巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教会内での分裂を避けるためにも、ジェンダー問題には「あまり目くじらを立てない。」-そういう方向でいった方が良いのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 John Piper and Wayne Grudem, 50 Crucial Questions About Manhood and Womanhood | Desiring God, 2016

 

前の記事からのつづきです。)

 

Q. 、、それと同様、現在、教会内での男性・女性の役割をめぐって、キリスト教界に甚大な意見の不一致があります。ですから、教派的・組織的・教会的な信仰告白を作成する際など、こういったジェンダー問題には「あまり目くじらを立てない。」ーそういう方向でいった方がよいのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 

回答:

「現在、教会における男性・女性の役割をめぐってキリスト教界に甚大な意見の不一致がありますので、、」という点についてですが、まず私たちが考えなければならないことは、何かのことで、教会内に甚大な意見の不一致があるからといって、そこで争点になっている問題が重要ではないという事にはならないという点です。

 

教理的な論争の歴史から私たちが教えられることーそれは、非常に重要な事柄(それからそれほどには重要でない事柄においても)というのが、歴代、深刻な論争のテーマとなってきたという事実です。

 

実際、論争期間の長さおよび激しさは、ーその非重要性ではなくーむしろそこで問われている内容がいかに重要であるかを証左するものであるといっても過言ではありません。

 

さまざまな教派、組織、キリスト教諸団体の信仰告白リストを調べると、その中のある条項(いや、おそらくほとんどの条項)は、その教派や団体史のある時期に、聖書のある真理をめぐって論争が起きた結果、その教会の健全性およびキリストの御国のために、人々がその問題に向き合い、明確な立場表明をする必要に迫られたーそのような背景があることが見て取れます。

 

これは何を意味するのかといいますと、キリスト教史のある時期においては、ーその事に関する論争がそもそも存在していなかったためー、たとい尊い諸真理ではあっても、それらが私たちの教理的・倫理的基準を示すものとして文章の形では打ち出されてはいなかったかもしれない、ということです。

 

例えば、つい最近まで、同性愛行為や、ある種のドラッグ使用に関する教派的立場などは、明言されていませんでした。なぜなら、これまでキリスト教諸教派は、「夫の主要な責任は家族を導くことであり、また、適性条件を満たす霊的な男性の主要な責任は、教会を導くことである」ということを当然のこととして理解してきたからです。つまり、それらの真理をあえて文書の形で明確に宣言する必要性がなかったわけです。

 

しかしその真理に関する明確な宣言がなかったことが、そのテーマの非重要性のしるしかといえば、それは全く逆で、むしろ、その事実は、いかにそれらの真理が、これまでキリスト者のコミュニティーの中で、深く、広く、永続する価値をもって保持されてきたかを物語っているといえましょう。

 

ですから、さまざまな教派において、ー目下、争点となっているこのジェンダー問題にはなるだけ触れようとしていないにも関わらずー、(私たちの考えるに)その他、より重要性の低い諸問題に関しては、これらを信仰告白の条項に明記している今日の現状は、異常な状況といわなければならないように思われます。

 

例えば、幼児洗礼 / 信者の洗礼、前千年王国説、長老制 / 会衆制 / 監督制などの問題は、ジェンダーの役割に対する諸問題に比べ、キリスト教会の健全性や使命に与える脅威の度合いとして考えた場合、そのダメージはより少ないといえます。

 

さらに、この文化潮流の中にあって、自分たちの立場を明確にしないという曖昧な態度は、それ自身で、ある決定的な立場表明となってしまうのです。なぜなら、現在、フェミニストたちが多くの面で変更を迫り、容赦ない圧力をかけているという実情があるからです。

 

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 2016年5月29日にサンパウロ市で開催されたゲイ・パレード(LGBT Pride Parade)引用元

 

またこの問題で公に聖書的立場を擁護しようとする人々は激しい批判にさらされてしまうために、教会指導者たちの多くは、なんとかこの問題を避けようとしています。しかし、この問題を避けて通ることはできません。

 

これは私たちが人として何者であるかというアイデンティティーの芯奥に触れる非常に重要な問題であり、それゆえに、この問題は、私たちの人生すべての分野に関わっているのです。私たちがここで提言していることは、性的相補性という神の賜物を保持するべく、なにか特定のストラテジーを立案するとか、そういうことではないのです。

 

そうではなく、私たちが教会指導者の方々に申しあげたいのは、目下争点となっているこの問題に教会の何がかかっているのかという点に、その重要性に目覚めていただきたいということです。そして教会および神の栄光のために今ご自分が何をすべきなのか、上よりの知恵を求めていただきたいのです。