巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ロマニデス神学を再考する。〔その2〕(by セラフィム・ハミルトン)

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Seraphim Hamilton, Orthodoxy and Catholicism (1): Similarities and Ecclesial Status, 2017.(コメントの部分を拙訳)

 

質問者のコメント


質問者:アンチ・スコラ哲学は、現代の立場ではなく、14世紀のバルラアムと聖グレゴリオス・パラマスとの論争にまで溯ることができます。比較的新しい現象は、――ネオ・スコラ哲学的統合および20世紀正教アカデミック神学者たちへの影響を懸念しそれに対抗する形でアンチ・スコラ哲学主義が再構築されたことにあるのであって――、アンチ・スコラ哲学自体にあるのではありません。イオアンネス・ロマニデス神父はこの立場を代表しています。というのも、彼は自身の諸批評を、聖グレゴリオス・パラマス著述の精読に基礎づけているからです。正教神学の偽形態に関し、以下、非常に明瞭なる記事があります。

 

www.parembasis.gr

 

 

ハミルトン師の応答

 

アンチペルソナ主義(antipersonalism)――危険な教義


ハミルトン師:お返事が少し長くなるかもしれませんがご了承ください。あなたの引用した記事は、イオアンネス・ロマニデス著述群の中に存在する深刻なる神学的誤謬を具現化していると思います。

記事の終盤近くで、筆者はアンチペルソナ主義(antipersonalist)的議論を推進していますが、これは異端すれすれの非常に危険な教義だと私は考えています。というのも、この理論を一貫して押し進めてゆくと、それは教会の神学的伝統全体を弱体化させてしまうからです。この記事の中で描き出されている「東方キリスト教」と「西方キリスト教」の相違に関する諸主張の大半は、カトリック神学をひどく誤った形で述べているだけにとどまらず、それらはまた正教神学自体をも深刻に歪曲しています。

私見では、キリスト教神学構築において理性の果たす重要な役割に関するフロロフスキイ教説を要約した以下の論考は、西洋諸国に住む正教クリスチャンが読むべき最も重要な論考の一つだと思います。なぜなら、敬虔主義を好むがゆえに理性的そして綜合的な神学を実質的に破棄してしまっているロマニデス体系は現在、多くの西洋正教キリスト者の精神に非常に大きな影響を及ぼしているからです。

 

www.academia.edu

 

聖グレゴリオス・パラマスと、ロマニデスの描き出す〈パラマス像〉のギャップに驚く


聖グレゴリオス・パラマスは確かに、バルラアムがある種のスコラ学神学者たちから援用していた特定教義や諸議論に強靭に反論していました。しかし方法論的基盤という点で果たして聖グレゴリオスがスコラ哲学に反対していたかというと、その証拠は見い出されないように思います。記事自体、ロマニデス神父の諸見解に全面的に依拠しています。

 

私はロマニデス神父の著述群を読み、その後、聖グレゴリオス・パラマスの著作を自分で読み始めました。パラマスの著述精読を始めるや否や、筆者聖グレゴリオスが、ロマニデスの描き出す〈パラマス像〉と余りにかけ離れているのに驚きました。

 

ロマニデスの描き出す〈パラマス〉は、形而上学に反対し、演繹的論拠に反対する人物でした。それがどうでしょう。実際の聖グレゴリオスは著作の中でなんと哲学的諸議論を繰り広げているではありませんか!しかも彼は肯定神学(cataphatic theology)を斥けず、否定神学(apophatic theology)のパートナーとして、前者の必要性を是認していたのです!聖グレゴリオス神学の案内人としてロマニデスに信頼を置いている人はきっと道を誤ることでしょう。

 

東西の教父たちとギリシャ哲学

 

それでは当該記事の中で打ち出されている特定の諸主張のいくつかを取り上げてみることにしましょう。「西方神学の根本的特徴は、それが、プラトン、アリストテレス、新プラトン主義者たちの古典的形而上学を用いていた、という事にあります。」これは異様な言明です。というのも、東方といわず西方といわず、東西の教父たちはギリシャ哲学者たちから大いに取り入れているからです。

 

新プラトン主義(もしくはそれに非常に類似したもの)は、特に聖ディオニシウス・アレオパギタを通し、東西双方に多大な影響を及ぼしました。事実、聖ディオニシウス及び彼の新プラトン主義的な哲学的神学はパラマスにもアクィナスにも共通して継承されています。パラマスとアクィナスの相違は、どのようにして彼らがそれを採用したか、という点にあります。

「エネルゲイア」はアリストテレスによって造りだされた言葉です。(デイビッド・ブラッドショー教授著『アリストテレス――東方と西方(Aristotle East and West)』の中で説明されているように。*1.)古典的形而上学は、七回に渡る全地公会議によって宣明されたキリストの福音を表明するに当たって欠かせないものです。

 

当該記事はまた、スコラ神学は「教父たちの神学から離脱してしまった」と主張しています。曰く、スコラ神学は「理性を通し教会のドグマを打ち立てようとし」、「キリスト教教理をそ組織的・体系的なものにした」と。これは歴史的信憑性に欠ける主張です。

 

ダマスコの聖ヨアンネスの『正統信仰の解明*2』は組織的・体系的にキリスト教信仰を解明しているにとどまらず、神の存在証明に関する合理的議論で著述をスタートさせているのです!

著者は、肯定神学を犠牲にする形で否定神学を強調し、キリスト教神学における理性の果たす役割を誹謗していますが、一方の聖グレゴリオス・パラマスは両者が等しく必要であるという事実を相当の時間をかけ力説しているのです。彼は哲学的学びや研究を肯定していました。

 

「聖書」と「教父文書」の間の区別を実質上、破棄してしまっている。

 

著者はロマニデスの思想に従い、「(人類に対する)神の無比にして決定的なキリストにある啓示としての聖書」と「とこしえの聖伝および教会教義の霊感された証人であるところの)教父たち」の間の区別実質上、廃棄してしまっています。曰く、両者は結局同じ種類のものであり、単に異なる形態として表出しているに過ぎないと。

 

これを、レランスの聖ヴィンセント(5世紀)の教えと比較してみてください。聖ヴィンセントは著書『Commonitorium』の中で、聖書の質料的十全性に関し教説しています。聖書が典礼的に取り扱われている事もまた、聖書の持つ無比なる役割に対する証言です。しかしながら、ロマニデスは、霊感に関する彼の特異な見解ゆえに、「両者は結局同じ種類のものである」と結論せざるを得なかったのです。*3

 
著者は記事の終盤あたりで、「ペルソナ主義("personalism" )を批判しています。こういった批判は、近年、「伝統主義者」陣営の中で一般によく聞かれるようになっていますが、これは全くもって擁護不可能な立場です。(ズィズゥーラスの最も辛辣な批評者であるルドヴィコスも含め)教父伝統に精通している人の中でこのような事を主張している人は誰もいません。

 

三位一体神のいのちと人間のペルソナの間には何らアナロジーがない?

 

第一に、「三位一体のいのちと、人間のペルソナの間には、何らアナロジーがない」という考えは荒唐無稽です。私たちは神のかたちに似せられて造られました。御父はとこしえなる御子のとこしえなる御父であられ、そうであるがゆえに、御子は私たちを子らとすべく受肉なさいました。この事実一つをとっても、三位一体内の関係が、私たちの神化(divinization)にあって実現しているということが明示されています。

さらに、「教会は三位一体のいのちとの間に何らアナロジーを持っていない」という主張は率直に言って、、ひどすぎます。証聖者マクシモスは、受肉したロゴスであられる一格(one person)の中における神性と人性の相互浸透を描写する方法として、相互内在性(perichoresis, mutual indwelling*4.)という言語を発達させました。

 

その後、他の教父たちは、この言語を、神的三位格の相互内在へと適用させていきました。要するに、キリストの人性の神化こそ、私たちの神化のルーツであり母胎なのです。神的三ペルソナ間の関係性を描写するのに全く同じ用語が用いられており、私たちはキリストを通し、相互内在的抱擁へと組み入れられるのです。

 

否定神学(apophatic theology)とは?

 


こういった教説を排除すべく否定神学を用いるというあり方は、そもそもその人が否定神学が何であるのかを理解していないという事実を指し示すものです。否定神学が意味するのは、われわれ人間は、「神的ウーシアに関し積極的諸属性を断定できない」ということです。これは哲学的議論から生み出されたものです。

 

すなわち、明瞭さ(intelligibility)というのは、ロゴイ-エネルゲイア(logoi-energies)間の相互関係の結果であり、聖大バシレイオスが教示しているように、エネルゲイアゆえに私たちは神に諸名称をつけることが可能とされているのです。エネルゲイアは、ニュッサの聖グレゴリオスが言うように*5 、ウーシアに内在的な諸能力の実現であり、それらは神の本性を制限することなく、それを表現しています。

神は一なる方であり、そこから神的エネルゲイア間の相互関係は発出しています。それゆえに、神は必然的にそれらの上に立たれ、従って、理解を超えています(above intelligibility)。だからこそ、私たちはウーシアに関し、否定的断言しかできないわけです。詳しくは、エリック・D・パール著『Theophany: The Neoplatonic Philosophy of Dionysius the Areopagite*6』をご参照ください。

否定神学は、「自分たちは神学なんぞそもそもできっこないのだ。不可能なのだ」ということを主張すべく、やたらめったら辺りに投げ散らかしていいような、そういう概念ではありません。それは的確に何かを意味しており、その他の事柄を意味してはいないのです。ロマニデスや当該記事著者の見解が誤っていることの証拠は、証聖者マクシモスやナジアンゾスの聖グレゴリオスの著述の中に在ります。両者共になぜ神が三位一体であるのか明瞭に語っています。

仮に否定神学に関する著者のおびただしくだだっ広い適用が正しいのだとしたら、それは全く擁護不可能な代物になります。聖グレゴリオスおよび聖マクシモスはそのような適用のさせ方はしませんでした。「神性は孤立しておらず分割されてもいないゆえに、それは御子をお生みになった御父、そしてエネルゲイア的関係性の中における御父と御子を結び合わせるべく御霊が発出されるところの御父――の内でのみ実現される。」と言っています。キプロスのグレゴリオスおよび聖グレゴリオス・パラマスもそのように教説しており、それはブラケルナエ公会議(Council of Blachernae)で規定されました。


永遠なる三位一体の関係は、人間間における諸関係の土台

  

最後に、教会は家族です。そして三位一体神のペルソナ間関係は家族の基礎です。それゆえに聖パウロはコリント人への手紙11章において「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である」と言っているのです。男性と女性は――御霊によって御父と御子が結び付けられているように――御霊によって結び付けられています。(これはフィリオクェ主義ではなく、eternal minifestationです。)

 

さらにパウロはエペソ人への手紙3章において、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である御父(3:15)のことを言及しています。言い換えますと、永遠なる三位一体の関係は、人間間における諸関係の土台であるということです。

アンチ・ペルソナ主義的神学はまたカルケドン〔公会議〕を台無しにしています。二重のホモウーシオン(homoousion)こそ、キリスト論の真髄です。キリストはご自身の神性において神と一つの本性であり、ご自身の人間性において私たちと一つの本性です。本性(nature)というのは、教父的伝統でいきますと、ペルソナの内容です。キリストの二重の共実体性(double-consubstantiality )によってこそ、私たちは三位一体神の永遠なるコミュニオンへと織り込まれていくのです。

 

アンチ・ペルソナ主義は、――20世紀であろうと、2世紀であろうと、東方であろうと、西方であろうと――聖伝全体の基盤に対する拒絶です。(私の厳しい語調をどうぞお許しください。これはあなたに向かってなされているものではなく、このナンセンスな新教義を促進し、教会内に不和や分裂を生み出す原因を作り出している何人かのこういったギリシャ人神学者たちに対し向けられています。)

これは、ネオ・アポリナリオス主義の教えです。ネオ・アポリナリオス主義は「神的理性であるところの神的ロゴスが、受肉を通し人間精神(mind, 知性、心)を聖化し、それにより、私たちが身体、心、霊において神に関する真理を知るに至ることを可能にせしめる」という教えを拒絶しています。

著者はまた、例によってありきたりのコントラストを繰り返しています。すなわち、西方の救済論は東方神学とは重大なコントラストをなしている。前者は、神の御怒りにフォーカスをしぼり、後者は神の愛にフォーカスを絞っている、という説明です。この点に関し私はビデオ*7を作成しようと思っています。というのもこれは真ではないと思うからです。

 

これはアンセルムスの教えのひどく貧弱な提示です。(*記事が暗示しているのとは対照的に、贖罪における充足説は刑罰代償とは同一のものではありません*8.)。著者は、私たち自身の正教カノンや典礼伝統の中におけるおびただしい法的言語の存在に言及していません。アンセルムスおよび東方伝統に関する一連のこういった主張は、20世紀になって初めて登場してきたものです



追伸:ペルソナ主義に関しもう一言付け加えさせてください。記事の中で著者は「(ペルソナ主義は)神的エネルゲイアを神的ヒュポスタシスと同一視している」と主張していますが、これは異様な言明です。スタニロエやロースキイはそのような事はしていませんでした。ペルソナ(person)は、彼の本性ゆえに彼の意志を通して行為します。ペルソナは行為の主体であるのであって、それと同一視されているわけではありません。この点に関する彼らの新教義がいかに深刻な形で教父神学および20世紀の神学全史を歪めているのかについては強調してもしきれません。

 

ー終わりー

 

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*1:訳注:

reasonandtheology.com

*2:訳注:『知識の泉』『中世思想原点集成3 後期ギリシャ教父・ビザンティン思想』平凡社に第三部「正統信仰の解明」の第1章から第81章までが収録されている。翻訳 小高 毅。

*3:訳注:

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*4:訳注:相互内在性(perichoresis, mutual indwelling)に関する関連記事 

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*5:Michel R. Barnes, The Power of God: Dunamis in Gregory of Nyssa's Trinitarian Theology, 2001を参照。

*6: SUNY series in Ancient Greek Philosophy, 2012

*7: 

www.youtube.com

*8:訳注: 

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