巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私がクリスチャンの教理論争史を愛しんでいる理由――Exclusive Psalmody Debateの事例から【キリスト礼拝の本質を考える】

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私は、クリスチャンの教理論争史にとても興味があり、それらの文献を読むのが好きです。そして今日はみなさんに、私がなぜExclusive Psalmody Debate(礼拝時に詩篇歌だけを歌うべきか否かの論争)を愛しているのか、その理由をお分かち合いしたいと思います。

 

理由1)この論争は、キリスト礼拝の本質や根幹に触れている。

理由2)賛成派・反対派、両陣営とも、御言葉に従い、いかに神様に喜ばれる礼拝を捧げることができるのかを真摯に追及している。

理由3)そしてこの論争は、なんと500年以上も続いている!

 

Exclusive Psalmody(詩篇歌のみ)論争に限らず、真面目で健全な形でのクリスチャンの教理論争というものにはどれも、――その結果・結論だけでなく――むしろ、それが議論されるプロセスそのものの中でさまざまな貴重な学びがなされると思います。

 

例えば、ある二人の真摯なクリスチャンが聖書のあるテーマに関し意見を違わせており、しかもその論争が何世紀にも渡って続いているものであるとします。その場合、私たちは自分の結論を急ぐ前に、「いや、きっとそこになにかがあるはずだ」と見るのがまず賢明ではないかと思います。

 

つまり、どちらの陣営にも、そこに、ある聖書の真理の全体(あるいは側面)にかかわる、なにか無視できないパワフルな見方や解釈や根拠や理由づけがあるにちがいないということです。

 

その点に関し、聖書解釈学を専門にしておられるヴェルン・ポイスレス氏は次のような感銘深いことを述べておられました。

 

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Vern Poythress

 

 「現在に至るまで、双方の『硬派(忠実派)』の代表者のみなさんは、対岸の陣営にいる人々のことを『目の開かれていない人とみなしたい』――そのような誘惑に駆られてきました。

 

 相手側の見解はあまりに馬鹿げて見えるので、ついつい彼らの見解をヤジるようなことを言ったり、あるいは怒りを感じたり、反対の陣営にいる人々と話すことさえ止めてしまうこともままあります。

 

 しかし、親愛なる読者の方々、もしもあなたが今、相手の立場を馬鹿げているとお感じになっているのなら、その立場内にいる人々もまた同じように、あなたの立場のことを馬鹿げていると思っているとお考えになって間違いありません。

 

 もちろん、、論争の中において、皆が正しいことはあり得ないでしょう。一つの立場が正しく、もう一つの立場は間違っているのかもしれません。あるいは、一つの立場が大半において正しいけれども、もう一つの立場の持ついくつかの価値ある点からも何か有益なことを学ぶことができるかもしれません。

 

 ですから、大切な何かを見逃してしまってはいないか確かめる上でも、私たちは一つ以上の見解に対し、これらに真剣に耳を傾けようとする姿勢が大切だと思います

 

 私たちの探求の結果、ある陣営にいる人々が基本的に誤っているという結論に導かれたと仮定してみてください。しかしそうではあっても、彼らの神学のすべての側面や懸念が間違っているということにはなりませんし、その神学に関わっている人々から何かを学ぶことはできないなどということもありません。

 

 人間というのは、ただ単にある神学的「立場」を代表する人として以上の価値があります。ですからここには単に私たちの立場を決める以上のことがかかっているのです。(引用元

 

さて、Exclusive Psalmody Debateのことですが、私は最近、とても同情心に富み、かつ深く、非常に説得力のある論文を読みました。

 

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Charles Lee Irons

 

Lee Irons, Exclusive Psalmody or New Covenant Hymnody?

 

論者アイロンズ氏の結論は、「(礼拝における規制原理 "Regulative Principle of Worship"を適用した上で)尚且つ、私たち礼拝者には、礼拝時に、詩篇歌だけでなく、一般賛美歌も歌うことが許されている」というものですが、そこに至る過程で、論者は、さまざまな重要テーマに触れています。

 

まず、論者は、両陣営とも、礼拝における規制原理(RP)を認めていることを明記しています。

 

:礼拝における規制原理(RP)については下の記事をご参照ください。

 

そうした上で、争点は、どちらかの陣営がRPをないがしろにしている・していないではなく、「いかにして御言葉が礼拝における歌を規制するのか」というhowをめぐっての両者の解釈の違いであると、アイロンズ氏は的を射た事を言っておられます。

 

また、彼は旧約と新約の間の連続性・非連続性について、「聖書のみ」という宗教改革教理について、贖罪史における漸進性について等、礼拝における「神のことばを歌うvs人間のことばを歌う」ということの意味と正当性について、多角的に論じておられます。

 

また、個人的に私が今後の課題として受け取ったのは、新旧約の「連続性」のところで、彼が、幼児洗礼や安息日や教会政治のことをパラレルに例として挙げていたことです。

 

私としては、新旧約の「連続性」という観点で、もしも幼児洗礼が聖書的に正当化されるのなら、改革派神学のこの「連続性」という捉え方をもう少し検証してみたいと思ったのです。

 

それから数日前にまた別の論文の中で、ジャン・カルヴァンがなぜExclusive Psalmody(詩篇歌のみ)を推進したかという点について、「それは、カルヴァンが万人祭司説の真理を重んじ、一部の人たちだけが(みことばを独占し)歌うのではなく、会衆全員がみことばを歌うことの重要性を認識していたからである」と書いてあって、「おお、なるほど、そういう理由はたしかに理に適っているなあ」と感銘を受けました。

 

そして、そこからインスピレーションを受け、今度は、会衆賛美(congregational singing)の歴史について調べてみようと思い立ちました。

 

1980年代頃からだと思いますが、「賛美リーダーがマイクをもち、ギターやドラムや賛美チームと共に会堂の前方ステージに立つ」というCCMオープン礼拝が導入されるようになりましたが、それ以前にはキリスト教会ではどのような会衆賛美がなされていたのでしょうか?興味はつきません。

 

また、この「ステージに立つ」という物理的・心理学的ポジションと、「礼拝のエンターテイメント化現象」、それから最近のクリスチャン女性の精神的・肉体的「露出(exposure)現象」との間になにか相関性はあるのでしょうか?みなさんはどう思いますか。

 

と、話がどんどん脱線していって、もう収拾がつかない状態になってきました。さあ、本題に戻らなければなりません!

 

とにかく、そういうわけで、私はクリスチャンの論争史から本当に多くのことを学んでいます。特に、詩篇歌vs聖歌の500年余りに渡るディベートの歴史は、信仰者が、キリスト礼拝の本質を追及していく上での一つの尊い宝庫倉だと思います。

 

 

 

追記① 詩篇歌を愛した先人たちの声

 

チャールズ・スポルジョン

 

 「かつて、詩篇歌は、すべての諸教会において日々歌われていただけでなく、普遍的にあまねく歌われていたため、読み書きを知らない民衆でさえも、それらを口ずさむことができた。

 

 かつて、教会の監督たちは、『ダビデの詩篇』を端から端まで熟知し各詩篇を正確に復唱できないような人物を誰ひとりとして奉仕者に認定しようとしなかったし、教会評議会は、(牧師候補者が)すべての詩篇歌をそらんじることができるまでは、彼に牧会職を授与しないという条例まで出していた。

 

 当時のその他の慣習はむしろ忘れ去られてかまわないと思う。が、詩篇歌に関するこの一事は、称賛に値するものとして記録されてしかるべきだと思う。古のヒエロニムスが言うように、『農夫たちは、鋤で大地を耕しながら、ハレルヤと歌い、疲れた刈取り手は、詩篇歌によってリフレッシュし、ぶどう栽培者は、鎌でつるを刈り整えながら、ダビデの詩歌を歌っていた』のだ。」

 

マルティン・ルター

 

 「詩篇歌は、貴重にして愛される歌集であるべきだ。そしてその理由は他でもない。――そう、詩篇はキリストの死と復活をかくも明瞭に約束し――そしてキリストの御国の性質をかくまで映し出しているため、詩篇のことを『小さい聖書』と名づけたいほどだ。詩篇には、聖書全巻にわたるすべてのものが最も美しくまた簡潔に包含されている。」

 

ヨハネス・クリソストムス(4世紀)

 

 「あなたは幸せになりたいと望んでいるか。真に祝福された生涯を過ごすにはどうすればいいかと模索しているだろうか。私はあなたに霊的な飲み物を提供しよう。これは酩酊に誘うような種類の飲み物ではないし、われわれの思いを支離滅裂にさせるようなものでもない。

 

 そう、あなたに提供したいこと、それは詩篇を歌うことなのだ!あなたが詩篇を歌い始めるなら、そこに真の喜びを見出すだろう。事実、詩篇を歌うことを習得した者たちは、より容易に聖霊に満たされるようになるのである。」

 

アンドリュー・ブラックウッド

 

 「宗教改革時代の先人たちのように、私たちがより頻繁に詩篇を歌っていたなら、私たちの教会は聖書に対し、より深い愛を抱くようになっていたはずだ。詩篇歌の多くは、迫害の火をくぐりぬけ生み出されたものであり、それゆえに、それらの歌は、われわれの先人たちに、神の聖さに対する圧倒的感覚および、神の掟に対する鋭敏な感覚をもたらしたのである。」

 

ディートリヒ・ボンヘッファー

 

「いつの時代でも、詩篇歌が顧みられなくなる時、キリスト教会は計り知れない宝を失う。そしてそれが回復される時、教会にかつて予想もしなかった力が臨むのである。」

 

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追記②

 

『ローマ書講解』で有名なジョン・マーレー師(1898 –1975)は、ジャン・カルヴァンと同じくExclusive Psalmody(礼拝時には詩篇歌のみ)の立場に立っていました。

 

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John Murray

 

1946年に、Orthodox Presbyterian Church(OPC)の多数が、それまでの「詩篇のみ」の方針を変えることに賛成した時、ジョン・マーレーをはじめとする「詩篇のみ」賛成派の少数派の人々は、決死の抵抗をし、次のような長い論文を教団に提出しています。礼拝の本質を追及し、聖書に基づき自らの確信しているところにあくまでとどまろうとした過去の聖徒たちの真摯な姿勢に心打たれます。

Reports of the Committe on Song in Worship

 

 

追記③

下のサイトには、1650年版のスコットランド詩篇歌(Scottish Metrical Psalter)がonline会衆賛美の形で収録されています。また、Complete text of the Scottish Psalter of 1650  をクリックしていただくと、歌詞を全部読むことができます。

 

(スコットランド長老教会の会衆賛美の様子です。老若男女の信徒たちが心を合わせて詩篇107:27-31を歌っています。)

 

Psalm 107 : The Scottish Psalter version

27 They reel and stagger like on drunk,at their wit's end they be:(彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。)


28 Then they to God in trouble cry, who them from straits doth free.(この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。)


29 The storm is chang'd into a calm at his command and will; So that the waves, which rag'd before, now quiet are and still.(主があらしを静めると、波はないだ。)


30 Then are they glad, because at rest and quiet now they be:
So to the haven he them brings, which they desir'd to see.(波がないだので、彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。)


31 O that men to the Lord would give praise for his goodness then,
And for the works of wonder done unto the sons of men!(彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。)

 

スコットランド詩篇歌

(日本語による詩篇歌紹介サイト。スコットランド詩篇歌の成立史や詩篇歌の旋律についての説明など充実したサイトです。)

 

追記④

 

*↓たくさんのすばらしい文献・資料があります!本当に勉強になります。感謝。

 

-Vern Poythress, Ezra 3, Union with Christ, and Exclusive Psalmody, Westminster Theological Journal 37/1 (fall 1974) 74 -94.(here)

-John M. Frame, A Fresh Look at the Regulative Principle: A Broader View (here)

-J.G.Vos, Ashamed of the tents of Shem? : The Semitic Roots of Christian Worship (here

-John Gill, A Discourse On SINGING OF PSALMS As A Part Of Divine Worship(1733年12月25日に青年会に集う若者たちに向けてなされた説教記録。here

-Jesse Johnson, The Psalms in Present-Day Apologetics (The Psalms in Worship, edited by John McNaugher, Pittsburgh 1907. here)

-Steven F. Miller, Why I Chose the Psalms, 2017 (here)

-Joel R. Beeke, Anthony Selvaggio (ed.), Sing a New Song: Recovering Psalm Singing for the Twenty-First Century, Reformation Heritage Books, 2013 (amazon)

-Geerhardus Vos, Eschatology of the Psalter, The Princeton Theological Review 18 (Jan. 1920) 1-43 (PDF)

 -Dietrich Bonhoeffer, Psalms: The Prayer Book of the Bible  (amazon)

 

-How to Sing Metrical Psalms (YouTube)

(↑『どのようにして詩篇歌を歌えばいいの?

このビデオは私のおすすめです。特に皆さんの通っておられる教会が詩篇歌を歌う教会ではなく、でもこれからなんとか一人ででも(個人礼拝やデボーションの中で)、ぜひ詩篇歌を歌っていきたいと願っておられる方は、この方のていねいな説明やガイダンスに大いに励まされると思います。尚、この方は、楽譜が読めず、また(ご本人曰くあまり音楽的才能にも恵まれていない)――、そのような不利な状況の中でいかにして詩篇歌を歌えるようになったのか、その証をしておられます。)

 

-『日本語による150のジュネーブ詩編歌』日本基督改革派教会 聖恵授産所

-『詩篇抄集』日本キリスト改革長老教会

-『フランス・プロテスタント苦難と栄光の歩み』森川甫 日本基督改革派教会 聖恵授産所

- 礼拝歌集『みことばをうたう

-日本語による ジュネーブ詩篇歌(YouTube

 

[Lefebvre , Michael ]のSinging the Songs of Jesus (English Edition)

Michael LeFebvre, Singing the Songs of Jesus: Revisiting the Psalms, 2010

本書は、詩篇歌についての最良の入門書の一つではないかと思います。「詩篇のみ」の立場をとっている方々にとっても、そうではない方々にとっても、礼拝賛美としての詩篇について深く黙想し、それを探求したい全ての信仰者にとって、本書はすばらしい洞察を与えてくれると思います。amazon.co.jpにて購入することができます。著者ラフェブレ牧師の証しをお読みになりたい方は↓をクリックしてください。

 

 

それから↓は、会衆賛美の重要性についてのメッセージです。(What Is Congregational Singing, and Why Is It So Important? by the Gospel Coalition)

重要追記があります。