巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

共有された歴史の追憶と分裂の痛み、そして未来への希望――「宗教改革記念日」を前に

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出典

 

目次


思索メモ1


宗教改革記念日(Reformationstag,10月31日)というのは、マルティン・ルターが宗教改革を始めたことを記念する日です。2年前のこの時期に私は、以下の記事を翻訳しました。筆者は、2006年にカトリックに改宗した元ペンテコステ派、元改革長老派神学者ブライアン・クロス教授です。

 

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彼は2003年に聖公会に改宗するも、カトリック問題で内的格闘をし、一人黙々と探求をつづけました。そして回想談*1によると、ある日の午後、大学のオフィスに座っていた彼は、「自分はもうこれ以上、プロテスタントでい続けることを自分に正当化する理由を何ら見出すことができない。」という考えに達し、そのまますくっと立ち上がったそうです。そしてオフィスを出、そのまま大学近くにあるカトリック聖堂の中にまっすぐ入っていったそうです。


私も似たような経験をしました。私もまたある時期ついに、――福音主義教会の兄弟姉妹を心から本当に愛しあらゆる面において尊敬している。でも、こと自分に関する限り、私はもはや自分がプロテスタントの状態でい続けることを正当化する理由を見い出すことができない――という地点に達してしまったのです。どんなにもっともらしい言葉でカモフラージュしたにせよシスマ(分裂)は依然として罪であり、深刻な罪であり、この峻厳なる事実は倫理的次元で私に実践を伴う応答を迫ってきました。*2

 
こうしてある日の朝、私はカトリック聖堂の中に入って行ったのです。そして中にいらっしゃった神父様に「懺悔したいことがあります」と申し上げました。そして聖堂の中で私は「もしかすると自分はこれまでカトリック教会を見誤ってきたのかもしれません。主よ、現在私は御心でない信仰共同体に身を置いているのでしょうか。私はカトリック教会に帰還すべきなのかもしれません。分かりません。私は道を放浪し、迷っています。もしも改宗が御心であり、今の私が誤った場所にいるのだとしたら、どうかこの者を赦してください」と心から祈りました。

 

祈りの中で私は、16世紀プロテスタント改革運動を始めた(元)カトリック教徒の霊的子孫である私たちは、長い長い間、実家を離れ、実家の外に野営しているけれども、それでも私たちの共有された源は本当はカトリックなんだという意識を持つようになりました。実際、16世紀までプロテスタントという種類のキリスト者は存在すらしなかったのです。プロテスタント(=抗議する者)という名称は、自分たちのアイデンティティーがカトリック教会に抗議し、抗議し続ける者であるということを含意していると思います*3。思えば、私たちの霊的祖先はマルティン・ルターやジャン・カルヴァンも含め、皆、(元)カトリック教徒です。そして11世紀に東西教会が分裂する以前は、私たちは東方・西方にまたがる「唯一の、聖なる、普遍の、使徒的教会」を共通して母教会に持っていました。


思索メモ2


東方正教会の〈忠実派〉、西方カトリック教会の〈忠実派〉共に、相手こそが「唯一の、聖なる、普遍の、使徒的教会」から分離していった、という風に教会史を見ています。一千年に渡る東西教会の分裂は、西方教会内で500年前に生じた内部分裂(旧教vs新教)と同様、痛ましい歴史の悲劇であり、今日にまで続くキリストのみからだの傷です。*4

 

私は少なくとも自分の小さな人生の中においてもうこれ以上「分裂の制度化」を永続化させ、主の御心を悲しませるようなことをしたくないとの切実なる思いから、分裂した東西教会のちょうど中間地点にある「東方典礼カトリック」に改宗することに決心し、洗礼準備生(catechumen)になりました。しかしながら、東方典礼カトリック教会でカテキズムを学ぶ中、11世紀東西分裂の最大原因であった「フィリオクゥエ問題*5」に直面するようになります。(11世紀当時、東西間で真に問題になっていたのはフィリオクェ条項をめぐる聖霊論・三位一体論であって教皇制ではなかったのです。)

 

また、第一バチカン公会議、第二バチカン公会議の解釈を巡るカトリック教会内部の煩雑難解な論争および、古典的カトリシズムと現代カトリシズムの連続性・非連続性を巡る激しい内部論争にも直面し、悩みました。*6

 
フィリオクェ条項をめぐる聖霊論をアディアフォラとみなすか、三位一体神の認識にかかわる重大な真理であるとみなすかによって、ある人は「東方典礼カトリック」に改宗する道を選び、別のある人は「東方正教」に改宗する道を選ぶことになるでしょう。(その他にも、ペテロの首位性理解や無原罪の御宿り、教皇不可謬性をめぐる教義理解が道を分かつ主な焦点となります。)敬虔にして抜群に優れた弁証家たちが両サイドにいてそれぞれ論陣を張っていますので(そしてそれぞれが相手の弱点をよく知っていますので)、いざどちらか一方を選ばなければならないとなると、選択は実は困難を極めるものであるということに多くの求道者は気づくようになります。*7

 

霊的旅路の各段階で私たちは選択や解決の難しい諸問題にぶち当たるかもしれませんが、東西教会間の選択はその中でももっとも精神を消耗させる難題の一つだと思います。この谷間で力尽き、懐疑論者になる人もいるほどです。ローマ・カトリックから東方正教に改宗した『American Conservative』誌執筆者ロッド・ドレハーは、その間の迷いと葛藤と苦悶を次のように告白しています。


 「正教徒になるという決断をした時、私は祈りました。『主よ、自分が今、正しい事をしようとしているのだと願ってやみません。 この地点から私は信仰によって次に進んで行きます。もしも私のこの選択が誤っているのでしたら、ああ、どうかわが魂を憐れんでください。』

 このようにして私は自分自身に対し、改宗の決断を正当化しました。それはきちんと整頓された何かではありませんでしたし、今もそうです。それを認めます!私のこの説明では厳格な知識人たちはきっと納得いかないでしょう。というのもこれと全く同じロジックを用い、他の誰かは自分がなぜカトリシズムを離脱し、プロテスタントに改宗しようとしているのか正当化することができるからです。かつて自分は、そういったプロテスタント改宗者たちを容赦なく裁断していました。そのような時期もありました。でも今の自分にはもうそんな事はできませんし、そうしたいとも思っていません。
 自分の通らされた経験を通し、私たち人間は皆、互いにどれほど脆く弱い存在であるかということを思い知らされました。なぜ主が私たちに『私たちを試みに会わせないでください』と祈るよう教えられたのか、そこには深い意味があるのです。」*8 

ロッド・ドレハーは別の箇所で次のように改宗者の痛みを表現しています。


「・・私がここで申し上げたいことは、全ての改宗ストーリーが勝利に満ちた凱旋ナラティブであるとは限らない、という事です。凱旋ナラティブにおいては改宗者は改宗先のコミュニオンで豊満性と全き満たしを経験しています。そして当該コミュニオンに属する人々はそんな凱旋ナラティブを聞きたがっています。しかし現実はそうではないかもしれません。時として、少なくともある一定期間、後ろに置いてきたもの・拒絶したものからもたらされる痛みの方が、現在受容したもののもたらしてくれる喜びよりもより触知的です。それが包み隠すことなき生の姿です。この事を表現することはあなたや私にとって困難であるかもしれません。なぜなら、あなたや私がかつて属していた信仰コミュニティーの人々はそれを聞きたがりませんし、一方、新しく属するようになった信仰コミュニティーの人々はそんな私たち改宗者の心の動きや状態をどう取り扱っていいのか分からない場合が多いからです。」*9 


思索メモ3


ある日私は、モンゴメリーの作品の主舞台であるプリンス・エドワード島に住むあの素敵な人々の大半が改革長老派教会に属するプロテスタントであることや、「小さな道」の小さなテレジアがカトリックの聖人であることなどを思っている内にいつしか涙を流していました。

 

もしも教会が分裂していなかったら、アン・シャーリーが長老派信者であることや、テレジアがカトリック聖人であるとかいう詳細をいちいち気にせず、擁護・弁明・反論する必要性も感じることなく、一つの教会という家族の一員として私たちはもっと自由に、もっとのびのびと、もっと屈託なく主の家の庭を駆け回ることができていたのかもしれない。そう思うと悲しくて悲しくて仕方がありませんでした。

 

そうした事を神父様に打ち明けると、彼はヨハネの福音書1章9節の御言葉を私にくださいました。「すべての人を照らすそのまことの光」。まことの光であるイエス様は一部のコミュニオンの人たちだけでなく、すべての人を照らしておられる。私たちは東方正教クリスチャンとして正教会の中に真理の豊満性があると信じている。でもそうだからといって、他のコミュニティーに真理の諸側面がないと考えるのは間違っている。仏教の中にでさえ真理の一側面はある。だから私たちは他の体系やコミュニティーの中にある真理の諸側面を認め、その文学や文化を鑑賞することもでき、他方、真理とそぐわない諸側面に関してはそれらを拒まなければならない――。そういって私を慰め、前に進むことができるよう励ましてくださいました。


思索メモ4


私は、この旅路の中で、宗教改革およびそれにつらなる一切の事象や人々を情け容赦なく断罪する一部の東方正教やカトリックの人々に遭遇しました。彼らは顔の見えないペーパー上の「プロテスタント異端者」という‟謀反者たち”を十把ひとからげにくくり、何ら心に痛みを感じることなく彼らを完全否定し去っていました。そして彼らはプロテスタントの人々の敬虔や聖性、宣教、デボーション、証などを「聖霊なき単なる感情の惑わし」として片づけようとしていました。

 

本当にそうでしょうか。『ブレイナードの日記』を読んでそれが「単なる感情的惑わし」と片付けられる人が本当にいるでしょうか。彼らは宗教改革の背景に関しても、往々にして不正確且つ異様なまでに断定的であり、それでもう能事足れり思っている風でした。(同じ事が、東方正教徒やカトリック教徒のことを「福音の真理を知らず、行ないによって救いを得ようとしている‟新生”していない人々」と断罪する一部のプロテスタント教徒についても当てはまると思いました。そういった人々の多くは皮肉にも東方正教とカトリシズムの基本的教義の相違さえ把握していません。)

 

そんな中、ルイ・ブイエ(Louis Bouyer)著『The Spirit and Forms of Protestantism』は、学術的水準の高さは勿論のこと、彼の慈愛と公正心に満ちたアプローチにより、私たちに、より深く、よりバランスの取れた宗教改革観を提供してくれているように思われ、とても励まされました。ちなみにブイエは元ルター派の神学者で後にカトリックに改宗された方です。


思索メモ5


「教派の違いを超え、合同で~~する」という表現は往々にして「教義的・教会論的ミニマリズム」「教義的妥協・リベラリズム」「宗教的無関心主義」の隠れ蓑として誤用されていると思います。

 

「教派」の「違い」を「超える」ことが果たして可能なのか否かを考察するに当たっては、以下のような問いが自分自身に対してまず徹底的に問われなければならないと思います。


ーそもそも「教派(denomination)」や「教派主義」というのは合法的なものなのか?*10


ー○○という教義に関し、A教派とB教派で相反する解釈がなされ、それが教義の「違い」となって信仰告白に現れているが、その「違い」は果して乗り越えられる種類のものなのか。それともこの種の相反性は、一方が真で、他方が偽であるという決断を私たちに否が応にも迫るものなのだろうか。仮にそうなら、○○という教義に関し、真を信奉するA教派と偽を信奉するB教派がその真偽の「違い」にあえて目をつぶり、真偽の「違い」を見て見ぬふりをしながら「合同する」という行為は、真理なる御方イエス・キリストに対する一種の冒涜ではないだろうか。そこには巧妙なる詭謀と妥協そして偽善が見え隠れしていないだろうか。「そもそもなぜフェンスがそこに建てられたのかを知らないうちに、それを取り外そうとしてはならない。ーー決して。」(G・K・チェスタートン)。*11


ー教派の違いを「超える」ことは何を含意しているのだろう。それは教派の違いの「相対化」を意味しているのだろうか。逆にいうと、教派の違いを「超える」ことが実際本当に可能なら、なぜC教派やD教派といった個々の教派は今日も存在しなければならないのだろう。彼の属する教派がCでありDでない根本的理由がもはや見い出せないなら、なぜ今も彼らはC教派という看板を掲げているのだろう。CがCでなければならない決定的理由がないのなら、CがCであると言い続けることはキリストの御体のために益にならないではないか。そうではないだろうか。それでは無教派になろうか。超教派になろうか。しかし「無」教派というのも結局のところ、「単立・個人」教派という一つの教派であり、「超」教派もまた、教義的・教会論的ミニマリズムを下敷きにした、霧の立て籠もる曖昧さと妥協体制なしにはそもそも成り立たないのではないだろうか。*12

  

ー私たちはできる限り、一致に向かい進んでゆかねばならない。真理を犠牲にした「一致」はまことの一致ではあり得ないし、「まことの一致」への真剣真摯なる祈りと努力は、意味なき偽りの区分や惰性による区画化を突き破るに違いない。その突き破りは徹底した自己吟味と己の信ずる信仰内容の検証、弁証、反証を通し為されるだろう。もはやそこに安全ゾーンはない。それは私やあなたの慣れ親しんだ足場を爆破し、未知のゾーンに押し出す。「まことの一致」は絶えざる自己との闘いであり、論駁であり、自己放棄の覚悟なしには為されない。私たちが「一致」を作り出すのではなく、「一致」は受肉されたイエス・キリストの御体なる教会においてすでに存在している。各自がそれぞれその「一致」に参入されなければならない。主よ、われらを憐れみ給え。


思索メモ6

 

「解釈の営為に、よりよく親しんでいくことによって分かってくるのは、『ある見解』と『暫定的予断』との間の〈交渉〉は、交渉の余地なき固定した諸前提間の戦いといったものでは全くないということです。予備的理解および、より豊満なる理解に向けての私たちの旅路には、再交渉、再形成、修正のための余地がいくらもあり、それらはそれぞれの部分や全体に引き続き私たちが取り組んでいく過程でなされていくものです。」*13

 

「宗教改革は何であったのか?そしてそれは現代を生きる私たちにとって何を意味しているのか?」この問いは、私たちが現在どのコミュニオンに属していようとも新鮮に問われるべき価値ある問だと思います。この点に関し、東方正教会のアンドリュー・ステファン・ダミック神父が次のような感銘深い文章を書いておられました。彼の思いに自分の思いを重ねつつ、この文章の引用を持って本記事を終わりにしたいと思います。

 「・・しかし私たち正教クリスチャンは上記に挙げた一連のプロテスタンティズム諸問題という文脈の中に自らを置いてみる必要があるのではないでしょうか。つまり内在的に閉じ込められた私たちの生活の中に〈超越的なるもの〉がますます入って来れなくなっている現代世界に私たちは皆置かれているということです。こういう現象の咎の大半を宗教改革の〈脱肉的 excarnated〉キリスト教のせいだと言うこともできるでしょう。ですが現実的に言って私たちは現在皆、それを経験しています。その意味で私たちは皆、実際のところ、宗教改革の後継者なのです。それから逃れられている人は一人もいません。

 個人的次元で言っても私自身、宗教改革の後継者です。人生最初の23年間、私は福音主義世界で生きてきました。両親は宣教師でした。「プロテスタントとしての自分の過去だって?もうそんなもの葬り去ったよ」とそれらを全て過ぎ去ったことであるかのように物語ることもできるかもしれません。でも宗教改革が自分に何らインパクトを及ぼさなかったかのようなフリをすることは自分にとり愚かなことです。というのも、勿論、それは私に影響を及ぼしたのであり、しかもその大半は自分にとってプラスになるものでした。自分の父母、それからさまざまな牧師先生や聖書教師の方々から私は幼少時代より、イエス・キリストを愛すること、聖書の御言葉を愛すること、そしてこの世的なものを超えたところにある天的なものを求めることの大切さを教えてもらいました。
 
 私はまた、文化を向き合うことは私たちがキリスト者であることの意味の一部分であるということも学びました。使徒たちはそのためにイエス・キリストによってこの世に遣わされたのです。それは要塞を築き、そこの銃眼付き胸壁から敵に嘲りを投げつけながら「この世が求めている聖杯を自分たちはすでにゲットしている」と高言するためではなく、全世界の人々を教会に招き入れるためでした。そして福音主義のある一角は実際、その点において本当に尽力・健闘しています。――たとい、彼らの福音提示は、正教の視点からみると正しいあり方ではないとしても、です。

 私はまた、多くのプロスタント信者のバイタリティーと献身にも感銘を受けざるを得ません。特にイエス様をいかにしてこの世の人々に伝えていくのかに関する彼らの創造性はすばらしいと思います。正教徒は、それが正教伝統と全く調和している時にも、創造的宣教には余り興味を示していません。確かにある種の新しい宣教表現は正教にとって間違いなく有害ですが、他のあるものは教父たちのプロジェクトと調和しています。歴代の教父たちもまた、彼らの生きた時代に対し、忠実にそして創造的に応答してきたのです。

 宗教改革に対する私の究極的望みは、プロテスタント信者の方々が正教会の中に導き入れられることです。しかしながら私たち正教クリスチャンはその希望を勝ち誇った様で言い放つことはできないと思います。もしも私たちの態度が「自分たちは他のみんなが必要としているものを既に得ており、彼らはそれを得るべく跪き、悔い改めなければならない」的なものとして外部の人の眼に映っているのなら、そのような私たちの声に耳を傾ける人は誰もいないでしょう。そういう態度は、正教が真であるのは私たちがすごい人たちだからだという印象を人に与えてしまいます。でも私たちは実際、そんな偉大な人たちではありません。正教信仰は本当に高価な真珠だと私は信じていますが、それと同時に残念ながら私たち正教徒は、それを畑に隠し、埋め込むことにかけても長けていると思います。

 あるプロテスタントの方がイエス・キリストを愛し、イエスが神であり人であり、ニカイア信条に書いてある通り三位一体の教義を信じているとします。その際、私たちは最も核となる事柄を共有していると思います。しかしそれで万事OKなどというふりをするつもりはありませんし、私たちの間には非常に重大ないくつかの相違点があり、それらは永遠につながる含意を有しています。しかし誰かがキリストを愛している時、私は彼のことをもっとよく知りたいと思うし、彼の信仰をより良く見つめたいと思います。たといその人が未だキリストを愛していないとしても、その際にもやはり私は彼のことをより良く知りたいと望み、自分のできる限りにおいてイエス・キリストを彼に示そうと努めると思います。

 私は果して宗教改革が起こるべきだったのか否かについて何か述べようとは思っていません。確かに当時、ルターやその他の宗教改革者たちのローマに対する不満の幾つかは、真正にして根拠の十分なるものであったことでしょう。ですが、この点について横から何か口出しをするのもどうかと思います。といいますのも、私はプロテスタント教徒ではなく、ローマ・カトリック教徒でもないからです。正教徒として私はどちらかの側に味方に付くよう選択を強いられてはいません。この議論の是非如何により私の教会の存在の真正性が証明されるということには全くなりませんから。

 しかし宗教改革が起こったという事実は依然として残っています。糾弾をやめるだけでなく、私たちはまた自分たちとプロテスタント信者の方々の間に存在する類似点や相違点について熱心にディスカッションすべきだと思います。そしてその際、私たちは統合性と愛をもってそれに臨むべきです。私たちはポレミカルな態度、それから妥協、その両方を慎むべきだと思います。(ポレミカルな論法は意図的に教会を攻撃し、反論してくる人々に対し制限して使用されるべきだと思いますし、教義的事柄における妥協は正しくありません。)

 そして最も大切なこと――それはあなたが今向かい合っている相手はまぎれもなく生身の人間であるということです。つまり、キリストは彼を愛し、彼をご自身の教会に求めておられるのです。もしも彼がすでにイエス・キリストに信仰を置いているクリスチャンであるのなら、私たちは主に対する彼・彼女の愛ゆえに、(たといその信仰表現が私たちのそれとは多少異なっているとしても)それを喜ぶべきでしょう。

 そして最後に、私たちはすべての人々、特にクリスチャンの方々を、教父たちの豊かなる相続遺産という宝の元に根気強く招待すべきだと思います。特に、使徒たちから直接信仰を受け継いだ初期キリスト者たちからの相続を、です。広範囲にして甚大な影響ゆえ、現代社会に生きる私たちは皆、宗教改革の相続者です。ですが全てのクリスチャンはまた、聖なる教父たちの相続者でもあります。彼らは信仰を受け継ぎ、聖書を正典カノンとして編纂し、その聖書を解釈してきました。これは深遠にして豊かな相続遺産であり、へりくだった心でキリストを日々求めている全ての魂の有益な糧となるでしょう。」*14

 


ー終わりー

 

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*2:

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*3:「私たちはもう以前のように抗議する者ではない。私たちはカトリックの人々とも理解し合い、愛し合いたい」という願いの元、あえて「プロテスタント」という名称を避け、「ブラザレン」「信仰者」「エヴァンジェリカル」「イマージング」といった別名称を核心的アイデンティティーを表すものとして用いているプロテスタント系譜のクリスチャンの方々もおられます。私自身も長い間、この路線で模索していましたが、どのあり方も結局、「16世紀にカトリック教会から分離し、その結果、使徒継承を失い、シスマ(分裂)という状態に置かれている」という教会論的非合法性を埋め合わせる代替物にはなっていないし、また、なり得ないという悲痛なる事実に直面せざるを得なくなりました。

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*7:

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*8:www.theamericanconservative.com

*9:www.beliefnet.com

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*12:

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*13:Anthony C. Thiselton, Hermeneutics: An Introduction

*14: 

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