巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「旧約聖書のヘブル語自体が、『家父長制文化の表現』だったのです」という主張はどうでしょうか。

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Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 3

 

レベッカ・グルースイス(Rebecca Groothuis)は次のように言っています。

 

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私たちが留意しなければならないのは、古代ヘブライ語というのは、家父長制文化の表現("expression of patriarchal culture")であったということです。

 

聖書が神の霊感によって書かれたというそれだけの理由で、聖書が書かれた諸言語それ自体を「神の霊感の下に造られたものだ」と結論づけることはできません。こういった諸言語は、――それらの言語が生み出され、且つ反映しているところの「文化」と同様――男性中心的です。ある言語の中の特定の言葉が、「男の人間」を指しているのか、あるいは「人間全般」について言及しているのか、といった事はジェンダーの文化的概念を反映したものであり、それは、ジェンダーに関する神の観点については何も言っていないのですGroothuis, Good News for Women, 124.

 

レベッカ・グルースイスは、この部分を、レイモンド・C・オートランドへの反論として書いています。オートランドは、Male-Female Equality and Male Headship (Genesis 1-3) という論稿の中で、神が人類を、「女性」や「人」を意味するヘブル語ではなく、「adam("man", אָדָ֛ם)」とお呼びになった事実に、男性のかしら性(male headship)が暗示されていると述べ、それに対し、グルースイスが冒頭の文でそれに応答したのです。

 


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レイモンド・C・オートランド( Raymond C. Ortlund):9年間、イリノイ州にあるトリニティー神学校の旧約学およびセム語学の教授として教鞭を取った後、現在、テネシー州ナッシュビルにあるイマヌエル教会を牧会。Gospel Coalitionの委員の一人。

 

回答.

聖書の言明(statements)のすべての意味は、神より来るものです

 

聖書の中の幾つかの語の意味を否定すべく、グルースイスは、「家父長制文化を反映する言語」についてのこの議論を展開しています。彼女は、「聖書が書かれた諸言語」と記すことによって、あたかも論議の主題が、聖書の「外側(outside)」で起こっているなにかであるかのように描いてみせています。

 

しかし、神が人類をアダムman, אָדָ֛ם)と呼んでいる箇所(創1:26-27、5:2)が、聖書テクストの中にあるヘブル語の内に見い出されるという事実をグルースイスは覆い隠し、そこを言い逃れしようとしています。こういった聖書の言葉に、元来神の意図されなかった家父長制的な意味があり、そういった聖書の言葉は「ジェンダーに関する神の観点については何も言っていない」と主張することは、とどのつまり、この聖句における聖書の権威を否定していることに他なりません。

 

そして、こういったアプローチは、もはや福音主義を表明するキリスト者が採り得る選択肢ではありません。本記事で取り上げた議論も含め、何人かの対等主義の人々の展開している議論のパターンは、検証の結果、聖書の権威に対する否定につながっていることが明らかになっています。

 

 

 追記です。

↓は、南部バプテスト神学校学長アルバート・モーラー師による優れた論稿です。福音主義フェミニズムおよびリベラリズムの近年の動きとその問題点を概観することができます。〔英文〕

かつてモーラー師は熱心な対等主義者でした。その彼にいかにして抜本的な変化が訪れたのでしょうか。↓はモーラー師自身の証しです。〔日本語〕