巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

キリスト論的無誤性(by セラフィム・ハミルトン)

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目次

 

 
Seraphim Hamilton, Christological Inerrancy, Orthodox Christianity, 2016 (拙訳)

聖書論とキリスト論

 

聖書に関する一貫した教理を保持するためには、私たちはキリストに関する一貫した教理の中において聖書に根差し、聖書に基礎を置く必要があります。今日よく聞かれるのが「聖書は神のことばではない」なぜなら、「キリストが神のことばだから」といった類の言明です。こういったセンチメントは一部の正教徒やカトリック教徒の間で近年人気がありますが、教父たちはそれとは別のことを教示していました。

例えば、聖大バシレイオスは「神のみことばに調和している教義はどれであれ」正しい教えであると言っています。証聖者マクシモスは、ロゴスが三たび受肉したと教えていました。――世界の中で可視的に。聖書の中でテクスト的に。イエス・キリストの中でペルソナ的に、と。換言しますと、聖書は三位一体における第二格の全き‟具書化”(em-book-ment)です。神が仰せになりたいことはもれなくキリストにあって語られ、聖書の中で逐語的にコミュニケートされています。

 

神的エネルゲイアーー「ロゴイ(logoi )」


なぜキリストは神のロゴスと呼ばれているのでしょうか。キリストがロゴスであると私たちが言明するのは、神的エネルゲイアの教義ゆえです*1。教父たちによると、被造物がそれぞれその被造物であるのは、それぞれに異なる、神のエネルゲイアへの諸参与のあり方ゆえ、なのです。神のエネルゲイアは無限に多様です。私たちが――愛、親切、慈愛といった――諸活動の内にあって己が誰であるのかを表現するように、神はご自身のエネルゲイアによってご自身が誰であるかを表現しています。

 

神のエネルゲイアは相互浸透していますが、それぞれが互に同一なわけではありません。さらに、神のエネルゲイアは無限です。愛のエネルゲイア、義のエネルゲイア、慈愛のエネルゲイア等が存在していますが、神の中にあってはまた、数々の愛、数々の義、数々の慈愛がそれこそ無限量に存在しています。それゆえ、神にある創造性には無限の可能性があるわけです。

この創造性は、世界に存在する被造物の内に実現されています。諸々の事象には真の区別が存在します。――赤は青い色とは同じでなく、青は黄色とは同じではありません。神的エネルゲイアと同様、無限量の青、赤、黄色のかずかずが存在します。それぞれの色には色彩があります。また類似性は偶発的なものではありません。それは世界の構造の中に内在するなにかを顕しています。諸事物は異なる特性を例示しています。なぜなら、それらは種々の神のエネルゲイアにそれぞれ異なる仕方で参与しているからです。

 

私たちはこれらの創造的エネルゲイアを「ロゴイ(logoi )*2」とか「もろもろの理法(“rationalities” )」と呼んでいます。さらに、御父は常に御子を通してエネルゲイアを与えます(energizes)。それゆえ、被造物のすべてのロゴイは、三位一体の第二格である御方――神のロゴスとして私たちが認識している御方――のうちに集約されます。

 

シネルギア(協働;synergy)に関する正教理解


これが、キリストが神のみことばであるという事の意味です。ですが、この事が一体どのように聖書と関わっているのでしょうか。これを把握するに当たり、私たちはシネルギア(協働;synergy)に関する正教理解が何であるかをまず押さえておく必要があります。

 

正教キリスト教はモネルギズム(神単働説;monergism)に強靭に反対しています*3。モネルギズムというのは、救済が人に対する神の諸活動により有効なものとされるという考え方のことを指しています。他方、正教クリスチャンである私たちは、人の中で神がenergizesするということを信じています。受肉(籍身)において、神のロゴスである御方は、人性(human nature)をとり、神のエネルゲイアをその本性にコミュニケートしました。

受肉されたロゴスが神的エネルゲイアと共に人類の内に働いた(energizeされた)のです。聖パウロもこれを理解し、次のように記しています。「εἰς ὃ καὶ κοπιῶ, ἀγωνιζόμενος κατὰ τὴν ἐνέργειαν αὐτοῦ, τὴν ἐνεργουμένην ἐν ἐμοὶ ἐν δυνάμει.(わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。)」(コロサイ1:29)。

 

第一コリント人への手紙の中でも聖パウロは次のように言っています。「わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(1コリント15:10)。神のエネルゲイアが今や私たちの一部になりました。そして聖霊は私たちの心に宿り、キリストのエネルゲイアをenergizesしています。

それではなぜ聖霊なのでしょう。正教クリスチャンは、「energetic procession(エネルギア的発出)」というものを信じています。聖霊の格(ペルソナ)に関していいますと、私たちは聖霊が御子から発出しているということを否定しています。そうではなく、聖霊が聖霊であるのは、この御方が御父のみより発出しているゆえである、と私たちは信じています。*4 

 

それと同時に、私たちは、御霊と御子の間の、無比にして、個的(personal)、永遠なる関係を肯定しています。御父からの発出行為の中で、御霊は御父のあらゆるエネルギアを受け取り、それらのエネルギアにより御子に栄光を帰しています。御子はそれらのエネルギアを受け、それらを御父に送り返しています。御父と御子の間の愛は御霊によってとこしえに証印されています。それゆえに、聖パウロは御霊のことを「御子の霊(Spirit of the Son)」と呼んだのであり、それゆえに、私たちを子らにせしめているのは御霊なのです。

 

第一位格および第二位格の永遠なる父子関係を顕す格(ペルソナ)として、御霊はその関係性を私たちとの間に造ります。私たちは、御子がとこしえに御父との間に享受しているそれと同じ仕方での関係性の内に入れられます。

 

神のエネルゲイアと終末(eschaton)

それでは、これが終末(eschaton)においてどのような様相になるのかを考えてみることにしましょう。終末期、すべての人は自由に、全きあり方で、神のエネルゲイアとenergize します。彼らの意志は神の御意志と全き調和の内にあり、彼らの働き(energizings)は神のエネルゲイアと全き調和を保っています。

 

キリストは真理(the Truth)です。なぜなら、主は神の諸真理〔神のロゴイ〕の全てだからです。ロゴイ(ロゴスの複数形)は、ロゴスなる方の内に集約され、諸真理は真理なる方の内に集約されます。栄化を成し遂げるべく、二つのペルソナが共に働きます。どちらの働きも共に自由です。神は御子を通し、御霊の内にあって働く必要があられます。そして人間もまた働く必要があります。

 

聖書の霊感

それでは今申し上げたことがどのように聖書に適用されるのかご一緒にみていくことにしましょう。聖パウロは聖書はすべて「神によって霊感されている」と言っています(Ⅱテモテ2:16参)。聖書は御霊によって霊感されています。御霊はとこしえに御父に御子を提示し、御霊は、神の子たちとして私たちを御父に提示するものとせしめます。ですから御霊は、御子ないしはロゴスが聖書の内にテクスト的に現存することをなさしめているわけです。その一方において、私たちは聖書が人間記者たちの作品であることをも知っています。

 

ピーター・エンズは聖書が何であるかを説明するべく、受肉のアナロジーを用いています。ですがエンズは無誤性を拒絶しています。そして結局、彼のこういった思考の論理的帰結として、エンズは受肉の教義に関しかなり問題ある教えを説くようになっています。罪は人間本性に内在してはいない。聖書は人間の書に過ぎない。だが、それは栄化された人間の書であると。*5

 

聖書記者たちは彼らの執筆した各書にフルに現存しています。各書は彼ら自身の文体や諸選択を反映しています。神もまた同様、聖書の各書のフルに現存しています。聖書記者たちの人間的働きは全き仕方で御霊の神的働きを表現しているわけです。それゆえ、聖書が無誤(inerrant)であると言明することは全く正しいのです。なぜなら、キリストは真理なる御方であり、聖書はあらゆる諸側面において完全に真だからです。

 

これが意味するのは、聖書記者の意図も妥当であるということです。記者の意図という考えは時にプロテスタント福音主義的考えであると理解されたりもしますが、実際、そうではありません。神の御働きは人間たちの中で働いており、また、これらの人間たちはある特定の目的のために自由に行為しているため、聖書記者たちの意図は神的記者である神の御意図を反映しています。

しかしそうだからといって、人間記者が自らの執筆した書に現存するすべての意図を直接的に知り尽くしていたわけではありません。神が人間記者の意図に矛盾されることはありませんが、神はそれを超越することがおできになります。例えば、モーセが創世記を執筆し、イサクを捧げようとしたアブラハムの物語を記録した際、彼には、このストーリーと、山の上で犠牲を捧げたノアのストーリー、それから山の上で罪に陥ったアダムのストーリーの間の文学的関係を表そうとの意図があったことでしょう。そのようにして、これら一連のストーリーの間に存在する予型論的関係性が表出します。

 

しかし神的著者は、こういった予型が後の歴史において、山上で捧げられたイエス・キリストの自己奉献という形で究極的成就をみるということを予め知っておられ、こうしてモーセの意図を超越しておられます。ゆえに、聖書は元来の著者の意図に調和・一致しているけれども、その意図だけに制限されているわけではない、ということを私たちは肯定することができます。ヨハネの黙示録の〈樹木全体〉をみる時、私たちは創世記の内に現存する数々の〈種子〉のことをより良く理解することができます。

 

聖書の歴史的信憑性

最後に、私自身はそうだと信じていますが、「聖書は果して完全に歴史的に正確なのか否か」という問いに対し考察をしたいと思います。ある人々は、歴史上の倫理的悪は(倫理的諸真理の基礎であるところの)神のエネルギア行為と調和していないため、実際に起こった諸出来事は究極的な意味では必ずしも‟真”であるとは限らないと主張しています。それゆえ、彼らによると、人が歴史を執筆せんとする時、そのテクストは真であり得るけれども、完全に歴史的に正確であるわけではないとされます。曰く、終わりの時、万物は神のエネルギアと調和し、こうして全てがことごとく真とされるのです。

第一番目の欠陥――神の包括的摂理に関する理解不足

 

さて、この主張には二つの重要な欠陥があると思います。まず第一に、この主張は神の包括的摂理という聖書教理にフルに取り組んでいません。ローマ人への手紙9-11章において、聖パウロは、「イスラエルの大多数が信じ損ねていたにもかかわらず、神はいかにしてイスラエルのためにご自身の神的御計画を達成されたのか」という問いを投げかけています。

 

神のご回答はエレミヤ18章を用いることでした。エレミヤ18章において、陶器師としての神はろくろで粘土をこね、この粘土はイスラエルを象徴しています。この粘土から制作される作品は、「器」として言及されています。これは単なる芸術作品ではありません。器は一つの道具です。なにかが行なわれ、成し遂げられるための道具です。しかしながら、粘土は陶器師の働きに抵抗し、「その人の手の中で仕損じ(“spoils in the potter's hand” )」(エレミヤ18:4)ました。しかしそうだからといって、粘土が神にとって無益なものだということにはならず、神は、異なる方法でではありますが、まさしく同じその粘土を通し、ご自身の御目的を達成されます。

それゆえパウロは全てのイスラエルの民が神ご自身の計画の成就――すなわち、全世界の民を祝福すること――のために用いられてきたとみています。イスラエルには二部分(二群)あります。神に逆らわない群は「残された者」です。ローマ11章16節をみますと、彼らは、異邦人という「枝」がつがれるところの「根」であり、それによりつがれた「枝」はオリーブの根の豊かな養分に共に与ることができるわけです。同様に、彼らは「初穂のパン(dough offered as firstfruits)であり、それは「煉り粉の全部(whole lump」を聖めます。ユダヤの残された者は神が国々を祝福するための手段です。なぜなら異邦人たちは彼ら残された者の存在によって歴史的イスラエルにつがれるからです。

他方、パウロが「他の者(rest)」(ローマ11:7)と呼んでいる、ユダヤ人の大部分の存在があります。彼らは「つまずき」ました(11節)。しかし、彼らの「違反」は「世界の富」を意味していると使徒パウロは言っています。ローマ7章によれば、N・T・ライトが論じているように、パウロはイスラエルの違反をアダムの違反を総括し焦点を当てるものとしてみています。世界のあらゆる汚れや罪はイスラエルにおいて集中され激化されます。――律法がはいって来たのは「違反が増し加わる」ためであるとパウロは言っています(ローマ5:20)。世界のあらゆる悪が一カ所に集積され、イエス・キリストはイスラエルの民の個的具象(personal embodiment)となられます。こうしてそこに存在する罪が、十字架につけられしメシアの「肉において処罰」されるからです。

ゆえに、神は個々のイスラエルの民各々の自由選択を通し、ご自身の御目的を達成されましたが、神は彼らそれぞれの選択如何に応じ異なった方法でそうされました。

これは、神の摂理に関する包括的教理を発展させるべくより広範に適用され得ます。ソロモンは「悪者さえもわざわいの日のために造られた。」(箴言16:4)と言っています。つまり、ご自身と共に万物を満たすという神の御目的は悪しき者においてさえも成就されますが、その成就のされ方は彼ら悪しき者たちにとっては不愉快な仕方で、です。受肉において、御子はご自身のエネルゲイアを人間本性――すべての人によって共有されている本性――にコミュニケートされました。終わりの時、それらのエネルゲイアはすべての人を満たします。

 

しかしながら悪しき者たちは、それらのエネルゲイアに逆らう形で働いて(energize)います。彼らは永劫的に二つに裂かれます。それゆえ、聖書は、契約の呪いを、二つに裂かれそのままに放置しておかれる様として表現しているのです。聖書における死は別離であり、地獄は永劫的自己分裂です。

それゆえに、真理と悪の関係についての上述の議論には欠陥があるわけです。全歴史はロゴス化(logosified)されています。なぜなら、神は例外なく各々の人間のエネルゲイアを通し働いて(energizes)おられるからです。歴史的出来事は、たとい個々の人間たちが神に逆らって立ち働いていた(energizing )としても、不可避的にロゴスなる御方を表しています。故に、著者が歴史を書こうとするなら、その時、御子を啓示すべく御霊によって霊感されたテクストは歴史的なものです。

 

第二番目の欠陥――万人救済説の偽

上述の議論に関する第二番目の欠陥は、それが「終わりの時、永遠に処罰される人は誰もいない」という含みを持っていることです。この議論によれば、仮に人がキリストの内に集約されし神的エネルゲイアに逆らって立ち働く(energizing)なら、それは厳密な意味では「真」ではありません、なぜなら、それらは真理なるイエスを顕しているわけではないから――、とされます。しかし終わりの時、万物は神が創造のはじめより意図しておられたように、神と共に満たされます。仮に私たちが真理に関するこの議論の言うところの定義を受け入れるなら、人が救われるのはどだい不可能な話になります。なぜなら、彼らは神に逆らって立ち働いており、その意味において真理を実現していないからです。第五回全地公会議で裁定されたように、万人救済説は偽ですから、この議論は偽とされなければなりません。

 

包括的霊感


よって、聖書に関する教義をキリスト論的に位置づける時、そこから私たちは包括的霊感に関する教義に導かれるということがお分かりいただけたかと思います。つまり、聖書というのはただ単に無誤であるだけではないのです。

誤りを回避する限り、私も無誤の手紙を書くことができます。聖書はそういったもの以上のものです。御霊は永遠なる御子を顕すべく人間著者たちの内に完全な形で働き、その全き働きは、イエス・キリストを指し示す上でのあらゆる詳細の重要性の内に実現されます。これがいわゆる「解釈的最大主義(“interpretive maximalism” )」と呼ばれているところのものです。

テクストの全詳細は神学的に重要であり、それは、聖書がロゴスのテクスト的受肉であるがゆえです。人間の自由選択に関し御子の内で働かれる神のenergizingのあり方を理解することで、私たちはなぜ著者の意図が大切であるのか、そしてなぜ歴史として意図されているものが歴史的なものとして認識される必要性があるのかということに理解が及んでいきます。故に、包括的霊感は、無誤性以上のものでありますが、依然としてそれは必ず無誤性を包含しています。

 

キリスト論と無誤性は対立ではなく相補的


最後になります。本稿の主題とは直接が関係ありませんが、無誤性はプロテスタント原理主義者たちによって発展させられた現代版信仰ではないということを付記しておきたいと思います。

聖アウグスティヌスは聖書の無誤性および、無誤性の意味するところに関し非常に明瞭な立場を採っていました。聖アウグスティヌスは、聖書の二カ所の間に明らかな矛盾を見出した際、自分は以下の二つを推定すると言っています。A)自分は片方の聖句箇所、もしくは両方の箇所において著者の意図を理解し損なっている。もしくは、B)自分は誤った写本を読んでいる。

 

後者のポイントは特に興味深いです。というのも、近年、「テクスト伝達の全過程は、オリジナル写本群が霊感されているのと同じ仕方で霊感されている」という主張が人気を博すようになっているからです。しかしながら実際には、神的著者と人間著者の間の全き協力は、オリジナル写本の制作の中において起こるのであり、その伝達において起こるのではありません。

もちろん、神は私たちがオリジナルテクストを保持することができるよう、伝達における全行程を摂理的に監督してくださったに違いありません。ですが、伝達における摂理的監督はそのオリジナルの霊感と同一ではありません。

本稿を通し、無誤性に関する教理がどのような形で正教キリスト教の中に位置づけられているのか、お分かりいただけましたら幸いです。キリスト論と無誤性は互に手向かい、敵対しているのではなく、自然な形で互を補い合っているのです。

 

ー終わりー

 

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