目次
はじめに
聖書正典(カノン)の問題は、私たちクリスチャンにとって大切なテーマだと思います。「どのようなプロセスを経て」「誰 / 何によって」聖書正典が編纂されていったのかを調べてゆくと私たちはいずれ教会論に行き着くと思います。「教会の栄光」氏がカトリックの立場から、具体的に新約聖書の中において第二正典がどのように参照されているのかをまとめておられます*1。筆者の方の御労苦に感謝しつつ、ここに引用されていただきます。(正教会では「第二正典」という用語は用いません。*2)
新約聖書における第二正典言及について
以下に私が述べることは次の著作を参考にしています。 Gary Michuta, Case for the Deuterocanon
カトリックの聖書(日本ではフランシスコ会訳やバルバロ訳など)は、プロテスタントの聖書には含まれていないトビト記、ユディト記、知恵の書、シラ書、バルク書、マカバイ記上下などの諸文書を含んでいます。これらは第二正典と呼ばれています。 *3
第二正典は、主イエスや使徒達の生きていた時代に既に存在していたギリシア語訳の旧約聖書(七十人訳)には含まれていますが、後の時代にファリサイ派が中心になって決めたヘブライ語聖書(マソラ本文)には含まれていません。
しかし何を旧約聖書として認めるかについて、キリスト教徒が使徒達よりも後代のユダヤ教徒達の決定に従うべき理由はありません。新約聖書の著者達は第二正典を頻繁に参照して利用しています。 *4
* 例えば、ヘブライ人への手紙11:35は「他の人々は、さらにすぐれたよみがえりを勝ち取るために、釈放を拒み、拷問に会いました」と述べていますが、これは第二正典のマカバイ記下第七章の故事への言及です(フランシスコ会訳の注記を参照)。
「七人の兄弟が母と共に捕えられて、律法で禁じてある豚の肉を食べよと王に強制され、むちや皮ひもで打ち叩かれた話もあった。そのとき彼らの一人は他の兄弟に代わって言った。『われわれに何を尋ね何を知ろうとしているのか。われわれは先祖の律法に背くぐらいなら死を選ぶ覚悟をしている。』
王は怒って鍋と釜を火にかけよと命じた。鍋が熱した時、兄弟に代わって話した一人の舌を切り、頭の皮をはぎ、手足を切れと命じた。… 最初の兄弟がこのようにして死んだ後、二番目が拷問に連れ出された。…息を引き取ろうとする時彼は言った。『非道な男よ、お前はわれわれの命をこの世から奪い取ってしまう。だが世の王は神の法のために死んだわれわれを永遠の生命の中によみがえらせてくださる。』」(マカバイ記下第七章)
* マタイ27:43では、大祭司達が十字架上のイエスを嘲る言葉が、次のように書かれています。 「神が心にとめておられるならば、今すぐ彼を救えばよいではないか。『私は神の子だ』と言ったのだから。」 この言葉は、第二正典の「知恵の書」2:18を念頭に置いたものです。
「正しい人が神の子なら、神は彼を支え、敵の手から守るだろう。」(知恵の書2:18)
*「御子は神の栄光の輝き、神の本性の完全な具現」(ヘブライ1:3)は、第二正典の「知恵の書」7:26を念頭において書かれたものです(フランシスコ会訳の注を参照)。
* ヨハネ福音書第1章は、第二正典の「シラ書」第24章と緊密な対応関係を示しています。ヨハネ福音書は御言葉を「初めにあった」ものとして語り、シラ書24:9で知恵は「世紀より前に、初めから、主は私をつくられ、永遠に存在を続ける」と語っています。
* ヨハネ福音書は主イエスを「御言葉」と呼び、シラ書24:3で知恵は「私は、いと高き者の御口から出で、蒸気のように地を覆った」と語っています。
* ヨハネ福音書1:14は「御言葉は人となり私達の間に住まうようになった」と語り、シラ書24:8で知恵は「私をつくった方の命で幕屋を立てた。主は私に言われた。『ヤコブに住まいを定め、イスラエルの所有地に入れ』」と語っています。
*「ヨハネ福音書のプロローグと格言の書第8章、シラ書第24章との間の類似性は非常に顕著なので、文献依存について語ることができる」 *5
*ルカ福音書20:27-40では、復活はないと主張するサドカイ派の者達がイエスに近寄ってきてこう言っています。
「先生、モーセは私達のためにこう書いています。『子供がなく、妻を残して兄が死んだ場合には、弟はその女をめとり、兄のために子をもうけなければならない』と。ところで、ここに七人の兄弟がいました。長男が妻をめとり、子がなくして死にました。そして次男、三男と次々にその女を妻にしましたが、同じように七人とも子供を残さずに死にました。最後にその女も死にました。さて、復活の時、この女はこの兄弟のうちの誰の妻になるのでしょうか。」
サドカイ派のこの論難は、イエスが第二正典の「トビト記」を聖書として認めていたと考えれば、うまく説明できます。この論難に対してイエスが「そのような女がどこにいるのか」と反問すれば、トビト3:8に登場する、七人の男を夫にしたサラの例を指摘することができるからです。
*「神の言は生きていて、力があり、諸刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄との分かれ目まで刺し通し、心の思いや考えを見分けることができる。神の御前には、隠れた被造物は一つもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわである。」(ヘブライ4:12-13)
「何でも可能で、何でも見守り、どんな聡明な、清い、鋭い霊にも入り込む『霊』がある。知恵は、どんな行動よりも行動的で、その純粋さのために、どんなものをも貫いて入り込む。」(知恵の書7:23-24)
「天の高みから、全能の御言葉が王の座を飛び降り、情け容赦のないつわもののように、滅びに定められた土地の中央に降り立った。それは、鋭い剣のように二度と消し去れぬ主の布告をたずさえていた。」(知恵の書18:15)
前掲のヘブライ4:12-13と第二正典の「知恵の書」7:23-24、18:15の間にも緊密な対応関係があります。両方とも「神の御言葉」を主題としており、「剣」を比較対象として挙げ、御言葉があらゆるものを貫通し全てを知っていることを表現しています。
*「イエスは彼らに言われた。『私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者はもはや決して渇くことがない』」(ヨハネ6:35) この言葉は、第二正典の「シラ書」24:19-22との対比のもとに語られています。
「私を慕う者は来て実を食べよ。その思い出は蜜よりも喜ばしく、私を有することは蜜房よりも甘い。私を食う者は再び慕い寄り、飲む者はまた望む。私に従う者は恥を受けることなく、私の業を行う者は罪を犯さない。」(シラ24:19-22)
「これは至高の神の契約の書、モーセによって布告された律法、ヤコブの民に残された遺産である。」(シラ24:23)と述べて、シラ書はここで、書かれた神の言葉であるモーセの律法を学ぶように読者を招いています。書かれた神の言葉を「食う者は再び慕い寄り、飲む者はまた望」みます。しかし受肉した神の言葉であるイエスのもとに来る者は「決して飢えることがなく」、イエスを信じる者は「もはや決して渇くことがない」のです。
*以上のような第二正典の利用の諸例は、
(1)新約聖書が書かれた当時、第二正典を聖書として認めるユダヤ教徒達が存在していたこと
2)新約聖書の著者達はロゴス論のような重要な教理を説明するのに第二正典を利用していること
を明らかに示しています。
*そして新約聖書の著者達が第二正典は聖書でないと主張または示唆している個所は新約聖書中にどこにも存在しません。
* ウェストミンスター信仰告白(1,3)は、第二正典は「神の霊感によるものではなく、聖書の正典の一部ではなく、それゆえ神の教会の内でいかなる権威もなく、他の人間の書物以上に是認されたり利用されたりすべきではない」と主張しますが、この主張にはどのような聖書的根拠があるのでしょうか?*6
* 前掲のウェストミンスター信仰告白の主張を裏付ける聖書的根拠はどこにも存在しません。新約聖書の著者達自身が、ウェストミンスター信仰告白に従っていません。新約聖書の著者達は、教理の説明に第二正典を利用しているからです。
*「これが私達の神なのだ。彼と肩を並べる者はない。主は知恵の道を残らず探り、それをしもべヤコブと愛するイスラエルに伝えられた。その後彼は地に姿を表し、人々と交際した。」(バルク3:36-38)
古代教会教父たちは、第二正典の「バルク書」の前掲個所を主の受肉の預言と解釈し、議論において用いています。以下実例を列挙します。
①アテナゴラス(2世紀)『キリスト者のための弁護』第9章 *7
②キプリアヌス(3世紀)『論考十二』第2巻の6 *8
③ラクタンティウス(240年頃 - 320年頃)『神聖教理』第4巻13章 *9
④同『神聖教理要約』第44章 *10
⑤テオドレトス(393年 - 457年頃)『対話』1 *11
⑥同『書簡』76 *12
⑦聖アタナシウス(298年 - 373年)『アリウス派に対する四つの論考』第2論考第19章49節 *13
⑩ダマスコの聖ヨハネ教会博士(676年頃 - 749年)『正統信仰論』第1巻第13章 *16
⑪聖アンブロシウス教会博士(340年頃- 397年)『キリスト教信仰の説明』第2巻9章80節 *17
⑫聖ヨハネス・カッシアヌス( 360年 – 435年)『受肉について』第4巻9章および13章 *18
⑬聖アウグスティヌス教会博士(354年- 430年)『書簡164』第6章17節 *19
⑭同『ファウストゥス駁論』第12巻43節*20
⑮聖ヨハネス・クリュソストモス教会博士(354年頃 - 407年)『マタイ福音書講解説教』2,2 *21
*以上の諸例は、圧倒的多数の古代教会教父達が第二正典のバルク書を真に神の霊感を受けて書かれた聖書であると考えていたことを明らかに示しています。プロテスタントの神学者J. N. D. ケリーも、このことに同意しています。
* 「正しい人を陥れよう、彼は邪魔者で、我々の行為に対立し、律法の違反で我々を責め、教育の裏切りで非難する。彼は神を知っていると誇り、自ら主の子と名乗っている。我々にとって彼は我々の考えの非難であり、彼を目にすることさえも苦しい。彼の生活は他の人々と異なり、彼のやり方は変わっている。彼は我々を堕落していると判断し、汚れたものを避けるように我々の道から離れている。彼は義人の最期は幸せだと言い、神が彼の父であると誇っている。彼の言葉が真実かどうか、見てみよう。彼に何が起こるか見てみよう。義人が神の子ならば、神は彼を守り、敵の手から解放するだろう。悪罵と拷問で彼を試してみよう。彼が柔和である証拠が得られるように。彼の忍耐を試してみよう。恥ずべき死を彼に宣告しよう。彼自身の言葉によれば、「神は彼の世話をするであろう」から。」(知恵の書2:12-20) *22
「こう彼らは考えた。しかし彼らは誤っていた。彼らの邪悪さが彼らを盲目にし、そして彼らは神の秘密を知らず、徳の報いに期待することも清らかな霊魂の報いを識別することもしなかった。神は人間を不滅のものとして、神の本性にかたどってつくられた。しかし悪魔の妬みによって死が世に入り、悪魔に属する者はそれを体験する。」(知恵の書2:21-24)*23
* アレキサンドリアのクレメンス(150年頃 - 215年頃)は第二正典の「知恵の書」第2章を、キリストに関する預言であると解釈しています。(『ストロマテイス』第5巻14章) *24。そして現に知恵の書の以下の記述は、新約聖書の記述とことごとく対応しています。
* -マタイによる福音書第23章では、イエスは律法学者やファリサイ派達に「対立し」「律法の違反で責め」「非難」しています。 「律法学者やファリサイ派の者達、あなたがたは不幸だ。…律法の中で最も重要な正義と慈悲と忠実をないがしろにしている」(マタイ23:23)
「なぜあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神の掟を破るのか。…このように、あなたがたは自分たちの言い伝えのために神の言葉をむなしくしている。」(マタイ15:4,6)
「モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それなのに、あなたがたは誰もその律法を守らない。なぜ私を殺そうとするのか」(ヨハネ7:19)
-福音書でイエスは「神を知っている」と公言しています。 「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が父のことを現わそうと思う者との他に、父を知る者はいない。」(マタイ11:27) 「父が私を知っておられ、私も父を知っている」(ヨハネ10:15)
-福音書でイエスは自らを「主の子」としています。 「私の父は今もなお働いておられる。私もまた働く」(ヨハネ5:17) 「アバ、父よ、あなたにはできないことはありません。」(マルコ14:36)
-福音書でイエスは律法学者の「考え」を「非難」しています。 「律法学者のある者は心の中でこう思った。『この人は冒瀆の言葉を吐いている』。イエスは彼らの心を見抜いて言われた。『どうしてあなたがたは心の中で悪いことを考えているのか』」(マタイ9:4)
-福音書ではイエスの「生活は他の人々と異なり」イエスのやり方は「変わっている」ことが伝えられています。 「人々はその教えに非常に驚いた。イエスが律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」(マルコ1:22)
-「なぜあなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」(マタイ15:2)
-福音書でイエスは律法学者やファリサイ派達を「堕落していると判断」しています。
-福音書でイエスは律法学者やファリサイ派のやり方から「汚れたものを避けるように」「離れて」います。 「彼らの行いを見習ってはならない。彼らは言うだけで実行しないからである。」(マタイ23:3)
-福音書でイエスは「義人の最期は幸せだと言」っています。 「義のために迫害される人は幸いである。天の国はその人のものだからである。」(マタイ5:10)
-福音書でイエスは「神が彼の父であると」述べています。 「私に栄光を与えてくださるのは私の父である。その方のことをあなたたちは『われわれの神である』と言っている。」(ヨハネ8:54)
-福音書でイエスの迫害者達は、「悪罵と拷問」でイエスを試し、「彼に何が起こるか見てみよう」としています。 「大祭司たちも律法学者や長老と一緒になって、嘲って言った。『あの男は人を救ったが、自分を救うことはできない』」 「エリヤが救いに来るかどうか見てみよう」(マタイ27)
-福音書でイエスの迫害者達は、イエスが「神の子ならば、神は彼を守り、敵の手から解放するだろう」と考えています。 「神が心にとめておられるならば、今すぐ彼を救えばよいではないか。『私は神の子だ』と言ったのだから。」(マタイ27:43)
-福音書でイエスの迫害者達は、十字架刑という「恥ずべき死を彼に宣告」しました。 「『木にかけられた者は全て呪われた者』と書き記されているからです」(ガラテア3:13) 「イエスは…恥をもいとわず十字架をお忍びになりました。」(ヘブライ12:2)
-福音書のイエス「自身の言葉によれば」、「神は彼の世話をするであろう」ことをイエスは述べています。 「私が父に願いさえすれば、今すぐにでも、十二軍団にも余る天使を送っていただける」(マタイ26:53)
-福音書でイエスはファリサイ派について「彼らの邪悪さが彼らを盲目にし」ていることを告げています。 「彼らは盲人を導く盲人である。もし盲人が盲人を導くならば、二人とも穴に落ちるであろう。」(マタイ15:14) 「目の見えぬファリサイ派の者達、まず杯の内側を清めなさい。」(マタイ23)
-福音書でイエスは敵対者たちに対して「彼らは神の秘密を知ら」ないことを告げています。 「あなたたちはその方を知らないが私はその方を知っている。私がその方を知らないと言えば、あなたたちのような嘘吐きになるであろう。」(ヨハネ8:55)
* ローマの聖クレメンス教皇(在位91年頃- 101年頃)は、『手紙』第3章で第二正典の知恵の書を引用し、第55章で第二正典のユディト記、第二正典に含まれるエステル記のギリシア語部分に言及しています。 *25
* プロテスタントの聖書学者David Ewertによれば、新約聖書における旧約聖書の引用の80%近くは七十人訳からのものです。 *26
* 七十人訳とマソラ本文で読みが明確に異なる場合に新約聖書著者が七十人訳のほうを引用している事例は30か所を超えます。 例えば「見よ、おとめが身ごもって男の子を生むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ1:23)は七十人訳のイザヤ7:14の引用です。
* ヘブライ11:5は、エノクについて「移される前に彼は神に喜ばれていたことが証明されていました」と述べています。このことは、読者が七十人訳を読んでいることを「ヘブライ人への手紙」の著者が想定していたことを示しています。なぜならマソラ本文では「エノクは神と共に歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」(創世記5:24)としか書かれていないからです。七十人訳の創世記5:24は「エノクは神を喜ばせた。そして見つからなかった。神が彼を移したのである」と述べています。 *27
* 使徒行伝7:14でステファノは「そこでヨセフは使いを出して、父ヤコブと親族全員、合わせて七十五人を呼び寄せました。」と述べています。このことは、使徒行伝の著者が、ヤコブの一族の人数についてマソラ本文ではなく七十人訳に依拠していることを示しています。なぜならマソラ本文ではエジプトに行ったヤコブの一族の人数は「七十人」(創世記46:27)だからです。七十人訳では「七十五人」となっています。(フランシスコ会訳「使徒行録」の注を参照。) *28
* 「ガラテア人への手紙」3:17では、神とアブラハムとの約束から「四百三十年後」に律法ができたと書かれています。このことは、「ガラテア人への手紙」の著者がこの年数計算についてマソラ本文ではなく七十人訳に依拠していることを示しています。マソラ本文の出エジプト記12:40は、「イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は四百三十年であった」と述べています。エジプトを出てから律法が与えられるまではさらに期間が経過していますから、マソラ本文ではアブラハムとの約束から律法ができるまでの期間は四百三十年を超えるはずです。これに対して七十人訳の出エジプト記12:40は、「イスラエルの子らがエジプトの地とカナンの地に滞在していた期間は四百三十年であった」と述べているので、ガラテア3:17と矛盾しません。
* ヘブライ11:21は、イサクが「杖の頭によりかかって」神を礼拝したと述べています。この句は七十人訳の創世記47:31に基づいています(フランシスコ会訳の注を参照)。マソラ本文の創世記47:31にはこの句は存在しません。
* 以上のような諸例から、新約聖書の著者達が七十人訳を聖書として受け入れていることは明らかです。そして七十人訳は第二正典を含んでおり、新約聖書の著者達は第二正典を頻繁に利用しているので、彼らが第二正典も聖書として受け入れていたことを疑うべき合理的理由は存在しません。
* 聖エイレナイオスは『異端反駁』第4巻38章3節で第二正典の『知恵の書』6:18-19を引用しています。(エウセビオス『教会史』第5巻8章8節も参照)*29
* テルトゥリアヌス(160年頃 - 220年頃)は『魂について』第15章で「神によって教えられた」こととして第二正典の『知恵の書』1:6を引用しています *30
* アレキサンドリアのクレメンス(150年頃 - 215年頃)は、『教育者』第1巻8章で、第二正典の『シラ書』21:6を「聖書」として引用しています。*31
* 『教育者』第2巻1章では他の聖書の引用と共に『知恵の書』6:17-18が引用されています。『教育者』第2巻8章、10章では『シラ書』が「聖書」として引用されています。 *32
* アレキサンドリアのクレメンスは『ストロマテイス』第2巻23章で第二正典の『トビト記』4:15を「聖書」として引用しています。 *33
『ストロマテイス』第4巻16章では「神なる知恵」の語ることとして『知恵の書』3:2-4を引用しています。*34
* 聖ヒッポリュトス(170年–235年)は『ノエトス駁論』第4章で第二正典の『バルク書』を「聖書」として引用しています。*35『雅歌について』では第二正典の『知恵の書』を『箴言』『伝道の書』と共に「聖書」として挙げています。*36
* 聖キプリアヌス(3世紀初頭 - 258年)は、『書簡』64で第二正典の『シラ書』7:29を引用しています。 *37
『論考』2「乙女の服」10では、『知恵の書』5:8を「聖書」として引用しています。 *38
* 聖キプリアヌスは『論考』7の第9章で第二正典の『シラ書』2:1,4,5を「聖書」として引用しています。 *39
『論考』8の第2章では『シラ書』3:30を「聖書において聖霊が語ること」として引用しています。 *40
* オリゲネスは『諸原理について』第1巻2章5節で「ヘブライ人への手紙」と共に第二正典の『知恵の書』を「聖書」として引用しています。 *41
『諸原理について』第2巻1章5節では『マカバイ記』下第7章を「聖書」として引用しています。*42
* オリゲネス(185年頃 - 254年頃)は『諸原理について』第2巻8章3節で第二正典の『シラ書』43:20を「聖書」として引用しています。
同9章1節では『知恵の書』11:20を、同第3巻1章14節では『知恵の書』7:16「聖書」として引用しています。 *43
* オリゲネスは『ケルソス駁論』第3巻72章で第二正典の『知恵の書』7:25-26を「神の言葉」として引用しています。*44
同6巻7章では『シラ書』21:18を「聖書」として引用しています。 *45
オリゲネスは『ケルソス駁論』第8巻46章で「聖書の歴史」として第二正典の『マカバイ記』に言及し、同50章では『シラ書』10:19を「神の言葉」として引用しています。 *46
* パタラの聖メトディオス(312年頃殉教)は、『十人の乙女の宴』第1編3章で第二正典の『シラ書』18:30と『知恵の書』4:3を「聖書の証明」として引用しています。 *47
第2編3章では『知恵の書』3:16を「聖書」として引用しています。 *48
* 聖アタナシウス司教教会博士(298年 - 373年)は、『対異教徒論』第1部9章で第二正典の『知恵の書』14:12を「神の知恵が証言」することとして引用しています。
同11章では『知恵の書』11:12を「以前に聖書が教えた」こととして引用しています。 *49
* 聖アタナシウスは『アリウス派に対する四つの論考』第2編45節で第二正典の『知恵の書』9:2を「聖書」として引用しています。*50
* 聖ヒラリウス(315年頃 - 368年頃)は、『三位一体について』第1巻7章で第二正典の『知恵の書』13:5を「預言者の声」として引用しています。 *51
同第4巻16章では『マカバイ記下』7:28を「聖書」として引用しています。 *52
* 聖バシレイオス教会博士(330年頃 - 379年)は、『ヘクサエメロン』第6講話10節において、第二正典の『シラ書』27:11を「聖書」として引用しています。 *53
* ナジアンゾスの聖グレゴリオス司教教会博士(330年 - 389年)は『講話』45の15節で第二正典の『ユディト記』5:6を「聖書」として引用しています。 *54
* ニュッサの聖グレゴリオス(335年頃 - 394年頃)は、『エウノミウス駁論』第8巻5章で『知恵の書』7:18を「最も卓越した叡智」の言葉として引用しています。 *55
『処女性について』第15章では『知恵の書』1:4を「聖書」として引用しています。 *56
* サラミスのエピファニオス(320年頃 – 403年)は『薬籠』第3部70で第二正典の『シラ書』14:5を「聖書」として引用しています。同第四部37では『バルク書』3:36を、同44では『知恵の書』7:2を「聖書」として引用しています。 *57
引用元。
ー終わりー
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↓プロテスタント論者の方の反論記事
*1:https://twitter.com/i/events/1284841359363334145
*3: pauline.or.jp/chripedia/mame
*4:Deuterocanonical References in the New Testament cin.org/users/james/fi
*5:Aloys Grillmeier, Christ in Christian Tradition: Volume One, p.29
*6:ブログ管理人注:
japanesebiblewoman.hatenadiary.com
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*8: newadvent.org/fathers/050712
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*26:A General Introduction to the Bible,p.77
*27: ellopos.net/elpenor/physis
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*57: amazon.co.jp/Panarion-Epiph