巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

真理の実践――愛と聖さについて(フランシス・シェーファー)

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ちなみに、われわれはこの時代の持つ、不可思議なる次の特徴に留意する必要がある。つまり、我々に許されている唯一の絶対は、「絶対など存在しない」という絶対的要求なのである。フランシス・シェーファー

 

Francis A. Schaeffer, The Great Evangelical Disaster (Westchester, IL: Crossway Books, 1984), chapter 3, The practice of Truthより一部抄訳

 

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前章で述べたように、真理は対決(confrontation)をもたらす。愛の内になされる対決。しかしそれは依然としてまごうことなき「対決」である。

 

そしてもしも私たちの反射行動が、それらの真理の中心性に気づきながらも相も変わらず「迎合」の一語に尽きるような有様であるとしたら、その時、なにかが根本的に間違っているのである。

 

もし私たちがここぞという時に、対決を避けたいがばかりに、「愛」という語を自分たちの言い訳・逃げ口実として用いるなら、その時、私たちは実質上、神の聖潔さを否定したのであり、そのような者は主と主の真のご人格に忠実であることから落伍したのである。そう、その時、私たちは神ご自身を否んだのである。

 

〔中略〕福音主義界をリードする指導者たちが、聖書の全的権威に関する立場を一転させた上で、新正統主義の実存主義的メソッドを採用し、そうして、今でも尚、聖書の全的権威を保持する者たちを「ファンダメンタリスト蒙昧主義者」呼ばわりしながら馬鹿にする時、その時、何かが根本的に間違っているのである

 

こういった事に対し、私たちはどのように応答すべきなのだろうか。――福音の本質自体が揺さぶりをかけられている、今この時に。いや、それだけではない。われわれの文化や何百万という尊い人命の未来が今まさに破壊されようとしているこの時に。

 

もしあなたや私が心底、聖書を信じるクリスチャンでありたいのなら、私たちは次に挙げる二つの聖書的原則を、各段階において「同時に」実践する必要がある。

 

第一番目は、目に見える教会の純潔に関することである。可視的な教会の聖さについて口先だけの話で終わってはならないと聖書は私たちに命じている。そう、私たちは実際に、それを実践に移さなければならない。――たといその実践に伴う犠牲がどれほど大きくても、である。

 

そして二番目は、すべての真のクリスチャンの間に存在する目に見える愛に関することである。肉の次元にあっては、私たちは愛なしに聖さだけを強調してしまうかもしれず、その逆に、聖さなしに愛だけを強調してしまうかもしれない。事実、肉にあって、私たちは同時に両者に焦点を置くことはできないのである。

 

これが可能になるためには、私たちは毎瞬間、キリストならびに聖霊の御働きを見つめ続けなければならない。それなしには、聖さへの強調は、厳めしく、尊大で、律法主義的なものへと変質していく。それと同様、聖さなしの愛だけの強調は、まったくの妥協へとつながっていく。

 

私たちが「神の聖さ」と「神の愛」を両方共、同時に顕し始めていくにつれ、私たちの人生の中において、霊性が真の意味を持ってくるのである。もちろんこれを完璧には顕せないだろう。しかし真実にこれを実践しつつ生きることができるよう、私たちは生けるキリストに助けを求め、主を見つめ続けなければならない。