巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教会とエキュメニズム(by スピリドン・ベイリー神父)

 

もしも魂が教会の教えを身に着けていないのなら、彼の内にイエスが王座に就くことは不可能である。聖ヒエロニムス(4世紀)


やがて諸階層、諸国の民は似たような思想を持つようになり、大きな歓喜の内に反キリストを王として高らかに宣言するようになるであろう。シリアの聖エフレム(4世紀)

 

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fr. Spyridon Bailey, Church & Ecumenism, 2016(抄訳)

 

昨今のエキュメニカル運動を理解するためにまず私たちは、それを教会の文脈の中に置き、そうした上で、エキュメニカル運動のルーツがどこにあるのか、「誰が」そのルーツを植えたのかを考察する必要があります。


まず覚えておきたいのは、教会は人間に属するものではないということです。教会は人間がこしらえたものではありません。神が教会をお建てになりました。私たちはパーソナルで個人主義化された信仰を宣言することで教会に入会するわけではありません。勿論、信仰は必要不可欠なものですが、私たちは洗礼と傅膏(堅信;chrismation)の秘跡を通し、教会の内に入れられます。つまり、私たちを教会のメンバーになさしめるのは神であるということです。

 

使徒たちは復活された主イエス・キリストを目撃し、主に触れ、共に食しましたが、その時点では彼らは教会ではありませんでした。主イエスを信じ、信仰を持っていたにもかかわらず、です。実に聖霊の降臨を伴うペンテコステにより彼らは教会とされたのです。現在、ある種の指導者たちの教えの風を受け、「個人的信仰を表明しさえすれば、私はすでに教会のメンバーなのだ」と信じ込まされている信徒の方々がおられます。このような新奇な教えがキリスト教信仰の一部であった時代はかつて一度も存在しませんでした。これは教会の教えではありません。

 

教会はキリストの御体であり、キリストの御体が分け裂かれることはあり得ません。教会が分け裂かれることはあり得ないのです。キリストの肉体が傷を負われたように、教会が傷を負うことはあり得ます。内側においても外側においても教会が傷を受けているのを私たちは目の当たりにするかもしれません。しかし教会がdividedされることは決してありません。

 

プロテスタント諸グループの中に、「分枝説(branch theory)」というセオリーを説いている人々がいます。彼らによれば、教会は数えきれないほど多くの枝々に分かれるようになった、というのです。勿論、プロテスタント信者はこのセオリーをどうしても信じなければなりません。このセオリーを拒否した暁には、自らの所属する○○教団や××教会がキリスト教初めの1500年以上、そもそも存在していなかったという事実に対し申し訳が立ちません。

 

唯一申し立てることのできる主張は、「個人的信仰を通し、自分はキリストの真の教会につながっている」という種類のものでしょう。しかし教会は一です。キリストは一つの教会(the Church)をお建てになったのであり、いくつもの複数の教会(churches)をお建てにはなりませんでした。一つの信仰、そして一つのバプテスマです。ですから、教会は分け裂かれているという主張は、キリストのからだが分け裂かれていると主張するに等しいことであり、これは冒涜です。

 

エキュメニカル運動は、こうした数多くの枝(branches)が、等しくキリストの真の教会(the Church of Christ)であると私たちに提示しているのです。しかしこうした外的「一致」の中身は空虚です。これは上べだけの表面的「一致」に過ぎず、こうした「一致」には深みがありません。なぜなら、そこには共有された信仰が欠落しているからです。

 

エキュメニカル運動はもっともらしく「兄弟愛」「一致」「愛」などのクリスチャン用語を用いています。しかしそれらの言葉の中身は実に空しいものです。共有された信仰による一致なくしてそこに何が在るというのでしょう。エキュメニカル運動は教義的な問題をあえて二次的、三次的なものとして脇に押しやり、価値なきものとして取り扱おうとしています。ああ、七回に渡っての全地公会議で決定された正統教義を死守するためにどれだけの聖徒が殉教の血を流したことでしょうか!使徒たちに伝承され、世紀を通し、命がけで遵守され、私たちに伝えられたキリストに関する信仰です。私たちはエキュメニカル運動がそれらの尊い諸教義を踏みにじることを許してはなりません。

 

またエキュメニカル運動はただ単に教会だけを攻撃しようとしているわけではないことにも留意しましょう。この運動はある種のキリアズム(chiliasm)ーー地上に住む人間たちによって世的王国が建設されるという信仰ーーから生じてきています。一ドル札をみますと、ピラミッドをかたどったフリーメイソンのイマージュが載っており、そのピラミッドには最後の一ピースが欠けています。これは、人間によって建設される、未だ完成されていない王国を表象しています。

 

米国で60年代から70年代にかけスコットランドのフリーメイソンロッジが『ニューエイジ』という雑誌を発刊していましたが、この「ニューエイジ」というのがフリーメイソンの核心的信条であり、エキュメニズムの核心的信条です。「さあ、細かな教義や信仰の違いなど脇にやって、全諸教会が皆一同に会そうではありませんか。」

 

正教の根幹はこういった精神とは全く異なっています。私たちはただ単に信仰がこの世の次元において表明されることのみを信じているわけではありません。私たちの信仰は、私たちの人生、生き方、典礼、イコン、詠唱の中に顕れており、さらに大切なのは、私たちの信仰が教会生活にもたらすものは私たち自身のこころの内的変革ーー、これに他ならないということです。私たちは教会のいのちの中において諸サクラメントを通し、神の恵みを通し、内側から変えられていきます。

 

私たちは罪により深刻に傷を受け、損われた状態にはあっても、神のかたちは決して破壊されてはおらず、それらは再度、キリストの似姿に回復され、変えられていきます。私たちはーー何か人間の作った組織のようにーー外側に神の国が建てられる様を期待してはなりません。その意味において教会の目的は世界を変えることではなく、神の恵みによって自分自身を変えることにあります。私たちの内側にある神の国が私たちを変え、こうして私たちはこの世の旅路の末に、ついに永遠なる神の王国に入ることができるのです。

 

ー終わりー

 

①カトリック教会、エキュメニズム、フリーメイソン

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②正教会、エキュメニズム、フリーメイソン

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