巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私の誤信の主原因は、Ordo Theologiaeの乱れと逆転にありました。

f:id:Kinuko:20200703043517p:plain

茉莉花(まつりか)

 

目次

 

振り返りと見直し

 

なぜ初めの一千年期の教義史や教父文書を学び始めたプロテスタント信者の大半が、早かれ遅かれ、正教もしくはカトリックに改宗していくのでしょうか。なぜこのような現象が起こるのでしょうか。

 
「主なる神は、キリスト教会が一千年期をかけキリスト論および三位一体論に徹底的に取り組むよう摂理的に御計らいになりました。なぜなら、正しいキリスト論・三位一体論から、正しい人間論、教会論、救済論、義認論、終末論が導き出されていくからです」という弁証家の説明をきき、はっとする思いがしました。「16世紀に始まったプロテスタンティズムはそれとは逆に『救済論』からスタートしてしまっています。つまり本来あるべきOrdo Theologiae(神学の序列*1)が逆になってしまっているのです。」


プロテスタント神学者アリスター・マクグラス氏自身も著書『Iustitia Dei: A History of the Christian Doctrine of Justification』の大著の中で、16世紀以前に、義認が単に外因的(extrinsic)なものであると教えていた教会人は皆無であったということを記しています。使徒教父、スコラ神学者、後期中世期にかけ、東西教会は一貫して内因的(intrinsic)義認を説いていたのだと。

 

 

「『義認』と『新生(regeneration)』を区別するという宗教改革の教えが中世期より提示され得ると考えるのはほぼ不可能でしょう。というのも、そのような区別は端から対象外であるというのが当時の普遍的見解であったことが明らかだからです。(p.51)」

 

言い換えますと、プロテスタント信仰の根幹であり宗教改革の三大原理の一つである「信仰義認(ソラ・フィデ)」は、16世紀に導入されたイノベーションであったということではないかと思います*2

 
プロテスタンティズムの「福音」理解は、「信仰義認(ソラ・フィデ)」無しには成り立ちません。プロテスタント信者が「福音の真理」と言う時の「福音」にはソラ・フィデが前提として含意されてあります。それゆえ、2017年に東方正教に改宗した元福音派教師ハンク・ハングラフ師に対し、福音派牧師ジョン・マッカーサー師は「ハンク師は福音から逸脱した」と断じた上で、「正教会のキリスト教は偽りのキリスト教、つまり、偽りの福音であり、人はそれに参入すべきではない。むしろそれは呪われるべきである」と批判したのです。*3

 

youtu.be


マッカーサー師が信じているように「信仰義認(ソラ・フィデ)」の教理がほんとうに真であるのなら、そしてプロテスタント的救済論がほんとうに歴史的・使徒的教理であるのなら、ソラ・フィデを信奉していない正教の救済論はそれこそ当然拒絶されるべきであり「呪われて(アナテマされて)」しかるべきでしょう。またマッカーサー師はエキュメニストでもなく近代主義者でもなく、元来の宗教改革教理にどこまでも忠実であろうとしている真摯なプロテスタント牧師であられます。彼は人の顔色をうかがいつつ、お茶を濁すような人物ではありません。今私はマッカーサー師ともはや同じ信仰には立っていませんが、己の信ずる道に対する彼のこのまっすぐな態度を今でも尊敬しています。真理を犠牲にした偽りの「一致」に甘んずるよりはむしろ、真理が私たちの間を別つことを、(どの陣営にいるにせよ)真摯な信者は皆望むのではないかと思います。

現在の私は、「聖書のみ」と同様、「信仰義認(ソラ・フィデ)」もまた非聖書的な偽教理であると信じているだけでなく、ソラ・フィデという偽りの救済論から神学をスタートさせるプロテスタンティズムは根の部分から神学的に破綻していると考えています。こうして誤った救済論から、誤った人間論(全的堕落、奴隷意志論)、誤った教会論(不可視的教会観<グノーシス主義異端*4.)、誤った三位一体論(フィリオクェ*5、絶対神的単純性 Absolute Divine Simplicity*6、ウーシアとエネルゲイアの区別の欠如*7、ペルソナとフュシスの区別の欠如、御父のモナルキア否定*8. )、誤ったマリア論(セオトコス否定;キリスト論に関するネストリウス的異端)等が導き出されていくのではないかと思います。*9(しかしその一方で、福音主義出身の正教改宗者たちが、ソラ・フィデに対する反動を起こし過ぎ、反対の極に走る危険性があることを何人かの正教教師たちは警告しています。バランスが大切だということです。*10

 
また、4世紀のカッパドキア教父が、ウーシア - ヒュポスタシス論 を確立することにより、父・子・聖霊という三つのヒュポスタシスを一つの ウーシアとして統一すべく、神的一性の実相に肉薄し、その後の 正統教義形成に大きく寄与したというこの事実が*11、その後の三位一体論、キリスト論、人間論、マリア論、イコン論、テオシス*12正統教義形成に大きな影響を及ぼしたということにも私は無知でした。正しいOrdo Theologiaeが、御霊の導きの中にあって正しい諸教理を公同的に形成していくのだということに初めて気づかされたのです。

「いや、込み入った神学とか宗派 / 教派の別とかではなく、大切なのは〈イエス様〉との生きた関係だと思う」と言われる信者の方は、その発言自体が、(宗教改革時代のプロテスタンティズムからも大きくかけ離れた)グノーシス主義的現代エヴァンジェリカリズム異端思想*13を如実に反映しているという厳しい現実を押さえる必要があると思います。これは手術におけるメスのように情け容赦のないものですが、治癒のためにはどうしても不可欠です。私はこの点において厳しい光と愛のメスを入れてくれた弁証家の人々に感謝しています。彼らからのチャレンジがなかったのなら現在の私はありません。 

 

現在、数多くの真摯なる福音主義クリスチャンたちが教理的カオスの中で教派主義的不可知論や懐疑主義、相対主義に陥り、その中にあって必死に健全な信仰生活を送ることのできる信仰共同体、教会を求め呻いています。

真理は人を解放すると同時に、時として人を苦悩と葛藤の極に追いやります。私たちは追い詰められるところまで追い詰められ、もがき、産みの苦しみをします。あらゆるものを喪失し、あらゆるものから引き離され、別たれます。最終的に自由を得るためです(ヨハネ8:32)。主イエスよ、われらを憐れみたまえ。

 

ー終わりー

 

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

 

【補足】Essence(ウーシア、本質)とEnergy(エネルゲイア)の区別ーーウラジーミル・ロースキイ

 

V・ロースキィ著『東方キリスト教の神秘思想』(The Mystical Theology of the Eastern Church)p. 121-125

かくして東方の神秘思想は、神のうちに次の区別を洞察する。つまりペルソナ的発出たる三つのヒュポスタシス、本性ないし本質そして本性的発出たるエネルギー、である。エネルギーは本性と不可分であり、本性は三つのペルソナと不可分である。これは東方的伝統に流れる神秘生活に対し重要な意味をもつ。



.本性と言い表わし難く区別されるエネルギーの教説は、全神秘体験の現実的性格を思想的に基礎づける。なぜならこの教説によって神は本性において近よりがたいものではあるが、エネルギーにおいて現存していることが示されるからである。あたかも、あるがままの姿は見えないが「鏡の中に在る」ようなものである。この現存はグレゴリオス・パラマスの比喩によれば「わたし達の顔はわたし達自身に見えないが、ガラスに写ってみえるようなもの」である。その本質において全く知られざるものでありながら、神はそのエネルギーにおいて全く啓き示される。しかしエネルギーは神の本性を可知的部分と不可知的との二つに分割するのではなく、本質のうちと本質のそとという神の二つの存在様式を示すのである。



.エネルギーの教説によって理解できるようになるのは、どのようにして三位一体が非交流的本質において存在していながら、それと同時にキリストの約束(ヨハネ14:23)に従ってわれわれのうちに住まいに来るかということである。その現存は被造物における神的遍在のような因果関係を示す現存ではない。それはまた、定義によって非交流的である本質による現存でもない。

 

その現存の様式はわれわれの内に三位一体がとどまるようなものであり、三位一体の交流可能なもの、すなわち三つのヒュポスタシスに共通のエネルギー、恩恵による現存である。なぜならこのようにしてこそ霊がいわれる神化を促すエネルギーをわれわれに伝え与えるからである。賜物を授ける霊が住まう人には同時に子も住み、子によってすべての賜物がわれわれに与えられる。この人には父も住み、父からすべての完全な賜物が由来している。神化するエネルギーという賜物を受けた人には、同時に本性的エネルギーと不可分の三位一体が住まう。この三位一体は、本性におけるのとは別の仕方で、しかも現実的にエネルギーのうちに現存しているのである



.本質とエネルギーの間の区別ーー東方の恩恵に関する教説にとって基本的なものーーによってペトロの「神の本性に与るもの (γένησθε θείας κοινωνοὶ φύσεως)」という表現が現実的意味を帯びてくるのである。神との一致へとわれわれは招かれている。ところで、キリストの人間性にとって一致はヒュポスタシス的であり、三つのペルソナにとって一致は本質的であった。しかしわれわれにとってはそのどちらでもなく、むしろ神のエネルギーにおいて一致することなのである。言い換えれば、それはわれわれを神の本性に与らせる恩恵による一致であって、その際にわれわれが本質的に神となることはない。マクシムスの教説によれば、神化(theosis)においては、恩恵ーー神のエネルギーーーによって神が本性的にもつすべての豊かさが人間に授けられる。ただし人間が本性的に神と等しくなることは除いてである。



東方教父の神秘思想が神のうちに区別を認めていても、それは啓示の真理性についての彼らの否定主義態度に反するわけではない。逆に、この二律背反的区別がなされたのは、啓示の所与を思想的に表現しながら同時にその神秘を保全しようとする宗教的配慮によったのである。このような否定主義は三位一体論ですでに見い出された。

 

ペルソナと本性とを区別するとき明らかな思想傾向とは、神は同時に一にして三なるものとして表彰し、しかもその際に本性的統一性をヒュポスタシスの三性に優先させることもなく、またこの統一性=差異性の根本的神秘が除外ないし弱化されることもないという否定主義である。同様にして、本質とエネルギーの区別のよりどころは、知られざるものと知られうるものとの、交流できないものとできるものとの二律背反である。この二律背反に宗教的思索と神的事物の経験がぶつかるのである。こうした区別は現実的であっても神的存在の内にどのような複合をも導入しない。むしろそれは絶対的意味で本性的に一でペルソナ的に三である神の神秘の標識なのである。この三位一体こそ至高で近づき難く、その永遠の王国つまり非被造の光に満ち満ちた栄光に生きている。そしてこの王国の中にこそ未来世の神化の状態を嗣ぐ人々すべてが入るのである。

 

f:id:Kinuko:20200703185307p:plain

 

*1:

www.youtube.com

*2: 

youtu.be

*3:

blogs.ancientfaith.com

youtu.be

youtu.be

*4:  

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

f:id:Kinuko:20200706001421p:plain

*5:

www.youtube.com

www.youtube.com ②『神の霊 キリストの霊「フィリオクェ」論争についてのエキュメニカルな省察』一麦出版社(ココ

f:id:Kinuko:20200706001549p:plain

*6:souloftheeast.org

FILIOQUISM IS ARIAN SUBORDINATIONISM APPLIED TO THE SPIRIT, Orthodox Christianity

*7:

①↓ウーシアとエネルギアの区別に関するデイビッド・ブラッドショー教授(東方正教)と、ジャレッド・ゴフ教授(ビザンティン・カトリック)のディスカッション

www.youtube.com

 

②久松英二著『ギリシア正教 東方の智』 (講談社選書メチエ)、2012年。

【アマゾン・ブックレビュー欄より】本書はギリシア正教と一般に呼称される東方正教会の概説書である。しかし、一般に流布している東方正教会関連の概説書とは赴きを異にしている。第一に一般に流布している東方正教会に関する概説書は、総じて正教会に所属している人から見た、正教会の自己理解を出発点に自分達の信仰理解を啓蒙する目的で書かれているものがほとんどであるが、本書は正教会に所属していない東方正教会を研究する学者による東方正教会の歴史の概説書となっていることである。第二に著者がローマ・カトリック(つまり西方教会)の信者であることから、主に、西方教会の信仰理解をベースに、東方正教会の信仰理解との差異を浮き彫りにする形を取っていることである。従って、本書のあとがきで著者自身も述べているように本書の説明する東方正教会の信仰理解は正教会信徒には違和感がでる可能性は否定できない。明らかに西方教会の教義理解になじんでいる人向けの概説書である。それでも、本書の存在価値は非常に高いと思う。著者が正教会に所属していないことは、ある程度、外から見ると正教会の教義理解がどのように見えるかという示唆を与えてくれる。一方で著者が西方教会の信徒でもあることから、正教会の信仰理解に対する見方があまりにも学術的・論理的な部分にのみに傾倒しないため、西方教会の教義理解になじんだ人間には自分の認識に引き寄せて考察をしやすくなっている。。。そして著者が本書で最も伝えたかったことは(割いているページは多くないが)、西方教会と東方正教会を分裂させている最も根本的な問題が、いわゆる聖霊発出の問題(フィリオクェ問題)であることは知られているが、その問題に対する西方教会(主にローマ・カトリック)と東方正教会の認識に大きな違いがあるということだろう。東方正教会側が問題にしているのは、西方教会が考えるような三位一体論の教説に関する教義理解の差異にあるのではなく、公会議で決定したキリスト教の基本信条であるニケア・コンスタンティノープル信条の条文そのものを同一の文章で共有できないことなのだということを著者は力説している。著者の望む形が今後、実現するかどうかは何とも言えない所だが、ここには学者というよりは信仰者としての熱意が伝わってくる。ただし、フィリオクェ問題にそれほど興味が無い方でも、この本は西方教会の教義理解になじんだ人には多くの示唆を与えてくれる本である(実際、フィリオクェ問題に割かれているページはそんなに多くはない)。東方正教会に興味がある人には一読の価値があると思う。

www.youtube.com

*8:Fr. Aidan Kimel, Monarchy of the Father

*9: 

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

www.youtube.com

www.catholictradition.org 

*10: 

www.youtube.com

youtu.be

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

↓信仰義認論を巡ってのカトリック弁証家とプロテスタント弁証家のディベートレビュー

www.youtube.com

*11:土橋茂樹、バシレイオスのウーシア - ヒュポスタシス論、中世哲学会(PDF)、坂口ふみ著『〈個〉の誕生』岩波書店、1996年、

blogs.ancientfaith.com

*12:

www.youtube.com

*13: 

japanesebiblewoman.hatenadiary.com