巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

一般啓示とは何でしょうか?(『ベイカー福音主義神学事典(Evangelical Dictionary of Theology)』より)

Image result for mongolia green nature

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる(詩篇19:1)。

 

目次

 

Walter A. Elwell, ed., Evangelical Dictionary of Theology, Second Edition, Baker Academic, 1984("General Revelation"の項を全訳)

 

Image result for bruce a demarest biography

(執筆担当者:ブルース・A・デマーレスト、デンバー神学校)

  

一般啓示の定義

 

あらゆる時代、あらゆる場所において、あらゆる人々に対し明かされる神的開示のこと。それにより、人間は神が存在すること、そして神がどのような御方であるのかを知るに至ります。

 

もっとも一般啓示によっては(三位一体やキリストの受肉、贖罪といった)救いのために必要な諸真理は開示されませんが、そうではあっても、一般啓示は神が存在すること、そして神が超越的、内在的、自己十全なる御方であり、さらに永遠にして、力強く、善であり、悪を忌み嫌われる御方であるという確信を私たちに与えます。

 

一般啓示の中枢は大きく分けて次の二つのカテゴリーに分類されるでしょう。

 

(1)内的(internal)、ないしは神性に関する先天的感覚と、倫理的良心。

(2)外的(external)、ないしは自然のしるし(indicia)、そして摂理史の辿ってきた軌跡。

 

さまざまな立場についての要約

 

1.全否定派

 

学者たちの中には一般啓示に対するあらゆる現実を否定している人々もいます。神と人間の間を隔てる無限にして質的な区別、および堕落による神のかたち(imago Dei)の破壊という仮定の上に、カール・バルトは神の言葉の〈外側〉にいかなる啓示をも認めていません。

 

2.改革派オランダ学派

 

また他の人々は、一般啓示のgivenness(仮説として仮定される性質)は認めつつも、それが実際の知識として検知されることは否定しています。

 

改革派オランダ学派のカイパー、ベルカウワー、ヴァン・ティル等は、「自然と歴史は、新生に導く恩寵により、先行的に照らしを受けた人々に限り、それらは人に神を提示する」と主張しています。

 

3.リベラル派の二潮流

 

もう片方の極端として、多くのリベラル学者たちは、「一般啓示によって供給された光は、人を救済するのに十分である」と主張しています。その中のある一角では、恍惚的宗教体験による照明的価値に強調点を置いています。

 

それゆえ、シュライエルマッハー、オットー、ティリッヒ、ラーナー等は、認識に基づかない(noncognitive)神秘主義的〈出会い〉を通し、人間のたましいは救済的に、魂の世界であるところの「神」に関与すると主張しています。

 

二番目のリベラル派伝統として挙げられるのが、「人間精神は、科学的メソッドを用いることにより、人間生活を秩序立てるに十分な真理を見い出すことが可能である」という主張です。

 

それゆえ、H・P・ヴァン・ドゥーセン、H・デウォルフ等は、「この世界は神によって秩序づけられており、神の意志を反映しているので、人間や人間の住む環境に関する科学的分析により、われわれは救済的に神の元に導かれる」と言っています。

 

4.アクィナス学派

 

トマス・アクィナスおよびアクィナス学派の人々は、理性的精神は、①神と人間の間に有る「存在の類比(analogy of being)」、および、②因果律の介助により、神の存在および神の完全性の無限なることを証明することが可能であると主張しています。

 

時空現象に対する帰納的分析により、アクィナスは自然神学の分野における並外れた体系を打ち建てました。神に関する知識の集積という点で、この立場はたしかに楽観的である傾向を否めませんが、とは言っても、アクィナス自身は、「救いは、特別啓示による、より高次の諸真理を要求している」ということを強調していました。

 

5.アウグスティヌス、ルター、カルヴァン等

 

アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、ホッジ、ウォーフィールド、ヘンリーといった大家たちは、一般啓示のもたらす客観的リアリティーと共に、神の存在、ご性質、倫理的諸要求に関する基本的知識の仲立ちとしての一般啓示の限定的有用性を説きました。

 

アウグスティヌスは、ロゴスによって可能な神に関する直観を支持しました。この「ロゴスによって可能な、神に関する直観」は、現象界の理性的洞察によって得られる知識の獲得のための土台として役割を果たしています。

 

またルターは次のように述べています。「全ての人間は、神が存在しているという事、神が天と地を創造された事、神が義なる方である事、神が悪人を罰せられる方である事等についての一般的知識を持っています。」

 

カルヴァンも同様に、「邪悪な人間であってさえも、ひろがる大地や天空の空を眺めるだけで、創造主への思いが湧かざるを得ないのである。」と述べています。*ベルギー信条(II)及びウェストミンスター信仰告白(I,1)*1を参照。

 

聖書資料

 

f:id:Kinuko:20171123143128p:plain

 

旧約の中で、エリフがヨブに話す場面(特にヨブ36:24-37:24)があります。「神は水のしずくを引き上げ、それが神の霧となって雨をしたたらせる。雨雲がこれを降らせ、人の上に豊かに注ぐ」(27-28節)。

 

人の心をおののかせる雷や雷鳴、激しい雷雨の猛威と嵐の去った後の輝かしい太陽の輝き・・・これらの聖句は、こういった自然界の現象が創造主なる神の御力、威光、善、峻厳さを証言し、すべての人がこれらの証拠を目の当たりにしている(ヨブ36:25参)と述べています。

 

さらに、ヨブに対する神の応答(特にヨブ38:1-39:30)は、雷、雷鳴、雨、雪といった自然現象、日々の日の出、天にきらめく荘重なる星座、動物界の複雑にして調和に満ちた相互関係等がすべて神の存在および神の栄光を語り告げていることを示唆しています。

 

詩篇19篇によると、神は2巻から成る書を通してご自身を啓示しておられます。1巻目は自然の書(1-6節)であり、2巻目は律法の書(7-13節)です。

 

1巻目には次のような事が書かれています。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(1節)。創造の秩序が示しているのは、神の栄光(kabod)、すなわち、神の内的存在および属性の外的顕現です。

 

天を通した神の栄光の啓示は、妨げられることなくどこまでも不断であり(2節)、普遍的であり(3節)、その規模において全世界的です(4節)。

 

ユダヤ教が自然における一般啓示を大切にしてきたことは、知恵の書13章5節からも明らかです。「造られたものの偉大さと美しさから推し量り、それらを造った方を認めるはずなのだから。」(知恵の書13:5)

 

福音書の序文でヨハネは、永遠のみことばに関し、次の二点を述べています。第一に、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(ヨハネ1:4)。そして二番目に、ことばは、「すべての人を照らすまことの光」であり「世に来ようとして」いました(9節)。

 

ギリシャ人は、ロゴス(λόγος)のことを、人間の知的・倫理的生活に精力を与えるものだと捉えていました。他方、前者とパラレル関係にあるユダヤ的概念としての知恵(חָכְמָה,Strong's Hebrew: 2451. חָכְמָה (chokmah) -- wisdomは、創造し、啓蒙し、刷新する世界の中で作用している神の力だとみなされていました。(参:知恵の書7:22-9:18)。

 

それゆえ、ヨハネ1:4、9において、使徒は、ーー人間理性が、神を第一原因として認識するべく神により照明されるところのーーロゴスの普遍的働きのことを、あるいは念頭に置いていたのかもしれません。そしてこれは、カルヴァンの言う、「神的なものへの感覚("sensus divinitatis", "seed of religion")」とも似通っているでしょう。

 

ルストラで異邦人たちに福音宣教していたパウロとバルナバは、一般啓示により、話し手である彼らも、聞き手である〔ルストラの〕異邦人たちも共通に持っている知識に訴えました。

 

すなわち、神がすべてのものの創造主であり(使14:15)、生活の糧を備えてくださる摂理的供給者である(17節)ということです。人類に対するお取扱いの中で、神は「ご自身のことをあかししないでおられたのではありません(amartyron, 17節)」

 

同様に、アテネに住む異教徒たちに対する説教の中で(使17:22-31)、パウロは彼らとの接点作りとして、「自然と歴史の中における神の普遍的自己開示ゆえに、彼の聴衆者たちがすでに知っていた諸真理」に言及しています。それらは、

 

(1)神は、この世界の創造主であり主権者である(使17:24)。

(2)神は自己十全なる御方である(25節a)。

(3)神は命およびあらゆる善きものの源である(25節b)。

(4)神はご計画を策定される知的存在である(26節)。

(5)神はこの世界に内在しておられる(27節)。

(6)神は人間存在の根源かつ原因である(28節)。

 

ローマ2:14-15で、パウロは「一般啓示のさらなる様態とは、(私たちの心に)植え込まれている倫理的掟のことであり、それは良心によって私たちの心に証言している」と説いています。

 

「すべての人は掟を破っていることに対する罪責感を持っている」とパウロは主張します。ーーユダヤ人は、石に書かれた律法を犯しているために、そして異邦人は彼らの心に書かれてある倫理的律法(掟)によって生きることに失敗しているために、皆、罪責感を持っているのだと(ローマ1:32参)。

 

良心の力により、すべての理性的人間にコミュニケートされているものは、至高の立法者およびその方の倫理的諸要求の存在です。

 

自然(界)における普遍的啓示を通し、神は「はっきりと認められ;καθορᾶται, are clearly seen〔欽定訳〕」、「理解され;νοούμενα, being understood〔欽定訳〕」そして「知られて;γνωστὸν, known〔欽定訳〕」います(19節;21節も参)。

 

人は、目に見えない神の本性ーーすなわち、神の永遠の力と神性(theiotes)ーーに関する知識を得ます。

 

ギリシャ語theiotesは、神格を構成するあらゆる完全なるものの総計です。さらに、こういった神に関する基礎的知識は、創造の秩序についての理性的省察によって得られると使徒パウロは主張しています(20節)。

 

19節および21節で用いられている動詞ginosko(γινώσκω, Strong's Greek: 1097. γινώσκω (ginóskó) -- to come to know, recognize, perceiveは、諸感覚をもって知覚し、知性(理性)で把握するという意味を含んでいます。

 

そこから導き出されること

 

一般啓示による真理内容に直面させられる際、罪びとは絶えず、それをなんとか意識から追い払おう、締め出そうとしていると聖書は教えています(ローマ1:21-32)。

 

それゆえ、神を礼拝し、従う代わりに、新生していない人間は、自分自身の自律性を主張し、命のないもろもろの偶像を自らこしらえ、それを拝むようになりました。それゆえ神は、光を拒絶する者たちを、その罪深い性質の持つ下劣な衝動のままに引き渡されました(ローマ1:24、26、28)。

 

救済をもたらす代わりに、一般啓示はかえって〔罪びとを〕責め立て、神の前における彼らの罪責性を確立しています(ローマ1:20)。

 

しかしながら、一般啓示には次に挙げるいくつかの有益な役割もはたしています。

 

(1)一般啓示は、(非キリスト諸宗教における妥当な諸要素も含め)人間の経験や文化の中に真理の存在が見い出される際にはいつでも、それについて釈明します。

 

(2)普遍的に〔人間の心の中に〕植え込まれている倫理的律法は、善悪の識別を可能にするための、唯一の真正なる土台を提供しています。そして、善が奨励され、悪が禁じられているという事実は、社会に対し、実行可能な倫理的フレームワークを提供しています。

 

(3)一般啓示は、キリストおよび聖書を通しての神の救済的啓示のための理性的土台を提供しています。その意味において、自然神学は(それがどれほど質素なものであったにしても)啓示神学の前庭としての役目を果たしていると言っていいでしょう。

 

(執筆者:ブルース・A・デマーレスト、デンバー神学校)

*1:ウェストミンスター信仰告白

第1章 聖書について

 

1 自然の光および創造と摂理のみわざは、人間を弁解できないものとするほどに、神の善と知恵と力とを表わすとはいえ(1)、しかしそれらは、救いに必要な神とそのみ旨についての知識を与えるには十分でない(2)

 従って主は、いろいろな時に、いろいろな方法で、ご自身の教会に対してご自分を啓示し、み旨を宣言し(3)、また後には、その真理を一層よく保存し広げるためと、教会を肉の腐敗と悪魔や世の敵意に対して一層確立し慰めるために、その同じ真理を全部文書に委ねることをよしとされた(4)

 これが、聖書を最も必要なものとしているのであって(5)、神がその民にみ旨を啓示された昔の方法は、今では停止されている(6)

 

.ロマ2:14,15、ロマ1:19,20、詩19:2-4(1-3)、ロマ1:31,2:1(*ロマ1:31と2:1を比較)

.Ⅰコリント1:21、Ⅰコリント2:13,14

.ヘブル1:1

.箴22:19-21、ルカ1:3,4、ロマ15:4、マタイ4:4,7,10、イザヤ8:19,20

.Ⅱテモテ3:15、Ⅱペテロ1:19

.ヘブル1:1,2