巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

時――永遠をあらわすイコン(by セラフィム・ハミルトン)

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Seraphim Hamilton, Why Orthodoxy? 4. Orthodox theology is beautiful and useful.(拙訳)


〔アンチ・カトリックではないにも拘らず〕依然としてなぜ私がローマ・カトリックでないのか、をここで説明できるように思います。聖書、教会史および哲学的神学を学ぶ中で、私は、フィリオクェ条項への正教反論論証がとてつもなくパワフルであることを発見しました。ウーシア(essence)、ペルソナ(person)、エネルゲイア(energies)という三重の区別という教義を肯定してはじめて、御子の御霊に対する永遠の関係を理解することができるということが分かったのです。

 
大半の西方神学〔カトリック&プロテスタント〕は、二重の区別というフレームでこの課題に取り組んでいるため、哲学・神学の領域において、ありとあらゆる諸問題が生じてきます。例えば、西方神学者の多くは、三位格における相互内在性( circumincessio、perichoresis ) がいかにして人類と共有されているのか、ということを説明することに非常な困難を覚えています。

 

一方、正教神学内においては、この相互内在性は神的エネルゲイアの機能であると理解されています。それぞれの位格が永遠に互いの諸活動(エネルゲイア)に与っているゆえに、三つの格(ペルソナ)は相互に内在しているのです。それゆえ、神的エネルゲイアへの偶発的(contingent)参与により存在している被造物は、あらゆる次元においてこの相互内在を反映しており、三位一体におけるこの関係性は、――教会、国家、家族という――人類社会全体におけるモデルとなっています。

哲学において、神的エネルゲイアの教義は「時間」に関する哲学理解を深め、それをより明瞭にしてくれます。例えば、時間というのは永遠の対ではなく、永遠をあらわすイコンです。過去、現在、未来がより深遠に相互内在するにつれ、時はやがて永遠の懐へと栄化されていきます。そこにおいては、あらゆる過去の「時」はその目標に到達し、(現在が牽引しているところの)未来は、終末において完全に実現されます。

 

さらに、永久性(timelessness)は、永遠(eternity)と同一ではないと私たちは理解しています。永久性(timelessness)は、ウーシアの内に在する神の述語であり、アポファティックな言明です。より平易に言えば、時の概念がもろともに神的ウーシアを超越している、ということです。しかし時はリアルです。なぜなら、それは、栄光から栄光へと被造物を支える、神のエネルゲイア的維持の結果に他ならないからです。三重の区別に関する理解なしには、時がいかにしてリアルであるのかを是認すること自体、困難です。その結果、ある種の神学者たちは「時」を単なる紙上の線としてしか見なくなっています。

この教理は、いかにして万物がロゴスを通し造られているのかをよく説明しています。御父は御霊の中で御子を通しとこしえに行為され働いて(energizes)おられるゆえ、神はロゴスと呼ばれています。あらゆる被造物の諸形態はそれぞれ、神の創造的エネルゲイアへの無比なる様態の参与です。

 

神は絶えず世界をそれとして保持しておられます。なぜなら、おのおのの事物における内的ウーシアは、神的エネルゲイアへの参与様態により構成されているからです。人間として私たちはロゴスなる御方の像(image)であり、全ての物は私たちを通し、変容され、各々の到達点へと導かれます。なぜなら、私たちは神的いのちに与っており、それゆえ、それを被造物に伝移しているからです。これは、聖マクシモスが教示していたように、大宇宙的人間(macrocosmic man)です。あるいは、ダマスコの聖ヨハネ(ダマスコのイオアン)が言うように、全地は神の御顔をあらわす生けるイコンなのです。


ー終わりー