巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

晩秋の思索

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遠山谷の夕焼け(出典

 

分断線のありかを巡って

 

このビデオの中で、カッペス教授(東方典礼カトリック)が、「モラル神学において東方キリスト教伝統には取り組まなければならない課題がある」というような旨を述べておられました。

 

そういえば、昨年、Public Orthodoxy誌にて掲載された論考では、LGBTアジェンダ推進派のT神父(ギリシャ正教会)が、〈トマス神学における「自然(nature)」理解〉 vs 〈証聖者マクシモスにおける「自然」理解〉という対立のさせ方をした上で「私たち東方正教キリスト者は今こそトマス神学の誤った自然理解のしがらみから解放され、証聖者マクシモス理解を受容し(・・・そしてLGBTアジェンダ推進派になろう!)」という旨のメッセージを発信しておられました。


T神父のような論者が具体的にどのような形で聖トマス・アクィナスおよび証聖者マクシモス双方の神学を歪曲しているのか/していないのかを知るには、表面的でない両者の神学に対する理解が必要になってくると思います。この点において私は聖アクィナスにも証聖者マクシモスにも全然詳しくないので、深い理解と洞察力を持った人々の智慧を仰がなくてはなりません。


ただ素人目にもT神父は、「アクィナスに対する反感」という東方の一般感情をうまく利用し、それをくるくるっとひねった上で、自分の持ってゆきたい結論へと巧妙に人々を誘導しようとしているように思われます。さらに、T神父をプロモートしている二大主要スポンサーがフォーダム大学(イエズス会)とブリティッシュ・カウンシルであるという事実は、問題の所在がただ単に東方と西方を隔てている教義上の相違に根差しているだけでなく、それはまた同時に東方・西方をまたぐグローバルな共通事項にも根差していることを物語っているように思われます。


つまり現在、分断線は「東」と「西」の間だけに存在しているのではなく、それぞれのコミュニオン内の「伝統派」と「プログレッシブ派」の間にも今やはっきりとした形で現れつつあり、それゆえに、ある場合における‟同盟ゾーン”は、かつての線引きではもはや捉えられ得ず、物事の全体像を忠実に反映したものでもなくなりつつあるのかもしれない――、そんなことを思いました。

 


旅路における邂逅と交差

 


昨年、私が東方典礼カトリック教会にいた時、Reason & Theology番組の主宰であるマイケル・ロフトン師は迷いつつ、東方正教会とローマ・カトリック教会の両方に(居心地悪く)身を置いていました。私の記憶が正しければ、その当時彼は、土曜の夜、カトリック教会のミサに与り、日曜日、東方正教会の聖体礼儀に与っていました。私たちは共に、「東方」と「西方」を隔てる国境地帯で迷いながら道を模索する探求者だったと思います。


その後、私は「東方典礼カトリック」から「東方正教」へと移動し、ほぼ同じ時期、ロフトン師は「東方正教」から「東方典礼カトリック」へと再Uターンしました。国境地帯で私たちの歩みは一時重なり、交差した後、異なる方向へと動いていったのです。


それでは、それぞれの移動先で私たちはもう葛藤なくめでたしめでたしと安住するようになったのでしょうか。いいえ、そうではないと思います。人間は歴史的かつ重層的な存在であり、ロボットのように一クリックですべてをリセットできるわけではありません。

 

向こう岸で抱いていた各自の問題意識や課題は、こちら側の岸においても同様の問題意識や課題として私たちの心や信仰や知性に働きかけてくるかもしれません。一旦離れ、距離を置くことで後に置いてきたものが新たな光で見えてくるかもしれませんし、その過程でかつての課題がむしろ蒸し返され、場合によっては葛藤や迷いが前以上にひどくなるかもしれません。

 

知り、学んでゆく過程には常に未知なる冒険という部分が含まれているからです。真理に対して「常に」心開かれているということは真理に揺さぶられるというリスクを「常に」わが身に請け負うということでもあると思います。

 

 

らせん上にゆっくり進み、成長してゆく

 


私たちは実際本当に社会学者チャールズ・テーラーが言うように《圧力鍋》の中に生きていると思います。(テーラー用語では「交差圧力」。《圧力鍋》という表現はジェームス・K・A・スミス教授によるものです)。


 「『私たちが世俗の時代に生きるということの意味は、ありとあらゆる信仰体系が互いに競い合い、競合させられている空間に生きることである』とテーラーは言っています。それにより一種の《圧力鍋》状態が生じます。《圧力鍋》の中に放り込まれた私たちはその中で、『自分はいかに考えるべきか?』『自分は何を信じるべきか?』を巡り、ありとあらゆる方向から押したり引かれたりするのを感じます。私たちは、究極的ななにかを信じたいという強い切望心を持っています。その一方、懐疑の勢力もまた私たちの上にぐいぐい圧力をかけてくるのです。

 そのため、信仰者を含めた全ての人が今や、その交差圧力の空間内に居住しており、その圧力からいわゆる《ノヴァ効果》(=さまざまな信仰のあり方の爆発)が発出してきます。テーラーのこの分析は、世俗化された文脈においてでさえも尚、新無神論者たちのストーリーラインよりも、現代人の経験をよく捉えているのではないかと思われます。・・・この時代に人が神を信じるということは、諸信仰の競合可能性(contestability)の存在を認め、また、ある意味、信者であってさえも、ものすごい交差圧力により、時として懐疑心に苦しめられる可能性がある、ということを認めることではないかと思います。」出典

 


前進しているように見えるかと思いきや、懐疑に落ち込んだり、立ち往生したり――。でもそうしながらも私たちは御霊の働きと執り成しにより、螺旋(らせん)を描くように少しずつ少しずつ、永遠のいのち(=唯一のまことの神である御父と御父の遣わされたイエス・キリストを知ること。ヨハネ17:3参照)の中へと参入してゆく旅路にあるのだと思います。

 

信仰や理解におけるチャレンジや困難は私たちを絶望させたりシニカルにさせるものではなく、むしろ自分の限界や小ささを厭が応にも認識させ、天よりの智慧と憐れみをより一層求めるよう私たちを神と人の前にへりくだらせる恩寵の手段なのではないかと思います。

 

ー終わりー