巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

人のさばきの座と、キリストのさばきの座――二つのbéma

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                      旧コリント市街にあるアゴラ跡のbema

 

中央にBHMA (BEMA)という文字が刻まれています。この語はギリシャ語で、「高壇」、特に「裁判官の席(を設けた)壇」を意味します(織田)。昨日、旧コリント市街に行き、約2000年前に、使徒パウロが引き出されたこの法廷の場でしばし黙想の時を持ちました。

 

使徒18:12-17(総督ガリオの前に訴えられる

12ところが、ガリオがアカヤの地方総督であったとき、ユダヤ人たちはこぞってパウロに反抗し、彼を法廷に引いて行って(ἤγαγον αὐτὸν ἐπὶ τὸ βῆμα

13 「この人は、律法にそむいて神を拝むことを、人々に説き勧めています。」と訴えた。

14 パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人に向かってこう言った。「ユダヤ人の諸君。不正事件や悪質な犯罪のことであれば、私は当然、あなたがたの訴えを取り上げもしようが、

15 あなたがたの、ことばや名称や律法に関する問題であるなら、自分たちで始末をつけるのがよかろう。私はそのようなことの裁判官にはなりたくない。」

16 こうして、彼らを法廷から追い出した。

17 そこで、みなの者は、会堂管理者ソステネを捕え、法廷の前で打ちたたいた。ガリオは、そのようなことは少しも気にしなかった。

 

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     引用元

 

「この町には、わたしの民がたくさんいるから」という主イエスのことばに励まされて、使徒パウロはコリントの町に1年半の間腰を据えて伝道を続けました。主のお約束どおり、パウロが語るキリストの福音を受け入れる人々が、コリントの町から次々と起こされました。その代表的人物は、テテオ・ユストとその家族、会堂管理者クリスポ・ソステネでした。

 このことに腹を立てたのがユダヤ教の会堂の人々でした。そこで彼らは、この世の法廷にパウロを引っ張って行って訴えたのです。時の総督はガリオでした。(18:12,13)引用元

  

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デルフィで発見された碑文。四行目の中ほどに、大文字でΓΑΛΛΙΩ(ガリオ)と刻まれています。(引用元)*尚、総督ガリオ(Lucius Junius Gallio Annaeanus)は、セネカの兄だったそうです。

 

裁判の席(ΒΗΜΑ;ヴェーマ)の周りを見わたすと、マーケットや公衆浴場跡などが散在しています。おそらく裁判があったその日も、パウロにとっては死活問題だったキリスト信仰などどこ吹く風といった感じで、肉売り場のおじさんは「いらっしゃい。いらっしゃい」と客に声をかけ、浴場では最近人気の悲劇役者の話などで盛り上がっていたのかもしれません。

 

しかしパウロの目は、今自分の置かれている地上のさばきの座ヴェーマを貫き、天上にあるヴェーマ――キリストのさばきの座――に一心に注がれていたのではないかと思います。

 

2コリント5:9、10、11a

9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。

10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座βήματος τοῦ Χριστοῦ:キリストのヴェーマ)の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

11このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。

 

この地上での信仰生活の後、私たちが真のヴェーマであるキリストのさばきの座の前に必ず立つことになるという確信があったからこそ、パウロは他の人々に裁かれたり、人間の法廷に引き出されたりすることを「非常に小さなこと(新改訳)」「なんら意に介しない(口語訳)」「少しも問題ではない(新共同訳)」と宣言し得たのだと思います。

 

1コリント4:3-5

3 わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。

4 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです(ὁ δὲ ἀνακρίνων με Κύριός ἐστιν)。

5 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。

 

「わたしを裁くのは主なのです。」上述の2コリント5:10、11を読むと、「キリストのさばきの座」と「主の恐るべきこと」が切っても切れない関係にあることが読み取れると思います。

 

実際、私たちが「人への恐れ」や「ご機嫌取り」あるいは「人間による裁き」や「拒絶」といった喪失・損傷の痛みに耐えつつ、尚且つ、それでも人を赦し、愛し、失望せず福音宣教を続けていくことを可能にするのは、それはひとえに、地上を超えたところにある「キリストのさばきの座」、真のヴェーマを見つめ続け、必ず訪れるその日に備える心と恵みの内にある信仰、これ以外にないのではないかと思います。