祭壇(出典)
- 架け橋づくり
- 「ヘブル的視点」の世界分断
- 必須条件1)背教ナラティブ
- 必須条件2)‟不可視的なもの”としてのプロテスタント教会論
- 必須条件3)「五つのソラ」+「ディスペンセーション主義」
- さらなる考察のために
架け橋づくり
「ヘブル的視点で聖書を読むとは、書かれた当時の人々が理解したように聖書を読み、理解することを言います。これは何も特別なものではなく、手前味噌な解釈をせず、書かれた当時の人々の視点に立って、著者が意図したとおりに書物を読もうというごく自然な取り組みです。」ヘブル的視点のサイトより
私が正教に改宗して気づいたのは、伝統教会の中に本当に「ヘブル的ルーツ」が恒久的形で植えられ、それがリトルジーの中で、祈祷の中で、教会建築の中で、神学の中で、霊的生活の中で、デボーションの中でいかに美しく織り合わされ、息づいているか、ということでした。私たちが毎週与っている聖クリュソストモスの典礼(4世紀)の歴史をみましても、それは、1世紀のエルサレムにおける(ユダヤ人キリスト者を中心とした)最古の典礼と有機的につながりを持っていることが典礼学的にも証左されています。典礼の細部にいたるまでそれは「ヘブル的ルーツ」に満ちています。*1
Benjamin D. Williams, Orthodox Worship: A Living Continuity with the Synagogue, the Temple, and the Early Church
日本プロテスタント界の一部で20世紀後半に始まった「ヘブル的視点」(フルクテンバウム神学)の目標はすばらしいと思います。それは「書かれた当時の人々が理解したように聖書を読み、理解する」ということです。
私は本稿を通し、「ヘブル的視点」の兄弟姉妹のその切実なる願いが、正教会(Orthodox Church)という教会母胎の中において、教義的にも霊的にも、真の満たしをみるということを同胞愛の内にお伝えしたいと思います。
とはいえ、「ヘブル的視点」に忠実な信者の方々は、そうしたメッセージに相当の抵抗感を覚えることだろうと察します。といいますのも、正教会というのは所詮、2世紀以降「ヘブル的視点を失ってしまった」「置換神学」に毒された伝統教会の一つに過ぎない・・という認識が一般になされているからです。そのため、微力ながら本稿において、私は「ヘブル的視点」の兄弟姉妹との間に「架け橋」をかける小さな下準備をしたいと思います。
「ヘブル的視点」の世界分断
「ヘブル的視点」は、キリスト教界を、「聖書的、ヘブル的視点」VS 「非聖書的、置換神学」という対立構造のうちに見ようとします。これは大胆な世界分断です。そうしますと、
正しい聖書の読み方をしている人々⇒キリスト教会が「ヘブル的視点」を見失い逸脱する以前の1-2世紀原始キリスト教会の人々 +「ヘブル的視点」に同意している20世紀後半それから21世紀のプロテスタント界の一部の人々*2
間違った聖書の読み方をしている人々⇒「ヘブル的視点」を失った2世紀以降のほとんど全ての伝統諸教会の人々+「ヘブル的視点」に同意していないプロテスタント契約神学陣営に属するほぼ全てのプロテスタントの人々、となります。
必須条件1)背教ナラティブ
ある「ヘブル的視点」サイトでは、キリスト教会が「ヘブル的視点」を失い、「正しい聖書解釈」が失われていった時期を、以下のように、バル・コクバの乱(132年)前後としています。
「バル・コクバの乱(132年)の頃には、異邦人が教会の多数派になり、反ユダヤ的傾向が見られるようになります。ユダヤ人はイエス様を拒否した民族だ。その裁きの結果、散らされ、国を追われた。そういった理解、彼らに対する敵対意識が、反ユダヤ主義を生み出していったのです。教会が反ユダヤ主義化すれば、当然ヘブル的視点が失われます。ヘブル的視点が失われると、正しい聖書解釈が失われて行きます。すると指導者たちは、自分たちの都合のよい解釈を試みるようになります。
次第に、ヘブル的視点、字義通りの解釈の原則が失われ、聖書は象徴的に解釈するほうが「霊的」な読み方だという考えが広まります。なぜなら、字義通りに読むということは、どうしてもユダヤ人が選民であると認めざるを得なくなるため、彼らには都合が悪いからです。その結果、聖書を象徴的に読む神学「置換神学/契約神学」が誕生します。これは、「イスラエル」に与えられた言葉や約束は、「教会」に受け継がれた(置き換えられた)と考える神学です。」*3
そうなりますと、使徒時代からものの百年も経たない内に、キリスト教会はすぐさま真理の道から逸脱していったということになります。(⇒背教ナラティブ)。ディスペンセーション主義の創始者であるジョン・ネルソン・ダービーは、さらに早い時点で「教会背教」は起こったと主張しています。モルモン教徒も使徒時代の直後に、「大背教」が起こったと論じています。エホバの証人も同様の背教ナラティブを用います。
メインストリームのプロテスタント歴史観においては、キリスト教会が純粋な福音の真理の道から逸脱したのは4世紀のコンスタンティヌス帝以降だという見方が一般的なようです。背教時期に若干の相違はあるものの、16世紀以降生まれたプロテスタント宗教改革系譜の諸教会、そこからの諸々の派生運動、セクト等はいずれもこの「背教ナラティブ」を自身の歴史観に内蔵しています。
必須条件2)‟不可視的なもの”としてのプロテスタント教会論
さて、この定説が真とされるための前提条件として私たちは、「教会が本質的に不可視的存在である」というプロテスタント宗教改革における新しい教会論に同意していることが求められます。16世紀におけるこの「教会不可視説」を受け入れることなしには、2世紀から当該回復運動までの空白部分を埋め合わせる正当的理由が成り立ちません。
ヘブル的視点のサイトでは、「ヘブル的視点で聖書を読むことは・・何も特別なものではなく、手前味噌な解釈をせず、書かれた当時の人々の視点に立って、著者が意図したとおりに書物を読もうというごく自然な取り組みです。」という具合に、この視点が、「何も特別なものではなく」「ごく自然な取り組み」であると言っています。果たしてそうでしょうか。「教会不可視説」「背教ナラティブ」を必要条件とする聖書の読み方が、果たして「ごく自然な取り組み」だと言えるでしょうか。なにをもってそれは「ごく自然」だといえるのでしょうか。
仮に百歩譲って「教会不可視説」および「背教ナラティブ」が正しいとします。それであっても尚やはり私たちは自分たちの聖書の読み方を規定している自身の教会観・歴史観を一度よく自己検証してみる必要があるのではないかと思います。正教およびカトリック教会の視点で検証しますと、「ヘブル的視点」の教会観はその他のプロテスタント諸運動・諸セクトと同様、「教会的ドケティズム」の異端形態*4を有しています。ドケティズム(キリスト仮現説)というのは初期キリスト教会期に発生した異端であり、聖イグナティオスはこれらの異端と徹底的に戦いました。「キリストの受肉(藉身)」という真理を擁護するためです。
必須条件3)「五つのソラ」+「ディスペンセーション主義」
また、「ヘブル的視点」は、
1)16世紀宗教改革における五つのソラを受容し、
2)ジョン・ネルソン・ダービーおよびサイラス・スコフィールド等によって19世紀に普及されたディスペンセーション主義聖書解釈法を敷台にしています。
そのため、1)か2)かのどちらか、あるいはその両方が、非聖書的な誤りであり、歴史的キリスト教教義から逸脱した教えであるということが証された暁には、将棋倒し的に、「ヘブル的視点」もまた崩れてゆく運命にあります。そして、この「崩壊」を経験した先に、「架け橋」の可能性が見えてくるのではないかと私は考えています。――キリストにある私たちの真の一致と待望の再会のために。
ー終わりー
さらなる考察のために
「ヘブル的視点」とディスペンセーション主義
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「ヘブル的視点」と聖書観
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「ヘブル的視点」と人間観
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「ヘブル的視点」と教会観
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「ヘブル的視点」と「ソラ・スクリプトゥーラ(聖書のみ」」
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「ヘブル的視点」と解釈
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「ヘブル的視点」と聖母マリア(テオトコス)
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「ヘブル的ルーツ」と東方正教(およびカトリック)
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*1:cf. The Temple Roots of the Liturgy (Margaret Barker).
*2:但し、1-2世紀の原始キリスト教会と、20世紀後半の「ヘブル的視点」回復運動の間には、remnant believersが存在した可能性あり、と説明がなされる場合もあります。
*3:なぜキリスト教会はヘブル的視点を失ったのか