巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

敬拝―聖なる時間を「見えるもの」にする歌と祈り

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主に向かい 私たちと共に頌歌をささげる聖徒の群れ。

この世のものではない存在、この世のものではない讃美が

われわれの魂を はるか彼方へと 運んでいく

 

来たれ。地に伏し、三位一体の神に栄光を帰せよ。

この方の輝く火に清められ、我々は主の山に登攀(とうはん)する。

今や みいつの神は 火のように激しく 

聖なるその御顔を この世に顕された。

 

地は花々で咲き乱れ、

全ての舌が 神を語っている。

 

おお信じなさい。地上の獄は 今や、

永遠なる御父・御子・御霊の聖性と光輝で

深処まで照らされていることを。


V. Utrenev, The Holy Trinity,
translated from Russian by Natalia Sheniloff(私訳)

 

ー教会では、音楽は礼拝です。音楽は祈りで、祈りはです。

ー音楽は礼拝に付随するもののではありません。歌うこと、歌は教会が祈る手段です。音楽は礼拝を補足するのでもなければ、飾りでもなく、伴奏でも、BGMでも、準備でも、ム ードづくりでも、穴埋めでもありません、

ー礼拝は、教会のいのちの鼓動です。

ー教会音楽では、ことばとメロディは不可分で、どちらかを主、もうひとつを従におくことができません。

ー礼拝の一つ一つが「絶えざる祈り」の永遠の動きへの歩みです。

ー私たちは「祈り」を歌います。歌は「祈り」の導入部でも、伴奏でも、注釈でも、賛美歌挿入でもありません。「歌」そのものが「祈り」です。「祈り」は歌として与えられました。 教会で祈る方法、それが「歌」だから歌うのです。「歌」と「ことば」の尊い結びつきが教会の祈りです。「神の民」と「神のことば」の交わりです、、歌は聖なる時間を「見えるもの」とします

セルゲイ・グラゴレフ

 

「賛美の歌は、聖なる時間を『見えるもの』にする。」いったい、それは可能なのでしょうか。この部分を読んだ時、私は黙示録5章の天上の礼拝のことを思い出しました。四つの生き物と二十四人の長老が、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢を持ち、小羊の前にひれ伏し、そして彼らは「新しい歌を歌って(αδουσιν ωδην καινην)」(9節)とあります。

 

この章を敬拝の思いで読むと、たしかに「霊とまことによる」(ヨハネ4:23)礼拝と歌と聖なる時間は、礼拝者にとって、ある意味、現実以上の現実であり、私たちの霊の目に「見えるもの」なのかもしれません。

 

曇りなき窓から朝日がやさしく射し込み、暗い空間を紅とも黄金ともいえる光の色で彩どるように、主は天上のメロディーをともなった「新しい歌」、聖なる時間の主として、神のご臨在を切に求める魂の内奥の部屋に、ご自身をよりリアルな形で顕してくださるのかもしれません。どうか聖霊の宮とされた私たち礼拝者の最も深い処で、そのような敬拝と交わりの聖時が増し加わりますように。アーメン。