巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

人を待っては何事も成らない。(内村鑑三)

緑蔭独語

 

今の人は、世論を作らなければ何事も成らないと思う。ゆえに彼らは世論を作るに汲々(きゅうきゅう)として日もまた足らない。しかしながら、昔より今日に至るまで、人類の大進歩にして世論となって成ったものはない。進歩は常に偉人が独りでなして成ったものである。

 

ルターは、彼在世当時の旧き腐れたる宗教を改革するにあたって、改革思想が世論になるのを待たなかった。彼は独り大胆に彼の革新思想を実行した。そうして彼の実行に促されて革新運動は始まった。

 

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人を待っては何事も成らない。社会や教会が革新思想に同意する時代は、世の終末(おわり)まで待つとも来たらない。ゆえにまず独りで革新思想を断行すべきである。さすれば、革新運動は起こるべきものならば、起こる。

 

今のいわゆる運動家は、この点から見て確かに臆病者である。彼らは独りでなすことができない。ゆえに世論を作ると称して、多数の力を借りてなさんとする。彼らは情婦に情死を迫る濡夫の類である。独りで死ぬることができない。ゆえに他の人と共に死なんとする。

 

運動家は独りで革命の炎火におのが身を投ずるの勇気を欠く。ゆえに多数をかり集めて、おのが身を捨てずして、しかり、他人をしておのれに代わってその身を捨てしめて、革新の思想にあずからんとする。注意すべきは今のいわゆる運動家である。

 

ルターばかりではない。われらの救い主イエス・キリストがかかる独行家でありたもうた。預言者イザヤは彼について予想して言うた。

 

問)このエドムより来たり、真紅の衣をもってボズラより来たる者は誰ぞ。その装い、はなやかに、大いなる力をもて、いかめしく歩み来たる者は誰ぞ。

答)これは義をもて語り、大いに救いを施すわれなり。

問)なんじの装いは何ゆえに赤く、なんじの衣は何ゆえに酒ぶねを踏む者とひとしきや。

答)われ独りにて酒ぶねを踏めり、、、そは刑罰の日、わが心の中にあり。あがないの年すでに来たれり。われ見て、助くる者なく、支うる者なきを怪しめり。このゆえに、わがかいな、われを救い、わが憤り、われを支えたり(イザヤ書63:1-5)。

 

この中に解しがたい言葉がないではない。しかしながら、ただ一つの事は明白である。すなわちキリストが独りで酒ぶねを踏みたまいし事、すなわち独りで苦き杯を飲みたまいし事、民の中に彼を苦痛を共にする者なかりし事、彼を見たてまつりて彼を助くる者なかりし事、彼を支うる者なかりし事、この事は確かである。

 

キリストのあがないは彼が単独でなしたもうた事である。国民の賛成、教会の同情を得てなしたもうた事ではない。否、国民に反対され教会に憎まれつつなしたもうた事である。キリストは単独の救い主である。全世界を敵とし持ちて立ちたもうた救い主である。彼のご生涯に、世論を作るとか、社会と教会との賛成を待つとかいう事は一つもない。

 

大教師がこうであった。その弟子たる者もこうでなくてはならない。われらもまた、もしイエスの弟子であるというならば、独りで革新の酒ぶねを踏む者でなくてはならない。独りで異端のエドムを踏みにじり、独りで腐敗のボズラを踏みつぶす者でなくてはならない。独りで迫害の真紅の衣を着、独りで義をもて語り、大いに救いを施すの覚悟をなさなくてはならない。

 

教会の中にわれを共にする者なしとて歎いてはならない。また、われを見て助くる者なく支うる者なきを怪しんではならない。キリストのごとくに、独りで十字架に上り、ひとりで義を唱えて、独りで死するの決心をいだかなければならない。

 

しかし、キリストは愛の人であったから大なる交際家であったと思うのが、今のキリスト信者のいだく大なる誤りである。しかり、キリストは愛の人でありたもうた。純愛の人でありたもうた。ゆえに世の濁愛に堪えたまわなかった。

 

キリストは世を愛したもうた。しかし世の愛を切求したまわなかった。ゆえに、おのずと単独の人でありたもうた。キリストの愛は、人によって得た愛ではない。神をもって始まるものである。「愛は神より出づ」(ヨハネ第一書4:7)と使徒ヨハネは言うている。

 

人は人を離れて愛を知るあたわずというのは大なる誤りである。人は人を離れて愛を「おこなう」ことはできない。しかし愛はこれ人より学ぶべきものではなくして、神より学ぶべきものである。わが罪の神にゆるされし時、わが心に神の聖霊の臨みし時、われはその時、初めて愛の何たるかを知るのである。ゆえにクリスチャンとは、神より愛を受けてこれを人に分かつ者である。人を愛を交換する者ではない。

 

ゆえに単独でもよい。単独の方がよい。しかり、単独で、単独でない。わが友は軒のすずめと池のふなとばかりではない。わが友は全世界にいる。ここにおいてか余輩は、詩人ローエルの「真人の祖国」の一篇を思い出さざるを得ない。

 

「真人の祖国はいずこにあるや。

彼が偶然に生まれ来たりし国か。

愛に焦がるる彼の霊は、

かかる境界に限らるるを拒むにあらずや。

ああ、しかり、彼の祖国は青空のごとくに

広くしてかつ自由ならざるべからず。

 

そは単に自由の存する所か

そは神が神にして人が人なる所か。

彼が人を愛するの情は、

これよりも広き区域を求むるにあらずや。

 

ああ、しかり、彼の祖国は青空のごとくに

広くしてかつ自由ならざるべからず。

 

その那辺たるを問わず、人がその心に

喜びの冠を着、悲しみの足かせをはく所。

真かつ美なる生涯を追い求むる所。

そこに真人の大なる故郷は存す。

これ彼の世界大の祖国なり。

 

一人の奴隷が泣き悲しむ所。

人が人を助け得る所。

神に感謝せよ、わが兄弟よ。

地のその一点がわがものにして、またなんじのものなり。

そこに真人の大なる故郷は存す。

これ彼の世界大の祖国なり。

 

しかり、階級につながれず、「真人の無形の団体」よりほかにいずれの団体にもつながれず、独り神と共にありて、すべて泣き悲しむ者と共に交わる。これが、余輩が追い求むる「真かつ美なる生涯」である。かかる遠大なる故郷、無辺の祖国は、このくぬぎ林の蔭にもある。その下を逍遥(しょうよう)する余輩のささやかなる心の中にもある。

 

1907年7月『聖書之研究』より