巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私は自分が生涯の「修正」主義者であることを恥じない。

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「これは往々に起こる事ですが――ある極端を離脱した人々が、その対極にあるもう一つの極端によって提示されるオールターナティブ(代替)を採用したという事情があると思われます。」

 

冒頭の引用文は、19世紀後半から20世紀初めにかけてアメリカでダービー主義が受容された背景についてのフラー氏の解説文です。私はこの部分を翻訳しながら自分自身のこれまでのクリスチャン人生の歩みを赤面の思いで回想せざるを得ませんでした。

 

神の主権と人間の自由意志に関しても、以前、カルヴァン主義の先生につまずいた反動で、かなりハイパー・アルミニウスに近いところまで行っていた時期もありましたが、ここ数年、苦しみを通して私は神の主権の真理を主より教わり、この部分においての教理的アンバランスが多少「修正」されました。

 

また「対等主義」を離脱し、「相補主義」に立ち返ったはいいけれども、今度は、過去の反動が出過ぎて、(霊的・物理的に)まるで物言わぬ「こけし人形」のように縮こまってしまった時期もありました。ですが、これも何とか他の兄弟姉妹からの助言をいただきながら「修正」「再修正」「再々修正」を繰り返しつつ、今日に至っています。

 

「修正主義者」という語は、元々、マルクス主義の用語であり、正統派が迎合・妥協派を批判する意味で用いていたマイナス言葉のようですが、私はあえてこの語を自分に着たいと思っています。

 

なぜなら、私は自分が絶えず主の訓戒によってmodify(修正)されなければ、とことん極端に走りやすい人間であることを自覚しており、それと同時に、「~主義者」という、人間が神の正統教理の内にとどまりたいと願う過程で生み出された、非常に不完全ながらも尚かつ尊い歴史的/聖書的「立場」というものをも大切に保持したいと願っているからです。

 

後ろを振り返りますと、自分の信仰の歩みはてんでちぐはぐで馬鹿げており、目も当てられないといった様です。でもそんな時、「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進」もうとしていたパウロのあの言葉が心に迫ってきます。

 

ピリピ3:12-14

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追及しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 

「キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したい」(10、11節)と熱望し、それを追及していたパウロ。そしてそれを得るようにと、なんとキリストご自身がすでにパウロを「捕えて」いてくださっていたのです!

 

ですから私たちクリスチャンの「軌道修正」の旅は、一見、不安定きわまりない歩みのように見えますが、その実、揺るがず動かない永遠の「軌道」――道であり真理でありいのちであるイエス・キリストにしっかり捕えられ、支えられている中で展開されているということですね!

 

ですから私はこれからも朗らかで元気いっぱいな「修正」主義者として、この街道を一心に走っていきたいです。