巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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女性牧師問題とフェミニスト聖書解釈――「軌道解釈(Trajectory Interpretation)」に対する応答(by ウェイン・グルーデム)【前篇】

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Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 9より翻訳抜粋

 

対等主義側の主張:「軌道解釈(Trajectory Interpretation)」

 パウロを始めとする新約記者たちは、完全な形での女性リーダーシップに向けての「軌道」を移行中でした。しかし新約聖書が完成した時点ではまだ、彼らはその最終目標に達してはいませんでした。しかし今日、私たちは当時の彼らが目指していた方向性を目の当たりにしており、それゆえ、彼らが当初目標としていた対等主義的諸結論を是認することができるのです。

 

 

R・T・フランスは、著書Women in the Church's Ministry: A Test Case for Biblical Interpretation(「教会のミニストリーにおける女性たち:聖書的解釈の試験的論拠」)の中で冒頭の立場を表明しています。

 

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彼は「イエスの時代における旧約聖書およびユダヤ教は男性優位であり、女性に対する偏見を持っていたが、イエスはこのシステムを打倒し始め、新約の教会もこのプロセスを続行した。だから今、あらゆるミニストリ―における女性の完全包含に達する地点まで、私たちはこの『軌道』に倣うことができる」と主張し、次のように説明しています。

 

 「四福音書には、女性へのユダヤ的偏見や、リーダーシップの役割から完全に女性を締め出すことに対しての完全な逆転についての記述はないかもしれません。しかしそういった逆転現象が今後増し加わっていくに違いないことを示す萌芽自体は、四福音書の中に確かに含まれています

 効果的革命というのは、一年やそこらでは完成することはありません。他の事項に関してと同様、女性のミニストリーにおいても、イエスの弟子たちは呑み込みの悪い、緩慢な学び手でした。しかし、たとい時間はかかっても、導火線自体はすでに点火されていたのです。」R.T.France, Women in the Church's Ministry: A Test Case for Biblical Interpretation (1995), p78

 

R.T.フランスは、その後、「男子も女子もない」というガラテヤ3:28の箇所を次のように注解しています。

 

 「パウロはここで歴史的『軌道』の終着点を示しています。つまり、旧約聖書および後期ユダヤ教の男性優位社会からの終着点です。それは、革命的含みはあっても依然として制限された働きであったイエスの女性たちに対する態度、そして使徒的教会およびその精力的ミニストリ―の中で増し加わる女性たちの卓越性を通し、表わされています。

 聖書歴史の枠組みの中におけるあらゆる時点において、ガラテヤ3:28に表されている根本的平等を根拠とした働きは、当時の時代的現実によって制約された状態のままになっていました。しかし、そこには、人類の堕落以降、蔓延していた性差別撤廃に向けての基盤――実に必須の基盤――が存在していたのです。

 後続する歴史の諸段階の中で、この『軌道』に沿い、教会がどのくらい移行していくことがふさわしく、かつ可能であるのかという議題は、今日においても議論の対象になっています。」同著、p.91

 

そして、彼は女性のミニストリーに関する「基本的立場」を見い出したと言い、次のように書いています。

 

「それは、〔1コリント14:34-36、1テモテ2:11-15といった〕少数の聖句の中ではなく、聖書の中で徐々に発展してきた思想と慣習の『軌道』の内に、そして、それ自身を越え、キリストの中にある『究極的神の目的』の、より完全な働きを指し示すところのものの内にあります。そしてそれら〔の究極的神の目的〕は、1世紀当時の状況においては依然として許されていなかったのです。」同著、p94-95.

 

アズベリー神学校教授デイビッド・L・トンプソンも、Christian Scholar's Review(1996年)の中で同様の見解を述べています。

 

 「正統な対話(canonical dialogue)の方向性およびや祈りの内にそれと取り組む中で、神の民は、次のような結論に導かれました。つまり、神の民は、1)聖書の中ですでに予測されている標的を受け入れることによって、そして2)聖書の『軌道』が向かっているところの標的を受け入れることによって、神の民は最も忠実に主の御言葉を崇めることができると考えたのです。

 当時のこの時点における会話は、最終的な決着をみることなく幕を閉じました。しかし、『軌道』は、対等主義的関係性に向けて、明確にセッティングされていたのです。」Thompson, "Women, Men, Slaves and the Bible," p338-39.

 

筆者注:トンプソンのこの論文に対する詳細応答、特に、トンプソンの聖書解釈原則や、聖書の権威に対する彼のアプローチについては、次の論文をご参照ください。Grudem, "Asbury Professor," CBMW, News 2:1 (Dec1996), p8-12)

 

回答1.この「軌道解釈」は、私たちの最終的権威としての聖書を無効にするものです

 

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R・T・フランスもトンプソンも共に、新約聖書の記者たち自身は、教会リーダーシップ全般における女性の完全包含について説いていない、という事実は認めています。フランスが述べているように、1世紀の状況下では、「『究極的神の目的』の、より完全な働き」は「認められていなかった」けれども、それは今日における私たちの基準であるべきだと。

 

しかしこれが意味するのは、とどのつまり、新約聖書の教えは、もはや私たちの最終的権威ではないということです。そして今や、「新約聖書が向かいつつあり、しかし未だかつて到達したことのない方向」という私たち独自の思想――これが私たちの権威となっているわけです。

 

回答2.この「軌道解釈」は、歴代のキリスト教会が、主要な信仰信条の中で告白してきた聖書の教理および、Sola Scriptura(「聖書のみ」)の原則を否定しています

 

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聖書以外の何かに私たちの権威を置くことを防ぐため、歴代の信仰告白は、『聖書の中の』神の御言葉が私たちの権威であって、聖書が完成した後に到達したところの何かの立場が私たちの権威ではないことを絶えず主張してきました。

 

これがSola Scripturaという宗教改革の教理であり、教理や生活における私たちの究極的権威としての「聖書のみ」です。ウェストミンスター信仰告白第1章「聖書について」の第6項には次の事が記されています。

 

「6. 神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。その上には、みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何ひとつ付加されてはならない (1)。」

(1) Ⅱテモテ3:15-17、ガラテヤ1:8,9、Ⅱテサロニケ2:2

 

また、聖書の無誤性に関するシカゴ声明(The Chicago Statement on Biblical Inerrancy)は次のように記しています。

 

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第5条〔個人訳〕

我々は、聖書にある神の啓示は漸進的なものであることを確認する。我々は、前の啓示を全うさせるであろう後の啓示が、前の啓示を修正したり、それに相反したりするという事を否定する。我々はさらに、新約聖書の完成以降、いかなる規範的啓示が与えられるということをも否定する。

 

Article V〔原文〕

We affirm that God' s revelation in the Holy Scriptures was progressive.

We deny that later revelation, which may fulfill earlier revelation, ever corrects or contradicts it. We further deny that any normative revelation has been given since the completion of the New Testament writings.

 

しかし、この軌道解釈の立場によると、後の規準(新約聖書が目指しているといういわゆる《標的》)が、前の啓示(教会内でのある種の役割が男性だけに制限されているという啓示)に相反していることになります。

 

さらに福音主義神学会(Evangelical Theological Society)の教義声明には次の事が記載されています。

 

聖書のみが、そしてその全体性にある聖書が、書かれた神の御言葉であり、それゆえ、直筆文において無誤である。」

 

〔原文〕

The Bible alone, and the Bible in its entirety, is the Word of God written, and is therefore inerrant in the autographs. (引用元:www.etsjets.org)

 

しかし、軌道解釈は、究極的に、権威を、新約聖書の文書を越えたところの何かに置いています。

 

次に続きます。