巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

キリスト者の間の友愛

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出典

「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」詩篇LXX132篇1節

 
「わたしたちは遠く離れていても互いのそばにおり、会っていなくても、互いのことを知っています。そうだとしても、驚くべきではありません。なぜなら、わたしたちは唯一のからだの部分であり、唯一の頭をもち、唯一の恵みに満たされ、唯一のパンによって生かされ、唯一の道を歩み、同じ家に住んでいるからです。」
ノラの聖パウリヌス(353-431)から友聖アウグスティヌスに宛てた書簡*1



 「バシレイオスと私〔=ナジアンゾスのグレゴリオス〕は共にアテネにいました。私たちは同郷にある同じ源から流れ来る川の流れのように来、修学のためしばらく離れ離れになっていましたが、あたかも元からの計画によるものであるかのように再び一つ所に合流したのです。なぜなら神がそのようにご配慮してくださったからです。・・これが私たちの友情の前奏曲だったのです。友誼の焔が私たちをして一つに結び合わせました。このようにして私たちは互いに友愛の情を抱き始めました。時の経過と共に、私たちは自分たちの生きる目標が共に、まことの知恵を求むる人生であることを確認し、こうして私たちは互いにとって全てとなりました。私たちは同じ宿、同じ食卓、同じ願い、同じ目標を共有していたのです。互いに対する私たちの友愛は日々温かく、より深くなっていきました。


 同じ希望が私たちを感化しました。そうです、学びへの追究です。こういった野心は特に嫉妬やねたみを引き起こしがちです。しかしながら私たちの間にそういったものは皆無でした。それどころかむしろ私たちは自分たちの競合心を善用した位なのです!私たちの競合は自分を一等に求めることにあったのではなく、互いに相手こそをそこに求めるものでした。なぜなら私たちは相手の成功を自分のそれと考えていたからです。私たちは一つのスピリットを持つ二つのからだのようでした。・・


 私たちの唯一の目標そして抱負は修徳であり、やがて来たりし祝福における希望の生でした。私たちはこの世を去る前にこの世から隠遁したいと願っていました。そしてこの目的を念頭に私たちは自分たちの全生活および全行動を秩序づけたのです。私たちは神の掟に関する導針に従い、修徳の道に進むことができるよう互いに激励しました。控え目に申し上げたいのですが、私たちは互いの内に正と誤を識別する基準と規則を見出しました。それぞれ人は両親につけてもらった名前があり、あるいは自分自身でつけた名前を持っています。すなわち、各自の目標や成し遂げたことに準じた名前です。しかし、私たちの大いなる求め、切望してやまない偉大なる名前、それはまさしくキリスト者になることであり、キリスト者と呼ばれることでした。

ナジアンゾスの聖グレゴリオス(329-390)の書簡(親友である聖大バシレイオスについて)拙訳*2

*1:『書簡六』2

*2:Saint Gregory Nazianzus, Oratio 43, in laudem Basilii Magni, 15. 16-17, 19-21; PG 36, 514-423