巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

真理は単純だろうか、それとも複雑難解だろうか。

f:id:Kinuko:20200727212943j:plain



某正教修道院で一人の修道士の方と話をしました。この方は私の霊的旅路を評し、一言、「真理というのはね、単純なんだよ。単純。」とおっしゃいました。どういう意味だろうと思案していたところ、「あなたが正教に導かれるようになったきっかけ自体は、煩雑な知的探求というよりは、むしろきわめてシンプルな諸出来事を通してであった」という答えが返ってきました。

 

私はその後もこの修道士の言葉を何カ月も反芻し一人考えていました。この方がここでおっしゃる「真理」というのは「正教という真理」という意味です。たしかに摂理的に人生の中に起こされた「きわめてシンプルな諸出来事」が私の正教理解を前進させたことはその通りだと思います。その意味で、真理はたしかに「単純」なのかもしれません。

 

しかし他方、正教改宗までの一連の過程は自分にとって非常に複雑難解であったということも実感として大いにあります。一般にパラダイム転換を伴う立ち位置の変化は一夜にして起こるものではなく、そこに至るまでには、絶え間ない探求・研究と共に、信仰・実践における激しい葛藤、迷い、喪失感、悲哀、勇気、決意等、そこを実際に通ったことがある人にしか分からない一連の内的 / 外的プロセスがあると思います。


思うに真理が「単純」であり同時に「難解」でもあることは神の智慧ではないでしょうか。真理であるペルソナ、救い主イエス・キリストを知ることは「単純」であるからこそ、へりくだり、心まずしく飢え渇いているすべての人の魂にキリストの真理は明瞭なものとして啓示されるのだと思います。(マタイ5:8、イザヤ57:15)。一方において、数千年に渡る教会教義形成の複雑きわまりない過程と試行錯誤の数々、および先人たちの為した命懸けの諸論争を目の当たりにする時、真理がこれまたこの上なく深遠にして難解であるというもう一つの側面にも気づかされます。真理の複雑難解性は実際、正統・非正統の線引きが必ずしも〔自陣営が確言するほど〕自明のものであるとは限らないという点における謙遜さ及び慎重さを私たちに提供してくれるように思います。見解における自己修正の余地は常にあるということです。

 

そしてなにより、真理のこういった「難解さ」を知る時、私たちは、自分たちとは別の信仰体系を信じている兄弟姉妹の存在やあり方に対し、(同意せずとも)少なくとも弱さをもつ同じ人間として、そして日々真理を探究している同胞キリスト者として、慈愛と同情心をもって接することができるのではないかと思います。