人間の倫理を良きにも悪しきにも左右する力のあるものはありません。

 

実際、音楽というものが、私たちの心をこちら側にもあちら側にも動かすことのできる神聖にして驚くべき力を秘めていることを、私たちは体験的に知っています。それゆえに、それが私たちの益とされ、決して有害なものとなることのないよう、私たちは熱心にそれを規制するよう努める必要があります。

 

それゆえに、古代教父たちは、 しばしば音楽問題のことを憂慮し、彼らの生きた古代世界においても当時、人々が不実にして浅ましい種類の歌にうつつを抜かしていたことを明かしています。そして古代教父たちはそういった種類の歌は、この世を腐敗させる致命的・悪魔的害毒であると喝破していました。

 

さて、音楽のことを述べるに当たってですが、それを二部に分けることができると私は考えています。一つは、主題(文字)であり、もう一つは、歌ないしはメロディーです。

 

聖パウロが言ったように、あらゆる悪い言葉は良いならわしを台無しにしますが、それに〔悪質な〕メロディーが加わるなら、事態はさらに悪化し、より強靭な力で私たちの心を突き刺し、心に侵入してくるようになります。

 

その様子は、ろ過器を通して葡萄酒が器に注がれるが如きものであり、このようにして、〔悪質な〕メロディーを通し、心の奥深くに腐敗の毒液がしたたり落ちていくのです。

 

なぜ詩篇を選ぶのか(Why the Choice of the Psalms)

 

それでは私たちはどのような歌を選ぶべきなのでしょうか?そうです。私たちは、貞節であるだけでなく、聖なる歌を選ぶようにしなければなりません。

 

聖なる歌は、私たちをして、神への祈りそして讃美へと向かわしめ、そして、この御方を愛し、畏れ、栄誉を帰し、栄光を捧げるべく神のみわざを黙想するよう、私たちの心を駆り立てます。

 

さらに、聖アウグスティヌスがいみじくも言ったように、人は、神から受け取ったもの以外のものをもってしては、神にふさわしいいかなる讃美も歌うことができません。

 

それゆえに、私たちが徹底的に考察を究め、探求していくなら、やがて次の結論にたどり着くでしょう。ーーダビデの詩篇歌以上に上述の目的に適うような賛美は他にないと。ダビデの詩篇は、聖霊が語り、ダビデを通し聖霊によって編み出されたものです。

 

実に、この歌(ダビデの詩篇)を歌う時、私たちは、神が私たちの口に確かにこれらの歌を授けてくださったことーーその事に確信を持つことができます。そうです、それはあたかも神ご自身が、主の栄光を讃えるべく私たちの内で歌っておられるかのようです!

 

古のクリソストムスは、男性、女性、そして小さな子どもたちにも、ダビデの詩篇を日常的に歌うよう勧告し、彼らを訓育していました。 それにより、御使いたちとの結びつきの中での黙想の習慣を身につけさせるためです。

 

理解を伴った賛美行為の必要性(Singing with Understanding Required)

 

聖パウロが言うように、霊的な歌というのは、心から歌うものでなければなりません。ですが、心はまた、知性を要求します。

 

そしてこの点において、(聖アウグスティヌスが言うように)、 人間が歌う行為と、鳥が歌う行為との間に相違が存在しているのです。ムネアカヒワやウグイス、鸚鵡(おうむ)などは上手に歌うことができます。しかしそれらの歌唱行為は、理解を伴うものではありません。

 

それに対し、人に与えられた特別な賜物というのは、彼が自分の歌っている内容を知り理解しつつ歌唱しているという事です。

 

そしてそういった知性(理解)の後に、心および感情が伴ってきます。 そしてそれは、絶えず神に向かって賛美し続けるべく、讃歌が私たちの記憶に刻み込まれていない限り、可能なものとはされません。

 

それが故に、この本(詩篇歌)は、貞節なる喜びを自らに求め、かつ、自らの霊的福利および隣人たちの益を求めるすべての人に推奨されるべきであり、私個人としても、本書を高く評価し、また推薦します。

 

またこの世の人々には次のように勧告することができるでしょう。「あなたがたがこれまで歌ってきた、浅はかで無益な歌、愚劣で意味のない歌、下劣で卑猥な歌、邪悪で有害な種類の歌に代わり、これからは、本書の中に収められている、神聖にして天的な讃美歌を、善良なる王ダビデと共に歌いなさい」と。

 

メロディーに関してですが、それは、主題の内容にふさわしい重みと威厳を帯び、教会の中で歌うにふさわしい形に調停されるのが望ましいでしょう。

 

From Geneva, this 10th of June, 1543

1543年6月10日、ジュネーブにて

ジャン・カルヴァン