巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

中東福音宣教の今

先日の主日礼拝の時、私は通訳をしていた関係で、講壇の横から会場全体を見渡すことのできる場所に立っていました。絨毯をひいただけのだだっ広い床に、西洋人のクリスチャン(ボランティア、宣教師など)、そして中東からの真剣な求道者たちがぎっしり座り、説教に聞き入っていました。

 

説教者自身、イスラム圏からの改宗者であったため、(イスラム教徒の「いけにえと罪の赦し」の理解に沿う形で)創世記、レビ記、アモス書、ローマ書、ヘブル書、、と時系列的に聖書の真理が解き明かされ、罪の報酬が死であること(ローマ6:23)、祭司が同じいけにえを繰り返し捧げてもそれらは「決して罪を除き去ることができない」(ヘブル10:11)こと、

 

時至って、キリスト・イエスご自身が「罪のために一つの永遠のいけにえをささげ」(ヘブル10:12)られたこと、イエスこそが「ご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったこと」(ヘブル10:20)、「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられる」ため、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになること」(ヘブル7:24、25)が明確に説き明かされました。

 

シリア人、イラク人、イラン人、アフガン人、エリトリア人、スーダン人、、の真剣な目が一斉にこちらに向けられていました。説教にも世間話やジョークの類は一切なく、ストレートにむき出しの福音が語られていました。会場の後ろの方には、ヒジャーブで全身を覆ったアフガン人とみられる女性も静かに腰を下ろし、真剣そのものの表情でイエス・キリストによる罪の赦しのメッセージに耳を傾けていました。

 

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確かに今、これまでのキリスト教史でかつて見たことも聞いたこともないような現象が、そして救いの業が起こっています。私はここで、自分が実際に見、気づかされた点を数点みなさんにお分かち合いしたいと思います。今後、このフィールドで福音宣教の業に携わろうと祈っておられる方の参考になれば幸いです。

 

1.宣教現場におけるエジプト口語アラビア語(Egyptian Colloquial Arabic)の有用性

現代のアラビア語は、ダイグロシア(社会的な状況の違いなどにより、一つの言語の異なる二つの変種を用いること)という言語学的環境に置かれています。つまり、書き言葉と話し言葉がまるで違うのです。前者のことを現代標準アラビア語(MSA)と言い、それに対し後者は、口語アラビア語(アーンミーヤ)と呼ばれています。

 

現代標準アラビア語(MSA)は、中東から北アフリカにかけての文章における共通語であり、国際連合の公式6言語の一つです。印刷物(書籍、新聞、公文書、小児向けよみもの)はおおむねMSAで書かれています。それに対し、口語アラビア語(アーンミーヤ)は日々その地域で話されることによって分化したアラビア語の多くの国家的・地域的変種を指し、また、母語として習得されます。参照

 

それでは口語アラビア語のそれぞれの変種体は、互いにどれくらい同じで、どれくらい違うのでしょうか。アラビア語話者の方々から話を聞く限りでは、それらは「東北弁」と「九州弁」というようなレベルの差異ではなく、ほとんど意思疎通ができないほどの違いがあるそうです。

 

例えば、アルジェリア口語アラビア語話者と、シリア口語アラビア語話者が、難民キャンプ内で出会っても、(MSAコードに変換しない限り)お互いに何を言っているのかさっぱり分からないとのことです。私の推定ですが、こういった差異は、同じラテン語を母体にしているものの、口語体ではほとんど意思疎通不可能なスペイン語とルーマニア語のような距離感なのかもしれません。あるいは同じアルタイ語圏ではあっても、意思疎通はできない日本語とハングル語のような距離感なのかもしれません。

 

しかしながら、映画や文化メディアの発達・浸透により、近年、口語アラビア語(アーンミーヤ)の中でも特に、エジプト地域で話されている話し言葉が、アラブ世界全体で通じる共通語(lingua franca)としての位置を占めつつあるそうです。1世紀の地中海世界における国際語コイネー・ギリシャ語のような存在なのだろうと察します。昨年、南ヨーロッパの某国で開かれた宣教会議でも、アラブ伝道に携わっている方々にお会いし、そこらへんの事情を確認してみましたが、やはり皆さん一様に、(宣教現場における)エジプト口語アラビア語の有用性を認めておられました。

 



 

 

2.慎み深さと中東宣教(Modesty and Middle East Evangelism)

 

レスボス島だけでなく、現在、世界各地で中東圏の人々に対する福音宣教の働きがなされていますが、難民たちの実際の証を通しても、また客観的に観察される現象としても明らかなのは、慎み深い服装で身を包み(日常ないしは礼拝時に被り物をしている)クリスチャン女性ミッショナリーの存在が、福音を伝える上で非常にポジティブなメッセージを与えているということです。

 

残念なことに、神を畏れるイスラム教徒の多くは、ハリウッド映画などからの影響で、「キリスト教は、女性たちを放縦(immodest)で不従順(disobedient)にする」という根強い偏見(or 観察眼)を持っています。そしてこの偏見により、キリストの福音の光や聖さが見えにくくされています。

 

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引用元

 

 その意味で、カトリックでは例えば、マザー・テレサの「神の愛の宣教会」のシスターたち、そしてプロテスタントでは保守メノナイトの女性宣教師たちが、その(内的・外的)慎み深さにより、中東宣教最前線において現在めざましい証を立てており、彼女たちの存在により、神を畏れる多くの難民たちの偏見が打ち破られ、キリストの福音に対して彼らの心が開かれる一つの尊いきっかけにもなっています。

 

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 ↑ Beachy Amish-Mennonite(引用元)*近年、このような保守的なグループの若者の間でも聖霊による信仰覚醒運動が起こっており、レスボス島にもこういった若い兄弟姉妹がミッショナリーとしてどんどん派遣されてきています。

 

これは聖書が古(いにしえ)の書でありながら、同時に「常に新しい」命の書であるのと同様、聖書の掟というものも、それを尊守する女性たちの価値観をとことん古(いにしえ)に保つと同時に、聖霊の力により、そういう彼女たちを「常に新しい」証の現場に立たせるという聖書的事実を示す、一つのすばらしい象徴なのではないかと思います。

 

ああ、神の知恵と知識との富は、なんと底知れず深いことでしょう。そのさばきは、なんと知り尽くしがたく、その道は、なんと測り知りがたいことでしょう、、どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:33、36)