巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

アンチ西洋ポレミックスを克服し、西洋世界における福音宣教の使命を全うするために(by パトリック・カールディーン神父、正教会)

f:id:Kinuko:20211224172320g:plain

西方典礼正教会(写真

 

目次

 

Why the Eastern Orthodox Church Needs the Western Rite: Moving Past Polemics, Restoring the Whole Tradition, and Fulfilling our Mission in the West

By the Very Rev. Fr. Patrick Cardine
St. Patrick Orthodox Church, Bealeton, Virginia, March, 2021.(拙訳)

 

はじめに

 

私は自分の教会を愛しています。私は東方正教会で育ったわけではありませんが、アブラハムとヤコブがわが父であるように、今や正教会が私の教会なのです。そして、私自身はユダヤ人ではありませんが、にも拘らずイスラエルの歴史はわが歴史となっています。私たち家族は、先祖代々正教徒である方々から温かく迎え入れられています。私の新しい霊的家族は大部分がアラブ人で、彼らのもてなし精神の中に自分自身のイタリア伝統文化との親和性を発見し、喜んでいます。私は新しい霊的家族を愛し、彼らを尊敬しています。彼らは高価な真珠を私と分かち合い、私を彼らの使徒的血統の中に受け容れてくれたのです。

 

私は西方典礼の中で奉仕していますが、東方ビザンティン典礼も愛しています。率直に言って、最初は東方式のほうにより惹かれました。本稿の内容は皆さんにチャレンジを与えるものかもしれません。ですが、これらの内容は、私が慈しんでいる教会への愛と安定感からくるものであることを今ここにはっきり述べておきたいと思います。私は自分の教会がここ西洋において成長し、生き生き栄えるのを見たいのです。そして自分が見い出したものを他の人にも分かち合いたいのです。

 

私は、東方正教会の信仰を愛することを学ぶと同時に、「西方」を軽蔑することを学んできました。このように、「西方を軽蔑すること」と「東方を愛すること」の間に相応の関係があるのは偶然ではなく、また私の経験に限ったことでもありません。私は、自分に愛することを教えてくれた方々から、同時に蔑むことを教えられたのです。7年もの間、私は「東方の正統性」と「西方の異端性」を強調するポレミカルなカテキズムにどっぷりと浸かりました。

 

しかし時を経る中で反西洋ポレミックスを為す者として私は信仰の危機に陥るようになったのです。そう、当初は自分にとって魅力的なポイントであったはずの反西洋ポレミックスがむしろ正教会入会に対する最大の障壁となり、その後さらに10年もの間、私は正教徒になることができず教会の外にたたずみ続けることになりました。

 

ポレミックス問題の認識

 

紙面の関係上、本稿では、正教西方典礼に対する諸異論を列挙しそれら一つ一つに答えていくことはしません。また本稿は正教西方典礼とその実施に関する包括的な哲学を論ずるものでもありません。私の目的はあくまでも入門的なものであり、この短い論文は本質的に、過去30年にわたる私の個人的な経験に基づいて、私たちの教会が直面している課題に取り組むものです。ここで取り上げられている問題、より正確に言えば「症状」は、「東方」と「西方」の間の極論的で誇張された二分法(dichotomies)、そして反西洋的な感情や偏見です。*1

 

この問題は、正教会およびキリスト教一般に多くの悪い結果をもたらしています。こういった偏見からもたらされる偏向効果は、慈愛の欠如としてすでに表面化しています。彼らの意図自体は我々の正教信仰の純粋さを守ることにあるのかもしれませんが、現実にはこれは、分裂を永続化させ、非正教徒の方々に対する私たちの使命を妨げているのです。

 

また、私たち自身の公同的・普遍的歴史と経験を抑圧することにより、私たちの公同的・普遍的な証は弱体化させられています。それらは還元主義的であり、貧弱なものです。そして何より、それは危険です。なぜなら、神学をポレミックスによって行うことにより、しばし人はヘテロドックスな自己概念を持つに至るからです。この課題に注意を向けることで、おそらく私たちは正教西方典礼およびその霊的習慣や実践を回復していくことの中に、それらの諸問題に対する解決策を見出すことができるのではないかと思います。

 

この論文の後半でいくつかの例に触れますが、ステレオタイプな二項対立の全リストを提供することはためらわれます。私たちの間に存在するリアルな、あるいは認知されているところの諸相違を取り上げることは確かに重要すが、本稿内でそれらの諸議論に解決を見出すことはできません。さらに、長いリストの列挙は実際には、私が今言及している問題から私たちの注意をそらすかもしれません。後者の問題は相違のリストよりもはるかに多く、それらは、私たちの著作、説教、態度の多くに浸透している根本的な偏見と感情なのです。

 

東方正教徒として私たちはポレミカルな誇張により重要な区別を維持しようとする傾向があります。西方との共通点をどれだけ見い出しても、あるいは誤った二項対立(原罪vs先祖の罪、様々な贖罪モデルなど*2.)がどれだけ論破されても、私たちは依然として自分たちの存在論的他者性を主張してやみません。私たちは時に、「悪しき西洋」と自らを対立させることなしには、もはや自己概念を持つことすらできないかのように感じられる時さえあります。

 

自分たちが何でないか(what we are not)によって自分たちを定義するとき、私たちは事実上、正教を反動的グループに劣化させることになるのです。もし私たちが神学諸文書やブログ、説教から反西洋的な文章をすべて削除したら、各ページにはそれこそたくさんの空白部分が生まれることでしょう。さらに悪いことに、私たちの西洋に関する記述はしばしば不正確且つ誇張されたものです。

 

自分たちを西方と対立するものとして定義するこういった傾向により、私たちのビジョンや自己理解が損なわれてしまいます。東方と西方の違いは、しばし偶発的諸形態の差異に過ぎないことに私たちは気づきません。私たちは自分たちの絶対的な区別をあまりにも確信しているので、たとい相違が偶発的なものであることが立証されても尚、私たちは東方と西方を隔てる存在論的裂け目の境界を確保するべく、神秘的な正教精神(phronema)に訴えようとします。

 

「西方キリスト教伝統は早くから何らかの欠陥があった。必然的に聖アウグスティヌスによって脱線した」という説に遭遇することは珍しくありません。この主張からすると、西方キリスト教徒はその裂け目を踏み越え、欠陥のある彼らの西方伝統を捨て、東方キリスト人になることにより真の正教徒にならなければならないのです。

 

極端に聞こえるかもしれませんが、この考え方は反西欧感情を駆り立てる哲学の中に潜んでおり、(もちろんそのようなことを提案するほど皆が皆過激なわけではありませんが)これをその論理的結論に導いていくと必然的にそうなるのです。なぜ西方はもはやオーソドックスではないのか、という問いに対して、西方はそもそも初めから決して完全には正統ではなかった、と推測する人がいます。

 

しかし誤解しないでください。私は、西方キリスト教における諸発展と私たちの間に深刻な諸相違点がないということを言っているのではありません。私が申し上げようとしているのは、そのような相違点の多くがポレミカルな諸目的のために誇張され、その結果、それが正教会および正教会の世界宣教への使命を果たす能力に悪影響を及ぼしていることなのです。それゆえ、東方正教会の中に堅固で生きた西方典礼およびエートスを回復させることの内にこれらの諸問題に対する解決があると私は信じています。

 

ポレミックスを介した西方伝統および自己概念の不正確な描写

 

反西洋的な偏見は、いくつかの形で現れています。一つは、弁証やカテキズム書において、西方教義、神学、典礼、教会論、エートスについて不正確な表現をしていることが多いことが挙げられます。西方における典型的な悪者について次の三例を挙げます。

 

聖アウグスティヌス ―― 「私たちがアダムの罪のために個人的に咎を負っているとアウグスティヌスは教えていた」という言明は公認慣例になっています。問題は、聖アウグスティヌス自身はそのような事を教えておらず、それどころか、わざわざ紙面を割き「そうではない」と彼自身、言明していたことにあります。この偉大な聖人が正教徒の間で信頼を失うという悲劇的な結果に加え、アウグスティヌスに対するこうしたカリカチュアにより、罪に対する私たちの理解は弱められ、場合によっては、罪に関するヘテロドックスな教義を生み出すことさえありました。*3

 

カンタベリーのアンセルムス -――カンタベリーのアンセルムスの贖罪モデルに対するウラジミール・ロースキイの非難により、西方の救済論および、場合によっては私たち自身の救済論見解でさえも歪められる結果をもたらしました。ロースキイはアンセルムスの贖罪モデルを戯画化していますが、残念ながらこの戯画モデルは、‟神化の教義を欠いた西洋の沈滞的・法廷的・懲罰的救済論とされるもの”の代表になってしまっています。現代正教の教えは、しばしば、法廷的、懲罰的な言葉やモチーフを追放することによって、このグロテスクなイメージに反応してきました。これらの比喩や言語に対する理解を自ら明確にする代わりに、私たちはしばし治療と癒しの観点からのみ、ほとんど独占的な形で救いを記述しています。*4

 

トマス・アクィナス -――今日、スラブ派やギリシャ人神学者イオアンネス・ロマニデスらの影響により、トマス・アクィナスは、アウグスティヌスの偽りの教えをその論理的結論に持っていった「ダメになった西方」の代表的存在として描かれています。正教ポレミシストたちによると、合理主義の学徒であるアクィナスは、西方が神学よりも哲学に、直接経験よりも三段論法や体系化に関心があり、神の絶対的単純性(Absolute Divine Simplicity)にこだわるがゆえに真の恩寵を欠いていることを取り返しのつかない形で確証したのだ、とされています。しかし、これはアクィナス神学の誤読です。さらにトマスへのこういった非難は、彼の著述が14世紀に翻訳された際、トマスが当時のギリシャ人たちの間で大いに評価されていたことを認識し損なっています。*5

 

こういった諸歪曲がそつなく正教の真理と隣り合わせで並べられる時、東方は実際、燦燦と明るく輝きます。西方キリスト教伝統を誤って伝える傾向が、学問的稚拙ゆえなのか、心からの誤解ゆえなのか、それとも怠惰ゆえなのかそれはともかく、いかなる理由であれ、それは弁解の余地なき非であり、道徳的な問題ではないにせよ、損害を与えるものだと思います。こういった問題ある傾向により、情報に明るい求道者たちが教会から離れていくだけでなく、それらは私たち自身の西方聖人や聖伝とも対立することになるのです。これは自己破壊行為です。

 

粗野なポレミックスによって自己概念を高めることは、重要な諸教義に対する明瞭性の欠如へとつながります。(聖アウグスティヌスの教義を誤解して)「原罪」を「先祖の罪」と間違えて対立させると、罪の教義が希薄になります。罪はモータリティーおよび罪の染みなしの弱められた意志となり、それがバプテスマの教義に対する理解に影響を及ぼします。

 

同様に、贖罪の様々なモデルは、――それらがあまりにも法廷的であるように聞こえ、もしくは、問題ある改革派的贖罪モデルと間違って混同されたりして――、その結果、廃棄されてきました。このような贖罪諸モデルを否定することは、私たちの救いの真理を濃密に把握し、伝える能力を失わせることにつながります。贖罪の豊かなイメージは、ビザンティン典礼とは異なるラテン語ミサで独自に表現されています*6

 

私たちが自分たちの伝統のこういった側面を捨ててしまったら、一体何を失うのでしょうか。私たちが西方を無批判に非難するとき、私たちは一見自分たちの伝統を守っているつもりでも、実際には誤ってそれを破壊し、その過程で信仰に対する理解を歪めてしまう危険性があるのです。

 

ビザンティン・リスト;異なる形式、異なる信仰

 

反西洋感情は、東方と西方の偶発的形態の違いを、「西方がオーソドックスではなく異端であることの証明として用いる」パターンにおいてさらに現れています。エートス、文化、儀式の違いをもって「もしそれが東方的でないなら正統ではない」とする前提が導き出されます。しかし実際には、東方的に見えるもの、東方的に聞こえるもの、東方的に匂うものであっても正統ではないものがあり、その逆に、明らかに東方的でないものであっても正統であるものがあるのです。

 

形式の違いを和解不能と見なす傾向は正教ポレミックスにおける現代的展開ではなく、それらは、ビザンティン・リストとして知られる11世紀以来の文献ジャンルにおいて有名です*7。これらのリストの目的は、ラテン人の異端および不敬な諸誤謬を目録化して列挙し、「我々」対「彼ら」というレトリックの長い歴史を示すことにありました。ビザンティン・リストは教義ではなく、断食の習慣や服装など、文化的・儀礼的な違いに主眼が置かれています。一見、表面的な苦言のように見えるかもしれませんが、これらを些細なことと見なすのは誤りでしょう。

 

実際、このリストは、教義、文化、儀礼が互いに関係性・浸透性を持っていることを示すものであり、良い面もあります。このように考えますと、ビザンツ人がラテン人との儀礼の違いを懸念したことはたしかに理解できるのですが、残念ながら彼らの懸念は問題ある結論に至ってしまったようです。つまり、彼らのポレミックスは、特定の文化形式や儀式を教条化し、それ以外の諸伝統や形式を異端視することにつながっていったのです。ラテン人が土曜日に断食をし、髭を剃っているからと言って、本当に彼らは異端者なのでしょうか。

 

悲しいことに、偶発的な事柄を理由に相手を断罪するというパターンが、本来は否定されるべきであるのにも拘らず、現代においても絶え間なく続いています。繰り返しますが、現実に存在している、問題ある諸相違を掘り下げることが本稿の目的ではなく、有益な諸相違を不和の原因にすることの破壊的影響を指摘することが本稿の目的です。

 

正教会西方には、聖霊(聖神)に感化され、使徒たちによって練られ、植えられ、聖人たちの祈りと不朽の敬虔さによって育まれた、由緒ある独自の儀式と形式があります。「信仰が抽象化されてしまわないように、われわれは教義と形式を恣意的に切り離してはならない」というビザンティン・リストの著者たちの意見に私は同意しています。ある文化に特有の典礼形式は、その文化における信仰を明確に表現するものです。正教徒として私たちは、東方の場合においてこのことを認めることに何の問題も感じていませんが、同じ私たちが、由緒ある正教西方の伝統における尊厳を否定してしまうならそれは悲しい皮肉です。

 

西洋人が正教徒になる際に、彼らが自らの西方霊的遺産を拒否することを期待しているのなら、その時私たちはまさにその非を犯してしまっているのではないでしょうか。普遍的に言って、私たちの信仰は変わりませんが、その信仰を表現する文化的な形式や儀式は多様です。私たちは、教条化することなくそしてあらゆる差異をやみくもに異端視することなく、それらの聖なる習慣や文化を尊重しなければなりません。文化的な形式や儀式は、聖なる香りを伝える道具であり、信仰、つまり聖霊がそれらを通し流れているからです。

 

福音宣教に負の影響を与えているアンチ西洋的な偏見

 

信仰は強引な押し売りではありません。伝道レトリックにほどほどのスキルを持つ人でさえ、純粋な求道者を瞬く間に正教に夢中にさせることができます。そしてまさにこのこと――つまり、「正教の信仰」と「西方に対する不正確な糾弾」を結びつけることが、事態をより一層ひどいものにしているのです。

 

信仰の真理はあまりにも抗しがたいものであるがゆえ、私たちは、「東方/善」、「西方/悪」という極論的で単純な二項対立の苦い錠剤を懸念することなく素直に飲み込んでしまいがちなのです。この戦略は確かに多くの人々を正教会に引き入れるために有効であったことを認めなければなりません。しかしその代価たるや如何に。また、同じように懸念されるのは、このような傾向のために一体どれだけの多くの人が今も尚、教会に入れずにいるのかということです。

 

極端な東西ダイコトミーを受け入れながら正教会に入った人々の中には、入信後、そういった諸相違が実は誇張されたものであったことに気づき信仰の危機に陥る人々もいます。その中には、自分の行なった選択が偽りの主張の下に為されたことに懐疑心を覚えつつ、「自分はそもそも宗派選択を間違ったのではないだろうか」と疑心暗鬼になっている人もいるほどです。

 

他方、西方正教の伝統を発見したことで、それまで失われていた自らの西方遺産が復活したことを喜ぶ人たちもいます。これらの人々は、自分がフルに西方的であり、フルに正教徒であることができることを知り、心の底から喜んでいるのです。また、改宗先の東方典礼やそのエートスに完全に満足しつつ、それと同時に、西方聖人および西方諸伝統の回復によってさらに豊かにされ喜びを覚えている改宗者の方々もいます。そして、彼らは東方典礼で礼拝を捧げていますが、自らの西方遺産に対するしつこく野卑な恨みからついに解放されたことに安堵を覚えています。

 

以上、西方正教伝統の存在を知るに至った改宗者たちの体験を述べてきました。しかしながら、教会の門を叩いてはいるのですが、中に入ってこれない人たちの大きな群れが外側に存在しています。彼らは私たちの信仰に魅了され、確信さえしているのですが、ある界隈では反西洋的な「東方 vs 西方」ダイコトミーを飲み込むことが半ば改宗の条件とされているため、入ってくることができません。こうして失望し混乱した彼らは、教会から立ち去っていきます。

 

ある人々は、一応教会に出入りはしていますが、未だ宙ぶらりんな状態です。こういった人々は正教会に入りたいと望んでいるのですが、自分が愛してやまない真理と、ポレミカルにして誤った二項対立を調和させることができず、今も尚聖堂近辺をうろうろしているのです。私は個人的に、このような人たちと多く接してきました。

 

そして私はこのような人々を助けるべく、彼らの不満を正当なものとして認め、それと同時に、それは彼らが教会に入ることを妨げるようなものではないということを語り聞かせてきました。正教徒になるために、アンチ西洋的な偏見を持つ必要はないのです。このことは、西方キリスト教伝統を愛する多くの求道者にとって、安堵と啓明の言葉となっています。

 

私が西方キリスト教伝統を擁護するのは、東方典礼を軽んじるためでも、西洋世界に正教をもたらすというその重要な使命から遠ざけるためでもありません。西洋における正教会の宣教の現実としてはやはり、ほとんどの改宗者が東方典礼正教クリスチャンとなっています。

 

しかしながら、西洋人が典礼を通し馴染みのない外国の文化を取り入れなければならないことに葛藤を覚えている際、彼らは本来は決してあってはならないことでありながらも今は必要であるところのなにかに対し、正当に反応していることを認めてあげることが大切だと思います。このことに正直に向き合うことが、改宗希望者が健全な方法で正教会に適応することにつながると思います。もちろん、このような葛藤を持たず、喜んで過去の交わりや宗教文化と決別する人も大勢います。しかし、私たちがここで言及しているようなポレミックスによって深刻化した認識的不協和音を解決できない人たちも本当にたくさんいるのです。

 

公同性・普遍性・カソリック性:全体なる伝統

 

20年にわたる正教へのわが旅の最初の10年間は、東方に恋する一方で、西方のあらゆるものに対する痛烈な糾弾レトリックに磨きをかけることに費やされました。しかし、増し加わる不安の増大(実を言うと確信だったのですが)により、私は自分の立場を反省的に再考し始めたのです。その結果、私は信仰に危機に陥り、その後さらに10年という長い間、教会に入ることができませんでした。〈公同性・普遍性に対する正教会の主張と、自らの西方伝統に無関心且つ敵意さえ抱いているように見える教会の間に、どのように折り合いをつけることができるのだろうか。〉

 

やがて私は、善意ある人々が伝える「東方 / 善」「西方 / 悪」という標準的ナラティブは間違っていることに気づきました。このことは、正教の真理を否定するものではありませんが、自分にとってつまずきの原因となりました。正教徒になるために、この誤ったナラティブを受け入れ西方伝統を否定する必要はないと分かったとき、私の危機はついに去り、問題に解決がもたらされたのです。

 

それから33年後、私は東方正教会の司祭として、愛する教会で西方典礼の奉仕と普及に努めています。このような長い霊的旅路の結果、私はより壮大で美しい、公同的な正教会を発見したのです。正教信仰はより壮大で美しくなることができるのでしょうか。信仰自体は不動ですが、その信仰に対する私たちのビジョンと経験はより深まってゆき得ます。聖レオ、聖グレゴリオス、聖ベネディクト、聖アンブシウス、聖パトリック、そして西方の豊かな賛美歌、典礼伝統、献身生活と再会することにより、私たちの使命はより効果的なものとされ、使徒的信仰の体験と理解がいよよ豊かにされていきます。

 

誤ったナラティブを修正し、私たちの伝統の全体を取り戻すための前向きな兆しがみられます。近年、真摯な正教会神学者や歴史家たちにより私たちの西方伝統が正しく記述されており、東方典礼の司祭や信徒たちもまた自分たちの西洋の遺産と再び紐帯され始めています。

 

西方伝統に疑念を投げかけることにより、私たちは自分たちの遺産の豊満性から遠ざかり、本来自分たちのものであるものを貧弱にし剥奪してきたのです。これは東方正教会が実質的なカソリック性を欠いているということではありませんが、西方伝統のしっかりとした生ける経験がなければ、より貧しくなってしまうということなのです。

 

西方伝統を奪われることは、四つの福音書のうちの一つを奪われることに似ていると思います。もし私たちがマタイ、マルコ、ヨハネの福音書だけを持っていたとしても、私たちが教会であることに変わりはありませんが、そのために貧しくなってしまうでしょう。四つの福音書をすべて持っていることは、救いの秘義を見る私たちの視点に、視座における深さと地平線を与えてくれるのです。

 

ラテン遺産なしには、私たちは公同的・普遍的証しを弱めることになるのです。フロロフスキーによれば、ラテン伝統なくして教父的総合はありえません。私たちはどのようにしてその伝統を取り戻すことができるのでしょうか。ラテン伝統は、文献や学問的な探求によってのみ回復できるものではなく、典礼生活を通して回復されるものです。このことは、「Lex Orandi, Lex Credendi」という格言に表される正教エートスの根幹をなすものです。神学者は祈る人であり、祈る人は神学者です。西方伝統は、その祈りと献身とともに、西方典礼のエートスと文化を通し、東方教会において再び息を吹き込まれなければならないのです。*8

 

ー終わりー

 

↓聖パトリック正教会のミサ祝祭の様子。(中央にいるのがカールディーン神父)

www.youtube.com

 

関連記事

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

reasonandtheology.com

*1:正教会のアンチ西洋主義は中世にさかのぼり、現在も続いていますが、その批判は数世紀の間に変容し、うねりが生じています。以下の資料の多くは、そのような姿勢を取り上げています。特に以下を参照されたい。

Vasilios Makrides, "'The Barbarian West':  Vasilios Makrides, "The Barbarian West": A Form of Orthodox Christian Anti-Western Critique," in Eastern Orthodox Encounters of Identity and Otherness: (『東方正教会のアイデンティティと他者性の出会い:価値観、自己省察、対話』(編著)に収録。)Andrii Krawchuk and Thomas Bremer (New York: Palgrave Macmillan, 2014), 141-158. これは20世紀のギリシャ正教の哲学者・神学者クリストス・ヤンナラスのアンチ西洋プログラムを研究した論文です。また、George Demacopoulos and Aristotle Papanikolaou, Orthodox Readings of Augustineの27-28ページ。New York: St. Vladimir's Seminary Press, 2008.も参照。本稿の範囲外ではありますが、当該問題を評価するためには、いわゆる「教会大分裂」についての再考が必要であると思われます。特にD. Bentley Hart, "The Myth of Schism ", Clarion Journal, 2014を参照されたい。また、Metr. Kallistos Ware, "Orthodox and Catholics in the Seventeenth Century: Schism or Intercommunion?" The Orthodox West, 2018.

*2:Patrick Henry Reardon, Reclaiming the Atonement: An Orthodox Theology of Redemption: Volume 1: The Incarnate Word. Indiana: Ancient Faith Publishing. 2015. を参照。本書序文より以下、一部引用 (pg. 14)。

「1988年に私と家族が正教会に入会した際、贖罪に関して何か新しいことや異なることを発見したという感覚を持たなかった理由を説明するために本書において自分の経験を語っているのです。少なくともこの点に関しては、私たちの正教会への移行は全く継ぎ目がなくスムーズでした。それまで私は正教救済論に関する現代の研究書を一度も読んだことはありませんでしたが、救済に関する正教会の教えは、私がすでに40年以上にわたって信奉してきた聖書の教理と全く同じものでした。私の神学の学術研究は大部分において、西洋キリスト教徒の書いた二次資料群によるところが大きかったのですが、そのおかげで私は正教会にすっと落ち着くことができたのです。」

*3:フロロフスキーは、聖アウグスティヌスを「西方教会の、いや普遍教会の最も偉大な父」と呼んでいます。 特に Matthew Baker, Seraphim Danckaert, and Nicolas Marinides, On the Tree of the Cross: Georges Florovsky and the Patristic Doctrine of Atonement, New York: Holy Trinity Seminary Press. 2016 の105頁を参照。さらに、特にThe Orthodox Westウェブサイトのジャーナルセクションの以下の記事を参照。Eric Lozano, “Ancestral/Original Sin.” Eric Lozano, “Original and Ancestral Sin: A Church Dividing Issue?” Nathaniel McCallum, “Original Sin and Ephesus: Carthage’s Influence on the East.” Nathaniel McCallum, “Inherited Guilt in Ss. Augustine and Cyril.”

*4:David Bentley Hart, “A Gift Exceeding Every Debt: An Eastern Orthodox Appreciation of Anselm’s Cur Deus Homo.” Pro Ecclesia: A Journal of Catholic and Evangelical Theology, 7, no. 3 (1998). McIntyre, John, St. Anselm and His Critics: a Re-Interpretation of the Cur Deus Homo. Alvin Rapien, “A Non-Violent Reading of Anselm’s Atonement Theology.” The Poor in Spirit.を参照。訳注:

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

journal.orthodoxwestblogs.com

www.youtube.com

*5:Marcus Plested, Orthodox Readings of Aquinas. United Kingdom: Oxford University Press. 2012を参照。本書の書評は Dylan Pahman, “Review of ‘Orthodox Readings of Aquinas’ by Marcus Plested.” Orthodoxy and Heterodoxy. 2015を参照のこと。さらに Marcus Plested, “Aquinas in the Orthodox Tradition, ”The Orthodox West.  Marcus Plested, “St. Gregory Palamas and Thomas Aquinas: Between East and West, ”The Orthodox West.  These articles are transcriptions of lectures by Dr. Plested which are viewable on YouTube.  Andrew Louth, “Aquinas and Orthodoxy.”の講義ビデオも参照のこと。訳注:

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

*6:特にMatthew Baker, Seraphim Danckaert, and Nicolas Marinides, On the Tree of the Cross: Georges Florovsky and the Patristic Doctrine of Atonement. New York: Holy Trinity Seminary Press. 2016を参照。See also the presentation given by Fr. Patrick Reardon, “On the Mass,” linked in the accompanying resource list (below).

*7:Tia M. Kolbaba, The Byzantine Lists: Errors of the Latins. Illinois: University of Illinois Press. 2009.

*8:参考資料(RESOURCE LIST)

著書

  • Baker, Matthew, Danckaert, Seraphim, and Marinides, Nicolas, On the Tree of the Cross: Georges Florovsky and the Patristic Doctrine of Atonement.
  • Briel, Matthew, A Greek Thomist: Providence in Gennadios Scholarios.
  • Cleenewerck, Laurent, His Broken Body, Understanding and Healing the Schism Between the Roman Catholic and Eastern Orthodox Churches.
  • Demacopoulos, George E., and Papanikolaou, Aristotle
    • Orthodox Constructions of the West.
    • Orthodox Readings of Augustine.
  • Kolbaba, Tia M.
    • Inventing Latin Heretics: Byzantines and the Filioque in the Ninth Century.
    • The Byzantine Lists: Errors of the Latins.
  • Lyonnet, Stanislas, and Sabourin, Leopold, Sin, Redemption, and Sacrifice: A Biblical and Patristic Study.
  • Manoussakis, John P., For the Unity of All: Contributions to the Theological Dialogue between East and West.
  • Mikitish, John, Jesus Crucified: The Baroque Spirituality of St. Dimitri of Rostov.
  • Mcintyre, John, St. Anselm and His Critics: a Re-interpretation of the Cur Deus Homo.
  • Mogila, Peter, The Orthodox Confession of the Catholic and Apostolic Eastern Church.
  • Plested, Marcus, Orthodox Readings of Aquinas.
  • Reardon, Patrick Henry, Reclaiming the Atonement: An Orthodox Theology of Redemption: Volume 1: The Incarnate Word.
  • Siecienski, A. Edward, The Filioque: History of a Doctrinal Controversy.
  • Williams, A.N., The Ground of Union: Deification in Aquinas and Palamas.

論文

ビデオ

その他オンライン資料