巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ペテロの首位性――誰が東方正教会を代表して語ることができるのだろう?(by パンデレイモン・マヌサキス神父)

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fr. John Panteleimon Manoussakis, For the Unity of All: Contributions to the Theological Dialogue between East and West (Eugene, Oregon: Cascade, 2015), 27-32. January 31, 2018(抄訳)

 

churchlifejournal.nd.edu

 

目次

 

 

一つのパラドックス

 

正教会にはたして「第一人者(primus)」は必要なのか――それも特に普遍的ユニバーサルな次元において必要なのか――という問いに関してですが、ここで自分の個人的体験を話させてください。2005年、私は「カトリック教会と正教会の間の神学的対話に関する合同国際委員会」の審議会に出席することを許されました。この国際委員会はしばらく休止されていましたが、当年ベルグラードで開催されました。

そしてこの会議に参加する中で私は逆説的気づきへと導かれていったのです。そう、「東方諸教会はローマと一致していない限り、ローマと合同することはできない」というパラドックスです。どういうことかといいますと、本来、汎正教レベルにおいて第一人者(primus)によって行使されるべきであるところの「権威」が不在であるというまさにその事により、この機構的空白(institutional lacuna)をどうにかしようとの私たちの諸努力が実を結ぶに到れていない事実に気づかされたのです。

 

換言しますと、今日、東方諸教会が自分たちの間にローマに類似した首位性を認めようとしていないというその事実そのものが、私たちとローマとの間の対話を阻む最大の障害となっているということです。

 


司教的平等(Episcopal Equality)


なぜなら、どんな種類の対話であれ――特に神学的対話であるなら一層のこと――そこに必要とされている根本的前提の一つは、首尾一貫性だからです。首尾一貫性に対する要求は、私見では、「権威」の問題に関係していると思います。つまり、誰が正教会を代表する形で語ることができるだろう?誰がそうすることのできる資格を有しているのだろうか、という問いです。

忠実な正教クリスチャンは今日、警戒すべき一つの不穏な現象に気づいています。そう、正教熱狂分子たちによる内部運動の勃興です。彼ら熱狂分子は自らのことを正当なる「正教の守護者」と自認しつつ、教会の組織的権威の上に、あるいは組織的権威に対抗するものとして自らを位置づけています。西方的なもの一切に対する憎悪に憑りつかれた「正教の守護者」たちは、首位性に関する観念をもろともに拒絶してかかり、それに代わり、(彼らが平等の構造において民主主義的だと勘違いしているところの)教会論を支持し、宣布しています。

彼らの誤りの一つは、公会議主義(conciliarity, sobornost)という概念と、司教的平等性に関する二つの概念の混在化にあります。歴史家アリステイデス・パパダキスの見解によると「総司教を含めた先代のすべての称号は、東方キリスト教世界における全ての司教職に共通していました。」

 

さらにパパダキスはアンキラのニキタスを引用しつつ次のように続けています。「すべての主教/司教は父であり、牧者であり、指導者です。そして大司教や司教に適用されるものと区別されたところの、府主教/首都大司教(metropolitans)に対する特別な教会法は存在していません。なぜなら按手は万人に対して同一であり、聖体礼儀への彼らの参加は同一であり、皆、同一の祈禱を唱えるからです。」

しかしながら、各司教管区、その序列、諸特権、特典を明確に差異化している教会法が実際には存在しています。「司教的平等」議論が理解し損なっているのは次の点です。――すなわち、秘跡的にいって、すべての司教は他の全ての司教と平等ではあるけれども、行政的にいって、全ての都市が他のすべての平等であるわけではない、という点です。それゆえ、例えば、ローマ司教は司祭制の観点からいうと他の全ての都市の司教と平等ではあるけれども、彼がローマにおける司教であるという点に限っていえば彼らとまったく平等であるわけではないのです。

「司教的平等」というのは詭弁です。なぜなら、この主張は、司教が具体的にどの都市を統轄しているのかということを考慮に入れないまま、司教と司教を比較しているからです。しかし司教座が絶対的でないことは明白です。つまり、特定の地域性への言及なしにはそれは存在し得ないということです。すべての司教は(名誉司教や補佐司教司教であってさえも)、特定の都市の司教として叙階(叙聖)され、司教職におけるその他の司教たちの間の彼の序列を決定するのはその都市です。ニコラウス・クザーヌスは教皇レオがテサロニケのアナスタシオスに送った応答に関し次のように述べています。

「仮に叙階がすべての司祭において一般的なものであったとしても、全員が同等の序列を共有しているわけではありません。なぜなら、祝福されし使徒たちの間であってさえも、栄誉(honor)における類似性にもかかわらず、そこには権威(power)におけるある種の区別があったからです。全員が平等に選出されましたが、その中の一人に卓越性(preeminent)が授与されています。」

それゆえに、第二バチカン公会議の終盤に20世紀最大の正教神学者の一人であったアレクサンダー・シュメーマン神父によって提示された抗議内容は、教会論的に根拠に欠けています。


カシディー枢機卿によると、シュメーマン神父が『エキュメニズムに関する教令(Unitatis redintegratio)』に対し出した反論の一つは「教令が総主教職(patriarchates)に与えている重要性です。なぜなら東方伝統において、総主教は他の主教たちを統轄する管轄区を持っていないからです。彼は単に同格の中の第一人者(プリムス・インテル・パーレス; primus inter pares)に過ぎません」というものです。*1

 

他方、アファナシエフおよび(彼に密接に続く形で)ズィズィウーラス*2はそのような司教的等価(episcopal parity )を受け入れがたいものとみなし、次のように言っています。

「正教神学において、総主教は主教たちの間におけるプリムス・インテル・パーレスとして捉えられています。この定式は一般的に認められてはいるものの、誤解を生じさせるものであり、この概念を正教会の歴史の中において正当化するのは難しいといえます。主教たちがあらゆる点において自分たちのことを総主教と同等の者であると捉えていたとはとても考えられませんし、総主教が自らのことを主教たちと同格のものであると捉えていたとも考えられません。総主教というのが実際、その他の主教たちの持つことの許されていない諸権利を持っている以上、この文脈においての平等性は、実に難しい主張であると言わなければなりません。自治教会の主教職の一員としての総主教はそれの上に君臨する者ではありませんが、その指導者として彼は主教統治体における第一人者です。」

それではこういった権威の問題に関し、一般に出されている典型的な回答のいくつかを手短にみてみることにしましょう。

 


「全地公会議(The Ecumenical Council)が正教会における最高権威である」という主張

 

アテネにある正教神学校の神学生だった時分、私は次のように教わっていました。「ローマ・カトリック教会とは違い、正教会における最高権威――教義的かつ教会法的諸事項を決定する絶対的力をもった一つの権威――は、ペルソナ相互間の(それゆえ非ペルソナ的)体、つまり、全地公会議なのです」と。

このように主張することにより、正教徒は陰に陽に教皇首位性(papal primacy)に対する批判を提示しています*3。教皇首位性はしばし私たちの間で、「中央集権的」「帝国主義的」「全体主義的」にして「抑圧的」教会論として戯画化されています。こういった構造に対立するものとして正教徒は、いわゆるより「民主主義的」構造と彼らが考えているモデルを掲げ、それを誇りに思っています。

しかしながら彼らは「多」によって成り立つ一体としてのシノドスが「一」なる職座を前提しているという事実にほとんど気づかずにいるのです。つまり、「一」なる第一人者(秘跡的機能に関していえば彼は同格〔inter pares 〕ですが)は首位性において彼は依然として非対等(unequal)です。同様に、総主教や府主教は、行政的にいって彼の下に位置している主教たちと同格ですが、使徒教会法34条が明確に記しているように、シノドスは彼の同意なしには何も決定することができません。

主教は洗礼を受けた全てのクリスチャンと同格であり、彼が職務を行なう際、彼は信徒たちの一人です。――実際、主教は、その他すべての聖職者たちと同様、祭服の最初の衣として白いステハリ(カトリック教会のアルバに相当)を着ますが、それはこの教会論的真理を表象しています。しかしそれと同時に、地域教会は主教なしには何事も行なうことができず、共同体として存在することさえできません。

普遍的、地域的(regional)、地方的(local)それぞれの次元において前述した均衡のとれた弁証法はその表現を使徒教会法34条の中に以下のようにみることができます。

「すべての地域の司教/主教たちは、彼らの第一人者(protos, primus)である彼を認め、彼を頭(かしら)とみなし、彼の同意なしには重要な何事もなしてはなりません。ただし、各自は彼自身の司教管区(eparchy)に関する事柄だけに従事します。。。第一人者である彼もまた、多の同意なしには何事もなしてはなりません。なぜならそれにより皆の間に合意がもたらされ、御霊の中における主を通し、神に栄光が帰されるからです。」

公会議主義(conciliarity)と首位性(primacy)の間に「あれかこれか」の二者択一式区別はありません。第一人者(primus)なしには公会議はあり得ません。哲学的に言いますと、首位性への強調は、「一」(この場合、primus)が論理的、本体論的、そして年代順的(“chronologically” )に「多」(シノドス)に先行しているという思想に一致しています。*4

 
なぜ全地公会議が教会における権威機構(an institution of authority)と考えられ得ないのかについて別の理由も存在します。(もちろん、これは全地公会議に権威がないという意味ではありません。)この議論における重みは、権威というよりはむしろ機構の概念そのものの方に置かれています。

 

機構(θεσμός)は永続性および規則性両方を含意していますが、この二つの基本的特徴は全地公会議には欠けています。全地公会議は永続的機構に関するものというよりは出来事の性質(その本質において非通常)に関するものといえます。

 

「キリストご自身が教会の頭である。だから第一人者は必要ない。」という主張


正教徒の口からしばし出されるもう一つの立場は「教会はprimusを必要としていない。なぜならキリストご自身が教会の頭であられるから」というものです。

しかしこれはユニバーサルな次元においてだけ排他的にそうだということなのでしょうか。考えてみてください。地域的次元においてもローカルな次元においても、教会構造は「司教がキリストの生けるイコンである」ということを前提しています。「教区においても府主教区においても我々はそこに頭として司教を必要とはしていない。なぜなら司教の役割はキリストご自身によって完全に担われているからだ」という主張に同意できる正教クリスチャンは誰もいないと思います。それだけでなく、こういったナイーブな主張はキリストの昇天という深遠な神学的重要性を無視してしまっています。それは下手をすれば、教会構造そのものを軽視する個人主義的敬虔に堕ちてしまう危険性をはらんでいるといっていいでしょう。

ユーカリストを除いてはキリストは物理的に私たちと共におられません。さもなくばキリストの来臨に対する教会の待望は荒唐無稽なものになってしまうでしょう。さらに、「キリストがユーカリストの中において現存している」ことは、物理的に現存し、キリストのペルソナにおいて(persona Christi)ユーカリストを施行する権威を持っている唯一の人――つまり司教――を指し示しています。この点に関し、アファナシエフは次のように言っています。

 「ひとつの体はひとつの頭(かしら)によって飾られている必要があります。それにより彼は自身のペルソナにあって全体系の一致を表象しています。教会に関する普遍理論を受け入れる時、私たちは「教会には頭としてのキリストがおられるからそれで十分」と言って普遍首位性(universal primacy)を拒絶し去ることはできません。もちろん、キリストが教会の頭であるということは議論の余地なき明白な真理であり、首位性の支持者たちとてこの真理に反論しているわけではもちろんありません。

 真に問われるべき問いはこれです。――教会に不可視的かしら(キリスト)がおられるのなら、教会に可視的かしらがいることは可能か、それとも不可能か?仮にそれが不可能なら、それならばなぜ地域教会には司教のペルソナにおいてひとつの頭が存在し得ているのか?換言しますと、普遍教会の一部分においてはひとつの頭が存在することが可能とされながら、普遍教会全体においてはそれがはく奪されているのはなにゆえか、それは矛盾していないだろうか、ということです。」

 

「信仰および儀式に関する共通した規則こそが権威の源泉である」という主張


また別の正教徒たちは「信仰および儀式に関する私たちの共通した規則こそが教会における権威の源泉であり、教会の一致を実現たらしめるagentsに他ならない」と主張しています。しかしながらこういった諸要素が、正教諸教会および正教諸共同体間における一致を保持するものとして有効でないことは歴史的にも実際的にも立証されています。さらに、キリスト教ローマ帝国内における数多くの典礼(rites)や、正教管轄区内に最近導入された‟西方典礼”諸共同体の存在は、この議論の合法性を無にしています。

 

そうなりますと、この時点において次のようなより真剣な考察が生じてくることでしょう。すなわち、首位性の職制は教会の顕現のあらゆる次元において果たして非ペルソナ的ななにかによって行使され得るのだろうか、という問いです。キリスト教神学において、一致の原則は常にペルソナである(the principle of unity is always a person)ということを私たちは心に留める必要があると思います。*5

 

 

ー終わりー

 

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