巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

女性が「司祭」であることに対する10の反論(by 元聖公会女性司祭アリス・C・リンスリー女史)

f:id:Kinuko:20201117203127j:plain

Former Female Episcopal Priest Links Women’s Ordination to LGBT Activism

 

Alice C. Linsley, Ten Objections to Women Priests, 2019. (拙訳)

 

目次

 

 

女性司祭としての16年間


16年間に渡り米国聖公会で女性司祭として奉職してきた者として、私は司祭職の本質というものに関しいくらかの経験があります。1982年、私は司祭に叙階されました。教区司祭、家族、友人たちの励ましもあり、その当時、女性司祭になることは自分の人生にとり正しい選択であるように思われました。

 

しかしながらその後、時の経過と共に、私は女性司祭を正当化する論拠そのものに対し疑問を抱き始めるようになりました。自分が誰か他の人の靴を履いて居心地悪く立っているような、そんな違和感があったのを覚えています。その違和感を自分の主教に打ち明けたかったのですが、主教がそのような声に耳を傾けたがらないというのは目に見えて明らかでした。

「女性司祭」というイノベーションを正当化するに当たり、ガラテヤ3章28節が好んで引用されます。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラ3:28)*1

 

4世紀、聖エピファニウスが記述しているように、カタフリギア異端グループ(=モンタヌス派)も当時、女性を主教や司祭にするための論拠にガラテヤ3章28節を用いていました。「〔彼ら異端グループは女性たちを〕主教や司祭に登用した上で、男性であろうと女性であろうと性差は一切関係ない、なぜなら『男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだから』(ガラ3:28)と言っているのである。」

ガラテヤ3章28節を文脈の中で読みますと、ここでパウロがキリストの御体の一致について述べていることは明らかです。使徒パウロは今日案出されているようないわゆる「ジェンダー平等」を推進していたわけではありませんでした。最後の晩餐は参加者をかしらであるイエス・キリストに結び付けるために意図されており、それゆえ、ユーカリスト祝祭の席を女性が主宰するという考えは論外です。

こうして女性司祭制に対する私の諸疑問は増し加わっていき、それに付随して自分の司祭奉職行為がますます重ぐるしく苦しいものになっていきました。異性愛且つ聖書信仰の伝統派アングリカン信者として、私は米国聖公会が社会正義アジェンダ遂行のために聖伝を脇に打ちやりつつ、福音をラディカルに修正していく方向性に不安を覚えて仕方がありませんでした。*2

 

米国聖公会を離れる

 

ついに私は聖公会での司祭職を正式に辞め、米国聖公会を離れました。そしてそこから数十年に渡り、教会における女性の役割や歴史的司祭制について探求する私の旅が始まったのです。この時期私は、自分と同様、元女性司祭だった三人の方と対話し、さらなる理解を求め、共に学究しました。やがてその中の一人はローマ・カトリックに改宗することを決断し、あとの二人は東方正教会に改宗する決断をしました。私も両方のコミュニオンに行き、探求しましたが、私はやはり骨の髄までアングリカンであり、43年間、この道を生きています。そして聖書学、教会史、文化人類学研究を通し、私は女性司祭に関する問題について論文を書いてきました。

 

多くの聖公会同志たちと同様、私もまた、聖公会は、1976年に「男性のみの司祭職」を破棄した時点で道を誤ったと考えています。わずか一日にして聖公会一般総会は、公同的司祭叙階制を廃止し、教父たちの教えを拒絶し、聖書の権威を否むことになりました。

教会の司祭制は、歴史的に言って、司祭職にふさわしく丹念に養成され適正要件を満たすべく厳しい検査を受けた少数の男性たちに限られてきました。聖ヨアンネス・クリュソストモスは『司祭について』の中で次のように記しています。「人が教会を監督するべく要請を受け、数多くの魂のケアを信託されている時、その責務の重大さを前に、女性たちは全員、そして男性たちの大部分もまた、身を引かなければならない。」

 

1944年以前には司祭職を務める女性は皆無でした。同年、共産主義中国の聖公会信者たちの間の危機に応答する形で、香港ビクトリア主教ロナルド・ホールにより、フローレンス・リー・ティムオイ女史が女性として初めて叙階されました。彼女は後に司祭職を辞任しました。

米国において「合法的に("canonically" )」叙階された最初の女性は、インテグリティー・グループの共同総長を務めていたレズビアンでした。その他のレズビアンは「フィラデルフィア・イレブン」と呼称されるフィラデルフィア教区の女性たちでした。

 

米国においては、「女性叙階」と「同性愛者叙階」というのは初めから余りにも分かち難く結びついていたため、この二つを別々の事項として取り扱うのは困難です。両者共に「同権("equal rights" )」事項として案出され、それらは司祭職に関する甚大なる誤解を表出していました。司祭職というのはそもそも「権利」云々ではなく、共同体のアジェンダを推進する人々に授与される報酬ではありません。

 

10の反論理由

本記事において私は女性司祭に対する10の合理的反論を挙げたいと思います。

1.教会は民主主義の団体ではない。
2.女性叙階は同性愛アクティヴィズムに連結している。
3.女性叙階はフェミニスト思想に根差している。
4.女性司祭はジェンダーに関する混乱を永続させている。
5.女性司祭は聖書および聖伝の権威の拒絶を表している。


6.女性司祭はエウカリスチア(ユーカリスト、聖餐)に関する混乱を生じさせている。
7.女性司祭は教父たちの教えに対する否認を表象している。
8.女性叙階は女性ミニストリ―を害している。
9.聖職者の女性化により、男性の教会参加が妨げられている。
10.祭壇に立つ女性の存在により、いのちと死の間の聖書的区分がぼかされている。

 


1.教会は民主制ではありません。

 


1994年、教皇ヨハネ・パウロ二世は聖座宣言(エクス・カテドラ)として女性叙階に関する宣言をされました。男性司祭職は「決定的な同意を要求する。なぜならこの教えは書かれた神の言葉に基づいており、教会の伝統において始めから保持され適用されてきており、通常普遍教導権によって不可謬的に提示されてきたからである*3。」またヨハネ・パウロ二世は、教会は「女性を司祭叙階するいかなる権限も持っていない」と宣言されています。

教会シノドは投票により「教会の不変にして普遍的な伝統」を、移り行くこの世の諸価値に迎合させるかもしれません。そこから不可避的に生み出されてくるのは、霊的遺産の喪失であり、こうして共同体は公同的信仰の〈外〉に自らの身を置くようになります。今日の聖公会がその典型的実例です。

男性のみの司祭職を破棄する権威を持っている管轄区は存在しません。キリストの御体は聖公会の一方的行為に譲歩はしません。教会は民主制団体ではなく、それゆえ、教義や聖伝が投票によって変更されたり破棄されたりするようなことはあり得ないのです。*4

 

2.女性叙階は同性愛アクティヴィズムに連結しています。


歴史的に、「女性叙階への強硬推進」と「同性愛アクティヴィズム」の間には明確なつながりがあります。1974年、ローウィ・クルー(Louie Crew)が同性愛アクティビスト組織であるインテグリティーを創設した同じ年に有名な数人のレズビアンを含めた11人の女性がフィラデルフィアで叙階されました。

 

f:id:Kinuko:20201117205758j:plain

Ernest (l) & Louie (r) at civil marriage, 8/22/13、ウィキペディア


1975年9月、ワシントンDCでさらに多くのレズビアン女性たちが叙階されました。その事に関し、ローウィ・クルーは次のように記録しています。「私たちの総会後、、さらに多くの‟不規律的”女性叙階が行なわれました。当時ワシントンでは、東海岸で始まった私たちの新しい支部への旅程で、ジム・ウィクリフと私は、『叙階式にあなたがたが臨席することで、初期聖職叙任候補者たちの中にいるレズビアンたちを危険にさらしてしまうかもしれない』との友人たちの助言に耳を傾けました。」

1976年の聖公会一般総会において、「私たちは神の子供たち」決議案が可決され、同性愛行為が是認されました。1977年、ポール・モーア主教(NY)がエレン・マリ―・バレットを叙階しました。彼女は、インテグリティーの初代共同総長を務めていました。連れのいるゲイやレズビアンの人々に対し司祭叙階の門戸を開くためにはどうしても公同的叙階を打ち破らなければならなかったのです。

3.女性叙階はフェミニスト思想に根差しています。

 

f:id:Kinuko:20201117220043p:plain



イデオロギー的フェミニズムは同一労働同一賃金に関するものではありません。またそれは愛、赦し、和解、平等に関するイデオロギーでもありません。それは「階級間の経済的闘争・敵対」を「男女間の闘争」に編成し直したマルクス主義イデオロギーです。マルクス主義と同様、ラディカル・フェミニズムも諸機関や社会支配を女性たちに変移させることを目標にしています。それゆえに、イデオロギー的フェミニズムは是が非でも聖書的かしら性に反抗しなければならないのです。なぜなら、聖書的かしら性は父なる神および御子なる神の主権を表現しているからです。*5

 
フェミニスト諸議論は大抵、根拠に欠け、また不合理です。スーザン・コーンウェルは「女性たちは司祭になれる。なぜならイエスは女性だったからです」と論じています。こういった荒唐無稽な主張により、彼女は、「男性使徒たちだけを選んだイエスという伝統に基づいた」(と彼女が信じるところの)「女性たちへの差別」に立ち向かおうとしています。*6


2015年、英国国教会のエンマ・パーシーは次のように言いました。「ここ2-3年の間に私たちはフェミニズムの真の再興と関心を目の当たりにしています。若い人々はジェンダー・カテゴリーが型にはまったステレオタイプであるべきではないということに強い関心を寄せています。神というのは数多くの多様な用語で表現され得るのだということを示すような、神に関する言語を持つことが必要だと思います。」

パーシーは神のことを「父なる神」「母なる神」とその両方で語りたいと望んでいます。論点すり替え論法を用いつつ彼女は言います。「男性用語・女性用語その両方を用いることで、『空にいる老人』的な神のイメージを払拭できるでしょう。」*7

 

 

4.女性司祭はジェンダーに関する混乱を永続させています。

 


なぜ神に関する男性言語と女性言語の間に一線を引くのでしょうか。この危険な下り坂にあって私たちは、トランスジェンダー化された、もしくは、服装倒錯者のように、一つのジェンダーでありながら別のジェンダーのように見える存在として神のことを捉える罠に落ち込んでしまいます。

 

『ニューヨークタイムズ誌』のオピニオン欄で(2016年8月)、ラビであるマーク・サメツが、男性代名詞・女性代名詞が置き換わったり、転換されたりしている聖書中の事例を引用しつつジェンダー流動性をことを論じています。ですがサメツはヘブル語聖書の神がトランスジェンダーであるとは主張していません。

ジャック・デリダらは、文学におけるジェンダー転換は奥義を指し示していると述べています。それによると、ジェンダー転換が起こるナラティブの中において、他方の者が支配的声を持つようになるとデリダは言っています。通常、支配的声は男性原則・現存のそれですが、転換が起こる時、女性原則・現存が作動します。

 

旧約聖書の中には、なぜヘブライ語代名詞が時に両義的なのかについて説明する実例が多く存在します。聖書中、最初期のメシア預言箇所である創世記3章15節はジェンダー転換という奥義の最も驚くべき例です。ヘブライ語は次のように言っています。

 

יְשׁוּפְךָ רֹאשׁ וְאַתָּה תְּשׁוּפֶנּוּ עָקֵב 

"He will crush you a head and you will crush us a heel."

 

動詞の主語は三人称、男性単数形(he)であり、動詞の未完了形は未だ完了していない行為を表しています。接尾辞 ך は、動詞の述語を第二人称、男性単数(you)として特定しています。これは「彼はお前の頭を砕き("he will crush you" )」と訳され、使信は蛇に向けられています。*8

ウルガタ聖書の中で聖ヒエロニムスは、ipsaが時として主格中性複数であるにも拘らず、"ipsa" をipseの主格女性単数としています。創世記3章15節の聖ヒエロニムス訳文は次のようになっています。

 

Inimicitias ponam inter te et mulierem, et semen tuum et semen illius: ipsa conteret caput tuum, et tu insidiaberis calcaneo eius.

 

神は蛇に向かって言われます。「わたしはお前と女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に敵意を置く。彼女はお前の頭を砕き、お前は、彼女のかかとを待ち伏せる。*9

イエズス会士コルネリウス・ア・ラピデ(Cornelius a Lapide 1567-1637)による聖書注解書(Commentaria in Scripturam Sacram)は、ヘブライ語聖書におけるジェンダー転換の重要性を認識しています。彼はヘブライ語におけるジェンダー交錯を引用しつつ、男性形における動詞(yashuph, conteret)の問題に解決を与えています。すなわち、奥義や変則、特異性がある際に、女性形の代わりに男性形が使われ、男性形の代わりに女性形が使われているということです。ラピデは次のように書いています。「ヘブライ語における頻繁なるジェンダー交換:女性形の代わりに男性形が用いられている、あるいはその逆の例。(特に原因や奥義がある場合。)」

5.女性司祭は聖書および聖伝の権威の拒絶を表しています。


ジェンダー交換が「男性」と「女性」この二つに関するもののみであるという事実は、人類に対する聖書的見解がバイナリーであって、トランスジェンダーではなく、ホモセクシュアルでもなく、スペクトルでもないということを示しています。

確かに聖書における男性言語、女性言語の交錯は神性の奥義を仄めかすものではありますが、それは神に属するものではありません。キリスト教においては、神はイエス・キリストという御子のとして自己啓示しておられます。トマス・ホプコ神父が認めているように、「ご自身の被造世界における、そして被造世界に対する御行為において、唯一の神であり御父は、主として、そして本質的にご自身を‟男性的”方法で啓示しておられます。」*10

神に対する教会の関係は、祈りにおいて使われる言語そして神について語られる際に用いられている言語の中で表現されています。そしてまさしくそれ故に、私たちは御父である神と御子である神をあらわす聖書的言語を保持しているのです。言語は交渉の余地なきものです。「御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父をも持つのである。」(1ヨハネ2:23)。

 

これは使徒ヨハネが明言しているようにケリュグマです。「わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。」(1ヨハネ4:14-15)

御父なる神および御子なる神という言語は、イエスの人性・神性や三位一体の教義がそうであるのと同様、福音に不可欠なものです。

女性司祭たちに喝采を送っている人々は、「祭壇に女性が立つ」ということが私たちの神観を変貌させるものであるということを認識しています。ユニオン神学校初の女性総長であるセレン・ジョーンズ牧師はまさにそのことを言っています。「神を表象し、神を現存せしめるところの人々が女性の身体を持っている時、その事実は不可避的に、神がどのような御方であるかに関する私たちの見方を変化させるのです。」

こういった修正主義を施された言語が示すのは、聖書の権威に対する拒絶です*11聖書の言語を脇に打ちやる行為は、祭壇に立つ聖なる男性たちを他のものと置き換わらせる序曲です。こうして女性たちや自らのことを「他者」と見なす人々がユーカリストを取り仕切るようになっています。

 

彼女たちは自分たちの勝手な考えに従い伝統的祈禱文を変更し、公同的信仰の式文を放遂するに至りました。彼女たちは受け入れられた公同的信仰を、「性差別的」「家父長制的」「時代錯誤的」なものとして破棄しましたので、聖書および聖伝に対処すべく自家製ナラティブをこしらえています。*12

 


6.女性司祭はエウカリスチア(ユーカリスト、聖餐)に関する混乱を生じさせています。

 

アングリカン信者たちがユーカリストにおいてキリストの尊体尊血をいただく際、〔祈りにおける黙想の中で〕目の前に男性のかたちをみることが適切です。同じように、受胎告知のことを黙想する際、私たちは女性としてのマリアのイコン(像)を見つめるのであって、男性のかたちの像ではありません。

 

祭壇におけるジェンダー平等のナラティブにより、主イエスの御犠牲、復活、不死への御約束のしるしに変更が加えられています。それは男性としての神であるイエスのリアリティーを回避すべくユーカリストを新たに案出し直しています。そこから生み出されるのは、本物のユーカリストからはるかに劣るなにかです。それは異教の諸儀礼に類似しています。



7.女性司祭は教父たちの教えに対する否認を表象しています。

 


創案されたナラティブはまた、受け入れられた聖伝を保持するよう激励していた教父たちの権威否定をも意味しています。アンティオケの聖イグナティオスは次のように厳命しています。

 

「それゆえ、一つのユーカリストを用いるよう熱心に励みなさい。なぜなら、主イエス・キリストの御体は一(いつ)であり、主の尊血との結合をもたらす聖杯は一(いつ)であり、一つの祭壇、一人の主教です。そして私のしもべ仲間である司祭と輔祭(助祭)が共にいます。これらは全て、私たちが為すことすべてにおいて、神の御旨に従ってそれを為すことができるよう定められているのです。」*13

女性司祭というあり方に関し、教父たちの間には明確なコンセンサスがあります。聖エピファニウスは『異端論駁*14』の中で次のように書いています。

 

「仮に女性たちが神のために、あるいは教会において何か合法的なことを為すべく司祭として叙階(叙聖)されるべきだったとしたら、それは他の誰にもましてマリアに授与されるべきものだったに違いありません。・・ところがマリアは人に洗礼を施すことさえ信託されていませんでした。deaconessという奉職は教会内に存在していますが、彼女たちは司祭として機能すべく任命を受けてはおらず、司祭職に準じたいかなる働きのためにも任命を受けてはいません。彼女たちがdeaconessに任命されたのは、〔バプテスマ儀礼の際、女性信者の裸が男性の目に入らないよう〕その適切性や礼節が保たれるようとの計らいによるものです。しかるに最近のあの作り話は一体どこから来ているのでしょう。彼女たちのあの高慢、いや、彼女たちの狂気と言った方がいいかもしれませんーーは、一体どこから来ているのでしょうか。」


『司祭について*15』の中で聖ヨアンネス・クリュソストモスは次のように述べています。「神の掟は聖所〔での奉事〕から女性たちを除外しています。それにも拘らず、彼女たちはでしゃばり、そこに突き入ろうとしているのです。」

聖アウグスティヌスは『諸異端について*16』の中で、聖エピファニウスによって言及されている異端グループ、ペプーズィアン派のことに触れ、次のように言っています。「彼らは女性たちに相当な権限を与えており、祭司職まで授与している始末である。」


8.女性叙階(叙聖)は女性ミニストリ―を害しています。



聖公会のトップダウン式リーダーシップ企業モデルは地域に密着したミニストリーの中で奉仕している信徒女性たちを励ますものとはなっていません。むしろ聖公会は誇らしげに女性たちを司教座に担ぎ上げています。2019年、七人の女性が教区司教ないしは属司教に選出されました。

 

リーダーシップの賜物に恵まれている女性たちは本来、諸教区や刑務所におけるミニストリーを組織化し導き、また、貧困や病気で苦しむ人々、高齢者たちに愛の手をさしのべる働きを監督する場等で是非とも必要とされています。彼女たちは司祭や主教(司教)として必要とされてはいません。

 

司祭・主教の役割は彼女たちを他の女性たちやその他の草の根ミニストリーから孤立させます。司祭職というものはその本質において孤絶です。女性司祭たちはしばし二重の孤立感を覚えます。――教区民からの孤立、そして彼女たちのことを社会正義系の問題だと捉えている教会指導者層からの孤立です。

9.聖職者の女性化により、男性の教会参加が妨げられています。


1999年に出版された著書『不能者としての教会:キリスト教の女性化(The Church Impotent: The Feminization of Christianity)』の中でレオン・パドレスはローマ・カトリック教会およびプロテスタント諸教会における礼拝出席の変移に注目しています。統計によると、よりリベラル化の進んだプロテスタント諸教会における男性出席率の減少が顕著です。(1952年から1986年にかけ、47%から40-35%に激減しています。)*17

 
この傾向は英国国教会において顕著です。1994年、32人の女性が英国国教会で司祭に叙階されました。2014年2月、『ガーディアン紙』の統計によると、2002年から2012年にかけ、フルタイムでの女性司祭の数は41%増しです。同じ時期、フルタイムの男性司祭の数は7920人から6017人へと減少しました。

2018年の報告書では、英国国教会の女性司祭数は増加し続け、次期に向け叙階奉事の備えをしている女性司祭たちの数は男性司祭たちのそれを上回っていることが明かされています。

2017年から2018年の間に、主教や首席司祭といった幹部ポストについている女性たちの割合は、23%から25%に上昇しています。尚、この数値の中には、2018年に新たに叙階された6人の女性主教は含まれていませんので、英国国教会の女性主教の数はこれで24人になったわけです。

 

f:id:Kinuko:20201117211113j:plain

Church of England votes to allow women bishops, 2014.


1992年、英国国教会における女性叙階の決定後、50%-50%の人口比率を保持するという表明目的がなされました。これの実践が意味していたのは、女性たちを前面に押し出し、幾人かの男性たちを否認するということでした。

おそらくより重要なのは定期的に教会礼拝に出席する父親たちの数の減少でしょう。学術研究が証左しているのは、父親というのは彼の子たちが礼拝に出席するか否かに影響を与える最も要となる存在だということです。教会内における父親たちの存在の重要性についてロビー・ローは次のように言っています。「父親不在の社会に奉仕するに当たり、こういった諸教会は自らの愚かさにより、女性司祭というあり方において、自ら〈片親家族型〉教区モデルを造り出してしまっているのです。」

 


10.祭壇に立つ女性の存在により、いのちと死の間の聖書的区分がぼかされています。

 


聖書人類学の見地からいいますと、教会の司祭職というのは、アブラハムや彼の先祖たちによって知られていたヘブル司祭職との連続性の内にあります。ヘブライ人への手紙の著者が証言しているように、イエスは古代のその司祭職(ヘブル7:17)の完璧な具現です。司祭職は無比であり、古代宗教に深く根差しており、不死への希望の旗幟として表象されています。

文化人類学の研究により、司祭職というのが、男性および女性の、血の関連する働きに関するバイナリー区別をする人々の間にその起源を持っているということが示されています。司祭職というのは、血の犠牲および血による覆いに関するものです。伝統的諸社会における血の働きの文脈を考えてみてください。男性たちは命を取ることに関連した血の働きをします。(戦い、狩猟、動物犠牲など)。他方、女性は命を与える血の働きをしています。(月ごとの流血、分娩プロセスによる血など)。

女性たちは死に関わる血の働きに従事することを認められていなかったため、司祭ではありませんでした。同様、男性たちは分娩の部屋に入ることは許されていませんでした。ジェンダー役割は命と死の間の区別を映し出しており、神はご自身の契約の民に対し、その区分をぼかすようなことをしてはならないと警告しておられます。

 

「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。・・あなたは命を選ばなければなら ない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。」(申命記30:15-20)。祭壇に立つ女性は聖書的文脈における血の働きのバイナリー性質に関し、混乱したメッセージを発しています。

神の御子であられるイエスの血の御働きは唯一無比です。十字架上での主の御業は滅びゆく人々に対する責めであり、救わる人々にとりいのちを与えるものです(ローマ1:16、1コリ1:18-21)。忠実な司祭とは男性であり、彼の人生はキリストの尊血のリアリティー、救いの杯への証言そのものです。


ー終わりー

 

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

 

*1:訳注:

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

*2:訳注:

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

*3:1995年10月28日教理省回答

*4:訳注:

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

*5:訳注:

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

*6:訳注:

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

 

*7:訳注:

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

*8:訳注:Genesis 3:15
יְשׁוּפְךָ רֹאשׁ וְאַתָּה תְּשׁוּפֶנּוּ עָקֵב
He will crush you a head and you will crush us a heel
יְשׁוּפְךָ This is the verb root שׁוּף meaning "to crush." The prefix י identifies the subject of the verb as third person, masculine, singular (he) and the tense of the verb as imperfect (he will crush). The suffix ך identifies the object of the verb as second person, masculine, singular (you). So, this word would be translated as "he will crush you."
תְּשׁוּפֶנּוּ This is also the verb root שׁוּף meaning "to crush." The prefix ת identifies the subject of the verb as second person, masculine, singular (you) and the tense of the verb as imperfect (you will crush). The suffix נוּ identifies the object of the verb as third person, singular (him). So, this word would be translated as "you will crush him" (The suffix נוּ is normally the first person, plural pronoun (us) but will sometimes be used for the third person, singular).参照元

*9:"I will put enmities between you and the woman, between your offspring and her offspring. She will crush your head, and you will lie in wait for her heel."

*10:Women and the Priesthood, p 240.

*11:japanesebiblewoman.hatenadiary.com

*12:訳注:

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

*13:Philadelphians 4.1

*14:"Against Heresies" (79.304

*15:"On the Priesthood" (3.9)

*16:"On Heresies" (27)

*17:訳注:

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

japanesebiblewoman.hatenadiary.com