巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

すべての真理は神の真理である。(by R・C・スプロール)


R.C. Sproul, All Truth Is God’s Truth(全訳)

 

自分の思考や精神に、消えることのない深い印象を刻みつけた著書というのが数冊あるが、その中の一冊が、The Metaphysical Foundations of Modern Science(「現代科学の形而上学的基礎」)だった。

 

50年以上も前に読んだ本だが、これは、「すべての科学的理論が、ある種の哲学的諸前提(premises)を前提・仮定している」ということの重要性を明確に表明しているという点で非常に印象深い著述だった。

 

科学的探究の基礎となっている、こういった哲学的諸前提は、往々にして余りにも当然の事とみなされ、考証のための一瞥さえされないというのが現状である。しかし科学と神学の間で激しい論争が生じる際には、私たちは一歩下がって、「知識」というもの全般における、科学以前の(pre-scientific)理論的土台について、自ら問うてみることが重要だと思う。

 

科学という語は「知識」を意味する。私たちはこの語について制限された見方をしがちであり、あたかも知識というのが、経験的調査の領域にしか適用できないと思っているふしがないだろうか?

 

質料的知識(material knowledge)に加え、私たちは実質的真理(formal truth)のことも考慮に入れなければならないだろう。この点において、私たちは数学を生粋の科学とみなさなければならない。なぜなら、数学はその実質的次元において真の知識をもたらしているからである。

 

実際、科学的進歩の歴史を概観する時、新しい突破口を見いだし、新しいパラダイムをもたらす原動力となってきたのは、多くの場合、実質的数学による原動力だったことを私たちは見ている。しかし、なんと往々にして、質料的科学リサーチに携わっている人々は自らの研究における哲学的前提を見過ごしにしていることだろう!これは実際、驚くべきことである。

 

カール・セーガンの有名な著に「Cosmos」というタイトルの本があるが、この中で彼は次のような事を言っている。「Cosmosというのは、ギリシャ語で『宇宙の秩序』を意味する。これは、ある意味、カオス(混沌)の反対である。そしてこの語は、すべてのものの深い相互関連性を含意している。」

 

ここでセーガンは、科学によって調査の対象となっている宇宙は、混沌(chaos)ではなく、秩序(cosmos)であると前提しているのである。

 

彼はコスモス(秩序)のことを「すべてのものの深い相互関連性を含意するもの」と表現している。そしてこれが科学的探究の主要前提――すなわち、私たちが知ろうと考究している宇宙は整合的であり首尾一貫しているという事――なのである。そこにはすべてのものをつなぐ深遠にして深大な相互関連性が暗黙のうちに存在している。

 

そしてセーガンが指摘しているように、このコスモスにとって代わるものは、カオス(混沌)である。もしも宇宙がその根本においてカオスなのだとしたら、その時、一切の科学的営み・企ては崩壊してしまう。

 

もしも宇宙がカオスであり、ばらばらで非連結のものだとしたら、その時、知識というものの獲得の可能性はまったくゼロになってしまう。ほんの微小な原子データであってさえも、全きカオスという枠組みの中では理解不可能となる。それゆえに、万事の整合的かつ理性的秩序というものの存在に対する前提は、科学者たちにとってはまさに絶叫するほどの前提なのである。

 

前提された首尾一貫性(coherency)という思想は、その源流を、古代哲学の探求に辿ることができる。例えば、古代ギリシャ人は、究極的なリアリティーを攻究していた。彼らは、「多様性」の中から理に適う「一致」を見い出すことができるような、根本原則を探求していたのである。

 

そしてこの究極的一致というのが、神学という科学が提供しようとしているものなのだ。神学という科学は現代科学に対し、必要な諸前提を提供する。

 

そしてまさにこの点が、かの有名な哲学者アントニー・フローを無神論から有神論へと回心せしめたのだ。――つまり、知識を可能なものとするための、現実に対する「整合性のある土台」という基幹的必要性である。

 

そしてこの究極的整合性は、この世界の非確実性(contingency)からは提供され得ない。それには超越的秩序が必要とされるのだ。

 

イスラム思想家と二重真理論

 

中世期、――イスラム思想家たちが「統合アリストテレス主義」と呼んでいた思想の復興により、哲学の領域において危機が訪れた。彼らイスラム思想家たちは、アリストテレス哲学とイスラム神学をジンテーゼ(綜合;synthesis)させようと試み、その結果、「二重真理論(“double-truth theory”)」という概念を作り出したのである。

 

この二重真理論によれば、宗教において真であることは、科学においては誤であるかもしれず、科学において真であることは、同時に宗教においては誤であるかもしれないというのだ。

 

これを現代のカテゴリーに翻訳し直すと次のようになるだろう。――クリスチャンとして、あなたは創造主なる神がご意図をもってこの宇宙をお造りになったと信じると同時に、この宇宙は偶発によって無根拠に表出したと信じることもできる。こういった二つの真理は、論理によって検討されるなら、互いに相矛盾しているようにみえる。

 

にもかかわらず、ここにおいて二重真理は次のように主張するのだ。「真理は元来、相反・矛盾しており、われわれは、そういった相矛盾する思想を同時に保持することができるのだ」と。

 

こういった知的統合失調症は、今日、私たちの間に蔓延している。彼らは月曜から土曜までは、「宇宙の形成に神が関わっていることなど全くない」といった態度で過ごしつつ、ただ日曜だけ創造論者になるのである。そして彼らはこの二つのコンセプトが互いに全く和解不可能である事実に気づいていないのだ。

 

この時点で、一つの問いが持ち上がるかもしれない。「それじゃあ、『論理(logic)』というのは私たちが現実を理解しようとする試みの中で本当に価値あり有効なものなのでしょうか?」と。

 

もしも私たちが整合性とコスモス(秩序)を前提しようとするなら、論理はただ単になにかのためだけに重要なのではなく、万事のことにおいて肝要不可欠なものとなるのである。

 

トマス・アクィナスは中世イスラム哲学者たちのアリストテレス主義に対し、二重真理論に置き換わる、混合項目(mixed articles)という概念を打ち出すことで彼らに応戦した。(その際に、アクィナスは自然と恩寵を『区別』したのだが、多くの批評家たちは「アクィナスは自然と恩寵を『分割』し引き裂いてしまった」と不当にも彼を批判している。)

 

アクィナスは次のように言った。ある種の真理は、「特別啓示」によって知り得るのであって、それは自然界の研究からは認識できないものである。それと同時に、例えば、聖書の中には見い出されず、自然研究によって学び得る諸真理というものも存在する。

 

例えば、聖書の中には、人体の循環システムについて明瞭に記述してある箇所はない。ここでアクィナスが言わんとしていることは、ある種の真理は混同項目(mixed articles)であり、そういった諸真理は、聖書ないしは自然研究を通して知られ得る、ということである。そしてそういった混合項目の一つに、彼は、創造主なる神の存在についての知識を含めている。

 

もちろん、根本的なポイントは、アクィナスも、そして彼に先行するかの有名なアウグスティヌスも、すべての真理は神の真理でありあらゆる真理は最上部で接触し、合流しているということを主張していた点である。

 

もしも科学が宗教と相矛盾しており、もしくは宗教が科学と相矛盾しているのなら、少なくともどちらか一方が間違っているということになる。歴史をみると――ガリレオ裁判のように――科学の共同体が、聖書ではなく、むしろ聖書のお粗末な解釈を修正していた時期があった。

 

他方、聖書的啓示は、根拠のない科学的諸理論に対する、知的ブレーキとして機能し得るのである。

 

とにかく、知識というものが可能であるためには、冒頭のセーガンが前提したものは今後も引き続き前提され続けなければならない――つまり、真理が知られ、科学が可能であるためには、私たちが知ろうと探求している整合性ある首尾一貫したリアリティーがなければならないということである。

 

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