巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

思索と内省と

 

「聖ユスティン・ポポヴィッチは言う。――神学理論というものは、その理論の〈体験〉をまず第一に必要としている。それ無しの単なる理論は、偽装した無知蒙昧に他ならない。」


ある隠遁士がこう言った。その瞬間、わが心に光が射し、私は自分の愚かさの真実を見た。上滑りしたぺらぺらの貼り付け知識。


たとい教義の詳細を論じ、他人を説得するだけの論証力があっても、その教義がわが血となり肉となっていないのなら、それは単なる理論に過ぎない。


たとい聖霊の発出にかんする正統教義を自在に語れるようになっても、御父・御子・御霊との親しき交わりの中に日々自分が参入していないのだとしたら、その知識は私を生かさない。


証聖者マクシモスは、手を切断され、舌を切断されても、キリスト単意論に反駁することを止めなかった。それはなぜか。彼にとってキリストの人格をめぐる神学理論(両意論)は決して単なる理論ではなかったからだ。彼はキリストと共に生き、キリストの御人格を仰ぎ、その御人格への全き愛と真実のうちに生を歩んでいた。キリスト両意論は彼の信仰告白であり、彼の献身であり、彼の〈体験〉であった。


しかるに私はキリストのなにを知っているのだろう。わが信仰告白の一つ一つは体験され、魂に刻まれ、血肉化し、わが命となっているだろうか。私は自らを恥じる。未だ心に植えられていないこと、未だ自分のものになっていない借り物を軽率に操ろうとする自分の愚かさを恥じる。


私は信じるために、信がこころの信となるために、苦しまねばならない。格闘せねばならない。神に叫び祈り、啓示の霊を慕い求め、沈思黙考、坐さねばならない。情念と闘い、魂の浄化を求め、身も心もキリストと一つにされることを。澄み切った心と眼で神を仰ぐことが許されるなら、一つ一つの教義はわが内に体験され、その真理が全存在に開示されるに違いない。


私は一番底にいる。登攀はこれからだ。