巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

諸文化を超えた恒常性について

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私たちクリスチャンが聖書を読む際に大切なことは、その中にまず永遠の真理および教理の本質を識別することであり、そしてそれらを表現している一時的な形式からそれらを区別することであるとミラード・J・エリクソン氏は述べています(『キリスト教神学』第1巻)。しかしながら、時にその区別はむずかしく、私は立ち往生してしまいます。

 

たとえば、ヨハネ13章の洗足のことなどはどう捉えたらいいのでしょう?ここの聖句の文脈は、普遍的状況に置かれているのでしょうか。それともそうではないのでしょうか。

 

私自身は1コリント11章の被り物擁護の立場に立っていますが、その立場にはおられない方々の慎重さも、なにかとても分かる気がします。そして最近、さらにそこの立ち往生具合に対してのみなさんに対する共感度がアップしてきました(笑)。

 

想像するのですが、おそらくみなさんの持っておられるその慎重さは、私が洗足の教えに対して持っている慎重さに似ているのかもしれません。

 

これに関し、R・C・スプロールも、それがやはり一筋縄ではいかない問題であることを率直に認め、次の記事の中で、聖書の「普遍的原則」と「文化的慣習」の間のイシューをていねいに取り上げています。

 

 

それでは、どうしたらこの永続的な要素や本質を位置づけ、識別できるのでしょうか。エリクソン氏は、認識の基準として以下の5つの点を挙げています。

 

①諸文化を超えた恒常性

②普遍性を示す環境・状況

③基盤として認められた永続的要素

④本質的なものとみなされた経験との確固とした結びつき

⑤漸進的啓示の中で最終的位置を占めていること。

 

たしかに考えてみますと、キリスト教界内の教えの多様性や相違の多くは、上記のような点を私たちがどう捉えているのかにその端を発しているように思われます。

 

また「自分の理解と解釈とが、歴史の中で自分が置かれている環境から影響を受けていることを考えて注意深くなければならない」という氏の指摘にも、自分の胸に手を当てて考えると、「やっぱりそうかな?うん、そうだろうなあ」と深頷せざるを得ません。

 

「聖書の教えを言明する形式を、教えの永続的な本質と同一視してしまわないためである。もしこれを認めることに失敗するなら、自分の形式を絶対視することになる」(p144)。

 

文化や時代の隔たりや相違というのは確かに存在します。しかしその一方、そういった諸文化を超えた恒常性も存在します。

 

この記事では、その考察の一つの手引きとして、前述のエリクソンによる「諸文化を超えた恒常性」の部分を引用抜粋しようと思います。

 

諸文化を超えた恒常性

 

われわれは今日、世界には多様な文化が存在し、果てしない時間の広がりが聖書時代と我々の間を隔てていることを知っている。我々は時として、聖書の時代が、一つの統一された状況で構成されてはいないことを忘れてしまう。

 

聖書正典のうちに見られる時間的、地理的、言語的、文化的環境は、非常に幅広い。旧約聖書の最初の書物と、新約聖書の最後の書物の執筆の間は、実に何世紀も隔たっている。

 

古代パレスチナの牧歌的環境からローマ帝国の都会的な環境に至るまで、地理的、文化的状況は広範囲にわたっている。時に誇張されることはあるにしても、ヘブルとギリシャの文化間・言語間の相違は確かに存在する。

 

そういうわけで、もし聖書の教えの中に、いくつかの環境を貫いている一貫性が存在するなら、我々は純粋な文化的に一貫したもの、あるいは教理の本質を所有していると言っていいかもしれない。変化は教理の形式の一部分として考えられるだろう。

 

諸文化を超えた恒常性の一つの例は、犠牲による贖いの原則、またそれに伴ういかなる種類であれ、行為義認の拒絶である。この原則は、旧約聖書の犠牲制度に表されている。

 

また、新約聖書の中では、キリストの贖いの死に関する教えに表されている。もう一つの例は、ユダヤ人と異邦人の間のどんな隔たりをも越える、イエス・キリストへの信仰の中心性である。

 

ペテロは、ペンテコステのときに、エルサレムで、あらゆる文化からやってきたユダヤ人にそれを説教した。パウロはそれを、異邦人の環境の中でピリピの看守に宣言した(使徒16:31)。

 

(ミラード・J・エリクソン『キリスト教神学』第1巻p140より)