巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

聖書の無誤性についてのシカゴ声明(The Chicago Statement on Biblical Inerrancy, 1978)

目次

 

 

f:id:Kinuko:20170616150752p:plain

聖書の無誤性についてのシカゴ声明

 

出典:『聖書信仰とその諸問題』、聖書神学舎教師会〔編〕pi-ix

 

序文

聖書の権威は、今日の、またあらゆる時代のキリスト教会にとって、枢要な事柄である。

 

イエス・キリストを、主また救主と信じる信仰を告白する者は、自分たちが主の弟子であるという事実を、謙遜に、また忠実に、神の書かれたことばに従うことによって、示すことを求められている。

 

聖書から迷い出るなら、私たちは、信仰あるいは行動において、主に対して不忠実になる。聖書の完全な真理と信頼できる性質を認めることが、聖書の権威を十分に理解し、適切に告白するためには、不可欠である。

 

次の声明は、この聖書の無誤性を、改めて主張し、私たちのそのことの理解を明らかにし、その否定に対して警告するものである。

 

私たちの確信していることであるが、それを否定するなら、イエス・キリストの証言と聖書の証言を無視し、真のキリスト者信仰のしるしである神ご自身のことばの主張していることへの服従を拒否することになる。

 

私たちは、この主張をすることが時宜にかなった私たちの義務であると思う。私たちは、仲間のキリスト者たちの間に、この無誤性の真理から脱落する者が現に出てきており、また広く世において、この教理が誤解されているという事実に直面しているからである。

 

この声明は第三部から成っている。短い要約された形の声明文、主張と否定の条項、それに伴う解説である。これはシカゴで開かれた三日間の会議において起草された。

 

この要約声明文と諸条項に署名した私たちは、聖書の無誤性に関する自らの確信を主張し、互に、またすべてのキリスト者に、この教理の評価と理解をいよいよ増大するよう呼びかけたいと思っている。

 

私たちは短期の集中的な会議によって起草された文書の限界を認め、この声明に信仰告白文のような重さを与えるように提議することはしない。

 

しかし共同の討議を通して深まっていった私たち自身の確信を喜びとし、私たちの署名したこの声明が教会の信仰、生活、伝道において、新しい改革に向かって用いられ、神の栄光が顕わされるようになることを祈っている。

 

私たちは、この声明を論争の心ではなく、謙遜と愛の心をもって提案し、神の恵みにより、私たちの語ったことから生じる将来の対話においても、この心を維持することを志すものである。

 

私たちは聖書の無誤性を否定する者の多くが、その信仰と行動の他の面において、この否定の導き出す諸結果を示してはいないことを喜んで認める。

 

また私たちは、この教理を告白する者がしばしば現実生活の中でこの教理を、思想と行為、伝統と習慣を神のことばに従わせることに失敗することによって、否定することがあるのを知っている。

 

私たちは、聖書の光によって、聖書に関するこの主張を修正する理由があるとする人であるなら、どなたからでも連絡をいただきたいと思っている。私たちは語るとき、聖書の不可謬の権威の下に立つものであるからである。

 

私たちは、証言したことについて、個人的な不可謬性を主張することはないので、この神のことばへの証言を強化することができるようにする助けがあるならば、感謝をもって受けたいと思う。

 

聖書の無誤性に関するシカゴ声明

 

要約声明

 

1.ご自身、真理であり、真理のみを語られる神は、聖書を霊感された。それによって、神を離れた人類に、創造者、主であり、贖い主、審き主であるイエス・キリストによって、ご自身を啓示するためである。聖書は神ご自身について神ご自身によるあかしである。

 

 

2.聖書は、神ご自身のことばであるが、聖霊によって整えられ、監理された人々によって書かれたのであり、その言及するすべての事柄において、不可謬の、神の権威をもつ。聖書は神の教えであるから、その主張するすべてを信じるべきであり、神の命令であるから、その要求するすべてに従うべきであり、神の約束であるから、その約束するすべてを受けるべきである。

 

 

3.神であられる、聖書の著者聖霊は、人の内に示すあかしにより、聖書の真正性を証明し、また私たちの心を開いて、その意味を理解させる。

 

 

4.その全体が、またそのことばが、神により与えられたものである聖書は、その教えるすべてにおいて、誤りや間違いがない。そのことは、創造の出来事や、世界の歴史に働かれる神のみわざについても、神の指導下で聖書が文書として成立した起源についても、個々人の生活の中で、神が救いの恵みを与えられることについてのあかしについてと同等に言えることである。

 

 

5.もしこの完全な、神による無誤性が、どのようにかして制限され、あるいは無視されるならば、あるいは聖書自体の真理の見解に反する見解と相対的なものと見なされるならば、聖書の権威が傷つけられることは不可避である。そのような誤りは、個々人と教会に重大な損失をもたらす。

 

 

主張と否定の諸条項

 

1.聖書は権威ある、神のことばとして受け取られるべきであると私たちは主張する。

聖書はその権威を教会、伝道、あるいは他の何らかの人間的源泉から受けているということを私たちは否定する。

 

 

2.聖書は至高の、書かれた規範であって、神はそれをもって人々の良心をご支配の下に置かれるということを私たちは主張する。

教会の信条、会議、あるいは宣言が聖書の権威より大きいとか、それと同等の権威をもつということを私たちは否定する。

 

 

3.この書かれたみことばは全体が神の与えられた啓示であることを私たちは主張する。

聖書は単に啓示への証言であるとか、出会いにおいて啓示になるにすぎないとか、その有効性は人間の応答によって左右されるとかということを私たちは否定する。

 

 

4.人類を神のかたちに創られた神は、言語を啓示の手段として用いられたと私たちは主張する。

私たち人間の言語は、私たちの被造者性によって制約されており、神の啓示の手段としては不適格なものになっているということを私たちは否定する。私たちはさらに人間の文化と言語の、罪による腐敗は神の霊感のみわざを妨げたということを否定する。

 

 

5.神の、聖書の中での啓示は漸進的な啓示であると私たちは主張する。

後代の啓示が以前の啓示を完成することはありうる。しかし、それが以前の啓示を訂正したり、それと矛盾したりすることがあるということを、私たちは否定する。私たちはさらに、新約聖書の文書の完成以後、規範的啓示が授けられたことがあるということを否定する。

 

 

6.聖書全体が、またそのあらゆる部分が、原本において、ことばそのものに至るまで、神の霊感によって与えられたということを私たちは主張する。

聖書の霊感は部分部分はぬきにして全体について、あるいは全体についてではなく部分について、主張するのが正しいということを私たちは否定する。

 

 

7.霊感とは、神が聖霊によって、人間の筆者を通して、みことばを与えられたみわざであったと私たちは主張する。聖書の起源は神にあり、霊感がどのように働いたかについては、大部分が私たちには、隠されている。

霊感を人間の洞察力に、あるいは何らかの意識の高揚状態に格下げすることができるということを私たちは否定する。

 

 

8.神がその霊感のみわざにおいて、神が選びまた整えられた筆者の個々の人格、特性とその文体を用いられたことを私たちは主張する。

神がその選ばれた当のことばをこれらの筆者に用いさせるに当って、その人格性を無視されたということを私たちは否定する。

 

 

9.霊感は、聖書の筆者たちが語り、また書くように働かされたすべての事柄について、真の、信頼できることばを用いることを保証したことを、ただし全知がゆるされたのではないことを、私たちは主張する。

これらの筆者が有限であり、罪の性質をもつことにより、必然的にせよ、そうでないにせよ、神のことばに歪曲あるいは虚偽が持ちこまれたということを私たちは否定する。

 

 

10.霊感は、厳密に言えば、聖書の原本にのみ適用されること、その聖書本文は神の摂理によって私たちの手に入れうる諸写本から、高度の正確さをもって確認できることを私たちは主張する。私たちはさらに、聖書の写しや翻訳が、最初の本文を忠実に表現する範囲において、神にことばであることを主張する。

原本が今存在しないことによってキリスト者信仰の本質的要素が影響を受けるということを私たちは否定する。私たちはさらに原本が今残存していないことによって、聖書の無誤の主張が無効または不適切とされるということを否定する。

 

 

11.聖書は神の霊感によって与えられたので、不可謬であり、その結果として私たちを誤ちに導くようなことはなく、その語るすべてのことにおいて真であり、信頼できるということを私たちは主張する。

聖書がその主張することについて不可謬であると同時に誤りをもつことがありうるということを私たちは否定する。不可謬性と無誤性は区別してもよいであろうが、分離することはできない。

 

 

12.聖書はその全体において無誤であり、いつわりや虚偽や欺きが一切ないことを私たちは主張する。 

聖書が不可謬であり無誤であるのは、霊的な、宗教的な、あるいは救済的な主題に限られたことであって、歴史や科学の分野においての主張は、その限りでないということを私たちは否定する。私たちはさらに地球の歴史に関する科学的仮説が創造や洪水に関する聖書の教えを超克するために用いられるのは正当でありうるということを否定する。

 

 

13.神学的述語としての無誤性を聖書の完全に信頼できる性質に関連して用いることが正当であるということを私たちは主張する。

聖書の慣用法や目的と異質の真偽基準によって聖書を評価するのは正しいということを私たちは否定する。私たちはさらに無誤性が、聖書の諸現象、例えば現代の技術的精密さの欠如、文法上の、綴字上の変則、自然の観察による記述、虚偽に関する報告、誇張法や概数の使用、資料の主題的配列、並行記事において異なる資料が撰択されていること、あるいは自由引用の方法などにより否定されるということを否定する。

 

 

14.聖書の統一と内的一貫性を私たちは主張する。

誤りや矛盾だとされているが、まだ未解決の個所が聖書にあるから、聖書の真理主張は無効になるということを私たちは否定する。

 

 

15.無誤の教理は、聖書が霊感について教えていることに基づいていることを私たちは主張する。

イエスの聖書についての教えを、人間の状態に適応させるためであるとか、イエスの人間としてもっていた制約のためであるとかすることによって、処理することができるということを私たちは否定する。

 

 

16.無誤性の教理が教会の歴史を一貫して、その信仰に不可欠であったことを私たちは主張する。

無誤性の教理はプロテスタント・スコラ主義により創案されたものであるとか、否定的高等批評に答えるために要請された反動的立場のものであるとかということを私たちは否定する。

 

 

17.聖霊が聖書のためあかしをし、信仰者に神の書かれたことばの真実性を確信させるということを私たちは主張する。

この聖霊のあかしが聖書と離れて、あるいは聖書に反して働くということを私たちは否定する。

 

 

18.聖書本文は、その文学的様式と表現型式を考慮にいれた文法的歴史的釈義によって解釈されるべきであり、また聖書が聖書を解釈するべきであることを私たちは主張する。

聖書の教えを相対化し、非歴史化し、割引して考えること、またその著者性についての主張を拒けることになるような、聖書本文の取扱い、またその背後にある資料の探求が正当であるということを私たちは否定する。

 

 

19.完全な権威、不可謬性、無誤性の告白がキリスト者の信仰の全体の健全な理解にとって不可欠であることを私たちは主張する。私たちはさらに、そのような告白が私たちをキリストのかたちにいよいよ似るものとするために用いられるということを主張する。

そのような告白が救のためになくてならぬものだということを私たちは否定するが、無誤性を拒けても個人に、また教会に重大な結果をひきおこされないですむということは否定する。

  

 ー終ー

 

【補足資料】無誤性と聖書信仰――(鞭木由行師『聖書信仰とその諸問題』より抜粋)

 

(本書p292~)

 

無誤性は決して新しい教理ではない

 

、、無誤性は決して新しい教理ではないということです。それは古くから教会の共通した理解でした。なぜなら、それは聖書がそのように自証しているからです。ただ問題の核心は、いつ教理が歴史上登場したかということではありません。

 

なぜなら、教理の誕生が歴史的に新しいか古いかということは、教理の真偽に関して革新的な問題ではないからです。その教理が古代から教えられていたので、その教理がより正しから、より信頼できるということではありません。近年に至るまで無誤性という神学用語が使われなかったのは、単に、それが議論にならなかったからにすぎないでしょう。

 

最初からそれが論争のテーマであれば、その時点で、用語は使用されるようになっていたはずです。教理の真偽は、その議論がいつから始まったかということによるのではなく、それを聖書が明確に語っているかどうかによることです。少なくとも聖書信仰に立つのであれば、当然聖書が最終的判断の根拠でなければなりません。そして、すでに見てきたように聖書は明白に言語霊感とそれゆえに無誤性を主張しているのです。

 

聖書は、無謬性を語っていても、無誤性を主張していないという議論があります。しかし、聖書が誤りなき信頼性をくり返し主張していることは、だれもが承認することでしょう。そしてその信頼性が、聖書のある特定の領域や分野に限定されるというような言い方を聖書はまったくしていないのです。

 

そうであれば、神は、歴史的記述や科学的分野を含む、あらゆる領域において誤りがないことを主張していると考えるのは当然ではないでしょうか。神のみことばは、完全に純化されたものであり(詩篇12:6)、そのすべてはまこと(エメト)であり(同119:160)、不変永遠であり(同89節)、完成し、完結しているものです(箴言30:5)。

 

そのようにくり返し主張されていることから、私たちは、聖書は無謬性ばかりか、無誤性を含む不可謬性を主張していると理解するのです。

 

聖書の信憑性に限界をもうけるか、それとも聖書全体を誤りなき神のことばとして受け入れるかは、私たちの聖書の読み方に大きな影響を与えます。

 

聖書の全的無誤性に立つならば、困難な聖書本文に直面した時、その箇所を聖書全体とどのように調和的に解釈できるかを、どこまでも追究することでしょう。

 

より確かな聖書の箇所に照らして、その困難な本文を理解しようと努力します。しかし、もし無誤性を受け入れないならば、そのような努力は早々と打ち切られ、その結果、聖書の深い理解へ導いてくれる扉を閉じてしまうことになるのです。

 

しかし、聖書が自らの完結した統一性と無誤性を自証しているのではあれば、どこまでも正しい理解を求めて聖書本文に向かっていくことが私たちの取るべき正しい態度でしょう。

 

最後に、聖書の無誤性を否定することによって、どのような問題が聖書信仰に引き起こされてくるのでしょうか。無誤性の内包している問題点をいくつか指摘して、最後の総括にしたいと思います。

 

(1)神論と無誤性

 

そもそも聖書の権威は、教会や人々の証言によって立証されるようなものではなく、聖書の著者が神であるというところにあります。聖書が言っていることは神が言っていることであるというのが、長い間の教会の確信であり、それを聖書自身が証言しています。

 

すでに見てきたように、聖書が霊感によって誕生したということは、そのような意味です。その聖書に誤りがありうるとするならば、当然神論が問題となります。

 

なぜなら神は全知全能であり、神が誤りを犯すことはありえないからです。このように聖書の無誤性の問題は、神の属性の教理と密接に結びついています。無誤性の背後にある一つの前提は、神は誤りを犯さないという神観です。

 

ですから聖書の無誤性を否定することによって、神の属性についての理解が変質していくのは避けられないことでした。初代教父たちから、現代のシカゴ声明に至るまで、聖書の無誤性は正しい神観からの論理的必然的結論と見なされてきたのです。

 

ですから聖書の無誤性を否定した神学者たちが、同時に神の属性についての伝統的教理を放棄しているのは驚くことではありません。

 

最も顕著な例は、理神論者です。現代における無誤性の否定は、聖書批評学から始まったことを見ましたが、その背後にあったのは理神論でした。そして、最終的には現代神学の神学者たちによって、教会の教理に持ち込まれました。

 

彼らは奇跡の存在を否定し、その結果、聖書の神的権威も無誤性も否定しました。それらはまた、彼らの神観からの必然的論理的帰結でした。

 

18世紀後半にアメリカに現れた合理主義者たち、すなわちベンジャミン・フランクリン、トマス・ジェファーソン、トマス・ペインらは、唯一の、全知全能の神、愛と義の神を認めましたが、超自然的啓示、つまり人間のことばが神のことばの手段であることを認めませんでした。

 

伝統的神観が失われることによって聖書の無誤性が否定されるもう一つの実例(あるいは典型)は、プロセス神学の神観であり、そこから誕生したオープン・セイズムです。ジョン・サンダース、グレゴリ・ボイド、クラーク・ピノックなどは、神は無限、全能であり、それゆえに奇跡的な働きをすることを信じますが、しかし、オープン・セイズムによれば、人間存在は自由であり、未来はオープンであり、神が私たちの自由の行動を誤りなく予知できることはないと考えました。

 

ですから、神はこの世界を完全に支配しているわけではありません。そうすると聖書が未来に関して誤りなく述べることは不可能になります。またピノックは、聖書の中に「神話」があることも容認しました。アダムの堕落、人間の創造、蛇が話すこと、アダムの骨から女が造られたこと等が事実である必要はないのです。

 

ピノックは、目的や主張を表現することにおいて聖書は無誤であることを認めても、聖書の記述が客観的事実として無誤であることを認めません。

 

このように無誤性の否定とは、ほとんどいつも神観と密接に結びつき、無誤性を否定する人は、その背後に誤った神観が存在しているのです。

 

関連記事

「オープン神論 "Open Theism")」の教えの危険性について by ティム・チャーフィー - 巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

 

(2)キリスト論と無誤性

 

もう一つの大きな問題はキリスト論との間に生じてきます。これについては、「キリストの権威と聖書信仰」で詳しく取り上げました(本書、p221)。新正統主義によれば、聖書に無誤性を認めるのは、一種のドケチズム(キリスト仮現論)に陥ることになるということです。

 

キリストが完全に受肉し、ひとりの人間になったならば、キリストが誤った聖書観を抱くことも受容されうると考えています。しかし、このことは、キリストの神としての至高の権威を破壊してしまうことになるのです。これに関しては、拙論「キリストの権威と聖書信仰」をご参照ください。

 

(3)神学全体への影響

 

無誤性の否定は、神論とキリスト論に大きく影響を与えるだけではありません。児玉剛氏の講義の中で、無誤性を認めない立場は、結局、人間論、救済論まで波及していくことが論じられました。

 

私たちは改めて聖書論がすべてのキリスト教神学の根底にあることを思い起こす必要があります。今日、聖書の言語霊感、十全霊感を明白に告白していく聖書信仰が必要です。

 

私たちは、無誤性も、歴史的に、聖書的に、必然的帰結であると考えます。そうすることで、聖書の著者が教えているどのようなことも否定しないし、無視しないし、勝手に相対化しません。これが聖書全体の研究のために不可欠の前提であると主張します。

 

もし無誤性を否定するなら、聖書全体がまじめに取り上げられなくなってしまいます。聖書の教えの大事な部分もいずれは無視されてしまう可能性があります。

 

超自然的なキリスト教信仰は、確かに弱められてしまう。しかし、無誤性を告白することで、私たちは聖書のどの部分も無視しない、聖書全体を調和的に解釈することを求められることになります。

 

したがって、無誤性を否定的な表現ではあるけれども、積極的な聖書の性格を表現しています。無誤性の重要性はどこにあるのかと言えば、聖書の解釈と神学的な構成についてどれも排除することなく、全部を受容した包括的聖書理解を可能にしてくれることなのです。

 

最後に

 

最後に、聖書信仰を次のように定義して終わりたいと思います。

 

「聖書信仰とは、神がご自分の息吹によって、ことばによる啓示を与えた結果として、聖書のすべてに神的起源を認め、それゆえに聖書全体を誤りのない、唯一絶対の権威であると信じ告白する信仰です。」

 

そして、これ(聖書信仰)は、積極的に告白すべき信仰箇条であるということを付記しておきたいと思います。クリスチャンが信じている三位一体論、受肉、贖罪などの基本的教理と同様に、聖書の霊感はひとつのドグマです。

 

私たちがその真理を理解しているからではなく、神がそのことをそのように論証している事柄です。それは科学的真理の言明ではなく、あくまで私たちの信仰の告白です。聖書はそれ自身で、神のことばであると証言しているからです。教会はその歴史を通してずっとその証しを信じ、受け入れてきたのです。