巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ラディカル・レズビアンからキリスト者へ――ロザリア・バターフィールド女史(元シラキューズ大英文科教授)の救いの証し

 


昨日、ロザリア姉妹のインタビューを聞き、その中で語られている彼女の力強く、真実な証しに感動しました。一人一人の人生の旅路において、主がどのように魂に介入し、ご自身を啓示してくださるのか、私たちはそのくすしき御業にただ賛美と感謝をささげるのみです。

 

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Rosaria Champagne Butterfield, a former tenured professor of English and women’s studies at Syracuse University

救いの証し

 

私はシラキューズ大学の英文科で女性学、特に同性愛理論(Queer theory)を教えていました。私は常日頃、聖書や根本主義者たちの存在に息の詰る思いがしていました。そして、「キリストを知っている」と主張しながら実は何も知っていないキリスト者の学生たちのあり方を忌み嫌っていました。

 

当時私は、フロイト、ヘーゲル、マルクス、ダーウィンの理論に依拠しつつ、歴史的唯物主義者*1として、そしてLGBTコミュニティーのアクティビストとして、パートナーの女性と共に充実した人生を送っていました。そして、ユニバーサリズムを信奉するユニテリアン教会に通っていました*2

 

*1 ポスト近代と新歴史主義、同性愛、そして聖書解釈【前篇】―ミッシェル・フーコーの苦悩の人生/【中篇】―権力者とは誰か?/【後篇】―真の同胞愛を祈り求めつつ)

*2 ユニテリアン・ユニバーサリズム(通称UU)について。「真理と意味の追求を自由にかつ責任を持って行うこと」を特徴としたリベラルな宗教で本拠地はアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンにあります。以下、ウィキの説明です。

 「ユニテリアン・ユニバーサリズムはメンバー(UU教徒)が自由に思想・信仰を決める事ができる。これにより宗教的多元性、多文化の伝統を尊重し同じ教会内でも複数の信仰や活動を認めている。例えば水曜日の夜に座禅のグループ、木曜日にはクエーカーのセミナー、日曜日には礼拝を行うといった具合である。

 このことから折衷的宗教であるとされている。UU教徒は自分の信仰が唯一無二の真実であるとか他宗派に対しての優越性を主張しないことが多い。「宗教学(theology)を創る」という勉強会もある。

 多くのUU教徒は自身のことをヒューマニストであるとしている。他のUU教徒はキリスト教、仏教、ユダヤ教や自然崇拝、無神論、不可知論、博愛主義等をUUと同時に信仰している。中には教義の名前を特に使用せず様々な信仰を組み合わせている信者もいる。」(引用元))

 

私にとって、罪とか悔い改めとかソドム・ゴモラとかいった聖書の概念自体が、言語道断でした。1997年、うちの大学に、プロミス・キーパーズ(Promise Keepers:元コロラド大学ボルダー校のフットボールコーチであるビル・マッカートニーによって1990年に設立された、国際的なキリスト教運動団体。婚前交渉、妊娠中絶、同性愛、ポルノ、フェミニズムが罪であることを教え、聖書的価値観の復権を提唱。引用元の人々がやって来て、講演をしました。それに憤慨した私は、地方の新聞に、彼らの主張を論駁する記事を寄稿しました。

 

ケネス牧師

 

その記事を読んだ読者からのいろいろな反応があったのですが、ケネスという名の男性が私に手紙を送ってきました。彼は地元のシラキューズ長老派教会の牧師だということでした。

 

宗教右派の多くにみられるような憎悪と中傷に満ちた文面ではなく、彼の文調はやさしく、純粋に私に問いかけをしていました。そして議論をふっかけるのではなく、ただ私に「あなたが今根拠としている諸前提(presuppositions)を弁明してみてください」と言っていました。

 

また彼は、「イエスは歴史の中に介入された方であり、歴史の中より出現した人ではありません」と記していました。「そんなの馬鹿げている!」私は心底そう思いました。そして彼の手紙をリサイクリング用のゴミ箱に捨てました。

 

しかし夜遅くになって、私はごみ箱から再び彼の手紙を取り出し、それを机の上に置きました。彼の問いかけが私の応答を強く要求している。。。そんな思いにとらわれたのです。

 

こうして予想もしなかったことに、その後、私はケネス牧師と友だちになったのです。私たちはいろいろな事を率直に話し合い、本を交換しました。

 

こうして、多くの訳で聖書を読み進め、聖書的解釈に触れていく中で、私ははたと立ち止まったのです。ある晩、同棲していたパートナーと共に、自分たちの家でLGBTの集いを開いたのですが、その時に、トランスジェンダーのJが、私を台所の隅に引き寄せ、「ロザリア、聖書を読み始めてから、あなた、なんか変わってきている気がする。」と言ったのです。

 

私は思わず彼女に言いました。「ねえ、もしも、イエスが本当だったらどうなるんだろう?もしもイエスが本当に復活したのならどうなるのだろう?そして、私たち皆、実はやばい状態にあるのだとしたら?」

 

次の日、彼女から本が送られてきました。それはジャン・カルヴァンの『キリスト教綱要』でローマ書註解の箇所に、附せんが貼ってあり、「ここを読んでみて」というメモ書きがしてありました。

 

ローマ書1章のみことばが「人生の目次」に

 

ローマ書1章を読み始めた私は、そこに書かれてある御言葉に初めて恐れ慄きを感じました。英文学の教授として私は常日頃、動詞節を分析する習慣ができていましたので、自然、この章の動詞部分に目がいきました。

 

「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず・・」(21節)

(―うん、確かに私はこれまで神を神としてあがめてこなかった。)

 

「自分では知者であると言いながら、愚かな者となり・・」(22節)

(―私は愚かな者なのだろうか?もしかしたらそうかもしれない。)

 

「不滅(incorruptible)の神の御栄えを、滅ぶべき(corruptible)人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしましました。」(23節)

(―不滅(incorruptible)を滅ぶべきもの(corruptible)へ?)

 

しかし、ポストモダニストである私にとって、「不滅」というカテゴリー自体がこれまでずっと論外なことでしたし、私は、聖書の霊感説や無誤性、聖にして超自然的なる権威、内的論理、正典論などにずっと戦いを挑み続けてきました。そしてレズビアン・フェミニストの立場から、宗教右派たちを論駁することに奔走していました。

 

ポスト近代主義者として私は真理それ自体を信じていませんでした。何度も聖書のこと一切を捨て去ろうとしました。しかしなぜかどうしてもそうすることができませんでした。私はリサーチのため、論駁のため、聖書を読み始めましたが、気がつくと、この聖書が逆に私を変えつつあったのです。

 

全聖書のイエス

 

ケネス牧師は私にこう言いました。「イエスは肉体を帯びられました。だから、イエスを知るということは、『聖書のイエス』を知るということであって、想像上のイエス像を知るこではありません。さらに言えば、『聖書のイエス』とは、聖書「全部」のイエスを意味します。」

 

聖書「全部」のイエス。。この言葉に私は慄きました。なぜなら、聖書全部のイエスを受け入れることと、同棲相手のガールフレンドを持ち続けることは両立しないということを、私は心の奥底で知っていたからです。

 

激しい葛藤が続きました。しかし自分の中で、もはや「私」以上に、聖書は大きくなっていました。そしてそれは紛うことなく確実に私の世界に入り込み、私の世界を満たし始めていました。

 

こうしてある日曜の朝――ありふれたいつもの日曜でしたが――、私はレズビアンの愛人のベッドから起き上がり、一時間後、シラキューズ長老派教会の椅子に腰かけていました。こういう種類の教会に自分がフィットしないのは目に見えていましたが、それでも私はこの神と向き合わざるを得なかったのです。ええ、どうしてもそうせざるを得なかったのです。

 

あとがき

 

こうして彼女はイエス・キリストを救い主として信じるに至り、その霊的旅路はやがて一冊の本となりました。

 

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その後、彼女はケント氏という牧師との結婚に導かれ、現在、4人の子どもの母親として、そして牧師夫人としてノース・カロライナ州で信仰生活を送っていらっしゃいます。