巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ダニエル書「第70週の契約」(by メレディス・G・クライン)

目次

 

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メレディス・G・クライン(1922-2007)ウェストミンスター神学大 旧約学、アッシリア学、エジプト学、http://www.meredithkline.com/

 

Meredith G.Kline, The Covenant of the Seventieth Week(拙訳)

[from The Law and the Prophets: Old Testament Studies in Honor of Oswald T. Allis. ed. by J.H. Skilton. [Nutley, NJ]: Presbyterian and Reformed, 1974, pp. 452-469.]

 

ダニエル9章の統一性

 

ダニエル9章「70週」の解釈において納得のゆく結論を望むのなら、私たちはガブリエルの預言(20-27節)とダニエルの祈り(1-19節)の間に密接した関係性があることをまずもって念頭に入れなければなりません。

 

現代の高等批評において、ダニエル9章の統一性というのは決して異口同音に支持されているわけではありません。事実、「ダニエル書2世紀起源説」を支持し、ダニエル書の6世紀起源を拒む人々は往々にして、ダニエルの祈りを9章に差し挟まれた「挿入句」だと捉えています。(しかし、そういった人々の間であってさえも、この祈りの信憑性を支持する人は存在します。)

 

この点に関し、近年の研究としては、B・C・ジョーンズが、「ダニエルの祈りが9章に元々存在していたものである」という見解を補強しようとしています。*1

 

また、この立場に対する幾つかの反論*2の中でも最も重大なものは、「祈りの主題とガブリエルの応答との間の関連性が欠如している」という主張です。

 

それに対し、ジョーンズは、「赦しを求めるダニエルの嘆願に答えるという形でガブリエルは確かに確証を提供している(24節)」と反論しています。ダニエル9章の統一性に関する積極的証拠はまた、応答が繰り返されたり、祈りの中のさまざまな音合わせの内にも見い出されます。*3

 

それからまた、9章中のそのどちらの箇所も、ダニエル書のその他の箇所では見い出されないある種の表現を共有しているということも留意されるべきでしょう。*4

 

しかしながら不幸なことに、ジョーンズは結局、9章中の二つの箇所における見地には相違があると認めています。彼は、「災難というのは定められた時に起こり、ダニエルが捧げたような、いわゆる祈りというのは、神にとってほとんど意味をなさない」という決定論的な思想を伝えるべく作られた意図的考案として、この事を説明しています。*5

 

エピソードの意味に対するこういったラディカルな歪曲を生み出した理由は、1)ジョーンズが、批評的ダニエル書後期年代説を受け入れたこと、そして、2)それに関連し、70週のクライマックスを、紀元前2世紀のユダヤ人が被った危機という観点で解釈したことに因を発しています。

 

もし、70週を、マカベア的解釈ではなく、メシア的解釈で理解するなら、ダニエル9章全体を通し、主題の一致と、見地の一貫性が明示され得ます。以下、その事を示していくと共に、ダニエル9章の統一性に対する主要な反論に対しても、納得のゆく回答を提示していくことができると思います。

 

さてまず第一に、以下の点を言及する必要があります。ーーそれは、「『70週』の預言は、70年に関するエレミヤの預言の意味を明瞭化するべく、あるいはそれを再解釈するべく作られたのだ」という彼ら論者の前提を正当化するものは何もないということです。

 

そしてこうした虚偽の前提を土台に、彼らは、「ダニエルの祈りは、解明の光を求めての嘆願であるべきなのだが、実際にはそうではない。よって、この祈りは次に続く預言と調和しておらず、この文脈における『挿入句』であると結論すべきである」と主張しています。

 

しかしながら、ダニエルの祈りは決して「当惑」を表現してはおらず、それはあくまでも「嘆願」です。イスラエルの70年の捕囚の終結が、バビロンの没落と密接に関連しているというエレミヤの明白な言葉に、ダニエルは「当惑」などする必要はありませんでした(エレミヤ25:11参)。

 

またダニエルの差し迫った切迫感は私たちにも理解できます。なぜなら、その同じ年に、バビロンはすでに崩壊していたからです(紀元前539年;ダニエル9:1参)。そして605年にユダの捕囚が始まって以来、直に70年目を迎えようとしており、ダニエル自身、その当時、バビロンに連れ去られた人々の中の一人だったのです。*6

 

ここのダニエル9章2節で明白に言わんとしていることは何かと言いますと、彼ダニエルが時期に適ったエレミヤの預言的約束の成就を祈った、という事です。そしてその後まもなく、実際に復興が起されました。

 

ですから、預言の言葉の歴史的実現という点において、そこにいわゆる「失敗」はなく、よって、この単純明快な意味にきまり悪い再解釈を加える必要などないわけです。

 

さらに、ガブリエルの使命に関する記述(ダニ9:20)から完全に明瞭なのは、ガブリエルの訪来目的が、エレミヤの預言の解釈/再解釈に在ったのではなく、復興の約束が今や成就しようとしているということをダニエルに確証するためだった、という事です。

 

要するに、明瞭な箇所をあえて不明瞭に読もうとでもしない限り、ここでの「ダニエルの祈り」と「ガブリエルの応答」がいかに見事に調和しているかを見落とす人は誰もいないということです。

 

そして「ダニエルの祈り」「ガブリエルの応答」双方の共通したフォーカス、すなわち、9章全体に充満している主題は、イスラエルとの間のヤーウェの契約ーーそれもとりわけ、神の忠実性を通した契約執行(covenant sanctions)の実現化ーーです。

 

そしてこの中心的主題は、ダニエルの祈りの冒頭ですぐにも顕れています。彼は顔を神である主に向け(3節)、神のことを「契約を守る」(4節)主であると表現しています。

 

そしてこれはダニエルの確信ならびに彼の嘆願の主題の基盤(根拠)を成しています。彼は、契約の呪いを神が下されたのと同様、今度は、御契約の憐れみを実現に至らしめてくださるよう、神に祈りました。

 

そしてその祈りに答える形で、ガブリエルが訪来したわけですが、ガブリエルの預言のメッセージは、神が直ちにご自身を契約の守り主(保持者)として再び証してくださり、捕囚後の回復に関する古のモーセ約束を成就してくださるということでした(レビ26:42、申30:3、エレミヤ29:10)。

 

さらに、契約の将来に関するその啓示の中で、ガブリエルの回答は、(ダニエルの捧げた)祈りの領域を超え、はるか前進し、こうして「70週という計画の究極的目的は、神聖なる契約の保持者としての神が、ただ単に回復をもたらすだけでなく、モーセを通してイスラエルにお与えになっていた契約の秩序を完成させる」という事が今や開示されたのです。

 

契約立証というテーマに対する広汎なる焦点に対する十分な認識や評価は、高等批評の問題に取り組む上でも、ダニエル9章の釈義を考える上でも重要です。

 

一方において、この契約の主題は、全体としての章の統合性を証拠立てています。他方、それは預言の中におけるさまざまな要素や詳細を結び合わせている相互連結関係に光を当てています。

 

そして、それは、従来の伝統的な七十週の「メシア的解釈」という、基本的に健全な釈義に私たちが進み行くことを可能にし、さらには、ディスペンセーション主義聖書解釈法に対する批評を先鋭化させることにもなっています。

 

ダニエルの祈りの中における契約テーマ

 

神が契約を守る方であるということを認めるところからダニエルの祈りは始まります(4節)。そして彼はこの主題を継続させつつ、全歴史について、そしてなぜイスラエルが現行の荒廃状態に陥ってしまったのかを解釈する上で、契約の諸現実に対し明確な言及をしています。

 

イスラエルの歴史は、「神の契約という成文規定に対する違反」および「神より遣わされた使者や預言者たちに対するに対する絶えざる拒絶」という形をとって進んできました(5-6節、10節)。

 

そして、こういった契約違反がもたらす不可避的結果として、「神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いがふりかかり」(11節)ました。

 

さらに神はご自身が前もって警告されていたことを実行され、「神は、大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちを裁いたさばきつかさたちに対して告げられたみことばを成就され」ました(12節)。

 

憐れみと復興を求めるダニエルの嘆願には、神の御名の栄誉が視野に入っており、それはイスラエルの宿命と分かちがたく結び付いていました。なぜなら、神はしもべとしてのイスラエルの国の契約的守護者とみなされていたからです(15-19節)。

 

ダニエルの祈りにおける契約的方向性は、この箇所で用いられている語彙によって浮き彫りにされています。というのも、それは協定(treaty)の語彙で満ち溢れているからです。

 

前述しましたように、ダニエル書の中でただ9章だけが、神聖なる御名ヤーウェを用いています(2、4、10、13、14、20節)。この章の中で用いられている格別に契約的な神の御名の際立った使用は、この章の主要テーマへの明白な指標です。

 

同じように、契約的文脈に適合しているのは、繰り返し用いられている'adonai(アドナイ;「主」という語の使用です。'adonaiは、契約における主要当事者の指し示す典型的名称です。

 

前述のヤーウェという名称と同様、'adonaiも(ダニエル1:2を除き)ダニエル書中、ただ9章の中にのみ現れている語であることも重要なポイントです。

 

その他、この箇所の中で専門的協定という意味合いを帯びた語として挙げられるのは、'ahab(=愛、4節)、hesed(=契約の忠義・忠実、4節)、 sub(=立ち返る、13、16節)、 hata(=罪、5,8、11、15節)です。実際、この祈りは、モーセ契約(Mosaic treaties)、それも特に申命記協定からの定型的諸表現で満ち満ちています。*7

 

形式批判学(form-critical analysis)は、ーーこういった型の祈りが契約執行で為す特定の機能の解明に努めることによりーー、ダニエル9章の祈りの契約的性質に関する私たちの理解を深めるのに興味深い貢献をしてくれています。

 

(ダニエル9:4-19の祈りを含めた)その他の同様・同質な捕囚後の「祈り」を分析したハーヴェイは、それらの祈りを、トダー・ジャンル(Todah genre)と同定しています。*8

 

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(トダー;Strong's Hebrew: 8426. תּוֹדָה (todah) -- thanksgiving

 

ハーヴェイは、(名詞のトダーから派生している)この動詞は、そういった一連の祈りを捧げる行為を言い表すのに用いられていると指摘しています。*9

 

D・W・ケールは、旧約聖書がトダーという語によって表示していたイスラエルの宗教的慣習の要素研究をしましたが、彼は結論としてトダーを次のように定義しています。

 

「属性としての神の栄光、および、厳粛な契約の中で神がお選びになった人々に対する御自身の行為の中における神の恩寵を認め、認識する公の行為である。」*10

 

ケールはまた、イスラエルの契約的献祭(sellamim)に関連した慈愛溢れる神のご行為を告白する「トダーの祈り」の朗読に注目しています。*11

 

また、先行研究を通し、トダー告白には、①イスラエルの罪の告白、および、②神の義なるご行為に対する認識、というこの二つの要素が含まれていることを彼は指摘しています。*12

 

実際、ダニエル9:4およびエズラ記・ネヘミヤ記の中の類似の祈りに、トダーを特徴づけるこうした二種類の告白が含まれていることを見て取ることができます。

 

ハーヴェイは、こういった祈りの中に共通する懸念が、破棄された契約であり、また、その後に契約更新という行為が続くことを指摘しています(エズラ10:3、ネヘミヤ10:1)。*13

 

さらに、こういったトダーの祈りは、契約訴訟(rib, רִיב, Strong's Hebrew: 7379. רִיב (rib) -- strife, dispute)のプロセス(ご自身の民が契約を破った場合に、主が、預言者たちを通し、民に対し訴追すること)における特別な司法機能を果たしていたと彼は論じています。

 

つまり、トダーの祈りは、有罪と宣告されたしもべとしての民の、主の告訴に対する応答であり、この応答の中で、イスラエルの民は主の下される宣告の正義を認めていたのです。

 

この手続きは、特に、バビロニアの「不告訴銘板("tablets of no-complaint")」によって裏付けられている古代中近東の法的業務とも調和・一致しています。

 

 

An intricate tablet (pictured), thought to be the world's oldest complaint 'letter' was written by a disappointed customer from ancient Babylonia. The story goes that a merchant named Ea-nasir journeyed to the Persian Gulf to buy copper to sell in Mesopotamia. This included ingots for Nanni, who sent his servant to pay for them

古代バビロニアの粘土板(BC1750)大英博物館蔵(情報元

 

 

トダーにより特別な役割を果たしている契約訴訟のプロセスは、レビ記26章の契約執行の箇所において詳説されています。

 

この箇所では、契約破棄(14節)および、イスラエルに対する契約の呪いという刑罰(捕囚の呪いによってそれは絶頂に達する。16-39節)に関する叙述に引き続き、捕囚の民によるトダー告白(40節)が、神の契約更新および祝福の回復(42節)のための必須条件であることが述べられています。*14

 

また、申命記協定の執行において、モーセは、(捕囚にまで至る)ヤーウェとイスラエル間の契約の預言的概観を提示しつつ、悔い改めを伴うイスラエルの立ち返りを、契約回復の前触れとして同様に肝要であるとみなしています(申30:1、2、10)。*15

 

それと同じように、ソロモンは、神殿奉献の際の祈りの中で(1列8:23)、自分たちの咎ゆえに、契約の民が捕囚の身となり、そこで罪を告白するなら(47節)、神が彼らを赦し、彼らに回復をもたらしてくださるよう祈り求めています。

 

そしてトダーの祈りのこの伝統の中にあって、ダニエル9:4-19は見事にそれと調和しています。彼はヤーウェの義とイスラエルの不義を認め、古の契約の誓いによって正当にも自分たちに降りかかった呪いから解放してくださるよう嘆願しているのです。*16

 

ダニエルの祈りは、レビ記26:40-41の契約訴訟の執行の様式の中で規定されているトダーの要求に相当し、それを満たしています。*17

 

それゆえ、私たちは、ダニエルの祈りに対する、主の使いガブリエルを通した神の応答が、レビ記26:42-45中のトダーに続かしめる《契約想起と更新の御約束》に相当するのだろうという予測に導かれます。

 

「しかし、彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するならば(40節)・・・そのときわたしはヤコブと結んだ契約を思い起し(42節a)・・・わたしは彼らの先祖たちと結んだ契約を彼らのために思い起すであろう。彼らはわたしがその神となるために国々の人の目の前で、エジプトの地から導き出した者である。わたしは主である(45節)。」

 

ガブリエルの預言の中における契約テーマ

 

上記の予測の正当性は、ダニエル9:20-27の聖句それ自体の検証によって確証されます。契約テーマは、ガブリエルの啓示の構造そのものの中に顕れています。つまり、70週の構造の中にです。

 

この預言に流し込まれている年代的鋳型は明らかにサバティカル(sabbatical)です。基本単位としてのシャブア sabua'(7、7つの期間;"heptad, period of seven")は、地の全き休みの安息(レビ25:2)である7年目(7年の期間)を指しています。*18

70週が分割されている主要部分のはじめは、こういった安息年の7で構成されており(ダニ9:25)、それゆえ、ヨベルの年という高峰なる安息日に出された49年という期間です(レビ25:8)。そしてヨベルの年は、贖い、解放、そして回復の年です。

 

故に、70の7たび(seventy sevens of years)の全期間は、こういったヨベルの年の10たびであり*19、それは、究極的にして対型的な(antitypical)ヨベルを指標するヨベル概念の強化です。

 

10のヨベルないし10週のパターン、ーーその10番目が絶頂ですがーーそれは、『週の啓示書("The Apocalypse of Weeks")』*20および、クムラン文書 11QMelch (izedek)の中に見い出されます。後者は断片ですが、明確に、「10番目のヨベル」および「最後のヨベル」を同定しています。*21

 

 

https://otstory.files.wordpress.com/2008/04/11qmelch-col-ii1.jpg

Manuscript of 11Q13 (11QMelch) Col. II

 

さて、安息日のパターンは、契約的パターンです。なぜなら、安息日は代々にわたり、主と主の民との間の恒久的しるしであると主が宣言しておられるからです(出31:13-17;エゼ20:12,20)。

 

実際、創造の聖定(creation ordinance; 創2:3)としての元々の御指示以来、安息日は、契約関係およびご計画のしるしとして機能してきたのであり、特に、契約秩序の成就としての預言的象徴として機能してきました。

 

安息日およびヨベルの年の暦の中におけるモーセ契約で詳述されているように、安息日というのは、贖罪的解放、回復、そして安息をもたらすメシア時代のしるしとしての役目をはたしています。

 

それゆえ、ダニエルの祈りに対するガブリエルの応答を、「安息日ーヨベルの年」の枠組みの中で捉える時、この預言が根本的に、イスラエルとの間の神の契約ーー特にその契約の完成ーーに関するものであることに、直ちに理解が及びます。

 

ここの聖句の数的特徴によって自然に示唆されている「70週の枠組み」がサバティカルであるという結論は、この「70週の預言」と、エレミヤの「70年の預言」との関係によって裏付けられます。

 

前者は解釈ではなく、よもや是正処置的な再解釈などでは全くありませんが、そうではあっても、それはエレミヤの預言を読むことによって促された祈りに対しての応答の中で与えられたものであり、後述しますように、それはエレミヤの預言と同様の象徴的型(モデル)を用いているのです。

 

レビ記26:43での捕囚の説明という観点から70年間の捕囚の意味を釈義するに当たり、年代記編者は、それを土地のための安息の休みの時として描写し、次のように述べています。

 

「これはエレミヤの口によって伝えられた主の言葉の成就するためであった。こうして国はついにその安息をうけた。すなわちこれはその荒れている間、安息して、ついに七十年が満ちた(2歴36:21)」。

 

この聖句箇所において、それぞれの70年は、安息年として機能していると捉えられていますので、70年は "seventy weeks of years"に相当します。引き続く捕囚の荒廃状況の下、490年は70に圧縮されました。なぜなら、荒廃した地は、通常の6年間の労働間隔なしに、一つの安息年の休みから、すぐさま次の安息日へと跳躍したからです。

 

それゆえ、ガブリエルの70週の預言は実際、エレミヤの70年の預言とまさに同じシンボルを用いているのです。そしてそのシンボルは、2歴代誌36:21においてサバティカルであると説明されています。

 

ダニエル9章「70週」預言のサバティカル解釈が初期の段階で採用されていたことは11QMelchによって裏付けられており、前述したように、10番目および最後の〈ヨベルの年〉とみなされています。この構成は、レビ記25章のヨベルの年におけるミドラーシュ的発展です。

 

この発展の中で、それはダニエル9章の70週に働き、そして同時にそれは、この預言の解釈を提供しています。*22

 

そしてこの解釈の鍵となるテキストの中で、ーーおそらく私たちの主の時代の頃に源を発していると考えられますがーーダニエル9章の70週は、解放の宣言、贖罪、シオンの敵への報復、主の民の間に立てられる神の契約の確立によって絶頂に達する一連の〈10たびのヨベルの年〉と理解されています。

 

また、レビ記25章および26章がダニエル9:24の背後に立つ重要な出典であることがますます明らかにされてきています。70週の預言は、レビ記25章における《安息日ーヨベルの年構造》の上に築かれています(26:43参)。

 

全体としてのダニエル9章は、レビ記26章の契約執行パターンに倣っています。また4節の祈りは、レビ記26:40のトダー告白に対応しており、24節の預言は、レビ記26:42の契約回復および更新に対応しています。そして後者のこの等価性は、2歴代誌36:21の中にみられる「70週」と、「レビ記26:43」との関連性によって強化されています。

 

また、上記の要素に加え、ダニエル9章の70週預言はまた、契約破棄の後の契約回復に関するレビ記26章の予測(その予測は2歴代誌36章で取り扱われ、発展しています)という別の側面をも反映しています。

 

70年に渡る安息の年としての捕囚期間について言及した直後(2歴36:21)、歴代誌の著者は、ペルシャの王クロスの第一年にクロス王によって発布され、公式にイスラエルの捕囚を終わらせた法令について言及しています。

 

また歴代誌の著者は、結びの言葉として、(エレミヤ29:10で預言されている)70年の安息年の後に訪れた神聖なる神のお取扱いに関する主のみことばを成就に至らしめ、かつ捕囚後のヨベルの回復を導入した(2歴36:22;エズラ1:1参)復興者についての言及をしています。同時に、歴代誌の著者は、その他の預言的御言葉の成就についても記録しています。

 

イザヤもまた、エルサレムおよびその神殿の再建についておふれを出すことになる人物についてーー実に、主の「油そそがれた者」(イザ44:28;45:1)と言及されているクロス当人についてーーすでに言及していました。

 

そしてクロスが回復の発令を発行したまさにその年に、ガブリエルはダニエルに、エレミヤの70年の安息年の期間を終わらせたクロスの法令はまた、新しい70週の幕開けを示唆しているということを宣言したのです。

 

ガブリエルの預言によると、この新しい70週の絶頂期に、別の油注がれた君主ーークロスの命令に則りつつも、まことにして究極的メシアーーが顕れることになっていました。*23

 

そして真正にして究極的最後のヨベルの年をもたらし、預言の冒頭聖句にて70週の目的として告知されていた新しい、永遠なる契約を確立することがこの御方の使命でした。*24

 

この使命を遂行する過程で、この御方は「多くの人々」の身代わりとなって苦しみ、壮絶な死の悶絶を味わわれなければなりませんでした。*25

 

イザヤもまた、この油注がれた者、すなわちーー①ヨベルの年の解放と更新を宣べ伝えるべく御霊の油そそぎを受けた方(イザヤ61:1)*26、②とこしえの契約を結ばれる際に神がお与えになる君主である御方(イザヤ55:3)*27、③モーセの如く、契約の仲保者であり、且、彼ご自身が契約そのものであるところの、主のしもべである御方(イザヤ42:6;49:8)、④「多くの人」を義とするべく生ける者の地から絶たれなければならなかった御方(イザヤ53:10-12)ーーについて預言していました。

 

もしもモーセ協定が、ダニエル9章における契約テーマのための「注釈」としての枠組みを提供していたのだとするなら、イザヤ書的しもべ像は、第70週目の契約の個人的仲保者のための源泉(source)であったということが言えるでしょう。

 

ダニエル9:27における契約

 

さて、ガブリエルの預言の結びの諸聖句に取り組んでいくにあたり、ダニエル9章の形式および文脈、その両方共が、ーー70週の最後におけるイスラエルの「神との契約」のメシア的完成(成就)に関する決定的最後の御言葉ーーに関する考察のために私たちを備えてくれます。*28

 

それゆえ、27節で契約についての言及がありますが、その性質(identity)については疑問の余地がありません。*29

 

つまり、ーーダニエル9章を一貫して貫いている中心的主題である神の契約とは全く異なる種類の契約が、すべてを総括するクライマックスであるこの場に及んで唐突に導入されるという仮説に対しーー、文脈全体が反対論を唱えているのです。

 

また、この契約を有効に至らしめた方のアイデンティティーについても、そこに何ら問いを差し挟む必要性がありません。その御方とはもちろん、第70週の冒頭を際立たせている存在であるところの、油注がれた君主に他なりません(25節)。

 

26節では、「メシア」と「契約」との間に興味深い関連性があります。主の死は、この節で、カラット(karat)というヘブル語動詞で描写されています。

 

カラットというこの動詞は通常、契約の誓いの呪いを表現する「切断の儀式」によって契約を批准する行為を示すものとして用いられています。ですから、27節での契約に関する言明は、26節における契約的暗示との明瞭な連続性を有しています。

 

ガブリエルはここで、「油注がれた者が断たれること(26節)は、この方の使命遂行の挫折を意味しているのではなく、その反対に、使命遂行の完成(成就)を意味しているのだ」とダニエルに保証しています。

 

「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び(新改訳)」

「彼は一週の間、多くの者と同盟を固め(新共同訳)」(27節a)。

וְהִגְבִּ֥יר בְּרִ֛ית לָרַבִּ֖ים

And he will make a firm covenant(NAS訳)

And he shall confirm the covenant(欽定訳)

And he shall make a strong covenant with many(ESV訳)

And he hath strengthened a covenant with many(Young's Literal)*30 

 

油注がれた主のしもべが新しい契約を批准したのは、まさしく主の民の咎のためになされた主の死によってであり、この新契約の内に、イスラエルとの神の旧契約が確認され、さらにその完成・成就を見い出しているのです。

 

27節において、ダニエルの祈りの嘆願は、最もダイレクトな回答を受け取っています。そしてまさにここにおいて、契約の神聖なる確証という預言的保証が、かくも明確に言明されているのです。

 

この極めて重要な言明で用いられている動詞が、契約の初期締結(initial making of a covenant)を意味する動詞ではないという事実も無視すべきではないでしょう。*31

 

前述したように、「契約を結ぶ」(カラット)という一般的動詞は、ーー神の贖罪的聖意図により、メシアの死は、新契約における批准的犠牲であったことを暗示するべくーー26節aで用いられています。27節(そしてすでに26節b)において、預言は、神の契約の批准から、(祝福と呪い双方を含めた)契約制裁というパワフルにして究極的なる執行へと進展しています。

 

そしてこの思想は、おそらく動詞へキームheqim;"cause to stand" 立つ原因となる、立たせるによって表現されていると考えられます。*32

 

ダニエルはこの動詞を祈りの中で用いており、捕囚という裁きを通し、神がイスラエルに対するご自身の御言葉(契約の誓いと呪いの言葉;11節)を確証ないしは遂行されたことを認めています(ダニエル9:12)。エレミヤもまた、70年の預言の中でこの動詞ヘキームを用い、神が契約における祝福の御約束を遂行してくださることを述べています(エレ29:10)。*33

 

ガブリエルがダニエルに、「神が古の契約の祝福を実現に至らしめる」と言った時、ーーダニエルの差し迫った緊急懸念のレベルを遥かに超える次元においてーーガブリエルはヘキームに相当する動詞、それもヘキームよりさらに語気強く、強意的動詞であるヒグビール(higbir;וְהִגְבִּ֥יר「強固にする、打ち勝たしめる」)という動詞によって、成就に関する思想を表現しています。*34

 

この動詞ヒグビールの効力は、「ダニエル9:27aで言及されている契約は、未来の反キリストによって課せられる協定である」という見解をーーそれがディスペンセーション主義の枠組みの中での着想であれ、それ以外の終末論的枠組みの中での着想であれーー排除します。

 

こういった未来主義的な再構築によると、反キリストは、第70週の最初に協定を結びますが、その後、週の半ばでその協定を破ります。しかしながら、そのような状況は、27節が描写していることの正反対であると言わねばなりません。

 

ヒグビールの語使用の証拠が示しているのは、27節が、それ以前に与えられている契約条件の実行を視野に入れているということです。もしそうであるなら、それが言及しているのは、主がご自身の民に与えてくださった契約の忠実なる成就ーーこれに他ならないという事になります。*35

 

また、旧約聖書の他の箇所では、ガバールという動詞のヒフイル形は、詩篇12:5(4)にしか登場せず、その意味は、「強い」ないしは「克服する、固める、優勢である、有効である、打ち勝つ、しのぐ、prevail」です。הפעיל⇒ヒフイル形。使役、作為的。)

 

しかしこの動詞はまた、クムランの感謝讃歌(1QHII,24)の一つにも見い出されます。著者はこの讃歌の中で、彼を通し、また迫害を通し、神はご自身の御力を顕し、打ち勝ってくださるという事を表現すべく、この動詞(ガバール;גָּבַר, Strong's Hebrew: 1396. גָּבַר (gabar) -- to be strong, mighty)を用いています。

 

この思想は直接的文脈の中で説き明かされており、そこでは詩篇作者が、神の忠実さ(へセド)により、強豪なる彼の迫害者たちが裁かれる中、彼が一貫して神の契約を堅く握っていることができたことに対し、神に賛美を捧げています。

 

ガバールのヒフイル態が使われているこの契約的箇所は、ご自身の契約による祝福および呪いの裁可における、神の忠実にして強力な効力を意味しています。

 

ガバールがカル(Qal)語幹の中で使われているある種の聖書箇所は*36明瞭に契約的であり、ダニエル9:27においてのこの動詞の効力に光を当てています。

 

詩篇103:11では、契約的定型句が特に目立っており、また詩篇117:2においては、ガバールの主語は神のへセド(忠実さ、真実さ)です。そしてこの名詞は実質上、ベリート(「契約」)の同義語ですが、その中でも特に、このへセドは、神が、ご自身の確立された至福の秩序を保ち、成就に至らしめてくださるという、契約の忠実さを意味しています。*37

 

ダニエルが祈りの冒頭で訴えたのは、「契約保持者」ならびに「へセド」としての神のご性質に対してであり(ダニ9:4)、こうして、この祈りとガブリエルの応答双方が互いに密接に付着している主題を設けています。

 

詩篇103、それから詩篇107共に、神が、祝福の契約を結ぶ・固める(prevail; gabar)という思想は、(義や真理といった)契約のある要素が「その子らの子にまで及び」「とこしえまで続く」(詩103:17参)といった宣言の中において、パラレル表現となっています。

 

同様に、「堅い契約が結ばれる」という70週の預言の結びの聖句で、「永遠の義」および、冒頭聖句(ダニ9:24)で述べられている70週の目的における完了的側面に対する回答が与えられています。

 

それゆえ、ガバール使用から導き出される証拠は、ーー「ダニエル9:27では、契約関係の開始を言及しているに過ぎず、しかも、その契約は背信によって途中で破棄される」というような諸解釈に対し、決定的な反証をしています。

 

前述したように、ガバールの契約的同盟(連合、つながり)は、神のへセド(忠実さ)です。そしてこの名詞は、永続性としてのベリート(「契約」)の実質的同義語です。*38

 

動詞ガバールに関連するさらなる検証考察により、ダニエル9:27に光が当てられます。ガバールによって示されている行為の種類は、ギボール(gibor;力ある者、英雄、"a mighty one, a hero")によって遂行されます。*39

 

この用語は、①申命記協定の中で(申7:9、21;10:17)、そして、②ダニエルの祈りを含めた、トダー告白ジャンルとしての契約更新の祈りの中で(ダニ9:4;ネヘ1:5;9:32;エレ32:18も参照)、長いもしくは短い形式として登場している、契約序言型の《神の形容辞》として用いられています。

 

そしてこの型は、神を、偉大にして、力強い御方(haggibbor)、恐るべき神('el)、ベリート(契約)を守り、へセド(忠実さ、恵み)を千代にまで施し、先祖の咎をその後の子らのふところに報いる方として描写しています。

 

ダニエル9:27におけるヒグビールの意味に関しとりわけ重要なのは、イザヤ9章および10章でのギボールの語用です。イザヤは、この御方の名をエル・ギボール('el gibbor, אֵ֣ל גִּבֹּ֔ור, イザヤ9:6)と宣言し、契約定型句としての「力ある神」として、ダビデの子であるメシアを呼びならわしています。

 

そしてさらに、イザヤ10章で、メシア的このエル・ギボール(「力ある神」)が再度言及されているのですが、そこの聖句こそまさしく、ダニエル9:27の思想および言い回し・語法が引き出されている箇所なのです(イザヤ10:22-23参照)。

 

ここでイザヤは、契約の祝福と呪いに関する力強いメシア的成就について語っています。すなわち、「ヤコブの残りの者は、エル・ギボール(力ある神)に立ち返り」(21節b)、他方、「壊滅(kalah)は定められており、義があふれようとして(sotep)」(22節b)おり、「すでに定められた(neherasah)全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行なおうとしておられ」(23節)ます。

 

そしてダニエル9:26b、27は、イザヤの預言を反響しています。すなわち、忠実な残りの者である「多くの者」に対する祝福として「堅い契約が結ばれ(higbir)」ますが、呪いとしては、定められた絶滅(kalah weneherasah)の形をとり、洪水(setep)のように背教のイスラエルの忌むべきものの上に注がれます。*40

 

ダニエル9:27のイザヤ10:21への紛れもない依拠は、《ダニエル9:27のヒグビール》に霊感を与えたものとしての、《イザヤ10:21のエル・ギボール》を直接的に指し示しています。

 

そしてここから確証される結論、それは、ヒグビールの主語が「反キリスト」ではなく、それは、エル・ギボール(力ある神)*41という名の「油注がれた御方」に他ならず、また(結ばれた堅い契約としての)ヒグビールの目的語は、キリストの血潮で封印された贖罪的契約に他ならない、という事です。

 

結論

 

ダニエルはエルサレム神殿の回復のために祈りました。エルサレム神殿は、ヤーウェに対するイスラエルの契約関係を表す、決定的に重要な聖礼典的シンボルです。

 

70週の預言は、①ダニエルの祈りが直ちに聞かれ始めたということ、そして、②「ヨベルの年の期間」として表現されている契約共同体の回復が完成に至るということを、ダニエルに保証しています。

 

その後、預言は続けて、契約の究極的開示および、後の時の神殿に関する逆説的眺望について、これらを明らかにしています。回復された後、エルサレム神殿は再び忌むべきものの巣窟とされ、それにより、また別の、そして最終的荒廃が引き起こされます。

 

イスラエルの主は、破棄された御契約ゆえに、反逆的な従属国家(vassal-nation)に対し容赦なき報復をされます。しかしそういった呪いが極に達するその時であってさえも、祝福の契約は選民でありまことのイスラエルである多くの者のために保持されています。

 

呪いが古いモーセ的秩序を終結させる前に、メシアが新しい契約秩序を導入され、その新契約秩序の内に、旧い人々や都市や神殿は連続性および成就をみるのです。

 

そしてエルサレム神殿が崩壊する前に、御霊による永遠なる神殿ーーつまり、キリスト及びキリストの教会ーーの土台が据えられます。こういった神の神殿の新しい対型的回復は、《10たびのヨベルの年の期間 "ten jubilee periods"》として描かれているものの成就です。

 

第70週の絶頂期に、油注がれた祭司かつ王であるmasiah nagidが、更新の内に、そして裁きの内に堅い契約を結びます。死によって絶たれたメシアは、咎のために祭司的仲裁(和解)を成し遂げ、犠牲のいけにえを永遠に完全なものにし、また新契約を導入されます。

 

その後、全世界の国々を支配する王としての天的統治をなさるメシアは、第70週の半ばに、エルサレム神殿に対する破壊勢力を送り込まれ、こうして古い儀式的システムを終わらせ*42、旧契約を終結に至らせます。*43

 

私たちの展望台からガブリエルの預言の成就を考察する時、第70週の後半部分は、新契約の共同体時代のように思われます。そしてこの共同体は、(〔旧契約秩序〕最後の日々を、一世代に渡り重なり合うそれ自身の始まりとして)旧契約秩序から身を引き離しました。

 

新約聖書の黙示録の表象(imagery)の中で、最後の半週は、「ひと時とふた時と半時の間」(黙12:14)の、国々の荒野における教会時代となっています。

 

70週は、最後のヨベルの年に出された10たびのヨベル時代であるため、第70週は、地の贖いを告げる御使いたちのラッパの音と、神の子たちの栄光に満ちた解放によって幕を閉じます。キリストと共に訪れた「主の恵みの年」は、ここに至ってついに完全なる形で到来することになります。

 

そして新しいエルサレムーーその神殿は神である主と小羊ですーーが天から下って来(黙21:10、22)、私たちは契約の箱を見ることになります(黙11:19)。そうです。契約であられる小羊が堅く結び、主がみ心に留め続けてくださっていたその契約の箱を。

 

ー終わりー

 

*1: "The Prayer in Daniel IX," Vetus Testamentum 18, 4 (1968), 488-493. 

*2:ジョーンズ(同著、p489)は、「テトラグラマトンは祈りの中では使われているけれども、(ダニエル書の中の)その他の箇所では使われていない」という反論に対し、「ある特定聖句の中における神の御名の選択は、慣用句および文脈的適切性への考慮によって決定され得る」という健全な原則に訴えています。参照:Allis, The Five Books of Moses (Philadelphia: Presbyterian and Reformed Publishing Co., 1943), pp. 24 f. and 35 ff.本章での、神の称号に関する選択の重要性については、下記を参照のこと。

*3:例えば、(ジョーンズの言述を修正しつつ書きますが)、祈りの中では「誓いと呪い〔'alah and sebu’ah〕が降りかかり〔wattittak〕(11節)」となっています。他方、預言は、70週〔sabu'im〕が定められている〔nehtak〕(24節)、そして定められた絶滅〔kalah〕がふりかかる〔tittak〕(27節)と言っています。また、祈りは「荒れ果てた〔samem〕聖所(17節)」について言及しており、そしてその応答としては、「荒らす忌むべきもの〔somem & mesomem; Gesenius, Hebrew Grammar, 52s参〕の神殿*(27節)」です。(*訳者注:新改訳聖書のダニエル9:27欄外注をみますと、「七十人訳は『神殿に』」と記されています。)

ちなみに、多くの人が信じているように、ダニエル11:31および12:11(9:27参)のsiqqus (me)somemが、ba'al samem,(天の主、"lord of heaven")に対する軽蔑を含んだ語呂合わせであるのなら、そういったカルトは紀元前6世紀よりもはるか以前にすでにその存在が認証されているということに留意する必要があります。W. F. Albright, Yahweh and the Gods of Canaan (New York: Doubleday, 1969), pp. 227 ff. Cf. Jones, op. cit., p. 491参照のこと。

*4:例えば、tabanunim (vss. 3, 17 f., 23); nabi' (vss. 2, 6, 10,24).

*5:Op cit., pp. 492 ff.

*6:Daniel 1:1 ff. これに関する私の考察論文としては、Westminster Theological Journal 20, 2 (1958), 215 fを参照のこと。

*7:4節と申命記7:9、21;10:17を比較。5節と申命記17:20を比較。10節と申命記4:8、30;11:32を比較。11節と申命記29:20;33:1;34:5を比較。12節と申命記2:25;4:19;9:5を比較。15節と申命記6:21を比較。18節と申命記28:10を比較のこと。

*8:Le plaidoyer prophetique contre Israel apres la rupture de l'alliance (Montreal: Bellarmin, 1967), pp. 157 ff. ハーヴェイはまた、エズラ9:6、ネヘミヤ1:5、ネヘミヤ9:6、そして後半では、正典外の祈りをも取り扱っています。イザヤ63:7-64:12もこのパターンを示しています。

*9:Hithpa'el of yadahはエズラ10:1で使われています。(参:エズラ10:11の名詞トダー);ネへミヤ1:6;9:2、そしてダニエル9:4、20.

*10:「旧約聖書中のホダーとトダーの意味」(1966年;ハーバード大博士課程学術論文、未出版)、p180.

*11:同著、p66f.そしてp167-171.

*12:同著、p68f.特にH. Grimme, A. Bentzen, F. Mand, F. Horstの著述に言及。

*13:Op. cit., p. 158. Gunkel's "Communal Laments" K. Baltzer, Das Bundesformular (Neukirchen: Neukirchener, 1964), pp. 64 f. この論文では、ハーヴェイの取り扱っている祈りも含めた一連の聖句に言及しており、それらは罪の告白を含んでいます。そして彼はこういった聖句のどれだけ多くが契約更新のことを取り扱っているのかについて指摘しています。

*14:Harvey, op. cit., pp. 160 f., note 4では、詩篇50篇を引用しており、それを《リブ・トダー構造(rib-todah structure)》を示す明瞭な証言であると指摘しています。:トダーに関しては14節および23節を参照のこと。残念なことに、ハーヴェイは特にレビ記において後期批評学的年代測定を採用しているため、確信をもってその様式を、捕囚以前の時代に辿ることが妨げられています。論文 M. O. Boyle in an analysis of the rib pattern in Amos 3:1-4:13, "The Covenant Lawsuit of the Prophet Amos: III I-IV 13," Vetus Testamentum 21, 3 (1971), 358- 360は、告訴の最終段階が、「認識("Recognition")」であり、裁きの正義を認めるものであること(4:13)を言及しています。

*15:申命記4:25ff.も参照、特に29節。モーセ諸協定の中で警告されていた呪いがイスラエルを襲った場合、ヒゼキヤ王やヨシヤ王といった善王たちは、罪の告白を重要視したプロセスを通し、民を契約更新へと導きました。II歴 I5: 1-15; 29:5 ff.; 34:19 ff. (参. II 列22 and 23, 特に 22:13, 19).

*16:ダニエルの祈りおよび、rib・協定定型の間の接点についての詳説は、Harvey, op. cit., p. 160を参照。

*17:ダニエル9章とレビ記26章は、70年捕囚および土地の荒廃に関するエレミヤの預言(エレ25:11f:; 29:10)によって連結しています。そしてこの祈りがダニエル9章の祈りを促すことになりました(ダニ9:2)。またこの預言は、捕囚が「荒廃した土地がその安息を取り戻す(レビ26:43)」期間であるとのレビ26章の説明と共に、2歴代誌36:21と関連しています。下記を参照のこと。

*18:"sevens"を、"weeks of years"と同一視すること(ヘブル語本文は明確にそうしているわけではありません)は、必ずしも、「預言が文字通りの490年間について言及している」という結論にはつながりません。

実際、この章の統一性に留意するなら、特に、嘆願の緊急性に対する応答の適切性に相応の考慮をするなら、(つまり、聖句が要求しているようにエレミヤを通した神の言葉が迅速に成就されるようにとの嘆願のこと。

換言すると、ダニ1:1および9:1の年代定型によって測定された70年)、70週のはじめは、(ダニエルの祈りの時点での)70年の終わりと一致していると結論づけざるを得ないでしょう。

すべての関連証拠をここで列挙することはできませんが、私の判断では、70週の始まりはクロス王の第一年に該当するというのが、こういった証拠資料の総括するところではないかと思います。

そうなりますと、文字通りの490年間での成就という算出はきわめて不可能ということになります。従って、70週は象徴的に理解される必要があり、特定のそういった象徴的重要性を示唆しているのが、70週のサバティカル構造です。

この預言は文字通りの490年を取り扱っているのだと信じている方々であってさえも、それと同時に、安息日のサバティカルな型や、その中に内在している象徴的メッセージを認識しているでしょう。:2歴代誌36:21でのエレミヤの70年の取扱いと比較のこと。

*19:ヨベル書(The Book of Jubilees)は、ヨベル周期を、49年毎に数えています。バビロニア・タルムードである'Arakhin 12bやそれに類似した書の中に記録されている少数派の意見も同様に、「一循環としてのヨベルの年である50年目はまた、次のヨベル周期の元年である」と説明しています。参:E. Wiesenberg, "The Jubilee of Jubilees," Revue de Qumran 3, 1 (1961), 16 f.

*20:I Enoch 93:1-10 and 91:12-17. Cf. J. P. Thorndike, "The Apocalypse of Weeks and the Qumran Sect," Revue de Qumran 3, 2 (1961),163-184を参照のこと。

*21:line 7. Cf. J. A. Fitzmyer, "Further Light on Melchizedek from Qumran Cave II," Journal of Biblical Literature 86, 1 (1967), 25-41を参照。特に、29 f., 35, 40。J. Carmignac, "Le document de Qumran sur Melkisedeq," Revue de Qumran 7, 3 (1970), 348f.

さらに、個人的回復が国家的レベルに高揚される大安息年(a jubilee of jubilees)に極まるヨベルのパターンは、Jubilees, The Assumption of Moses, そしてモーセ五書におけるPseudoJonathan targumにおいて著名です。参:Wiesenberg, op. cit., and G. W. Buchanan, The Consequences of the Covenant (Leiden: Brill, 1970), p. 11.

*22:参:Fitzmyer, 同著。Carmignac, op. cit., 357.

*23:最初の69週はmasiah nagid (ダニエル9:25)に至ります。そして彼は終末論的成就としての第70週を導入しています(ダニエル9:26、27)。

*24:ダニエル9:24に描写されている70週の目的は、成就と歓声という究極的時代です。その成就は、神の新しい永遠なる契約、および終末論的ヨベルの年に関する各種預言の中に見い出されます。

例えば、イザヤ60:21; 61:1 ft;エレミヤ31:34; 32:40 ; エゼキエル16:60-63; 20:37f.; 37:26等を参照のこと。ダニエル9:24に列挙されている最終項目は、油そそぎであり、それはダニエル9:25の「油注がれた者」と確実に関連性を持っています。

*25:ダニエル9:27.それらは契約の中にいる選民です。参:ダニエル11:33; 12:3.

*26:11QMelchにおいて、イザヤ61:1は、レビ記25章のpesherの中でダニエル9:24ffと結合しています。

*27:11QMelchの破損断片18は明らかに「ダニエルの語っていた油注がれた者」について言及しており、この「油注がれた者」のことを「10番目にして最後のヨベルの年に救いを宣言する者」と特定しています。Sanhedrin 97bは、「ダビデの子が最後のヨベルの年に到来する」と言及しています。

*28:『The Testament of Levi 16』(おそらくこのユダヤ文献におけるあるキリスト者の挿入)は、70週に関する初期の解釈を代表しています。それは律法の契約秩序の更新をクライマックスとみなしています。「そしていと高き御方の御力の中で律法を更新する人、、汝は・・・殺し」(16:3)。他方、11QMelchは、ダニエル9章および、10番目にして最後のヨベルの年のもたらされる更新を取り扱っている文脈の中における神の契約(25行目)の確立者について言及しています。参:F. F. Bruce, "The Book of Daniel and the Qumran Community," Neotestamentica et Semitica, eds. E. E. Ellis and M. Wilcox (Edinburgh: Clark, 1969), pp. 230-233.

*29:ダニエル11:28、30、32の中(言及が明らかに神の聖なる契約を指している箇所)で同じ語法を比較してみてください。

*30:メシアは26節aの主語であり、圧倒的な裁きによる神殿とその終焉は、26節bの真の主語です。

節の初めの「町と聖所」の強意的位置に留意してください。また、神殿は明らかに、qissoにおける代名詞接尾辞の先行語です。それゆえに、メシアがヒグビールの主語だと結論されなければなりません(9:27)。

これは前述したように、26節a(karat)と27節a(higbir)における契約行為を指す諸動詞間の関係によって裏付けられます。26節bの君主に関し、君主の軍隊が町と聖所を進撃するとなっていますが、ともかく、主題的に言って彼は神殿の運命に従属しています。

それゆえ、たとい彼がどこか外国の指導者だとみなされたとしたにしても、ヒグビールの主語としてメシアである御方以上に彼を優先させるべきではありません。実際、この nagidStrong's Hebrew: 5057. נָגִיד (nagid) -- a leader, ruler, princeは、かなりの割合においてメシアなる御方であると考えられます。

メシアなる御方を25節で、「masiah nagid」と言及した後、ガブリエルは26節におけるこの方の働きに関する二段階描写の中で表現を分割しています。

さて、(仮にどこか外国の王がここで意図されているのだとした場合の話ですが)なぜガブリエルはnagidとは異なる、より一般的な称号を用いる代わりに、わざわざ同じ称号であるnagidを使用し、それによって事の理解をややこしくする必要性などあったのでしょうか?

思想に関して言うと、イエスご自身がマタイ22:2ff.(特に7節)の中で、エルサレムの破壊を、神の軍隊の働きとして描写しています。それゆえ、26bのnagidは、26節aのmasiahと、27節aのhigbirをつなぐさらなるリンクです。

また、いくつかの写本版による読み(つまり、'am〔「民、軍隊」〕を'im〔~と共に〕と読むやり方)の場合ですと、これによってもまた、26bのnagidと、26節aのmasiahの同一性が得られます。

*31:この点は、アリスおよびエドワード・J・ヤングが以下の著書の中で強調しています。Allis, Prophecy and the Church, p. 122, そして、 E. J. Young, The Prophecy of Daniel (Grand Rapids: Eerdmans, 1949), p.209.

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エドワード・J・ヤング著『ダニエルの預言』

*32:契約を結ぶこと(karat)に続く契約執行における段階を意味するheqimの用法については、特にエレミヤ34:18を参照のこと。これは、約束であれ(申8:18;ネヘ9:8)、脅かしであれ(2歴10:15)神の御言葉の執行により、契約を確認するために用いられています。

*33:ダニエル9章におけるレビ記26章的背景では、契約執行はheqim(26:9)によって表現され、そして、捕囚後の契約更新(26:42-45)への言及は、zakar(heqimのパラレルとしてその他の箇所に見い出される専門的契約用語;創9:9、11、15-17; 出6:4、5)によって表現されています。イザヤ書のクロスに関する預言(44:26-28)では、heqimはhislimとパラレルです。エゼキエルは、heq'imとzakarの両方を、(ダニエル9:27で視野に入っている)永続する同じ契約の確認として描写しています。(エゼ16:60、62)

*34:ガブリエルによる、このキーワード選択には彼自身の名前が反映されています。詩篇103:20と比較のこと。参:H. Kosmala, "The term geber in the Old Testament and in the Scrolls," Congress Volume, Rome, 1968 (Supplements to Vetus Testamentum 17) (Leiden: Brill, 1969), pp. 159-169.

*35:たといhigbirの文法的主語が、契約ないしは一週と捉えられたとしても、この結論は耐久します。

*36:ノアの洪水ナラティブは、"prevail (over)"というカル(Qal)の意味を表しています。(創7:18 ff.*訳者注:新共同訳では「水は勢力を増し」、そして新改訳では「水はみなぎり」、欽定訳では「the waters prevailed」となっています。)

 ピエル形では、gabarは、「強くする、勇敢にせしめる("make strong or heroic")」という意味です。例えば、ゼカリヤ10:6(7)では、前節の思想を発展させています。「"they shall be like heroes (gibborim)"。」

 同様に、イザヤ42:13におけるヒトパエル形では、主が敵に向かってprevailing (yitgabbar) overする訳者注、新共同訳では「敵を圧倒される。」、新改訳では「敵に向かって威力を現わす。」、口語訳では「その敵にむかって大能をあらわされる。」)(13節b)は、「主は、勇士のように(like a gibbor, "mighty hero.")いで立ち」(13節a)と並行しています。

*37:詩篇89:3、4、29、34、35(ヘブル語)および、イザヤ55:3、エレミヤ33:11を参照。

*38:意味論的にhigbirに相当する語用についてですが、それは聖典外の協定術語からも立証されています。王位継承問題を解決しようとしたエサル・ハドンは、臣下たちの自分に対する継続的忠誠を確認すべく、皇太子に対する忠誠の誓いを彼らに求めました。

更新協定に対するこういった強固な要求は、アッシリア語の動詞の意味(「強める、増加させる、強化する、有効化する」〔dananu, D語幹〕)によっても描写されています。参:Ramataia treaty, lines 23, 65, 286.

同様に、エジプトのネコが、アッシュールバニパルに対し反逆を企てた後、アッシュールバニパルとの間に再度、契約関係を確立することを示す歴史資料があります。それによると、契約の再確立のためには、前回の協定の時以上の誓いが要求されたとされています。(Rassam Cylinder, II, 8).

 

アッシュールバニパルの浮き彫り。腰に2本の葦ペンが挟んである。(情報源

 

この正典外使用では、協定の強化は、契約関係の更新における、臣下(隷属者)の諸義務の強化を意味しています。聖書中のgabarの契約的用法における強調は、契約執行に対する主の施行に関するものです。

*39:前述の37項を参照。M. Dahoodは、詩篇12:5(4)のnagbirについて言及し、これはgeber("man, hero")からの由来動詞であり、詩篇20:8(7)のnazkirと比較しています。Nazkirに関し、彼は、これを、zakar(男性)からの由来名詞と捉え、「我々は強い」と翻訳しています。参:Biblica 45, 3 (1964), 396.

*40:諸聖句間の符合(調和)は、鍵となるいくつかの言葉の重複と共に、裁きの脅かしに対する反復となってさらに拡張されています。(参:イザヤ10:22b、23、そしてダニエル9:26b、27)

*41:イザヤ42:13、cf.6;詩篇45:3;89:19も参照。

*42:ここでの動詞シャバット(sabat)の語用の中で、預言の安息日的構想に関する語呂合わせがもしかしたらあるのかもしれません。

*43:第70週の半ばにいけにえを捧げることが止むこと(ダニ9:27)が、「AD70年に起きたエルサレムに対する主の裁きを指している」というよりはむしろ、「キリストがご自身をいけにえとしてお捧げになったことにより、〔キリストが〕旧約聖書の犠牲(制度)を全うされたこと」を指し示しているのだとしたら、後者の出来事を、70週の終わりを示すものとして捉えることが可能になるでしょう。

関連資料Sam Storms: Oklahoma City, OK > Daniel's 70 Weeks

Hermeneutical Factors in Determining The Beginning of the Seventy Weeks (Daniel 9:25)

23 "The Seventy Weeks of Daniel" MP3