巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

諸契約の成就者キリスト

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美しい北海道の自然、苫小牧(写真

 

諸契約の成就者キリスト

(苫小牧福音教会 水草修治師)

 

 

目次

 

はじめに

 

初めにクイズを一つ。「教会において最初の殉教者はだれか?」

 

このクイズに対して、ある人たちはステパノと答えるだろう。その回答者は、教会はペンテコステの聖霊降臨において誕生したと理解している。

 

旧約のイスラエルという神の民と、新約における神の民の連続性を認めない立場である。もう一つの答えは教会における最初の殉教者はアベル。この答えの前提は、教会というのは旧新約通じての神の民なのだという理解である。

 

本講義では、旧新約を通じて一つの神の民が教会であるという理解に立って話を進める。

 

なぜなら、私たちは、使徒信条において「聖なる公同の教会、すなわち聖徒の交わり」と告白しているから。旧約時代のノアもアブラハムもモーセもダビデも聖徒である。使徒信条に基づけば、旧新約通じて教会は神の民である。

 

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Πιστεύω εις Θεον Πατερα, παντοκράτορα, ποιητην ουρανου και γης.

Και (εις) `Ιησουν Χριστον, υίον αυτου τον μονογενη, τον κύριον ήμων, τον συλληφθέντα εκ πνεύματος άγίου, γεννηθέντα εκ Μαρίας της παρθένου, παθόντα επι Ποντίου Πιλάτου, σταυρωθέντα, θανόντα, και ταφέντα, κατελθόντα εις τα κατώτατα, τη τρίτη `ημέρα αναστάντα απο των νεκρων, ανελθόντα εις τους ουρανούς, καθεζόμενον εν δεξια θεου πατρος παντο δυνάμου, εκειθεν ερχόμενον κρϊναι ζωντας και νεκρούς.

Πιστεύω εις το Πνευμα το `Αγιον, αγίαν καθολικην εκκλησίαν, αγίων κοινωνίαν, άφεσιν `αμαρτιων, σαρκος ανάστασιν, ξωήν αιώνιον. Αμήν.

 

 

このことはローマ書11 章17 節から24 節のオリーブの木のたとえからも明らか。栽培種のオリーブの木がイスラエルの民の旧約の教会であり、野生種のオリーブの木は新約の教会であり、両者は別々の木ではなく、前者に後者が接木されて一本のオリーブの木となる。

 

だから、終わりの日、主イエスが再び戻ってこられたら、アブラハムといっしょに食卓につく。旧約の聖徒、新約の聖徒みなひとつの神の民としてである。

 

マタイ8:11「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。」

 

第一部 旧約の教会

1.旧新約を一貫する神の契約の主題「インマヌエル」

 

「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒20:27)

 

パウロはこのように、神のご計画の一部でなく全体を教えることに心を配っていた。聖書に表わされた神のご計画の全体を見渡すには、二つの方法がある。

 

一つは、論理的な体系的順序による組織神学という方法。もう一つは歴史的順序にしたがって学ぶ方法である。

 

組織神学のクラスの中で契約神学を扱うのは異例のことであるが、常識として知っておく必要があるので、今回、取り上げることにした。

 

神の計画を歴史的順序に学ぶ場合、まず、そこに一貫する流れを見つけること、次に、それぞれの時代の特徴を捉えること、そしてそれが、キリストの契約にどのように収斂し成就して行くかを把握することが肝心である。

 

旧新約聖書を貫く契約の主題は、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」である。

 

言い換えれば、「インマヌエル」。この点をまず略述する。堕落前、アダムと妻はエデンの園にいたが、そこはまさに神がわれらとともにいます場、インマヌエルの場であった。それが堕落によって失われてしまった。その回復が進められていく。

 

諸契約の中には下記のように主題が貫かれている。

 

アブラハム契約・・・創世記17:7「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」

シナイ契約・・・出エジプト6:7a「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」

ダビデ契約・・・2サム7:14 「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。」

キリストの受肉・・マタイ1:23「その名はインマヌエル(神は私たちとともにおられる)」

究極の成就・・黙示21:3「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」

 

2.創造の契約(創世記1,2 章)

 

堕落前、人は神とともに生きていた。つまりインマヌエルの状態だった。「契約(ベリート)」という用語そのものはノア契約で使われるのが最初だが、契約自体は創世記1、2 章にすでにあった。

 

(1)人は、本来、神のかたちである御子に似た者として造られた

 

創世記1:26,27「そして神は『われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。・・・』

 

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

 

コロサイ1:15「御子は見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」

 

神は人を、三位一体の神の第二位格である御子に似た者として造り、世界を神のみこころにしたがって治める務めが与えた。これには、みこころにしたがうならば祝福が与えられるという約束がともなっていた。御子は創造論的に、神と被造物の仲保者であり、インマヌエルなるお方である。

 

(2)契約のしるし:善悪の知識の木

 

神の契約には多くの場合「しるし」が伴う。たとえば、ノア契約では虹、アブラハム契約では割礼、キリストの契約ではパンとぶどう酒というように。創造の契約におけるしるしは、善悪の知識の木だった。

 

「2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 

善悪の知識の木それ自体に毒があったというのではない。もし毒があったなら、「神に従いたくはないけれど、毒があるから食べないでおこう」という理由で食べないという選択になる可能性がある。ただ、神がその木を禁断の木と定めたから禁断であってこそ、その木が純粋に人の神への服従のテストとなった。

 

(3)わざの契約

 

神が人と結ぶ契約は、わざの契約と恵みの契約に分けられる。わざの契約とは、人の善き業を条件として祝福がもたらされる契約であり、恵みの契約とは神からの賜物としての祝福を信仰によって受け取る契約である。

 

神が、堕落前のアダムと結んだのは、善悪の木にかかわるわざの契約である。堕落前のアダムは、この契約を守ることも出来たが、堕落後はただ恵みによらねば救われようがなくなった。そこで、アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約そして、キリストにおける新しい契約はみな恵みの契約である。

 

(4)契約の主題

 

善悪の知識の木の戒めを守り、園を「耕し守る」管理のわざに携わるならば、さらに親しく「神の民として神とともに生きること」が約束されていた。それこそ、「いのち」である。しかし、神の戒めに背けば「神と断絶」する。それが「死」である。

 

「善悪の知識の木」は、神の人間に対する主権を象徴している。なぜ、禁断の木にそのような名がついていたのか?それは人は自分の生き方の善悪を自分で決めることは許されておらず、神が人の生における善悪を定める権威であるということを意味するからである。

 

この木の実を盗って食べることは、神の主権を拒否し、自分を主権者とする思い上がりと反逆を意味した。

 

3.原福音

 

(1) 人間の罪と悲惨

 

最初の人はこの契約に背いて、善悪の知識の木からとって食べてしまう。つまり、神の主権を拒否した。当然の結果として、「死」つまり神との断絶状態に陥った。それに伴って、反逆による秩序の崩壊が生じることになる(創世記3 章)。

 

まず、神との関係についていうならば、それまで慕わしかった神の御顔は、今や、恐怖の対象となり御顔を避けるようになった。

 

自己に関して言うならば、「裸を恥じる」という記述がある。これは本来、意志の下位にあった精神と肉体が、意志に反逆するようになったゆえであると、アウグスティヌスは理解している(『神の国』)。

 

つまり、本来、意志にコントロールされるべき精神と肉体が、意志に反して好き勝手に振舞うようになってしまったということである。

 

「この神が軽んじられたがゆえに、正義にかなった罰がその結果として伴ってきたのであった。すなわち、あの掟を遵守しておれば、人間は肉においてさえ霊的なものとなるはずであったが、いまやその霊においても肉的なものとなり、そしてその高慢によって自己自身に満足した人間は、神の正義のゆえに自己自身へ任されてしまったのである。」(神の国14:15服部訳p322)

 

以前は神の加護のもとにあった人が、神に反逆した結果、自己自身に任された結果、人は自分で自分を統御できなくなり、悪魔の奴隷となったのである。

 

 「人間は、彼自身においてあらゆる仕方で自己自身の力で統御するというわけにはいかなくなり、かえって、自己自身と不和となって、あれほど熱望していた自由のかわりに、罪を犯すことによってサタンと和合することとなって、そのもとに過酷で悲惨な隷従の生を生きるようになったのである。」(同p322)

 

 「一言でいうなら、罪にたいするあの罰において、不従順にたいして報復されたものは、まさに不従順にほかならなかったのである。じっさい、人間の悲惨とは、かれがなしえたところのことを欲しなかったゆえに、かれがなしえぬところのことを欲するという、自己自身に逆らう自己自身の不従順をおいて他に何があるというのであろうか。

 

 (中略)自己が自己自身にしたがわないかぎり、すなわち、精神および精神の下位におかれた肉がその意志に従わない限り、かれがなすことを欲しながらもなすことのできないものがどれほどおおくあるか、だれがそれを数え上げることができようか。・・・・」(『神の国』14:15服部訳p324)

 

 

隣人に対しては、「あなたが私にくれたこの女が・・・」と神と女に責任を転嫁し、また、隣人に対する不信や恐れが生じている。夫婦の秩序には変質が生じ、本来、<愛と服従の秩序>であったものが、<暴力と隷従の秩序>に変質してしまった。(創世記3:16、同4:57「恋い慕う」に注目teshuqah:desire)

 

他の被造物との関係においては、「地は、あなたに対していばらとあざみを生えさせ」(創世記3:18)と象徴的に表現されるように被造物が人間に反逆するようになってしまった。

 

(2)「女のすえ」の勝利の約束(創世記3:15)

 

しかし、人間の堕落とそれに対する呪いと同時に、神は希望の約束を与えてくださった。すなわち、「へびの頭を踏み砕く女の子孫」の到来である。「女の子孫」とはキリストを意味する。

 

へびが彼のかかとに噛みついて勝利を確信した次の瞬間、へびは頭を踏み砕かれてしまう。それは、悪魔が神の御子を十字架に磔にして殺して勝利したと思った瞬間、神はその神の御子の死を人類救済のためのわざとされたことを暗示しているようである。また、キリストが敵対者を「まむしのすえたち」(マタイ12:34、マタイ23:33)と呼ばれた背景はここにあると理解できよう。

 

アダムが、死を持ち込んだ妻を、エバ、つまり、すべていのちあるものの母と呼んだのは不思議である。これは、アダムが「女のすえ」がサタンの頭を踏み砕いて、いのちをもたらすという神の約束を信じたからであると解釈される。

 

(3)いちじくの葉の腰覆いと、恵みの皮衣(創世記3:21)

 

→祭司の衣(レビ6:10)→キリストの義の衣(ローマ13:14)

 

罪に落ちたとき、アダムと妻はいちじくの葉をもって己の裸の恥を隠そうとした。しかし、いちじくの葉はしばらくは恥を覆っていても、まもなく萎れて恥は露見してしまう。

 

そして、また作り直しては、また萎れてしまう。到底、神の審判には堪えられない。人間の善き業をもって自分の罪を覆おうとしても無理である。いちじくの葉は自力救済主義の象徴である。

 

ところが、神が手ずから、獣の血を流して作ってくださった皮衣によって裸の恥がおおわれた。人はこのとき肉食をしていなかったから、動物を殺して血を流すこともなかった。

 

ところが、神がこのようにして彼らの生き物の血を流して恥を覆う衣を作ってくださったのであるから、アダムはその意味を伝えられた。「血を流すことがなければ、罪はきよめられない」のである。

 

この衣は、罪を覆いきよめるいけにえの象徴であり、それはキリストの十字架の犠牲を指さす。いちじくの腰覆いが自力救済の象徴なら、神が作ってくださった皮衣は恩寵救済の象徴である。

 

(4)いのちの木への道を守るケルビム(創世記3:24)

 

アダムとエバをエデンの園から追放すると、いのちの木への道は人が近づくことができなくされた。ケルビムがそこを番したのである。人は罪が処理されないままに神に近づくならば、死ななければならない。神との交わりにこといのちがあるのだが、罪あるままでは神に近づくことすらできないというジレンマに人間は陥った。

 

ケルビムは神の臨在を守る天使であり、後に、幕屋・神殿の会見の天幕の幕に織り出される。「青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。」(出エ26:31)

 

この幕は、キリストが十字架で死んだとき、神によって破棄される。「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(マルコ15:38)。

 

キリスト自らが幕となられて、私たちと神とを結んでくださるのである。新約の時代、聖徒たちは、キリストを通して、神に大胆に近づくことができるようになった。主イエスは「わたしを見た者は父を見たのです。」と言われたように。

 

4.ノアの契約(虹の契約、保持の契約) 創世記9:9-17

 

「9:9 さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。9:10 また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。9:11 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(創世記9:9-11)

 

(1) ノアの契約は、神の救いの計画が展開していく前提として、地球環境を保持する契約であり、創造の契約の更新である。

 

(2) 内容:人間以外の被造物をも契約の対象としている点に特徴がある(10)。その意味で、創造の契約と同じく、環境問題にかかわる契約である。ノアの契約は、その後の歴史展開の基礎をなす契約である。地球環境が守られていなければ、そこに人類の歴史もなく、救いの歴史の展開もない。

 

(3)契約のしるしは虹。虹はヘブライ語で הַקֶּ֖שֶׁת つまり弓を意味する。虹は英語ではrainbow つまり雨弓である。神が堕落した世との戦を終えて弓を壁に横にして架けたというイメージで、平和の象徴とされた。

 

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5.アブラハム契約(相続の契約)創世記17:1-8

 

(1)主題貫徹「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」(7節)

 

(2)内容:大洪水をへて再出発しながら、またも傲慢になり神に背いた人類は、創世記11 章でバベルの塔でバラバラにされてしまう。その諸民族の中から、創世記12 章でアブラハムが選ばれ、彼に始まるイスラエル民族が神の民となり、約束の地を相続し、アブラハムの家系に生まれるキリストによって世界の諸民族は祝福される。

 

(3)特徴:相続人(8 節)

神が、ソドムを滅ぼすにあたってアブラハムにこの件を話されたのは、アブラハムがこの地の相続人であるからである。また、アブラハムは、相続人として、この地のためにとりなし祈った。(創世記18:17-19)新約において、ローマ書では、アブラハム契約がもたらす相続地は、カナンの地から世界に拡張される。(ローマ4:13-16,8:18-23)。

 

(4)契約のしるしは割礼(創世記17:9-14)。

 

6.シナイ契約(律法の契約)

 

(1) 主題貫徹 出エジプト6:7a「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」

 

(2) 特徴:神の幕屋と律法

出エジプト記の構成は、以下のとおり。

1-18 章はエジプト脱出(歴史的序文)、

19-23 章は律法(神とともに生きるためのルール)

24-40 章は幕屋(神の住まい)

 

神の幕屋において神がご自分の民とともに住んでくださるということの実物教育である。幕屋とは移動式神殿である。神殿とは神と人とが会見する場所である。つまり幕屋とはインマヌエルそのもの。

 

そして、神の民が神とともに生きるためのルールが律法である。エジプトから救われた民として、神とともに生きる生き方が律法に教えられている。以後、イスラエルにとって、幕屋(神殿)と律法がその宗教生活の中心である。

 

出エジプト40:33-35「40:33 また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。40:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。」

 

同じことが、ソロモンの神殿奉献のときにおきた(1 列王記8:10-13)から、幕屋と神殿の連続性がわかる。

 

(3) 祭儀律法のいけにえの意味

 

神は、道徳律法には贖罪の儀式律法がともなっている。律法を守りとおすことで救われるとは最初からされていなかったからである。そして、レビ記に詳細に記されているもろもろのいけにえの儀式は、主イエスの十字架の贖いという本体を指差す型である。ヘブル10:1-10

 

7.ダビデ契約(王国の契約)2サムエル7:11-14

 

(1)主題貫徹 2サム7:14「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。」

 

(2)特徴:2サム7:11,12 ダビデの子孫である王が神の家を建て、王国を確立する。これはダビデの子ソロモンにおいて成就したかに見えたが、ソロモンは罪を犯してしまう。

 

そうして、その後の王たちの失敗を通しても、単なる人間であるダビデの子孫によってはほんとうの成就はありえないことがあきらかにされて行く。そうして、神が人となられたダビデの子孫においてこそ、ダビデ契約は成就する。

 

未来をさす預言は、しばしば手前の里山の稜線と、その向こうの高い山の稜線の両方を指している。この場合、ソロモン王とその仕事が手前の稜線であり、遠くの高い山の稜線はイエス・キリストである。

 

王国の契約を背景として、新約時代、主イエスによって「神の王国の福音」が宣言されることになる。それは、神が、王として民を支配してくださる時代の到来を意味している。

 

まとめ

1 聖書に一貫する契約の主題は、神とともに生きること(インマヌエル)

 

わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」すなわち「インマヌエル」が、神のご自分の民に対する契約の中心内容である。それは、神が人とともに生きた本来の人間のありかたの回復である。

 

2 それぞれの契約には特徴がある

 

ノア契約は<平和の契約>。神はこの世界、全被造物を水では滅ぼさないということ。再臨の日まで世界は保持される。平和の契約もしくは保持の契約。

 

アブラハム契約は、<相続の契約>であり、カナンの地の相続が約束されていた。新約にあって、相続地は世界へと拡張する。

 

シナイ契約は<幕屋と律法の契約>であり、幕屋は神がご自分の民のただ中に住んでくださることを表す。神とともに住むために、罪のきよめのために祭儀律法と聖なる神に相応しく生活するための律法がともなう。

 

ダビデ契約は<王国の契約>、ダビデの子孫が王座に着いて、神殿を建て、王国を確立するというものである。ダビデの王統に、やがてダビデの子と呼ばれるメシヤつまりキリストが来ることが約束されている。

 

 

《契約とキリスト》

第二部 諸契約はキリストにおいて成就する

 

序 クイズ:女から生まれた人の中で、最も大きな人は誰か?

 

こたえはゴリヤテではない。バプテスマのヨハネである。

 

口語訳聖書ルカ7:28「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」

 

バプテスマのヨハネは新約聖書に載っているが、救いの計画を旧約時代と新約時代と分けるなら、旧約時代の人である。旧約時代の預言者のうちで最大の人だという意味。

 

イザヤ、エリヤ、モーセといった偉大な預言者よりも、ヨハネは偉大だとはどういう意味か?

 

それはほかの旧約の聖徒たちは、メシヤを見たいと願ったけれども見ることはできなかったけれども、ヨハネひとりはメシヤであるイエス様を直接に見たからである。

 

しかし、神の王国(新約時代の神の民)の最も小さい者も、ヨハネよりも大きい。神の国とは新約時代の教会のことである。新約時代に注がれている、神の恵みは旧約時代に注がれためぐみよりもはるかに偉大である。

 

私たちのようなもっとも小さな者でも、モーセやイザヤやヨハネよりも大きい。それは私たちが人間として偉大だという意味ではなく、神様から受けている恵みが、彼らよりもはるかに大きいという意味。

 

旧約時代は影であったが、新約においてその実物が現れた。契約の内容を確認しておく。

 

創造の契約・・・・キリストの似姿として世を治めよ

原福音・・・・・・サタンの頭を砕くメシヤ到来・犠牲の衣

ノア契約・・・・・全被造物の保持

アブラハム契約・・アブラハムの子孫が地の相続人となる

シナイ契約・・・・神は民の中に幕屋において住まわれる。

神とともに生きるために道徳律法と祭儀律法が与えられた。

ダビデ契約・・・・ダビデの子孫が王座に着き、神殿を建て、王国を確立する。

 

1.キリストの受肉・・・シナイ契約(幕屋と祭儀律法・道徳律法の契約)の幕屋成就①

 

堕落前、神と人とは園においてともに生きていたが、堕落によって神と人とは断絶した。しかし、神はイスラエルのうちに幕屋、神殿を造らせて、そこに住まわれると約束してくださった。

 

出エジプト末尾の出来事を思い起こそう。幕屋を造り終えると、会見の天幕は主の栄光に満ちて人は入ることができなかった。

 

出エジプト40:33-35「40:33 また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。40:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。」

 

キリストにあって、このことはどのように本体が現れたか?それは受肉において。マタイは御子の誕生にあたって、インマヌエルという名を告げている。

 

マタイ1:23「その名はインマヌエル(神は私たちとともにおられる)」

 

ヨハネは、ことばが人となって私たちの間に「住まれた」ことを「スケネオー」ということばを用いて表現している。出エジプト記の末尾を意識しているから。

 

ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれたskeneoStrong's Greek: 4637. σκηνόω (skénoó) -- to have one's tent, dwell

)。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 

スケネーは幕屋、テント、スケネオーは「幕屋を張る、住む」という意味である。ヨハネがこの一節を記したとき、念頭に、出エジプト記の末尾のあの出来事が意識されていた。

 

旧約では影であった「神が民の中に住む」という約束が、イエス・キリストにあって本体が現れ、約束が成就した。

 

2.キリストは、神の王国basileia tou theou の到来を告げた・・・ダビデ契約の成就①

 

(1)マルコ1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 

(2)神の王国とは…神の支配

王とはbasileus であり、basileia は王的支配を意味する。したがって、神の国とは神の王的支配を意味する。私たちは、神の王的支配を求めて、「みこころの天に成るごとく、地にも成らせたまえ」と主の祈りをささげる。注意すべきは、「地にも」という点。

 

たしかにキリスト者の国籍は天にあるが世捨て人ではない。神に世からいったん聖め別たれたキリスト者は、世に遣わされて、神の支配を地にもたらすものである(ヨハネ17:17,18)。

 

(3) 神の王国はすでに来たが、いまだ来ていない

 

神の王国は、死んだら行く彼岸ではない。神の王国は、向こうからこちらに来るものである。だから我々は「御国を来たらせたまえ」と祈る。

 

神の王国は、キリストの初臨とともに原理的にすでに来た(realized eschatology)。神の王国は神を信じる者たちのただ中にすでにある。

 

(ブログ管理人注:realized/inaugurated eschatologyについては↓の解説もご参照になってください。)


 

ルカ17:20,21

「17:20 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

17:21 『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』」

 

マタイ28:18

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」

 

エペソ1:20-23

「1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

 

キリストが王となられ、キリストを信じる我々も原理的に王とされている。

 

エペソ2:4-6

「2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです── 2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」

 

コロサイ3:3,4

「3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。3:4 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」

 

しかし、もう一方で、神の王国は、主の再臨によらなければ完全には実現しない。つまり、神の王国はいまだに来ていない。それゆえ、私たちは「御国を来たらせたまえ」と祈る。私たちは、神の王国に関して、「すでに」と「いまだ」の間に生きている

 

(4)神の王国(支配)は、この世の王たちの支配とは質的に異なる

 

神の王国とは、幼子のような心貧しい者、仕えられるよりも仕えることを喜びとする者の国である。王は仕えるリーダーである。

 

マルコ10:13-15「10:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

 

マルコ10:25「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

 

マルコ10:42-45「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 

教会は神の国の、すでにといまだの間の現れであるから、教会におけるリーダーシップは、神の国におけるリーダーシップであらねばならない。

 

また、主の再臨において実現する新天新地におけるリーダーシップも、そのようなリーダーシップである。今の世において低くされているから、次の世においては威張ってやろうということではない。

 

3.子=世界の相続人として・・・・アブラハム契約の成就①

 

(1)天の父と子ども

 

主イエスは、私たちに神を「天の父」として紹介してくださった。旧約時代においては、神は「主」であり人は「しもべ」という関係が基本だが、新約の基本的な神の呼び名は「父」である。御子は神の実子であり、私たちは御子に結ばれることによって、神の養子とされ

た。

 

マタイ6:9「だから、こう祈りなさい。

『天にいます私たちの父よ

御名があがめられますように。」

 

ローマ8:14-16「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(8:15,16)

 

(2)子は相続人

 

アブラハムは民族的にはイスラエル民族の祖であるから、彼の相続地はカナンの地であったが、福音が異邦人に広げられた新約の時代には、神の民は世界の相続人となった。

 

世界の主を父と呼ぶ私たちは子である。子であるから、私たちは世界の相続人である。相続人としてこの世界に対して責任がある。世界に対して責任をもって生きることは、新しい天と新しい地の相続者としての予行演習である。

 

マタイ5:5「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」

 

ローマ4:1-16「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。・・・

 

(中略)・・・そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。『わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした』と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」

 

ローマ8:17「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば取るに足りないものと私は考えます。

 

8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

 

8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」

 

要点は2つ

1 キリスト者は神の子どもとされている

 

恐れをともなう律法の奴隷ではなく、何ができるかで評価される成果主義から解放されて、存在そのものを喜ばれ、互いに存在を喜び合う世界に移されている。

 

2 キリストとの共同相続人として世界を相続する

 

神の御子イエス・キリストを長子とする神の家族つまり教会のなかで、ともに世界を相続する。その完成は主イエスの再臨と新しい天と新しい地の到来であるが、すでに今の世にあって神の子どもとして全被造物を神のみこころにしたがって治める役割が与えられている。

 

また、世界の相続人として、世界のために取り成し祈る祭司としての責任がある。アブラハムが、滅びゆくカナンの地のために取り成しいのったように。

 

4.小羊キリストの十字架の贖い・・・・・シナイ契約の成就②

 

アダムの堕落以後、神と人の間に隔てが生じ、エデンの園にあったいのちの木への道はケルビムによって閉ざされた。このことを表現するために、シナイ契約における幕屋の会見の天幕の分厚い幕にはケルビムが織り出されていた。ソロモン神殿の会見の幕も同じ。

 

しかし、主イエスが十字架でいのちを捨てられたとき、神殿の幕屋は上から下に裂けた。神がこれを破棄されたのである。

 

マルコ15:37-38「それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

 

キリストの十字架の出来事は、シナイ契約における祭儀の本体が現れたということに他ならない。本体が出現した以上、影は不用になった。イエス・キリストはまことの小羊として、私たちの罪のためのいけにえとなってくださった。

 

我々はキリストを通して御父のもとに行くことができる。エルサレム神殿の役割は終わった。サマリヤの女との問答。

 

(ヨハネ4:21)「イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。』」

 

5.聖霊降臨、聖霊による新生と聖化・・・・シナイ契約の成就③

 

(1)神の民として生きるために聖霊によって新生させられ、聖化されていく

 

エレミヤ31:31-34 の成就(シナイ契約から新しい契約へ)

 

「31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──

31:33彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 

その成就は2コリント3章全体に詳細に記される。シナイ契約とキリストの契約の連続性と非連続性を理解することが肝心

 

2 コリント「3:3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。(中略)

3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 

要点は・・・

1 聖霊による新生によって、かつて外にあった律法が、聖霊によって心に刻まれた。つまり律法は、外から押し付けられ縛るものでなくなり、キリスト者は内側から神を愛するように性質を根本から変えられる。

2 聖霊によって、私たちはかつてアダムにあって失われた御子と同じかたちに変えられていく。これを聖化、栄光化という。

 

6.キリストの復活・着座・聖霊の注ぎと神の家=世界教会・・ダビデ契約の成就②

 

聖霊の注ぎは、シナイ契約の成就であると同時にダビデ契約(王国の契約)の成就でもある。すなわち、キリストは天の王座に着座して、天から聖霊を注いで神の家である教会をお建てになった

 

(1)神殿(幕屋)とは、神と人、天と地との会見の場である

 

ヨハネ2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(中略)

2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」

 

イエス様において、私たちは神にお目にかかることができる。「いまだかつて神を見たものはいない。父の懐におられるひとり子の神が、神を説き明かされた」のである。

 

ヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。だれでもわたしを通してでなければ、父のみもとに来ることはありません。」と言われたとおり。

 

その意味で、イエス様はご自分を神殿であると言われた。

 

(2)キリストは王座に着いて、ペンテコステに教会に聖霊を注ぎ、みことばの働き人を立ててみことばによって治める

 

使徒2:25-33 のペンテコステのペテロの説教はダビデ契約の成就として見るとき初めて、そのメッセージの中心を理解することができる。キリストは天の御座に着座し教会に聖霊を注ぐ。

 

ペンテコステに人々に聖霊が注がれたのは、預言者ヨエルの預言の成就であり、それはダビデの預言のいうとおり、メシヤが天の王座についてそこから聖霊を注いだという事態である。

 

こうして聖霊が注がれると、「エルサレムとユダヤとサマリヤの全土および地の果てにまで」世界宣教が広がった。これは、アブラハム契約の成就でもある。

 

(3)教会は聖霊が注がれて造られた神殿(神の家)である

 

エペソ2:21,22「2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」

 

神殿は神の住まい。神の住まいである教会(神の民)において、人はまことの神と出会うことができる。だからこそ、私たちが教会に生き、人々を教会に導くことは、極めて意義深く重要なことである。新約聖書における教会のイメージは、とても豊か。

 

「神の民」「神の家」「キリストのからだ」「キリストの花嫁」・・・・。新約時代における教会の豊かさをあらわしている。

 

7.御国(神の支配)の究極的完成黙示録21、22 章

 

(1)主題貫徹

黙示21:3「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」・・・シナイ契約の究極の成就。

 

(2)黙示21:1における「新天新地」の出現は、全被造物の贖いを意味している。

 

これは創造の契約、ノア契約の更新である。新天新地を相続することについていえばアブラハム契約の成就である。

 

ところで、エデンの園では一本だけだった、いのちの木が新しいエルサレムでは並木をなしている。この描写は、新天新地というものは、単にエデンの園が回復したということではなく、より成熟したもの完成したものであることを示している。

 

天から下ってきた都エルサレムでは、完全な意味で、聖三位一体が神の民とともに住んでくださる(インマヌエル)。ここには、神と小羊の御座があり、そこからいのちの水の川が流れ出て都全体を潤す(黙示録22:1)。神は御父、小羊は御子、いのちの水の川は聖霊を意味していることはいうまでもない。

 

まとめ

1 イエス・キリストの初臨において、アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約は原理的には「すでに」成就したが、主の再臨が来るまでは「いまだ」完全には成就していない。

 

主イエスが再臨し最後の審判を行ない、「新しい天と新しい地」が訪れるとき、全被造物に対する神の王的支配は完成する。

 

神の国の「すでに」と「いまだ」の間の時に生かされている私たちは、私たちは地の相続人として、世の光、地の塩として、この世界に派遣されている。

 

2 教会とは神の民であり、キリストのからだであり、聖霊を注がれた神殿・神の住まいである。神殿において、神と人とが出会うように、人は教会の交わりにおいて神と出会うことができる。そこには神の御霊が住まわれる。御霊の臨在するところに父と御子もいらっしゃる。

 

参考・推薦書

エイレナイオス『使徒たちの使信の説明』(中世思想原典集成初期ギリシャ教父、平凡社)

P. Robertson, The Christ of the Covenants

Geerhardus Vos, Biblical Theology

 

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書評欄より

ゲルハルダス・ヴォス先生の聖書神学。組織神学に重きを置く改革主義の中で、その神学的骨格を見事に聖書神学に受肉させた力作。徹底した正統主義聖書論に基づく緻密な釈義と展望によって、聖書が本来持つダイナミズムを聖書解釈に発揮させつつ、リベラリズムを反駁するという離れ技をやってのけています。アウトラインをお読みになりたい方は次をクリックしてください。Outline of Geerhardus Vos' Biblical Theology

 

本書の内容についての要点をお知りになりたい方は、hereをクリックしてください。「旧約聖書の聖書神学」というレクチャーをされたPロバートソン師の講義内容メモです。